Jet-black Juliette 04
馬車があるため、野営準備といってもやることはそんなに多くない。女性陣は馬車を使い、男性陣はその辺で適当に転がるだけだ。
やることといえば、馬に休息を与えることと火をおこすために枯れ枝を集めることくらいである。
火神神殿の神官がいれば、枯れ木を集める必要もないと思うのだが、神官はそんなことのために魔法を使ったりはしない。
俺は気にせず使うが。
黄金の輝きを放つ魔法の炎の前でセスリナが手をすりあわせる。
「ふわぁ、暖かい~」
「セスリナさま、温めた果実水です」
「ありがとう、シャルちゃん」
「そして、これですっ」
シャルがガラス瓶に入った琥珀色の液体を天に掲げる。
琥珀色の液体は蜜樹である。粘性を持つ甘い液体で、つまるところハチミツだ。ガラス瓶は【フォックスライト/狐光灯】用に持っていたもので、この使い方が本来の用途だな。
樹翅の巣の出入り口下方30cmあたりの幹に穴をあけ、そこから漏れ出す蜜樹を瓶に流し込む。十分に蜜樹が溜まれば、あけた穴をおが屑で塞いで採取作業は完了である。
【マルセイオズ・フロスト・ボウ/水神霜弓】の魔法を解除し、樹翅が再び活動し始める前にその場を離れることができたので、攻撃を受けることは一切なかった。
その蜜樹を銀のスプーンでひとすくい。カップの中にトロリ垂らしてかき混ぜる。
「どうぞ」
「はーい。コクコク……ん~、あっまーい!」
冷えた身体にこの上質な糖分はたまらないだろう。
たっぷり蜜樹のほかほかピリア。スプーンを一混ぜするごとに、白い湯気にも甘い香りが混ざり込む。まるで屋台の綿あめのようだ。
瞳を燦々と輝かせたシャルが自分のカップからスプーンを引き抜く。
「私もいただきますっ」
誰に向けた宣言かは知らないが、今のシャルを止められる者はいない。
皆が注目する中、ゆっくりとカップに口をつけ、コクリと小さく喉を鳴らす。
長いお耳がフルフルと喜んだかと思えば、ふにゃりと倒れた。緩んだ口元とお耳が同期しているのだろう。
「はわ~、しあわせです~」
その無垢な笑顔に気圧されるように、パレイドパグがたじろぐ。
「オイオイ、なんつーかわいさだよ……シャレになってねーぞ」
「これがシャルの絶対無敵幸せオーラだ。近づくなよ。浄化されるぞ」
「オメェ、ホントはバカなんじゃねェか? でも、アタシらみたいのが触れちゃいけねえもんだって気持ちはわかるぜ」
駄犬と初めての意見の一致である。
「それより、ちょっと話があんだけどよ」
「……なんだ?」
「いいから!」
なにやらもじもじとしながら、やや顔を赤らめたパレイドパグが俺の腕を掴んできた。
腕を引かれ、焚き火から離れた場所へ連れて行かれる。
「ちょっと、耳貸せ」
そう言いながら、強引に俺を前傾させる。耳に手を当ててナイショ話の格好だ。
「その……オメェ、『トアレッテ』はどうしてんだ」
小さな声で、ぼそぼそとそんなことを聞いてくる。
トアレッテ。
「ん? なんだって?」
「ふざけんな、聞こえてンだろ! ……だから、トアレッテだよ」
「トアレッテってなんだっけなー」
パレイドパグがうぐぐと声を詰まらせる。
とはいえ、長い馬車移動に加えて、蜜樹狩りで身体は冷えて暖まって。緊急を要する事態を前に、崩壊は近い。
背に腹は変えられないパレイドパグがやや大きな声で吠える。
「だからッ、トイレだよ、ト・イ・レ! どこですんのか教えろよ!」
「あー、トイレのことだったのかー。それはしかたないわー。ドイツ語って難しくてわからなかったわー」
「いいから、早く教えろよ! も、もれちゃうだろ!」
パレイドパグが内股を擦り合わせながら涙目で訴えかける。ずっと我慢していたらしい。
トレイを指す単語は未修得で聞く相手も俺しかいないとなれば、駄犬なりの乙女回路が働いていたのかもしれない。
「それなら、ほら」
そう言って俺は、背の低い植物群、小低木が生え茂る一帯を指差した。
「お好きな場所でどうぞ」
「お好きなって、まさか――」
「野外」
「はァ!?」
「いや、当然だろう。こんな異世界に仮設トレイが用意されているとでも思っていたのか?」
「ぐぐ……じゃ、じゃあ紙は!?」
「はい」
そう言って、俺は手のひらを上にしてパレイドパグの目の前に差し出す。
不穏なものを感じ取った駄犬がやや震えた声で問い返す。
「……どれだよ」
「左でも右でもお好きな方を」
意味を理解したパレイドパグが顔色を変える。正解。
「でっ、できるわけねェだろうが!」
「できないか? 自分の手でできないなら、俺の手を貸してやろうか?」
「ふぎゃーーー!!」
耳の先まで真っ赤に染めあげた駄犬が目をぐるぐると回しながら叫び声を上げる。
と、そこで後頭部にポカリとグーの衝撃を受けた。
「…………」
「なんでしょうか、シャルさん」
振り向いた先には、拳をぷるぷると振るわせるシャルさんがいらっしゃられた(二重敬語)
駄犬の恥ずかしいひそひそ話は全部聞こえていたらしい。長い耳は伊達じゃないッ!
「……そんな風にパレイドパグさんをいじめたら、ダメです」
「はい」
おこられた。
そうして俺を押しのけ、落ち着かせるように駄犬の手をきゅっと握る。
「あの、これを使ってください」
「……これ、葉っぱか」
「拭葉と呼ばれる木の葉で、裏に肌触りのよい細毛が生えているのが特徴だ。どこにでも生えている木で、この世界ではその葉がトイレットペーパー代わりに使われている」
「なあ!?」
「あとはシャルに教えてもらってくれ。シャル、頼めるか」
「はい、お任せください。パレイドパグさん、こちらへ」
「くぅ……ワーズワード、てめェ、あとで覚えてろよォォォ!」
尾を引く遠吠えを発しながら、駄犬がシャルに手を引かれて林の中によたよたと消えて行く。
その辺、俺は男なのでそんなに困らなかったのだが、女性は色々と大変だ。高度文明下の生活に慣れきった人間がいきなり低文明下で生活するのは簡単なことではない。生活レベルは落とせない。俺がいることでなんの苦労もなくこの世界の言語を習得できたパレイドパグは、今の状況をちょっと遠出のアウトドアか何かと勘違いしている可能性がある。
だが、実際には俺がいなければ排泄行為一つとっても、どうすればよいか迷う有様なのだ。身を持って覚えて欲しいという、そう、これは俺の厳しくも優しい親心……そんな深い慈愛の精神が裏にあることを知れば、駄犬だってきっと考えを改める。
なわけなので、ちょっとからかったくらいで、そんな泣かなくても良いだろうに。
「そうは思わないか、セスリナ」
「うん。サイテーだと思うよ」
ですよね。
◇◇◇
「おい、クソルーキー」
「なんだ」
呼ばれて振りかえると、そこには苦虫を噛みつぶしたような表情のパレイドパグがいる。
「普通にふりかえんなよ、そこは嫌がるトコだろが」
「俺はなんと呼ばれようとそんなに気にしないしな。『世界の敵』、『ナンバー23』、『正義の使者』。好きに呼ぶと良い」
「正義の使者とは呼ばねェよ……」
まあそうだな。どれも実際呼ばれたことのある名ではあるのだが。
ふわりと目の前を横切る源素の光を邪魔そうに払いながら、パレイドパグが俺の傍に座る。
そのつり上がった三白眼な瞳には真剣な輝きが宿っている。そして、すっとある一点を指差した。
「……そろそろ『ソレ』のこと、教えろよ」
「これか」
「ソレだ」
皆には何のことだかややわかりにくい会話である。だが、俺たちにはこれ以上なく、わかりやすい。
パレイドパグは指差す先には、一粒の源素があった。
100カンデラ相当の源素光量を持つ俺に対し、パレイドパグのそれはおおよそ95カンデラ。俺の方がやや明るいが誤差の範囲。
源素の動かし方と図形パターンさえ覚えてしまえば、パレイドパグは俺同様に魔法を扱えるようになる。
そうなれば、駄犬改め魔犬の誕生だ。
魔法のプロフェッショナルである四神殿の上級神官すら無力化し、濬獣だけが使える特殊な魔法であっても、一度その発動図形を見ればすぐさま再現できてしまう、この『源素を見ることのできる視力』は、扱い方を誤れば凶悪な力となる。
犯罪を犯罪とも思わない世界の敵――『エネミーズ16』パレイドパグにその力の使い方を教えて良いものか――
「いいだろう」
「ヘッ、物分かりがいいじゃねーか」
「そうか? お前はお前であんな捨て台詞を吐いたあとで、よくまあそんなお願いができるものだと感心するがな」
「心配すんなって。魔法ってのを覚えた後に、いっそひと思いに殺せってテメェの方から懇願してくるくらいの仕返しをしてやっからよ。キャハハハハハハ!」
「ほう、それは楽しみだ」
「群兜、そこは楽しみにするところでは……」
そんな状況が本当に生まれれば、実際面白いとは思うけどな。
考えるまでもなく、結論は既に出ていた。教えて欲しいといわれて教えない理由はない。
俺の『自重しない精神』は己以外の他者にも適用される。俺は誰のどんな行為も抑制しない。やりたいようにやればいい。全ては自己責任だ。
魔法の使い方を教えるのは問題ない。もしパレイドパグがその魔法を使って、俺の不利益になるような行動をとることがあれば、その時は俺も黙っていないだけだ。
「んで、どうすんだ?」
「そうだな。では、まずは魔法を扱うための基礎、『源素』についての理論から教えようか」
魔法とは大気中に漂い、人にまとわりついてくる習性を持つ光の粒――源素――によって引き起こされる超物理的事象である。
源素は思念あるいは思考により制御可能で、源素同士を接続して空中に図形を描くことができる。これを『源素図形』と呼ぶ。
この源素図形こそが魔法発動の大元であり、その形と使用する源素の種類によって様々な魔法効果を生み出すことができる。
より多くの源素を使った複雑な図形ほど魔法効果も大きく、立体図形であれば、更にその効果は増すということが実証されている。
「源素か。アルカンエイクの野郎は『妖精の粉』ッて言ってるみてェだが」
「命名権があるというのなら、先に名付けられたそちらの名称の方が優先されるべきだろう」
「いや、源素にしとこぜ。実際、粉って感じじゃねーしな。だいたい、あのイカれたマッドハッターの付けた名称なんて、クソ食らえだぜ」
「ファーストエネミーも嫌われたものだ」
「普通に地球上の99.99%からは嫌われてンだろ」
「それもそうだな。では呼び名は源素のままで説明を続ける」
人間の周りに集まってくる源素を『従源素』と呼び、大気中に漂っているだけの源素を『自由源素』と呼ぶ。
従源素は魔法を使うほどに減ってゆくが、時間が経てば自由源素が新たに引き寄せられてきてその光量は回復する。一定時間内での数的制限はあるが、使いきったら終わりという代物ではないということだ。
一度従源素となった源素が自由源素に戻ることはないが、より強く源素を引きつける力を持つ相手が近くにいれば、源素が人から人へと移る現象は確認されている。
また、源素は一粒単位でもその光量を増大・減少させる。従源素となったからといって魔法を使わない限り残り続けるわけではなく、いずれは消えてしまい、消えた分はまだ他から取り込まれるというわけだ。
一定の光量を維持しながら、源素自体は入れ替わっていく。
「そもそもこの源素ってのはどこから発生してるんだ?」
「判然らない」
「そっか。でもよ、使った源素が消滅するってことは、どっかで発生してないとおかしいよな」
「そのはずだ。魔法がこの世界で遠い昔から使われ続けてきた技術体系である以上、消費すれば永久になくなってしまう類のものではないと思われる。海水が雲を作り、別の場所で雨となって再び降り注ぐように、源素もなんらかの再生経路を辿り、いずこかから再び発生するのだろうと考えている。だが――」
「そこまでは判明してないってンだろ。別にいいぜ」
パレイドパグも全ての答えが返ってくることは期待していない。今の状況であれば『源素がどこからどのように発生しているのか判然らない』ことがわかれば十分だ。
理解のために脳をフル回転させ、俺の話に耳を傾けるパレイドパグの姿が目の前にある。
俺の話を理解しうる存在。その上で理論を戦わせることもできる相手。それがどれだけ貴重であるか――『ベータ・ネット』に夜な夜な集まるエネミーズが欲していたもの。
確かに楽しい時間だった。
俺とパレイドパグの会話を横から聴いていたセスリナがふんふんと頷く。鳩が歩くときに首を振るのと同様の、深い意味を持たない行動だろう。
同じく興味深そうに耳を傾けているシャルとフェルナ。目に見えない以上、源素を具体的に理解するのは難しいだろうが、知識として知っておくことは無駄ではない。
「言い忘れていたが、この世界の人間にはこの源素は見えない」
「マジか。テメェらこの眩しいの、見えねェの?」
「はい」
「源素を見ることのできないこの世界の魔法使いは【プレイル/祈祷】と【コール/詠唱】という二つの手順を追い魔法を発動させる。しかし源素の見える俺たちにその手順は必要ない。源素とその動きが見えるのだから、使いたい魔法にあわせ、目視で源素図形を作ってやればいい」
「なるほどな」
「では、実践編だ」
「へへ、やっとか!」
駄犬がギラリと目を輝かせる。
知識を得る講義も大事だが、やはりそれは魔法を使うための前提でしかない。実際にふよふよ浮いている源素が目の前にある状況で、いつまでもおあずけに耐えられる駄犬ではあるまい。
しかし、なんでこんなに目つきの悪い子に育ってしまったのだろう。かわいそうに。
「思っていること全部口に出して喋ってんじゃねェよ!」
「聞こえてしまったか。すまない」
「ハトがどうとかも聞こえてたんだけど……」
「鳩とは平和を象徴する鳥の名で、皆に愛されている」
「わー。それならいいかも」
耳をピコピコ動かして喜ぶセスリナ。それでいいのか。
けむにまく意味もなかったな。
「んでどうやって動かすんだ、これ」
「そうだな。まずは一粒、指先まで動かしてみろ」
実際にやって見せて例をしめす。
浮遊している源素の中から、赤い源素を指先に持ってきて、それを維持したまま右から左へ腕ごと動かしてみせる。
皆の視線が俺の指先にあわせて動く。
「こうか……く、上手く動かねェ。どうやったらそんなスムーズに動かせんだ」
「そこは練習あるのみだな」
プルプルと小刻みに震えてはいるが、全く動かせていないわけではない。最初はこんなものだろう。
「動かせるようになったら図形の構築だ。これは手のひらの上に源素を集めて行うのがよいだろう。例えば【フォックスファイア/狐火】の魔法は赤源素三つと黄源素一つ使った三角錐がその源素図形となる。まずは四つの源素を集めるところからやってみろ」
「ひとつ、ふたつ、うわ、一個逃げた! チクショウ、ふたつ、みっつ……ぐぐぐ……クソッ。ちょっと待て、これすっげェ難しいぞ」
一つ目の源素を持ってきて、二つ目を集めようとすると一つ目の源素がふわりと逃げていく。
身に纏う源素の数だけは十分すぎるパレイドパグなので、手の位置を調整して四つの源素を無理矢理手のひらの上あたりに集めることはできても、そこから必要な源素を維持することができていない。
「一粒の源素に意識を向けすぎだ。同時に四つを制御するんだ。ほら、こう」
上を向けた手のひらの上に四つの源素を集めて、ハイ、正三角錐のできあがり。図形構築まで五秒もかからない。
「いやだから、四つ同時にとか、難しすぎるだろ。それに、どうやってそんなにキッチリなんもねェ空中に源素を固定できてんだ。もっとちゃんと教えろよ」
思い通りに源素を動かすことのできないパレイドパグが癇癪気味に吠えかかってくる。
わからないのは俺の方だ。俺の明快な説明のどこに躓く要素があったのだろうか?
「そんなに難しいことは言ってないと思うのだが……」
「思考系で制御するったって生身なんだぞ、VUI(Virtual User Interface)の感応入力なんかとはわけが違う。源素を動かすには目で追ってかなきゃいけねェし、視線を外したら制御から離れちまう。複数を適当に追っ払うのはできっけど、選んだ源素を空中に固定するってのは、まず二個同時が無理だ」
「ああ、そういうことか。目で追うなんて、そんな面倒なことしてたのか。それだと難しいかもな」
「ちょっと待てよ。じゃあテメェはどうやって、動かしてんだ?」
「まあ待て、状況はわかった。そこから説明しなくてはいけなかったわけだな」
聞いてみないとわからないこともある。目で追うか。言われてみればそのとおりだ。複数の源素を制御するにはこのやり方しかないと思っていたので、逆にそっちを思いつかなかった。
「説明不足ですまなかった。では改めて説明し直そう。まず手のひらの上に源素を集めろと言ったのは、そこを『三次元空間座標の原点』として定義すれば座標を指定しやすいという意味で言ったのだ」
「ハ? ……座、標?」
ぽかんと開いたパレイドパグの口の端からかわいい犬歯が覗く。
「始めは親指の付け根あたりを原点座標(0,0,0)に指定するのが良いだろう。x軸、y軸は地面と並行に。z軸は垂直に立てる。任意の目盛りで周辺空間を座標化すれば、準備は完了だ」
基本はフレミングの左手の法則。右を向いた中指がx軸、正面を向く人差し指がy軸、上を向く親指がz軸だ。
「その上で源素を動かす。『目で追う』のではなく、『座標を動かす』んだ」
説明不足という同じ過ちを犯さぬよう、より噛み砕いた説明を行う。
「正三角錐を形作るには座標空間上に立方体を作り、その対角4点に源素を配置すればいい。一辺を5とする立方体を原点付近に描く。その中の座標位置(0,0,0)、(5,5,0)、(5,0,5)、(0,5,5)を頂点とする。自由気ままに動き回る源素を目で追って移動させても良いが、その方法は非効率に過ぎるだろう。必要なのは浮遊する源素の座標を捉えることだけだ。
漂う3つの赤源素の位置、
R1(6,-13,-103)
R2(9,-6,4)
R3(215,-7,-54)
を捕捉。
黄源素の座標は、
Y1(43,23,61)
か。
あとは簡単だ。
R1(6,-13,-103)→R1(0,0,0)
R2(9,-6,4)→R2(5,5,0)
R3(215,-7,-54)→R3(5,0,5)
Y1(43,23,61)→Y1(0,5,5)
移動元と移動先の二点の座標が出れば、あとは源素を移動させる『ベクトル』を求めるだけだ」
この場合の『ベクトル』とは源素を移動させる方向と移動距離の量を言う。どの方向にどれだけ動かせば、目的の座標に達するか。二点の座標情報を既存の方程式に当てはめて演算すれば、『ベクトル』の解は容易に得られる。
視認、演算、出力。
これが源素操作の基本である。
「浮遊する源素の動きを『ランダムな系』として捉えるから難しく感じるのだろう。視認の瞬間で座標を切り取り、座標が固定された点と線だけの関係に昇華させれば、源素操作の難易度はぐっと下がるはずだ」
というか、俺は最初からそうとしかしてないが。
もちろん方程式に当てはまらない魔法もある。銀の生成魔法なんかがそれだ。数理的でない源素図形を作るには、方程式を利用しない小手先の技術が必要とされるが、基本なくして応用なし。
おおよその魔法は美しい幾何学図形を描くのだから、まずは基本を押さえることが重要だ。
「シャルちゃん、果実水もう一杯ちょうだい」
「はい、セスリナさま。お入れしますね」
隣ではいつの間にかお茶会が再開されている。俺の話に飽きたらしい。ギリギリ持ちこたえているフェルナも、愛剣の手入れをしたくて仕方なさそうだ。まあ、さすがに今話している内容は、源素が見えないのでは理解のしようもない。
一人、パレイドパグだけがわなわなと唇を震わせる。
「……できるわけねェだろうが!!」
んで、吠えた。
「空間を座標化するだぁ!? バカか、現実の世界はネットの中みてェなドットで描画される仮想空間じゃねーんだぞ! 仮に目の前の空間を四角く区切っていったとして、テメェの脳内で引いた目盛りなんかで正確な座標なんて出せねェだろうが! しかもその座標の認識を維持しながら、別の計算をする!? なことできる奴ァ、人間じゃねーよ!」
「えっ」
そんなことをいわれてもな。困惑せざるを得ない。
「そもそもここまでの話は、基本でしかないんだが……例えば、ベクトルを求める際の演算式に三次曲線パラメタを与えてやれば、より美しい軌道で源素を動かすこともできるわけで」
二点を直線でつなぐ軌道ではなく、弧を描き、収束するかのような三次曲線の軌道に乗せて源素を手のひらの上に集めて見せる。
「空間を座標として認識すれば、源素図形はどこにでも作ることができる。原点座標を手のひらの上に、と言ったが慣れればそんな必要もないということだ」
源素を一度散らして、俺の認識する座標空間の第一象限、第三象限、第七象限と、あらゆる場所で【狐火】の三角錐を作ってみせる。
「ほら、簡単だろ?」
【アンク・サンブルス・ライト/孵らぬ卵・機能制限版】の動的図形はさすがに多少難易度があがるが、直線移動程度は基本の基本。なにも難しいことではないはずだ。
言葉を失う駄犬。
一瞬の空白。その後、色のない平坦な声でパレイドパグが小さく呟いた。
「……ロジカルモンスター」
ああ、『ベータ・ネット』ではそんな呼ばれ方もしていたな。
これがワーズワードさんの源素操作方法です。
おわかりいただけましたでしょうか。