Jet-black Juliette 05
「座標の認識を維持しながら、同時にもう一つの演算を行うこと。それはお前ならばできるはずだぞ」
人は一度に二つのことを思考できる。それをこの駄犬は忘れている。
瞬時の理解を示すパレイドパグ。
「BPM(ブレイン・パーソナライゼーション・メソッド)……並列思考か!」
「そうだ、空間を座標として捉える自分自身を脳内で独立させてやればいい。並列思考を使っても良いが、どちらかと言えば『受動型認識系』の適用が望ましいだろうな」
「受動型認識系だあ? なんだそりゃ、初めて聞く単語だぞ。そもそもBPMは自分の脳内に『能動型』擬似人格を作り出す方法論だろうが。その原論を知ってるアタシだからこそ、その上に並列思考って概念があるのを知ってっけど、『受動型』なんて聞いたことねェぞ」
「あー」
BPMは『知識の樹』に変わる新しい記憶術として紹介された方法論であり、その理論を記した著書の中では能動型記憶系のことしか書いていなかったんだっけか。
「まあなんだ、書籍ではなく、BPMの原論って方の話だと思ってくれ。俺もそれを知っているという前提で」
「なんだよ、前提って」
「翻訳のあやだ。気にするな」
仕方ないだろう。他に言いようが思いつかないのだから。
「一般に広まっているBPM理論は、単純な記憶力や知識量のアップに使える能動型記憶系だけを教えるが、それはBPMという理論体系の中の一系統にすぎない。BPMは本来『二型四系』に分けられるのだ。二型四系――則ち『能動型記憶系』『能動型思考系』『受動型認識系』『受動型忘却系』の四つだ。並列思考は能動型思考系に属する活用法だな」
「……は?」
またもや、間の抜けた声を上げる駄犬。
「ちょっと待て。最初から教えろよ」
「最初からか」
駄犬はそこそこ高いレベルで並列思考を使いこなしている。だというのに、受動型の使い方を知らないというのは、アンバランスである。
片方しか知らないのも色々問題もあるので、教えておくしかないか。
「そうだな、まずBPMの基本である自分自身の記憶や思考を拡張する活用法は、情報を持つ自分自身を『鋳型』として擬似人格を作りあげるものだ。同型の擬似人格間での情報の受け渡しはスムーズであり、主従の関係もない。脳内の全てを『自分』として扱える。そんな『情報を持つ自分自身を鋳型として作られる擬似人格』、これを総じて『能動型擬似人格』と呼ぶ。
その上で、急激な知識の吸収や膨大な記憶の格納にこれを用いる場合、それは能動型記憶系と呼ばれる方法論に属する。
さらに同じ能動型でも、本来親和している情報の受け渡し経路を断ち、相互認識可能なレベルまで独立性を高めることで思考系それ自体を多重化することができる。これが並列思考とも呼ばれる、能動型思考系の方法論だ。
だが、それには一つの問題があった。『人は、自分が複数いることに耐えられない』という問題だ。思考系の多重化は、容易に精神分裂症を引き起こす。お前の国には『ドッペルゲンガーを見た者には遠からず死が訪れる』という格言があるだろう。それは、霊的現象のことを言っているのではない。自分以外に自分がいるという認識は、人の精神を容易く崩壊させ、死に至らしめるということを教えてくれているのだ」
「格言じゃねぇだろ、それ。それはいいとして、精神分裂に関する問題は解決されてるはずだぜ?」
「その通り。『固有認識リンカー』がそれだ」
「だな。でもって、それはBPMの教本にゃあ載ってねェ高等ロジックだ。テメェも知ってるってのは予想外だったけどよ」
「誰でも見ることのできるネット上のスレッドの話なのだから、俺が知っていてもおかしくあるまい」
「だったらテメェも知ってるはずだぜ。アイツが絶対的な天才だって。でも、そんときのスレッドじゃそんなことは不可能だ、妄想だっていう嘲笑と荒しばっかでさ。クソッ、絶対許せねェ!」
「……なんでお前が怒るんだ、ネットなんてそんなものだろう」
「アタシは本物が認められねェのが一番嫌いなんだよ! だから、世界中のクソッタレどもに認めさせてやるんだ、アタシ自身の力で」
「確かにパグウイルスは世界中の人間が認めているがな。主に害悪として」
「ザマァみろってもんだろ、キャハハハハハハ!」
そういって、高らかに笑う少女。
もしかしたら、パレイドパグはその天才さんとやらを自分と重ねてみているのだろうか。誰からも認められることのない不遇の身の上的な感じで。
インプランツ・エイジズ――
昨晩聞いた少女の心の声が再生される。
パレイドパグの行動原理の根本は、やはりそこにあるのだろうか。
傍若無人で小生意気な態度を見せてはいるが、その内にあるものは、自分を認めて欲しい、見て欲しいという、ただそれだけの小さな願いなのかもしれない。
それを犯罪的手段で達成してしまうあたり、完全に孤絶主義者ではあるのだが。
「続けよう。『固有認識リンカー』、それは一言で言えば擬似人格のナンバリングだ。全く同じ自分には耐えられないが『自分2号』『自分3号』であれば問題ないという人間の脳の適当さを衝いたこの発想がノーリスクでの並列思考を可能とした。故に能動型記憶系と能動型思考系の関係はあくまで脳機能の活用方法の違いでしかなく、どちらが上位というものではない」
確かに並列思考の方が脳を活用している実感が持てるので、そっちの方がより上位だと思ってしまう気持ちはわからなくはないが、やはりそれは用途の違いでしかないのだ。
たとえるならば、HDDの容量UPとCPUのクロックアップ。両方やればいいじゃない。
「単語自体は初耳なのが多いがここまでの話はわかるぜ。問題は次だな。『受動型擬似人格』ってのはなんだ」
「自分自身を鋳型として作られる能動型に対し、受動型は自分自身を鋳型としない概念人格だ。脳機能の動的な拡張が能動型で、静的な拡張が受動型だといえばわかりやすいだろうか。自分自身と存在を別とする受動型擬似人格は、自分だけでは実現不可能な静的な脳の働きを可能とする。
その一つが受動型認識系だ。目に見える風景、痛みや味覚など、外部から受け取るあらゆる認識に介入し、それを別のものに変換する活用法。
白いものを黒と認識変換すれば、それは自分自身の認識として、初めから黒になる。目で見る世界をそのまま認識したあとに座標化するのは難しいかもしれないが、受動型擬似人格を活用すれば、法線が入っている状態で空間を認識することが可能だ」
初めてそれを聞く人は、そんなことは不可能だと思うかも知れない。だが、それは決して難しい方法論ではないのだ。たとえば、結婚五年目で『自分の嫁は世界一かわいいよ☆』と真顔でいえる男性は、自然体で受動型認識系の認識置換ができている。
人間、極限まで追い詰められれば、BPMの方法論を知らなくてもそんなことができちゃうんだね、脳の自己防衛機能ってすごいね。
また、自分のことを神世紀エイブラハムの救世主・16大将軍リンカーンの生まれ変わりだと認識置換しちゃった中学生がエイブラハム世界の奴隷解放のために立ち上がるという話もよくよく聞かれる話である。
総論すれば、受動型認識系の方法論は、自分自身を効率的に騙す技術だといえるだろう。
「もちろん、並列思考を使った常時リアルタイムでの座標計算も不可能ではない。どちらが楽かだけの話なので、そっちの方が得意なのであれば、無理に覚える必要はない」
「アイシールドもなしで、ンなことし続けんのは無理だってーの!」
無理でもないと思うんだけどな。
まあ、いいか。
「で、もう一つの受動型忘却系ってのは」
「受動型忘却系の方法論はわかりやすい。己の意志で不要な記憶を封印・忘却する。受動型擬似人格に忘れたい記憶や感情を死蔵する。思い出すだに身もだえする黒歴史だって、完全完璧になかったことにできるぞ。お前には必須だろう」
実際、異世界転移後二日目くらいの記憶が曖昧な俺である。
「ハッ、アタシに黒歴史なんかねェよ。そいつぁアタシにはいらなそうだな」
「今のお前こそが……いやなんでもない」
それを必要とするのは何年後かという話だな。
「それとは別にBPMを使っていく上で受動型忘却系は重要だ。BPMは通常では使われない脳の余剰能力をフルに活用するための方法論だが、それは良いことをもたらすだけではないのだ。
最新の脳科学で、人はその一生で脳の機能を0.3%程度しか使わないことが判明したが、その検証結果は、脳の99.7%を無駄にしているということではなく、人の脳はそもそもが人間にとってオーバースペックな性能を持っているのだという事実を示しただけだった。
人は単純に、超高性能な自分の脳を使い切れていないだけなのだ。
脳の性能に対して、人間の精神の方が及んでいないといってもいい。たとえば、脳に障害を持つ者の中に絵画・算術・記憶力などの分野で天才的な才能を発揮する者がいる。サヴァン症候群――これはBPMの方法論なしに脳の持つ余剰機能を解放してしまっている症状だと言い換えることもできる。が、逆にいえばサヴァン症候群がなぜ脳障害者にのみ発症するのか。それを考えればBPMの持つ課題が見えてくるだろう。
0.3%を越えて脳機能を活用することは確かに可能。が、同時にマトモな精神ではそれには耐えられないということを示している」
「おい、それって――」
さすがは駄犬様、理解が速い。
「BPMの方法論は人の精神を崩壊させることなく、この『0.3%の壁』を越えることを可能とする。しかし、やはり無理を重ねている状況には変わりないということだ。
人の脳は情報を蓄積、記憶することには長けているが、忘却する機能は弱い。それこそ物理的に壊さない限り記憶は失われない。BPMの活用により全ての記憶を持ち続けることができるということは、不要な記憶が整理されていくことがないということ。不要に蓄積され続けた記憶はノイズとなり、脳の働きを低下させる。低下といったが、つまり脳の働きを阻害するのだ。
ゆえに能動型記憶系しか教えない現在のBPM理論は、実は大変に危うい。BPM自体が比較的新しい記憶術なので、まだその危険性に気付いている人間は少ないが、BPMの利用がこのまま広がれば、数年、数十年後にはちょっとした社会現象に発展するのではなかろうか」
「大変じゃねーか。冷静に言ってる場合なのかよ、それ」
「解決の方法はあるのだから、騒ぐ必要はないだろ」
「受動型忘却系か。でも、それってアタシですら知らなかった方法論だぜ。当然他の奴らが知ってるはずがねえ。知らない以上、数年後にはテメェ以外全員廃人じゃねぇのか?」
「そうかもしれないが、俺は別に困らないし」
「アタシも今知ったから、困らねぇな」
「そういうことだ」
つまりなんの問題もない話である。
俺はまとめに入る。
「必要なものを記憶し、不要なものは破棄する。認識を最適化し、瞬間的な並列思考を可能とする。それら全てを含む『脳機能を自分向けにカスタマイズ』できて、初めて『ブレイン・パーソナライゼーション・メソッド』といえるのだ」
「……BPMにまだ先があったなんて知らなかったぜ。にしちゃあ、まるでテメェが考えついたみてぇな言い方だな」
「と、そのBPMの原論とやらに書いてあったのです」
「書いてねェよ! もし書いてあったらアタシがそんな見落としすっかよ!」
「細かい話はいいだろう。BPMの分類なんて、魔法を使う上では重要ではないんだ。ホラ、受動型認識系の使い方だけ教えてやるから」
「フザケンな、受動型忘却系ってのも教えろよ!」
「気が向けばな」
ぎゃーぎゃーわめく駄犬の抗議を無視して、脳のカスタマイズ方法を伝授する。
なんだかんだで、受動型擬似人格の構築方法を瞬時にマスターできる駄犬はえらいものだ。基礎の知識があり、その上で理解力も高い。あまり言うことではないが、インプランツ・エイジズさまさまだ。
すっと掲げた手のひらの上に、四つの源素が集められる。四つの源素が結合し、正三角錐が完成する。
「おおお、できた……これが受動型認識系かよ。世界が変わるってのを、今まさに体感したぜ」
「さすがだな。もしかして、大学に飛び級でもしていたのか?」
「そんなくだらねぇトコ行くかよ。って、なにナチュラルにアタシのプライベート聞き出してんだ。ま、まあ、テメェがどうしても聞きたいってんなら、教えてやらないこともな――」
「すまない。興味は一切ない。そうだな、世界の敵同士、プライベートへの関与はよくないな。聞かなかったことにしてくれ」
「……ああ、そうかよ! ガルルッ」
牙を剥いたパレイドパグに、キッと睨み付けられる。
これだけ丁寧に教えてやったというのに、できた途端これである。
なんという野犬っぷりだろうか。
「ワーズワード様」
「ん、なんだ。フェルナ」
声をかけてきたのはフェルナである。
かなりの時間をマンツーマンの駄犬教育に費やしていたため、他のことは放置していたが、もしかして俺が空くのを待っていたのかもしれない。
フェルナが弦楽器を差し出してくる。
「お願いがあります。私に楽器をお教え願えないでしょうか。ワーズワード様の世界にあるという素晴らしい曲の数々、それをどうか」
「あ、それだったら、私はうたの歌詞の方を教えてほしいな。すごくいい曲だから、聖国の言葉で歌えるようになりたいし」
セスリナがフェルナの肩越しからはいはーいと手を上げて、そんなことを言ってくる。
「待ってくださいっ」
と、そこにお鍋を抱えたシャルが更に割り込んできた。
「ワーズワードさん、私にお料理を教えてください。ワーズワードさんに喜んで頂けるお料理を作れるようになりたいんです」
昨日のお料理対決はシャルに小さくない衝撃を与えたらしい。
俺のためと、そう言ってくれる気持ちは確かに嬉しく思う。しかし、俺は食にはうるさくない方なので、そこまで気負ってもらう必要もないといえばない。
「オイ、そんなの後にして他の魔法も教えろよ。どんなのがあるんだ?」
「ワーズワード様」
「おうた~」
「ワーズワードさんっ」
三方からズズイと迫ってくる皆の顔。
教えてくれと言われれば、教えない理由はないのだが――
どうしよう、ものすごくめんどくさい。
教えない理由はないが、そんなことを言い出したら、はじめちょろちょろなかぱっぱから政治経済・天文科学まで聞かれたことに全て答えなくてはいけなくなる。
うん、確実にめんどうだ。
即座にこの場からの逃走を図る。
すまないな、俺は皆の期待には答えられない体質なんだ。
――その一方で、俺は別のことを考えていた。そういえば、アルカンエイク(A.A.)のもとにはディールダーム(D.D.)、リズロット(L.L.)、ジャンジャック(J.J.)の三人がいるはずなんだな。
アルカンエイクもこうやって、教えを請われている状況なのだとすると少し面白い。それ以前に、彼らが生身の対面を果たしているということは、あの名状しがたいジャンジャックもその姿を皆の前に晒しているということになる。
星の王子様(C.C.)に寄生する謎多き『エネミーズ10』ジャンジャック。
エネミーズの誰よりも理解不能なあの生物の中身が一体どのような人物なのか、アルカンエイクと連絡がついたら何よりも先にそれを聞いてみたいものである。
◇◇◇
『南の法国』・アルトハイデルベルヒの王城
ワーズワードが想像を巡らせるアルカンエイクとジャンジャックとの邂逅は、今よりおおよそ一日前に行われていた。
昨日、アルカンエイク、ディールダーム、リズロットの三名が王城入りを果たしたちょうどその時、一人遅れて『ティンカーベル・プログラム』を動作させたジャンジャックが異世界に渡ってきたのだ。
ワーズワードの推測に基づけば、世界を渡るには『濬獣自治区』という特異点と『ティンカーベル』と呼ばれる存在の二つの因子が必要となる。
世界に一二ある濬獣自治区、その内の一つ『レニ治窟』には時間を凍結された七体のティンカーベルが保管されている。現在を語る場合は、ディールダームにより連れ出された一人を除いて、残り六体という認識だ。
ワーズワードが己の計画を実行したあの瞬間、もしシャル・ロー・フェルニという少女が『ニアヴ治林』を偶然通りかかっていなければ、彼もまたレニ治窟に導かれた可能性が高いだろう。あるいは、ジータ・クルセルカという少女の住まう『アラナクア治崖』か。
どちらにしても、一人を導いたティンカーベルが二人目を導くことはないらしい。ジャンジャック転移の時点では、レニ治窟以外に彼女が降り立つ先はなかったのである。
アルカンエイクによれば、転移の失敗というものはあるらしいので、どこにも辿り着くことのない最悪の結末を迎える可能性はあったようだが。
その不幸は回避したジャンジャックは『ティンカーベル』以外無人のレニ治窟に降り立った。そして、そこに仕掛けられたアルカンエイクの転移魔法が彼女の身体をアルカンエイクの面前まで――アルトハイデルベルヒの王城まで――強制的に送り届けたのである。
王城内、法王・アルカンエイクの私室。異世界の宝物を展示した、宝物庫でなければ博物館であるかのような煌びやかな室内である。
先に転移していた三人の『世界の敵』が見守る中、中空に現れた半円の穴より、一つの黒い影が転がり出てきた。
頑丈な長机の上に伏せた体勢で周囲に視線を巡らせるジャンジャックの姿は一言で言えばニンジャ。実際、リズロットが開口一番に叫んだ言葉がそれだった。
驚きは三者三様であろうが、その中でもリズロットの興奮は他の二人の比ではない。
もちろん、リズロットはその道のプロだ。闇に溶ける漆黒の装束姿は、アメリカンムービースターの扮するサイバーでマッポーな『ニンジャ』ではなく、東洋の神秘たる『忍者』と呼ぶべきものであることはわかっている。
わかっているのだが、それでもなお叫ばずにはいられなかった。
彼にとっては、ニンジャも忍者も共に彼の大好きな『アニメ』の世界の住人であるのだから。
「ウー、ワオ!」
天を衝くようなガッツポーズ。
部屋の入り口でビクリと身を竦ませたのはディールダームの連れてきたティンカーベルの少女である。
ジャンジャックはリズロットの奇矯なポージングには特に大きな反応を示さなかった。
そこで、アルカンエイクが口を開いた。
「お待ちしておりました。貴方はジャンジャックさんですか? 想像で申し訳ありませんが、パレイドパグさんの中身が東洋人だとは思えませんので」
未だ警戒を解いていない黒装束の女性――ジャンジャックは目だけでコクリと頷いた。
「やはりそうでしたか。私のことはアルカンエイクとお呼びください。そちらがディールダームさんとリズロットさんです」
「…………」
「まさか、あのジャンジャックさんが女性だったとは。その上、そのご格好――これはこれは、まさしく驚きしかありません」
大きく腕を動かし、俳優のように振る舞うアルカンエイク。
彼の整った目鼻立ちは確かに主演俳優たり得るのだが、如何せんベータ・ネットでのアルカンエイクという人物の振る舞いを知るジャンジャックの反応は薄い。
言葉を発しない代わりに、三人から視線を外さないまま、後ろ手で腰のあたりを探る。しかし、その手は空を切る。目的のものが見つからなかったことで、一瞬ジャンジャックの動きが止まった。
それを見たアルカンエイクが、にこやかな笑みを浮かべながら、チッチッと指を振った。
「一つお教えしましょう。これは言うつもりのなかったことですが、早々にディールダームさんに言い当てられてしまいましたので。アナタ方が体験した『次元を超えた楽園への転移事象』には私の発見した、人類のみが持つ個人識別が可能な情報遺伝子が関係しております。サテサテ、では人類とは何を指して人類なのでしょう? 人は何をもって人と識別されるのでしょう? それら『情報を遺伝させる因子』とは?」
「…………」
ジャンジャックは答えない。答えられない。もちろん、ディールダームやリズロットでも無理だろう。それこそが、アルカンエイクのみが――未だブラックボックステクノロジーである『ミーム』技術の完成者たるサー・エクシルト・ロンドベルのみが――持つ技術情報であるのだから。
「もちろん、全ての情報は開示できません。ですので一つだけ。自己認識……それがミームに関わるキーワードです。『楽園の門』でティンカーベルが呼び寄せるものは、ミームそのもの。今皆さんが衣服を身につけていらっしゃるのは、あなた方のミームに衣服の情報が含まれているからです」
そこで、言葉を一端切ったアルカンエイクがジャンジャックのまねをするように、スーツのポケットの中を探って、そこに何もないことを残念がる様子を見せる。
「逆に言えば、ミームに含まれていない情報因子はこちらの世界には持ち込めない。財布やケイタイ、それに皆さんが装着していたであろう『アイシールド』……ありませんでしょう? 人が己を認識するとき、そこに何が含まれますでしょうか。日常的にメガネをかけている方ならば、メガネをかけた自分を認識することができるかもしれません。ですが、財布は? ケイタイは? ――それが答えです」
「フン。そういうことか」
『レニ治窟』内で同じ疑問を口にしたディールダームは、今やっと疑問の氷解を得た。
ミーム云々という前段の話を聞いていないジャンジャックがどこまで理解したかは不明だが、この『ティンカーベル・プログラム』を利用したオカルティックな転移技術では、大概のモノは持ち込めないということは理解したのだろう。
腰を探る行為をやめ、姿勢を正した。
姿勢を正したと言っても、未だテーブルの上で、片膝をついている状態だが。
「アルカンエイク」
「ディールダーム」
「リズロット」
ややハスキーな声。一人一人の名を口に出して、顔を確認する。
それが彼女の初めて発した声だった。東洋人独特の舌を巻かないイントネーションだ。
次にアルカンエイクの背面に整然と並ぶ、そして部屋中に舞い踊る源素をいぶかしげに眺めた後、その漆黒の瞳が部屋の入り口に立つ若竹色の髪色をした耳の長い少女を向いてピタリと止まった。
少女はまたもやビクリと反応した後、ペコリと頭を下げた状態で固まった。
「アルカンエイク・レポートにあった『妖精』と『妖精の粉』ですよ。独自の言語を持ち、このような王城を生み出す文化的な種族だと思われます。喋ってみますか?」
ややテンションを戻したリズロットが説明を加える。
ジャンジャックは、横目でリズロットを一瞥した後、ゆるく首を振った。
「それよりもジャンジャック、アナタは本物のニンジャなのですか? それに、ワーズワードと同じジャパニーズだと? あとコジキをお持ちなのでしたら、是非お見せ頂きたいのですが」
「……」
食い気味に入っていくリズロットはさすがにイタイ。外人さんのニンジャ好きは異常すぎた。
ちなみに、コジキとはヒデンショのことを指す英製和語である。米国でだけ使われていることを考えれば、米製和語かもしれない。
『エネミーズ12』リズロット――彼は違法アバターの作成者である。
アバターにより再現されるネット上の人格は、現実の自分と切り離された仮想の人格であるべきだとワーズワードは論じたが、リズロットの意見はそれとは少し違う。
リズロットはアバターにより再現されるネット上の人格は、現実の自分という枷から解き放たれた真なるタマシイの再現だと考える。
仮想空間内でも男性体のアバターを操るディールダームやワーズワードはそもそものタマシイの形が現実の自分とそれほど離れていないだけだ。
例えば、ブサイク犬のヌイグルミをアバターとするパレイドパグなどは、その選択の裏に自分のことをかわいがって欲しい、抱きしめて欲しい、でもそれを素直には表に出せない……そんなタマシイの形を再現しているとリズロットは分析する。
ゆえにアバターは自由に選択できなければいけない。そこに規制があるということは、タマシイに規制をかける行為である。
自由の国生まれの彼の行動原理は、実は至極わかりやすい。
リズロットのいう『無償の愛』――それは、ネット上での規制なきタマシイの解放を目的としたものなのだ。
そんな行動原理のもとで作り出されるリズロットのアバターがアニメキャラ限定であるのは、それはそれでどうかと思うが、実際、それは脱衣に関する規制解除がされている以外は、細部の作り込みが完璧なだけのアバターであり、違法行為だけを目的にして作られてはいない。
そこから先――アバターをどのように、どんな目的で使うかは個人の自由なのだ。タマシイが解放されたアイシールド上で、性に溺れ堕落するということは、その人間個人のタマシイが堕落しているという、ただそれだけのこと。
そもそものリズロットのアニメ好きも、そんな行動原理が根底にあった。
クリエイターの手により作成され、動き、喋り、独自の物語を生み出すアニメは、まさしく一己の天地創造だ。そこにはアニメの世界を生み出したクリエイターの――一人の人間の全てが詰め込まれている。
この世界が神によって作られたものであるならば、アニメ世界の神はクリエイターである。
どのような目的でどのようなキャラクターを生み出し、どのような運命を課すのか――それは神の御業の模倣とも呼べる行為である。それをリズロットは観察する。
そう、『観察』だ。
そうでありながら、『ベータ・ネット』では子供のようにはしゃいだテキストチャットを使うあたり、頭は大人、タマシイは子供な自分自身を自覚して使い分けているのだろう。
まあ、そんな大仰な話をせずとも、サブカル大好きなリズロットなのだが。
ジャンジャックが二度三度、瞳を瞬かせる。
今の彼の関心は目の前のジャンジャックにある。
アバターがタマシイの形を再現するなら、不定形、不定色、どこが目か耳か、頭と胴体の境目もわからない名状しがたいジャンジャックのアバターは一体彼女の何を再現しているのか。
その上、生身の彼女は黒目なニンジャなわけであり。
リズロットのイタさが、逆に緊張を解す良い方向に動いたのかもしれない。
ジャンジャックが口元を覆う布をずらして、その顔を晒した。忍者装束を身につけているとはいえ、自分の正体を隠そうという意図は特にないようだ。
スッキリと通った鼻筋に大きな瞳。和美人と呼ぶに異論ない顔立ちをしていた。
大部分は頭巾の中に隠れているが、その髪色も漆黒だ。
そしてジャンジャックはあくまで女性――少女ではない。10台かヘタをすればそれ以下に見える小さな身長なのに、その表情に幼さはなかった。
その理由は明白だ。小さな顔の中で最も目立つ大きな黒い瞳。その双眸から放たれる圧力が、子供のものではありえないからだ。
東洋人の年齢は外見からは判断しづらいとよく言われるが、ジャンジャックこそはまさしく年齢不詳、アバターと同じく形容しがたい人物であった。
と、そこでジャンジャックが足を組み替え、長机の上で、どかりとあぐらを組んで座り直した。
そして、ニッと人好きする笑顔を浮かべたのだ。
「おのおの方、既にお集まりでござったか。遅れ申した、拙者がジャンジャックにござる。おっと、もちろん、米国が拙者につけた偽名にござるが」
あっけにとられるとはこのことを言うのだろう。
「ゴザル!? 凄い、ホンモノですよこれは」
「そういじめてくださるな。『三つ子の魂百まで』。幼き頃から使い慣れた言葉はそうそう変えられるものではござらぬ。『アイシールド』の言語変換でも『I'm JanJack, degozaru.』などと翻訳されるため、まともに喋ることができなかったのでござる」
そう言って、頭をポリポリと掻く仕草。
「そんな理由があったのですが」
「いえ、でしたらリズロットさんのようにテキストチャットでよかったとおもいますが。なぜ言語のエンコードなどを?」
「理由などござらん。趣味にござる」
「ハ?」
「暗号に関する技術は得意なのでござるよ。敢えて理由を作らば、拙者、一族の者以外の人間と接することのない暗い青春を送ってき申した。それがための、直接に人と会話できない乙女の恥じらいとでも思ってくだされ。かっかっか」
「むう……」
からからと笑うジャンジャック。
あけすけな自分語りといい、闊達な笑い声といい、誰も予想し得ないジャンジャックがそこにいた。
「少しばかり、イエ、大変に驚かせて頂きました。それで、その服装は、本当に本物なのですかな?」
この科学全盛の時代に『ござる忍者』が目の前に現れて、それをそのまま信じるほうがありえないだろう。
魔法の世界とジャンジャックの存在。比べてみてもどちらがファンタジーか判然らない。
「お疑いになられるのも当然にござろう。でござるが、我が国は1000年の歴史のある由緒正しい国でござってな。どれだけ時代が進もうとも、古き業を脈々と伝える一族がござる」
「それがアナタであると?」
「にござる。しかし、考えてみれば、その血の淀みが拙者のような化け物を産んだのでござろうか。おっと、同じ国の中で拙者などよりもっと恐ろしい、将に『モンスター』と呼ぶべき御仁が生まれたことを鑑みれば、血の濃い薄いはあまり関係ないのでござろうかな」
「なんということだ。完璧だ。ブリリアント。アルカンエイク、今こそボクは貴方に感謝を捧げますよ。貴方の提案に乗って大正解でした」
「……それはなによりです、リズロットさん」
「それで、現代のニンジャとは一体どのようなゴブギョーされているのですか? ぜひ教えていただきたい」
「拙者、己が忍びの一族の末裔であることは否定せぬが、そんなに良いものではござらぬよ。敵国の領内に溶け込み暮らす『草』の如き仕事は、情報の入手の容易な現代では必要とされ申さぬ。現代の忍びにできることといえば要人警護か、さもなくば、暗殺、テロリズムくらいでござる」
いって、ジャンジャックはディールダームの肉体を一瞥した。
「エネミーズといえども、肉体を持って対峙すれば、拙者に敵うものなどござらん、そう考えておったのござるが……いやはや、いきなり初手で想定を外され申した。さすがは現実の国家に敵するディールダームにござる」
「…………」
それはジャンジャックなりのディールダームへの賞賛の言葉だろうか。
ディールダームは動かない。
「まさか、まさかまさか。ジャンジャックさんがこれほど頼もしい方だとは。これほど嬉しい誤算はありません」
「かっか。そうでござろう」
笑うジャンジャック。
だが、リズロットは『それ』に気づいた。
あらゆる全てを『観察』するリズロットだからこそ気づけた。
それはどう表現するのだろう。空気の変質、あるいは温度の低下か。如何なる武道の達人であっても決して察知できない、どこまでも透明で静かな殺意。
リズロットが一歩あとずさる。それはジャンジャックから離れる方向。
「愛刀・三郎四郎がこの手にないのは残念でござるが、忍びの躯はすなわちこれ全身凶器にござる。まずは一つ、主命を果たすでござるか」
「主命?」
「決まってござろう。拙者の仕える主君はただ一人――」
ふいにジャンジャックが動いた。
あぐらを解き、机の上でトンと跳ねる。その動きは早くも遅くもない。が、あまりに自然すぎて、逆に誰も反応できない。
ドシュ――
そして、皆がそれを認識した時には、全ては終わっていた。
アルカンエイクの背中から生える赤黒い腕。
人の腕が人体を貫通する。
手刀――
どのような技術が、どのような剛力がそれを可能とするのか。
「ガッ、はっ――?」
わけもわからないまま、血しぶきを上げて、崩れ落ちるアルカンエイク。
「ほい、おまけにござる」
ゴキリ
腕を引きぬきざまに、首をねじって頸椎を破壊する。
それは微粒子レベルの生存の可能性も許さぬ、プロの業。
アルカンエイクの胸部から吹き出す赤い噴水は、部屋の天井まで届き、展示された数々の宝物をも朱色に染めた。
「うひゃあ」
「…………」
バタバタと後ろ足を掻いて、ディールダームの背中に隠れるリズロット。
それでも揺るがぬディールダームだが、その四肢に電流の如き力が込められ、全ての準備は既に整っている。
半身をずぶと濡らしたジャンジャックが、少しつまらなそうな表情を見せる。
「『世界の初めての敵』も他愛ないものでござるな。主君の批判など切腹ものでござるが、さすがに少し過大評価のしすぎではござらんか。否、それも仕方ないことでござろう。サイバーテロリストなどと持て囃されはしても、所詮ネットの中でしか力を発しえないアマチュアにござる。その点、拙者は殺しを本業とする本物のプロにござる」
右腕を軽く振って、滴る飛沫を払い落とす。それは、一つの生命を奪った後にしては軽すぎる所作だった。
直後、ブルリと身を震わせるジャンジャック。その恍惚はここに存在しない誰かに捧げられている。
「――全ては、我が主君の心のままに」
リズロットは確信する。
エネミーズ10・ジャンジャックは真の化け物。アバターの示す通り、そのタマシイはまさしく異形。
すごいぞ、ジャンジャック! キミは本物だ!
「皃靆霪熙熙熙熙熙皃熙罕――!」
その声は、部屋の入り口あたりから。
アルトハイデルベルヒの王城に高い絶叫が響き渡った。




