Jet-black Juliette 03
ついにやってきました南の法国。都合五度の『大脱出』で抜けることができたので、直線距離で一〇キロを少し超えたくらいの幅があったらしい。
久しぶりに馬車を降りたパレイドパグが、くぁぁぁぁと大きな伸びをした。
見渡す限りの草原には青々とした牧草が茂り、鞍を外された馬たちもやっと自由なお食事タイムである。シーズは先に泥を落とすことを選択したらしい。小川の上でパシャパシャと踊るように飛び跳ねている。それは『オルタリア川の大湿原』を水源とする清らかな小川だった。見通しの良い広い草原と清涼な小川。そして傍には雨を避けられる背の高い木々も生えている。咲き誇る花々は赤青黄色のグラデーションで目を楽しませ、木々が作り出す優しい木陰は旅人たちに一時の休息を与えていた。
本日の目的地点まで着いたので、早い時間だが今日の移動はここまでだ。
もう少し先を急ぐこともできたが、馬車に不慣れなパレイドパグの尻がそろそろ限界だろうしな。ちなみに俺の尻はとっくの昔に限界を超えている。
俺は視線を後方へ向け、あの広大な湿原を思い起こした。
「雨の降る季節はあの広大な地域が全て水で埋まるのか。オルタリア川の『大』湿原というに異論ないな」
その光景も一度見てみたいものだ。ここまで通ってきたいくつかの高台は波打つ水面に点々と浮かぶ小島となって、空を映した青の風景の中に溶け込むのだろう。
「ミゴットさまが言ってたよ。聖国と法国の間に大きな戦争がないのは、誕生を司る従神・皇燐拿珂さまがあそこに寝そべっているからなんだって」
「オルタリアというのは神の名なのか」
「そうだよ。おっきなヘビなの!」
腕を広げて、何かを表現しようとするハタチの娘。
こいつ、他人行儀だったときにはまだしも大人として見られようと頑張る気概があったはずだが、友人相手にはどこまでも幼稚化してゆくな。
「フェルニの村が聖国に属しているのもそれが理由になります」
と、これはフェルナ。
「間にニアヴ治林があろうと、行くことのできない法国よりは聖国の方がいいわけか」
「はい。もちろん、村から近いユーリカ・ソイルが大都市であるということが一番の魅力なのですが。ですから、ニアヴ治林の通行を許して頂けているということが、私たちの村にとっては本当にありがたいことなのです」
「ニアヴが気のいい狐でよかったな」
「はいっ」
うん。いつも通りの元気なシャルだ。
「うわッ、こっちくんな!」
と、少し離れたところにいたパレイドパグが声を上げた。
いつの間にか、頭に赤い花弁をつけた花かんむりを載せている。
「なんだ、それは」
「う……こんな花がいっぱい咲いてるトコなんて初めてだからよ。ちょっと作ってみたんだ。……どうだ、似合うか?」
花かんむりの向きを直しつつ、パレイドパグが上目遣いに聞いてくる。
なにを純真な少女のような遊びをしているんだ、このサイバーテロリストは……
「パレイドパグさん、すっごくかわいいですっ」
「わたしもそれほしいっ! ねね、パグちゃん、それの作り方教えて!」
「私もお願いしますっ」
シャルとセスリナがパレイドパグの元へ駆け寄る。
駄犬の昨日の暴れっぷりを知っているはずの二人だが、特にパレイドパグを敬遠している素振りはない。
二人が恐れ知らずなのか、パレイドパグが舐められているのか。
まあ『アイシールド』のないこの異世界においては、『エネミーズ16』・パレイドパグといっても、無力な一個人でしかない。
魔法の使い方を覚えたらどうなるか判然らないので、今のところは、という付帯条件付きであるが。
「それはいいんだが、なんださっきの叫び声は」
「それだよそれ! 虫! さっきからアタシを狙って飛んできやがんだ! ぎゃー、また来た!」
見ると、パレイドパグの周りをやや大きめの羽虫がブンチャカブンと飛び回っている。
パレイドパグというよりは、その頭の赤い花かんむりを狙っているようにも見える。
「あー!」
そんなパレイドパグを指さして、シャルが大きな声を上げた。
シャルがこんな大きな声をあげるのは珍しい。
「樹翅!」
「キラ? なんの名前だ」
指をさしたままこちらに振り返る。
興奮したように、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「あの、とんでる虫です! 樹翅っていうんですっ」
黄色と黒の縞模様を持った羽虫である。
キラという固有名詞で脳内データベースに登録してもよいが、意訳をすればハチ、だろうか?
「あのっ、樹翅は花の蜜を集める虫で高い樹の上に巣を作るんです、その樹を蜜樹といいまして!」
やっぱりハチだった。
「私ちょっと探してきますっ」
「おい、シャル――」
呼び止める暇もなく林の方に駆けてゆく。その速度たるや、飛ぶ鳥のようだ。
「なんだ、ありゃ?」
パレイドパグも呆然とその後ろ姿を見送る。
「よくわからないが追いかけよう。フェルナ、いくぞ」
「……はい」
なぜかフェルナは青ざめていた。
◇◇◇
林といっても、草原の中で背の高い木々がひとかたまり群生しているだけの小さな癒しスポットである。リスや野ウサギ程度の小動物はいるだろうが、トラやクマのような大型の猛獣がいないことは外から見てわかる。
危険性は少ないため、ゆっくりと林の中を進む。
「シャルー」
「シャルちゃーん」
声を出して歩いていると、ある一本の樹の下で、凝と頭上を見つめる青い頭が見えた。
「シャルちゃん、発見!」
「…………」
そんなセスリナの声も今のシャルには聞こえていない。
近寄って同じく頭上を見上げると三メートルほど上の幹を飛び回る羽虫が見える。
「あのあたりに巣があるようだな」
「ワーズワードさん」
興奮した面持ちで、シャルが俺の服の裾をぎゅっと握ってくる。
こんなシャルの様子を見るのは初めてだ。
「お願いします、蜜樹を採ってください!」
「蜜樹?」
「すっごく甘くて、すっごくおいしくて。私、蜜樹のためなら、なんでもしちゃいますっ」
「女の子がなんでもするとか、あんまり言わない」
そこはそっと窘める。
精神的にはセスリナよりよほど大人のシャルが、歳相応の子供のようなおねだりの仕草。このキュンキュン視線でおねだりされて、拒絶できる男性はそうはいないだろう。
「私も蜜樹パン大好きなの。こんな樹からとれるんだ。知らなかったー」
「……樹翅は巣の中に花の蜜が蓄えます。『蜜樹』は樹の名というよりはその甘い蜜そのものを指し、都でも貴族様向けの高級菓子に使われる最高の贅沢品です。そのため、樹翅の巣――蜜樹を探す『蜜樹狩り』は村の子供たちがよくやる遊びにもなっています。もし森のなかで蜜樹を見つけることができれば、村に臨時収入という大きな潤いを与えてくれますから。但し、樹翅はとても凶暴で巣に近づく者を容赦しません」
説明不足なシャルの代わりにフェルナが説明を加えてくれた。
見つけた子供たちは、発見の対価に極上の甘さを得られるのだろうと言うところまではなんとなく想像がつくな。
改めてシャルに問いかける。
「好きなのか?」
「蜜樹が嫌いな女の子なんていませんっ」
力強く肯定されてしまった。
たしかに蜜樹――ハチミツの甘さは、一人の女の子を魅了するのに十分なものだろう。
謙虚なシャルがこれほど我を主張することはこれまでなかった。それは彼女自身の性格もあるだろうが、それ以上に俺という他人に対する距離感があったためだ。
その距離感の変化を俺は素直に嬉しく思う。
わがままを言ってもらえることが、嬉しい。
「勿論なんの問題もない」
「ありがとうございますっ」
「少し待っていてくれ。じゃ、頼んだぞ、フェルナ」
「は……っ」
俺は隣に立つフェルナの肩をポンと叩く。
頼まれたのは俺だが肉体労働はフェルナの役割だ。群兜と紗群は一心同体がこの世界の常識である。
その肩からフルフルと小刻みな振動が伝わってきた。
ん?
ズザザっとフェルナが距離を取る。その端正な顔が恐怖に青ざめている。
「それだけはお許しを! 樹翅だけは……樹翅だけはダメなのです!」
「どうした。ただの虫だろうに」
「樹翅はただの虫ではありません。人を刺す悪魔の虫なのです!」
「ハチだしな」
「ワーズワードさん、フェルナ兄さんは昔樹翅に刺されたことがありまして……」
「私は三日三晩生死の境を彷徨い、四日目に目覚めることができたことを宝樹・ヰに深く感謝いたしました」
「三日寝こむって、どんだけ刺されたんだ、お前は」
それでトラウマになっているわけか。
過去に死にかけるほど刺されたということは、次に同じ刺激を受けたとき、液性免疫の過剰反応に基づく即時型アレルギー反応、別名アナフィラキシー・ショックを引き起こす可能性がある。
「そういうことであれば、無理強いはできないな。よし、ではここは俺がやってみよう」
「申し訳ありません」
「気にするな。足りない部分を補い合うのが紗群というものなのだろう。それを教えてくれたのはお前だったはずだぞ、フェルナ」
「群兜……」
さて、自分でやるといった以上、方法を考えないといけないな。俺だって刺されたくはないのだ。なるべく安全な方法を考えたい。
「面白い話になってんな。どうすんだ、ルーキー」
「それを今考えている。お前はなにかいい方法を思いつくか?」
「ハチだろ? 煙で燻せば仮死状態になるってのは聞いたことがあるぜ」
「煙か。火をおこすのは簡単だが、高所にある巣穴までその煙を誘導するのは難しいな」
「んじゃ、その火で直接焼き殺しちまうってのは?」
「それでもいいんだが。たかがハチとはいえ、ここでは貴重な生き物らしい。なるべく殺さずに、中の蜜だけを頂きたい」
「……そういう誰も気にしてねェところまで無駄に考えてンのがてめェらしいよな」
「どういう意味だ。だが、仮死状態にするという案は悪くない。その方向で一つやってみるか」
「なんだ、結局テメェで思いついてんじゃねーか」
方法を思いついたといっても、やってみてうまくいくかはまた別の問題である。
全てはトライアンドエラー。やってみてダメなら次を考えよう。
「ハチには確かに煙を吸い込むと仮死状態になる習性がある。しかしそれをいうならば、昆虫全般が持つ弱点がある。気温の変化――『寒さ』がそれだ。昆虫は一定以下の温度になると急速に活動を停止し、仮死状態となる。温度が戻ればまた活動を再開する」
であれば、使える魔法が一つある。
氷に属する魔法はどうしてもその遣い手のことを思い起こしてしまうので、あまり好きではないのだが、それが最適解であるならば自重する理由はない。
青源素x5、白源素x1――
青い六角柱の中に白源素を一つ閉じ込めた【マルセイオズ・フローズン・アックス/水神氷斧】の魔法図形を一段階崩した形。青い四角錐の中に白源素を一つ閉じ込めれば、それは別の効果を発動する魔法となる。
【水神氷斧】が圧倒的な質量をもつ氷塊で一点集中の破壊力を生み出す単体魔法であるならば、これは氷点下の冷気を広く拡散する範囲魔法である。
「皆、魔法の効果範囲に入らないように下がっていてくれ」
無音詠唱――俺の手中に一本の青白い氷の矢が出現する。
「わわ、それって【マルセイオズ・フロスト・ボウ/水神霜弓】の魔法! なんで使えるの!?」
「何故と言われても、街にいるときに見て覚えたとしか答えようがないが」
氷系ではあと、氷の刃を生み出しその刀身で触れた対象物を凍結する【マルセイオズ・フリージング・ソード/水神凍剣】の魔法も習得している。御存知の通り、これはフェルナの愛剣にお試しで付与してみたものだ。
蜜樹を中心に置いて、キリキリキリ……と見えないつるを引き絞る構え。
魔法で生み出された矢を引き絞る行為に意味があるのかと聞かれると答えにくいが、これもまた魔法発動の様式美だ。
蜜樹の幹を標的として、解き放つ。
風を切って進む矢からは既に極寒の冷気が迸り始めている。
カツンと幹に突き刺さると、矢は脆いガラスのようにパキンと音を立てて細かく砕けた。
そこを中心に急速に周囲の気温が下がり始める。中心点たる樹皮は凍りつき、幹を伝った枝葉には霜が降りる。そして、空中にはキラキラと輝くダイヤモンドダストの粉を散らす。地面にも白い霜柱が出現し始め、俺も寒くて死んでしまいそうになる。極小範囲を指定したはずだが、効果範囲の設定難しいな、この魔法。
「うおお、寒ィ!」
「俺もだ。もっと下がった方がいいな」
実際、いやー今年も寒くなってきましたなー、などと談笑していられるような生やさしい温度変化ではなかった。
いきなり冷凍庫の中に放り出されたような、事象の書き換えとも言うべき急激な温度変化だ。
巣の周りを飛び回っていた樹翅が一匹また一匹と大地に落ちてゆく。
虫に限らず、低温下でまともに活動できる生物は少ない。人間とてその影響を免れない。影響を免れないわけだが、それでも虫よりはよほど長い時間を活動できる。
「うまく行ったようだ。空中でこれだけの効果があれば、幹に作られた巣の中で動けるものはいまい。樹翅が活動を弱めている今のうちに蜜樹を頂いてしまおう」
周囲は確実に水の凝固点である零度を下回る気温であるが、糖度の高いハチミツ(=蜜樹)は零度では凍らない。その凝固点はおおよよマイナス二〇度。巣の中で凍り固まっていることはあるまい。
「これも魔法の力だってのかよ……信じられねェことばっかで、頭がどうにかなっちまったみたいだぜ」
「ワーズワード様を見ていると、魔法を司る四神殿の存在がいかに重要か、思い知らされます。この力は、確かに管理されるべき神の御業」
俺的には四神殿もどうかと思うけどな。
「うう、寒いよう。ねね、毛皮の外套も魔法で出して」
「そんなもんは出せん。魔法をなんだと思っているんだ。他のやつならともかく、お前がそれをいっちゃイカンだろ」
「えー。でも、これだけの魔法が使えるなら、やってみたら実は出せそうじゃない?」
「確かに」
「同意するな、フェルナ」
さすがにそこまで魔法は万能ではない……に違いない。俺もまだ魔法の深淵までは知っているわけじゃないので、毛皮のコートを生み出す魔法が本当にあったとしたら、そのときはごめんなさいだ。
「そんなことよりも今は蜜樹ですっ」
「アッ、ハイ」
この寒さの中、たった一人のブレないシャルさん。
そのお言葉に従い、粛々と作業を進めることにしよう。俺もたいがい薄着なので、長い時間は動けないしな。
◇◇◇
『人間排除のシステム』――それが濬獣だ。
だが――
俺はあえて自分が構築した理論に反論を唱えよう。
濬獣は自我を持ち、自分自身の矜持で自治区を治めている。俺が仮説として提示した人間排除という至上命令すら持ち得ていない。
もし濬獣を『人間排除のシステム』として生み出するならば、そこに自我は与える必要はない。そんなものはむしろ邪魔だ。反射的に人を排除するだけの機能を持たせるだけでいい。人型である必要すらない。
……そうではない。
そうでない理由として、実際に濬獣というシステムは今も生きて、効果を発揮していることが挙げられる。多くの源素を従えて、死んだら代替わりするといったその転生的なシステムだ。そもそも地球とこの世界とを繋ぐ特異点の存在にまで辿り着いた大昔の天才様なのだ。そんな単純なミスは犯さないだろう。
その誰だかは今の濬獣の在り方こそを正として『濬獣』を生み出した。そう考える方が妥当だ。
しつこいな、そうではないと言っているだろうに。
確かに源素を目で見ることができ、魔法の力を自由にできる地球人は危険だ。低い確率であっても極力接触の機会は避けるべきだ。
だが、全ての接触が悪ではない。人と人との出会いは、ときに魔法以上の奇跡を起こす。『少年が少女に会う』、それは俺の世界では新しい物語の始まりを指す言い回しの一つだ。
異世界との接触それ自体は可能性の塊だ。接触後の良し悪しをこそ判断すべきなのではないだろうか。
たとえばの話、出会いの奇跡によって、世界最悪の犯罪者がたった一人の少女のために、命をかけて行動することもあるかもしれない。
そんなことはありえない?
そうかもな。
同じ地球出身の俺だから判然るというのは言い過ぎかもしれないが……その誰だかはきっと委ねたのだろう。
特異点たる『濬獣自治区』を治める濬獣は、世界と世界が接触するとき、必ずその場に立ち会うことになる。その接触が世界にとっての善となるか悪となるか――それを見定める役目を我が子に委ねたのだ。
『世界』なんて曖昧なものだ。その認識は人により千差万別。そこに絶対の定義はない。だから濬獣が必要なのだ。
永い時間を生きる濬獣は既に世界の一部だ。それでいて、考え、苦悩し、怒り、笑い、そして泣く――濬獣は、この『世界』に住まう全ての人々の代表だ。
『世界にとって』はなく『お前にとって』の判断でいい。善も悪もお前自身の『秤』に載せて推し量れ。
思い返せば、お前は俺を相手にその通りのことを実践してみせたじゃないか。お前の行動は何一つ間違っていなかったんだと、俺はそう思うぞ。
濬獣とは何者であるのか?
改めて俺の認識を答えよう。
俺とお前は何一つ変わらない――濬獣は人間だよ。