Jet-black Juliette 06
少女の悲鳴が大理石の廊下に高く反響する。
続いて、磨き上げられた石の床を踏む硬質な音が聞こえてきた。異変を聞いて駆けてくる衛兵の靴音である。私室周辺に人を置かない王であるため、このような緊急時にはどうしても時間がかかってしまう。
あっけない化け物の死。
銃社会の中に暮らすリズロットでも、これほど鮮烈な死の瞬間は見たことがない。これがプロの業だというのならば、見惚れる程の完璧な仕事である。
とはいえ、それを見るリズロットの瞳にはジャンジャックへの賞賛もアルカンエイクに対する哀悼もない。あるのはただ目の前の事象を『観察』する冷静な視線のみ。
その観察の瞳が室内に一つの変化を捉えた。それは、室内に展示された宝物の数々の中。
リズロットの細長い指が、それを差す。
「あれは――」
電圧を下げないまま、ディールダームが視線だけを動かす。
指差す先は宝物を展示する台の上でも一際目立つ、メイプルリーフの形状をした台座の上に乗った果実型の宝玉である。リズロットの捉えた変化はその宝玉の中にあった。
宝玉内部に存在する複雑な幾何学図形――先ほどまで低速でゆっくりと回転していたそれが、今はキュンキュンと高速で回転しているのだ。
回転速度に合わせ、宝玉の発する光も強くなり、今やまばゆいほどにその輝きを増している。
「光ってござるな。なんでござる?」
「アルカンエイクによれば、それにはある魔法の力が込められているといいます」
「魔法、にござるか」
首をひねるしかないジャンジャック。彼女はまだそれを知らないのだ。
まさかとは思う。さすがに無理だろうと。だが、空間をねじ曲げ、時すらも止めてしまう魔法というものをこの目で見、この身で体験したあとではそれもありえてしまうのではないかとも思ってしまう。
このような状況からでも――
ボクは柄にもなく期待しているのかもしれません――世界の敵『エネミーズ』の『始まりの一人』アルカンエイクこそが本物の化け物であることを。
故にリズロットは確信に近い予感をもって、ジャンジャックに語りかけた。
「ジャンジャック、アナタはこの世界をまだ知らない。どのような目的を持っているのであれ、やはり情報の収集を優先すべきでした。アナタがあと一時間、いえ三〇分でも早くこの世界についていれば――」
「ついていれば、何でござる」
と、そこで悲鳴を聞きつけた衛兵たちがようやく部屋の前まで駆けつけた。
ペタリと腰を落とし、耳をキュッと縮こまらせるティンカーベルの少女を押しのけ、室内に一歩を踏み込む。
「どうなされました、王……おおお!?」
「し、死んでいる!?」
「バカな、あの子供は何だ!」
絶句、絶叫して混乱する彼らの前で宝玉からカッとまばゆい光が放たれた。
アルカンエイクは、この宝玉にはどんな怪我や悪疫も取り除く癒しの効果があるとリズロットに語った。
銘を『宝樹の心果実』という。
アルカンエイクはこれを己の室内に、ある意味雑に展示しているが、実はこの『宝樹の心果実』こそは、古の王国時代に創られ現代に残るアーティファクトの中で最も有名なものの一つなのである。
『雲を裂く剣』
『大地を揺るがす鎚』
『炎を纏う杖』
『傷を癒す宝玉』
『酒の溢れる壷』
『知識を与える書』
残りの一つは国により扱いが変わるが『金を産む像』と『雛の孵らぬ卵』のどちらかが数えられる。
それらを称して、世に『七大潜密鍵』と呼ばれていた。
この至宝を代々護り伝えてきた『森珠国』の国号の由来もここにある。逆に言えば、これ一つで国が興せるほどの宝物だということだ。
ワーズワード独自の分析によれば、マジック・アーティファクトには魔法を知らない者でもそれを扱えるスイッチングの機構が組み込まれているという。そして、それは起動命令であったり、フタの開閉を感知する仕組みであったりと、ある程度自由に設定できるらしい。
それはジャンジャック痛恨のミスか、あるいは単なる偶然か。
アルカンエイクの肉体から吹きだした鮮血はこの至宝にも跳ねていた。宝玉表面を一筋の赤い線となって細く流れる生命の飛沫。
たったのひとしずく、その血の一滴が『宝樹の心果実』の発動条件を満たした。
『宝樹の心果実』から発生した柔らかい黄桃色の光の花弁が、床に転がるアルカンエイクを包み込んだ。
ドクン――
有り得ないことに、その光の花弁の中でアルカンエイクの死体が動いた。
ドクン――ドクン――
そして、すっくと立ち上がったのだ。
「なんでござると!?」
「ムウ……」
「ははは。そうです。そうでなくてはいけません」
思わず飛び退くジャンジャック。さすがのディールダームも声を漏らす。
一人リズロットが、その幻想的で怪奇的な光景を前に感情のない笑い声を上げた。
「ゴフッ……いやはや、こういう形で予想が外されることも想定はしておりました。そのための危機防壁も構築していたというのに、それでもなお上を行かれる……」
喋った。未だ胸には大きな穴があき、首は後ろを向いているというのに。
しかし、血の流出は止まっており、胸に空いた傷跡部分は白い被膜に覆われ、その中で急速に肉体を復元しているように見える。
「このままでは首の座りが悪いですな」
ゴキリと音を立ててアルカンエイクが己の手で、逆方向を向いていた首を元に戻した。
あまりの異常さに誰も動くことができない。
弾みで口から零れる吐血も、白い何かに還元され虚空に消えてゆく。床にこぼれた大量の血も、スーツの赤黒い染みも、白く白く――まるで全ての傷跡が泡と消えていくようだった。
「奇妙奇天烈、奇々怪々にござるな」
さすがのジャンジャックもこれには苦笑しかない。
肩を鳴らして首の座りを確認したアルカンエイクが、己の胸に手をやる。そこには穴が空いていた痕跡一つ残っていない。いや、一つだけ。高級スーツに空いた穴を残念そうに眺めたアルカンエイクが、やや大げさな身振りで嘆く様子を見せた。
「高かったスーツが台無しですな。が、それだけです。いや驚きました、この私がこうも簡単に殺されてしまうとは。ジャンジャックさん、お見事です!」
奇跡の生還を果たしたばかりで、この戯けよう。これが『マッド・ハッター』――これが『アルカンエイク』だ。
「痛くないのでござるか?」
「もう痛みはありません、不条理こそが『魔法』の本質ですよ」
「魔法でござるか。リズロットの言う通りでござる。そのようなものがあること、知っておくべきでござった」
光の花弁が閉じてゆく。一分にも満たないわずかな時間だ。そのわずかな時間で破裂した内臓、破壊された頸椎、そして大量に失われたであろう血液――一体どのような高度な魔法がそれを可能としたのかは、その全てを観察したリズロットですらわからないが、アルカンエイクの肉体が完全に修復されたことは間違いないようだった。
二人の様子を窺いながら、思わず自分の周りに浮遊する妖精の粉に目を向けるリズロット。
本当に魔法の力とはすごいものです。この力がボクにも使えるというのならば――
そこでやっと、王の死と再生という異様な状況を前に半ば放心していた衛兵が正気に戻った。槍の穂先をジャンジャックに向けて、突撃の構えを取る。
「アルカンエイク王、お下がりください。この賊めが!」
アルカンエイクの肉体には今はもう血の一滴も見あたらないが、黒ずくめの怪しい女の半身は今でも赤に濡れているのだ。
「よい。控えなさい」
「しかし」
「二度はいいませんよ」
「はっ――」
いきり立つ衛兵だったが、王の言葉に慌て穂先を下げる。王城内にアルカンエイクに逆らえる人間はいない。王が不要だというのだから、その言葉に従うしかない。
「サテサテ、ジャンジャックさん。まだやられますかな。さすがに次も同じにはなりませんよ?」
「…………」
彼らには見えない世界で、完全に統制されたアルカンエイクの身に纏う妖精の粉がヒュンヒュンと威嚇的な衛星軌道を描く。
既に幾つかの幾何学図形がつくられており、アルカンエイクの念一つでなんぞやの魔法が発動することだろう。その一つに偏四面立方体が含まれているあたり、さすがに死の二三歩奥まで到達した事実は無視できないようだ。
沈黙のジャンジャック。が、それも一瞬で次には両手を大きく上げた。
「降参にござる」
「潔いですな。どうなさりますか? 主命とやらは果たせなかったということになりますが」
「アルカンエイクを甘く見たは拙者の独断にござる。あまりに無防備でござったのでつい。チャンスが目の前にあれば、試してみたくなるは忍びの性にござるよ」
「こうして『宝樹の心果実』がワタシを生かさなければ、実は少し危ないところだったのですよ?」
「結果生きているのであるからして、許してほしいでござる」
互い緊張感のない会話。少なくとも、殺した者と殺された者の間で交わされる会話ではない。
これら会話はジャンジャックにあわせ日本語で行われているため、衛兵たちに二人の会話の内容はわからないが、もし聞こえていたならばこう思ったことだろう。
ないわー、と。
「魔法にござるか。それを知らずば、拙者に勝機はござらんな」
「そうなりますな」
ジャンジャックの判断は速かった。ディールダームとリズロットが見守る中、片膝をつき、低く深く頭を下げたのである。
「無礼の段、足下に伏してお詫び奉る。このジャンジャック、一身改めて、御身の前に下り申し候」
それは和式ではあるが、格式に則った見事な臣下の礼だった。
「どういうことです? アナタのご主人様は別の方でしょうに」
ジャンジャックのご主人様のことは皆知っているので敢えて口には出さない。ジャンジャックのご主人様――エネミーズ同士の『トリック・オア・トリート』にほとんど乗ってこない、飄々とした立ち居振る舞いのエネミーズだが、まさか裏でこんな『ジョーカー』を飼っていたとは。
誰一人として油断できない。『ベータ・ネット』こそまさしく、世界の敵たちの最高の遊び場だった。
ジャンジャックがニコリと笑顔を見せる。
「疑わないで欲しいでござる。拙者こう見えても一途な性分にござる。下ると申した己の言を翻しはせぬのでござる。ご命じくだされば、如何様な任務をも果たす所存にござる、アルカンエイク」
「そこは呼び捨てなんですねぇ。では、ワタシが死ねと命令すれば、この場ですぐにでも死ぬというのですか?」
道化の言葉にジャンジャックが会心の笑みを浮かべる。
「疑念は晴らしおくべきでござろう。ささ、お試しくだされ」
「おっと、これは冗談の通じない系の顔ですね。やめておきましょう」
「つまらぬでござる」
本当につまらなそうに呟く。
そんなやり取りを横から観察するリズロット。
『エネミーズ10』ジャンジャックはベータ・ネットに集まる世界の敵の中でも、もっとも謎の多い人物だ。
翻訳を必要とする会話形式。名状しがたいアバター。自分を語らないのはベータ・ネットのお約束だが、にしてもジャンジャックがサードエネミー(C.C.)に見せる依存について、その経緯も理由も完全に謎だった。
しかし、今知った生身の言動をインプットにして、彼女の『実績』を分析し直せば、そこにジャンジャックの真実が見えてくる。
ジャンジャックが引き起こした世界的厄災と言えば『自由の女神破壊事件』がそれである。
◇◇◇
ニューヨークの海岸線から1.6マイルの位置に浮かぶリバティ島。そこに建つ巨大な像こそ、全長46メートル――台座を含めれば93メートル――にも達する『|世界を照らす自由(Liberty Enlightening the World)』の像である。『自由の女神』という名は、正式なものではなく通称なのだ。
この重量225トンのヘビーな女神が自由の国最大のシンボルであることは、今更説明の必要もないだろう。世界文化遺産にも登録されている。
近代の宗教戦争はテロリズムとその防御に集約され、自由の女神の建つリバティ島はテロを警戒した24時間体制の厳重な警備が敷かれている。
そのような厳重警戒下にある巨大彫像をどのように破壊したのか。そして、そのような大規模破壊に属する物理テロを実行した人物がなぜサイバーテロリストのカテゴリに数えられる懸賞首となったのか。
ジャンジャックを知るためには、まずはそこを押さえねばならないだろう。
今より6年の昔。『セブン・デイズ・ウォー』と呼ばれるネット上での仮想戦争を引き起こしたサイバーテロリストが『エネミーズ9』アイイリスの識別名で呼ばれはじめた矢先の12月のことである。
中国の運用する人工衛星「中天王」シリーズの一機が突如その軌道を外れて、地球降下のルートを取ったのだ。
米航空宇宙局(NASA)の計算によれば、地表到達までおよそ六時間。その地点は北米大陸のニューヨーク市を含む近郊になるとの緊急発表が報じられた。
ウォール街の全機能はストップし、市外へ逃げる車の列は100kmを越えた。米国最大の都市は、自らが娯楽として楽しむパニック映画さながらの未曾有の混乱に陥ったのである。
日が落ち、人気の絶えた都市にサイレンを鳴らされ続ける。
本来であれば、ここで対ミサイル迎撃の出番なのだが、中国政府の反応がそれを許可しなかった。今や新たな冷戦構造に近づきつつある米中の関係は冷え切っている。中国の保有する「中天王」を米軍が撃ち落とすことは、宣戦布告行為に見なされるとの政府談話が発表され、事態の混乱に一層の拍車をかけたのである。
この問題については、イージス防衛を選択できなかった当時の腰抜けプレジデントが悪いとの統一見解となっており、以降共和党は急激に票を減らすことになる。
時間が近づくにつれ、人工衛星の落下地点が絞り込めてきた。それが海上になりそうだという一報はネットニュースを駆けめぐり、固唾を呑んで事態を見守っていた世界中の人々を安心させたが、それこそが犯人の思惑通りだったのだ。
その狙いにいち早く気付いたのは、人工衛星の落下も米国の混乱も酒の肴でしかない無責任なネットユーザーたちだった。
6年前にはまだ『アイシールド』は発売されていない。
358:匿名さん@台北
さすが信頼と実績の中国製だな
359:匿名さん@カラカス
にしてもこんなキレイに落ちるもん? 大気圏で燃え尽きるもんかと思ってたわ
367:匿名さん@カンザスシティ
運良く帰還軌道に乗ったとしか
394:匿名さん@アルテミス
可能性はゼロじゃないわな。でもって1%もないと可能性だと思う
410:匿名さん@ダブリン
>>410
アルテミスツモすげぇ。初めて見たわ。
431:匿名さん@バンクーバー
>>410
すげぇけど都市じゃなくね?
448:匿名さん@東京
>>410
コンマ以下の奇跡ってか。中天王っていや、ハードもソフトも純中華なんだっけ。
ってことは中華OS載っての?
454:匿名さん@アテネ
メインは大鵬な。ついぞこないだ重大なセキュリティホールが
見つかったとかで修正パッチ出してたが。
460:匿名さん@ベルリン
はああ? 中も外もゴミとか、墜ちるフラグ以外の何者でもねーじゃん
492:匿名さん@ブラジリア
修正パッチはお空の中天王までちゃんと届いたのかしら
512:匿名さん@宮城
それはないです。
中天王のOSは稼働・待機で二重化されていますが、大鵬は両系が
同一のバージョンでないと起動できないという今回の修正分とは別の
重大な欠陥があるのです。
片系ずつ更新すると、バージョン不一致でもう一方が永久に立ち上がら
なくなるという。
かといって両系を同時に更新する仕組みも持っていない。
凶悪なネット犯罪の蔓延る現代にこんな欠陥衛星を飛ばすなんて、
正直信じられません。
自由の女神は大切な世界遺産なのに。。
519:匿名さん@カトマンズ
なんだこいつ、詳しいな。中の人か?
自由の女神っていきなりなんのこっちゃ。
525:匿名さん@バクー
>>512
長い。3行で
526:匿名さん@アルジェ
>>512
ソースは?
527:匿名さん@ケープタウン
>>512
単発市ね
574:匿名さん@ラバト
ここは厳しいインターネッツですね(笑)
605:匿名さん@大連
それが本当だとして、パッチあたってないとやっぱ問題あるの?
622:匿名さん@カイロ
大鵬の日本向けサイトに書いてあるぞ。
・外部からの不正アクセスの危険が少しだけあるアル。
だってよ
640:匿名さん@アルカトラズ
ひっでェな(笑)
そんなんじゃエネミーさんたちのやりたい放題じゃないですか(笑)
652:匿名さん@ダカール
あっ?
659:匿名さん@エカテリンブルク
えっ?
661:匿名さん@シドニー
オイ……これマジでエネミーズの仕業じゃないのか。
674:匿名さん@ロンドン
>>640
>>661
リバティ島上空――大気圏をくぐり抜けた人工衛星はその原型を留めない火の玉となっていた。
亜音速にまで加速された火の玉が、自由の女神像の台座に着弾し深刻なダメージを与える。初めはゆっくりと、そして加速度を上げながら傾いてゆく青銅の女神。定点カメラがその全てを記録していた。
カメラを揺らす衝撃。巨大な身体は大地との衝突でひしゃげ砕け、もうもうと立ち上る土煙の中に見えていた松明を持つ手が――最後の希望が――バキリと音を立てて二つに折れた。リアルタイムの映像が世界中に中継され、自由の女神倒壊の瞬間を全世界が唖然と見守ったのだ。
人工衛星の故障、大気圏で燃え尽きない落下軌道に墜落地点――全ては悪運が重なった出来事だと思われた。
それが犯人の狙い通りだったということを世界が知るのは、三日ほど先の話になる。今は一部のネットユーザーだけがエネミーズ犯人説について熱い議論を交わしていた。その議論の結果が九つのコードネームを並べた「誰が犯人でSHOW!」というアンケートサイトの作成と公開だというあたり、悪ノリにも程があるが。
ちなみに当日0時までの最速集計では、宇宙に関わる事件として『サードエネミー』コメットクールーが62.4%という極めて高い支持を得た。
事件より僅か一〇日で『STARS』はこの一件を人工衛星ハックによる自由の女神像を狙ったテロ行為であると認定し、かつこれまでのどの手口とも異なるとして、事件の犯人を『エネミーズ10』ジャンジャックと命名、全世界に向け指名手配した。
AからIまでの中に犯人はいなかったわけだが、結局一〇人目、Jのエネミーズの誕生とあいなったのだから、最速でそれと気付いたネット上の無責任な集合知もバカにできないものだ。
後日、事件の動機についてベータ・ネット内で問われたジャンジャックは、
「%83%80%83V%83%83%83N%83V%83%83%82%B5%82%C4%82%BD」(ムシャクシャ。してた。)
と、短く答えただけだった。
◇◇◇
ジャンジャックが言葉を続ける。
「そも忍びとは『心宿りし刃』と書き記し、則ち『生きた武器』にほかならんのでござる。使い減らし、使い毀してこその武器。遠慮せず使ってほしいでござる」
「あまりに態度が変わりすぎて、気持ち悪いですねぇ。ですが、ご協力頂けるということであれば、歓迎いたしますよ」
「協力とは違うのでござる。命令して欲しいのでござる」
不満そうに眉をひそめるジャンジャック。
リズロットはそこに彼女の本質を見た気がした。
「自己を認識した上での運命許諾。いや、自己消去というべきですか。己の死すらも存在証明に変換する希有な精神の構築。……アバターは確かにタマシイを再現する。不定形なジャンジャックのアバターは彼女のタマシイそのものだ。確固とした『己』を持たず、『従属』する相手次第で何色にも染まる。これがニンジャ・ジャンジャック」
「これをそのように捉えますか。そうですな、それならば私からも一つお聞きしましょう。『自由の女神破壊事件』。あの事件はどのような動機で行われたので?」
「いきなりでござるな。聞いてもつまらぬ話でござるよ」
「それくらいは聞いておきませんと、私もジャンジャックさんという方を理解できませんので」
アルカンエイクが先を促す仕草を行い、命とあらば、とジャンジャックが応える。
「そう口にすべきものでもござらんが……先にも言ったとおり、拙者は忍びの技を現代に伝える一族に育ち申したが、あるとき頭領である大爺が廃業を宣言したのでござる。忍びをやめると。拙者に向かい、技を捨て一人の女に戻り、女としての幸せを掴めなどというのでござる」
ジャンジャックの見せた忍びの技は確かに一個人としては異能であり、そこに価値を見ることはできる。だが、人を殺すなら銃でよく、建物を破壊するには爆弾でよい。情報を収集するなら、本人が語ったとおり、パソコン一台あればいい。結局、忍びなどという職業は過去の時代にこそ価値があり、現代に生き残っているからといって、ありがたいものではないのだ。
もう五〇〇年早く生まれていたならば、ジャンジャックはその稀有なる才能で時代に名を残すほどの活躍を見せたはずだ。だがそうはならなかった。ジャンジャックは、現代に生まれ育ち、その上でなお忍びとして完成したのだ。
「今更でござろう。女と生まれた拙者でござるが、この頬を染めるものは誰かへの恋心ではなく、誰ぞの返り血にござる。自由に生きろというのなら、これまで通りの忍びの道を選ぶ自由もござろう。それだけはいかんと言うのでござる」
あるいはそんなジャンジャックを不憫に思ったのかもしれない。現代では必要のない技を完成させてしまった我が孫のことを。
ぷくりと頬を膨らませて、憤るジャンジャック。外見が小柄なだけに微笑みを誘う姿ではあるが、その半身を濡らす赤黒い液体が場違いすぎる。
「拙者は忍びとしての己を好いてござる。自由自由と、要らぬものを押しつけてくるのはやめて欲しいでござる。あまりに気のやり場がなく、かといって一族のものと袂を分かった拙者には命を下してくださる者もなく。ついカッとしてやってしまったのがかの事件にござる」
理由は本当にただそれだけ。反省はしていない。
一人の人間の癇癪一つで世界が揺らぐ。これも世界が自由を推奨するあまり、ネットが自由すぎるからこそ発生しえた事件である。
自由こそが人を幸せにする――それを信じる人々にとって、ジャンジャックの存在はまさに対極のアンチテーゼだった。
アルカンエイクはしかし理解を示す。
「命をかけた使命もなく、己の信ずる大儀もない。私欲というほどの熱も持たず、ただその行為は世界にとっての害になる。素晴らしィ、それでこそ孤絶主義者、世界の敵』の正しい在り方です!」
「主君にもそう褒めてもらったでござる。おっと、今の主君はアルカンエイクでござるな。失敬にござる。かっか」
嬉しそうなジャンジャックは尻尾を振る子犬のようでもある。
今しがたその手でアルカンエイクを突き殺したことなどついぞ忘れてしまったかのような無垢で、いびつな反応だ。
故に、アルカンエイクは満足する。
90億の常人が集まってなお1匹すら退治できない化け物の一人を相手にするのです。
必要なのは常識の及ばぬ思考、常識を超えた能力、常識の外にある感性――そうでなければ、同じ化け物を狩ることはできないでしょう。
『自由の女神破壊事件』以降、ジャンジャックが起こしたサイバーテロの事件はない。
なぜならば、『エネミーズ』に数えられベータ・ネットにいざなわれた彼女は、そこで絶対のご主人様を得ることができたのだから。
ゆえにあの事件は、ジャンジャックにとって最初で最後の自我の発露なのだ。
「サテ、あなた方に武器をお渡ししましょう。ジャンジャックさんにとっても、こちらの世界に持ち込めなかったという愛刀のかわりにはなりますでしょう」
アルカンエイクの手の上に、妖精の粉――源素の輝きが集められる。
緑と青の光の粒が一つの図形を作り、閃光が迸ったかと思えば、そこに一冊の書物が現れていた。
書物とはいうが、その表面は青く輝く金属製であり、表紙の中央には七つの小さな宝珠が鏤められている。
その表紙が留め具で閉じられており、そのままでは開くことはできない。
そこでアルカンエイクが異界の言葉を紡いだ。
『開闢の書』三章九節。
宝樹ヰ 世界創生の神・靜爛裳漉の背に根を張る
根より吸い上げし創造の力で 地上に様々な命を産み落とす
樹木 果実 虫 鳥 獣 ヒト
我なにゆえあってうみだされたましや
子らの中で人のみが 知識を欲する
一文節を読み上げる毎に、七つの宝珠に輝きが宿ってゆく。
ジマ ヒトに応えて曰く 欲するものを心に止めよ
六つ目の宝珠に漆黒の輝きが宿ったとき、書物の留め具がバチンと弾け、バラバラバラと勢い良く頁が捲られた。
ディールダーム、ジャンジャック、リズロット。それにティンカーベルの少女と数人の衛兵。
目を見張る皆の前で、アルカンエイクが最後の一文節を読み上げる。
――すなわち『与える』と。