Jet-black Juliette 02
一歩を踏み出した足あとが地面に残る。そんな、水分を多く含む柔らかい地面だ。近くの湖沼から鳥の一群が空に飛び立ち、アォアォという高い鳴き声を振りまきながら上空を旋回した。
背の高い葦科の植物が多く生え茂り、進む先の視界を遮る。強引に進めば、突然の底なし沼に足を取られて身動きがとれなくなってしまうのではないかという不安に駆られる。そうでなくとも、水棲の猛獣とばったりご対面などという事態は避けたいところだ。
葦の草むらの続く範囲は広大で、視界の及びうるその果ての更に向こうまで続いていた。
「素晴らしい自然の景観だ。そのオルタリア川自体はここからでは見えないが、もっと先を流れているのか?」
「雨の少ないこの季節、川は地面の下を流れますので、地上からは見えません。逆に言えば、川がなくなる今の時期しかここを越えることはできないということです。多くは天候に左右され、一年を通してもこの湿原を越えることのできる期間はとても短いのです」
「だからこその国境線か」
国と国を隔てる国境線には関所や国境の街が形成されるものだが、このあたりの粘土質の地面はそもそも人が住むに適していないのだろう。人が通れない場所を国境線と定めることは、とても理に適った考えだ。人の侵入を許さない濬獣がいなくとも、天然の要害は人を遠ざける。この『オルタリア川の大湿原』もそのような場所の一つだ。文明が発展してゆけば、貴重さを増してゆく手付かずの自然と豊富な水資源である。これからも人を寄せ付けないままで残してゆくべきだ。まあこちらの世界の人間はこういう貴重な自然よりも、アート・アーティファクトだ、マジック・アーティファクトだのと言った過去に作られた人工物の方を高い評価で保護しているわけなのだが。
「私たちフェルニの村の者であれば、固い地面を続く場所を知っていますので、徒歩であれば進める道をお教えできるのですが」
そこで、フェルナがシーズに視線を向けた。
「まあ、無理だろうな」
俺はフェルナに同意を示す。
通常の馬の二倍の体躯を持つ六足馬。体重の方は二倍程度ではおさまらないだろう。シーズ一頭だけならば空間湾曲魔法と野生の身のこなしでこの湿原を超えられるかもしれないが、俺たちが乗る超重量の馬車を弾いて移動するのはさすがのシーズでも無理だろう。
いや、本人に確認もせずに決めつけてしまうのもよくないか。
もしかして行けたりするのかな?
「……(フルフル)」
俺の期待の視線に首をフルフルと振って答えるシーズ。頭の良い子である。それはそれとして、やはり無理か。
視線を動かすと御者くんと目があった。
……。
互い、会釈。
「どんな状況でしょうか、ワーズワードさん」
とその後ろ、シャルが馬車の窓からひょっこりと顔を覗かせた。
足下が足下なだけに、女性陣には馬車の中に残ってもらっていた。シャルは申し訳なさそうにしながらも、自分がお姫様のように扱われていることが嬉しそうである。
パレイドパグは車輪がグチャグチャと泥を踏む音だけで、味のないオートミールをかみ締めるような表情を見せていたので、降りろと命令したところで絶対に降りてはこないだろう。
湿原に入り、いくらか進んだところで隊列が止まってしまったので、状況を確認するために俺とフェルナの二人で外へ出ている状況だった。
「聞いてみるので、ちょっと待ってくれ。バミューズ、こちらに来てもらえるか」
列の前方で騎士たちから報告を受けている様子の騎士隊長の名を呼ぶ。
ビクリと背筋を伸ばした騎士隊長サイエン・バミューズがガシャガシャと鎧を鳴らして、俺の許へとかけてきた。
彼らが俺のことをどう見ているかは知らないが、上官であるサリンジが俺に絶対服従の友好関係である以上、彼らも俺の呼びかけを無視するような無礼は働かないだろう。
「お呼びでしょうか!」
「どんな状況だ」
「はッ……ぬかるみに嵌った車輪は動かせたのですが、先の道で少し問題がありまして」
歯切れも悪く、バミューズが視線を彷徨わせる。
「それはそうなのだろうが。お前達はこの湿原を超えてあの村まできたのだろう。同じ順路で戻ればいいだけじゃないのか」
「ええ、そのつもりでした。来るときには土地の者に案内させ、馬車の通れる道を進んで来たのです。それでも馬車が進むのが難しい場所は馬を下り、車輪に木板を噛ませ、丸一日がかりで渡ったということでして」
と、そこで道のさらに前方を偵察していたボウズの副官が丁度戻ってきた。
「どうだった、アメルージャ」
「はっ。確認して参りましたが、やはり目印として設置していた木板がなくなっておりました。少し先までであれば進むことも可能ですが、その先はどうにもなりません!」
「ぬう、これは困ったことだ」
「どういうことだ?」
「……今も説明しました通り、来るときには土地の者の案内をつけて、路順の難所や分かれ道に木板を立てて目印としておいたのです。が、どうもそれがなくなってしまっているようで」
ふむ。進む道がわからないということか。
「その案内人はどうしたんだ?」
「一度通り道を覚えてしまえば、帰りは問題ないとのダートーン卿の判断に従い、湿原を渡りきった時点で別れております」
「目印に使った木板というのは、どういったものだったんだ?」
「これこれ、こういった長さのどこにでもある板きれだったかと。案内人が用意したものです。道はあっても馬車がぬかるみに嵌って動けなくなった場合につかうのだと。それはよくあることなのだと話しておりました」
腕を広げて、形状を伝えるバミューズ。淀みのない答えである。
俺はなんとなく嫌な予感を覚えながら、最後にもう一つ質問を重ねる。
「なるほど。では、契約を切られた案内人がその木板を回収しながら帰っていった可能性は?」
「!」
「!!」
……二人揃って、面白い顔しやがって。その発想はなかったといわんばかりのビックリマークを頭上に浮かべるんじゃない。
脳筋なのか単純にアホの子なのか、いい加減にしろよ法国騎士。
肩を震わせる副官。確かアメルージャ・ベルベリット・ダーバンだったか。
「おのれ、だから、薄汚れた獣人など信用できぬと言ったのだ! 次に会ったら、突き殺してくれる!」
怒りも露わに足を踏み鳴らす。泥が飛んでくるからやめろ。
それを深い青色をした鬚をグワッシグワッシと撫でつけながら、バミューズが窘める。
「やめておけ、王に捧げた神聖な槍が下賤の血で穢れるだけであろう」
その窘め方はやや斜め上だったが。
自分の商売道具を持ち帰っただけで突き殺されるとか、法国の獣人さんは大変だな。
「どっちにしても、湿原を越える方法がないということか」
「も、申し訳ございませんッ」
トーンを落とした俺の口調の中に怒りを感じ取ったのか、二人がやや青ざめた表情で後ずさる。
いやいや。
「怯えるな。俺は状況を確認しただけだ。お前たちはちゃんとその役目を果たしているのだから、俺が怒る理由はないだろう」
「そうなのですか」
俺の言葉に安堵の吐息を落とす騎士二人。
視線を二人の奥に移せば、サリンジが馬車の車輪を執拗に蹴っている。もし車輪を蹴る使命を持って生まれてきた人間がいたとしたら、あんな感じなのだろう。
俺もあのように怒り狂っていると思われたのだとしたら、その考えは改めて頂きたい。
サリンジとは違うのです。
「状況は理解したので、前向きに対応策を検討しよう。来たときと同じ道が無理なら別の道を通ればいい。それだけだ」
目的地へと至る道は一本ではない。一つダメだったから全てダメという諦めこそが愚の骨頂である。
「わかりました、群兜。ここオルタリア川の大湿原を迂回するルートはかなりの遠回りとなってしまいますが、私が道案内をしましょう」
「いや、フェルナ。そんな面倒を選択するつもりはない。来た道を通らずに湿原を越える最速のコースを進む。それが俺の案だ」
「ですが、それは……」
「無理です! 真っ直ぐ進んで通れる場所ではないのですぞ!」
俺がこの湿原の厳しさを知らず無茶を言っていると思ったのだろうか。
であれば、フェルナもバミューズもまだまだ青い。いや、髪の色ではなく。
「目に見える道ばかりが道ではないだろう。お前達は忘れているのか、俺が誰なのかを」
黄源素x1、赤源素x1、白源素x3、緑源素x1、青源素x1――
源素はなるべく大きいものを選ぶ。発動半径は少しでも大きい方が良い。
七つの源素を制御し、動きを持つ動的図形を作り出す。光のラインでつながる七つの源素は円となり、クロスし、立方体へと変化し、波を作り、また円へと戻る。
発動する魔法はもちろん、
「――隔絶せよ【コール・アンク・サンブルス・ライト/孵らぬ卵・機能制限版】」
「お、おおおおお――ッ」
バミューズが咆吼を上げ、副官のアメルージャは驚きに泥土の上に尻餅をつく。
彼らにとって俺の使う魔法は何度使って見せても驚きを隠せないものであるらしい。
生み出された幻虹の輪の中には、俺たち全員と一台の馬車が含まれる。まあ確かに昨晩出してみせたものより、かなり巨大ではあるか。大きさで言えば、半径10メートルほど。俺としても新記録である。
そうして、俺は静かに提案の続きを口にした。
「バミューズ、それにダーバン。ここから見える直線の先、高台になっている場所が見えるな。今からお前達をそこに『飛ばす』。向こうで周りの安全を確保しておいてくれ。しばらく経ったら【パルミスズ・マインド・ネイ/風神伝声】で連絡を取る」
「な、はあ!? お、お待ちを!」
待たないんだな、これが。
虹の円環がゆるりと解け、五色のレインボーロードとなって、一直線に湿原の中を伸びて行く。道の前の方で車輪を蹴り続けていたサリンジがピギィという子豚のような叫び声を上げ、伸びて来た魔法の帯を避けるべく泥沼に飛び込んだ。
限界まで伸びたレインボーロードが緑一色に輝く。
「では行ってこい」
効果発動――『大脱出』。
検証済みの転移可能距離は1キロ程度だが、今の大きさであれば、もう少しくらいは伸ばすことができるだろう。
もしかしたら高台の少し手前までしか届かないかもしれない。深い沼の上が出現ポイントになってしまうかもしれないが、その時は慌てず急いで鎧を脱げば沈んでしまうこともないんじゃなかろうか。仮に沈んでしまっても残りライフはまだ十四機ほどあるので安心して欲しい。
「な、ん――」
「お助け――」
バミューズは顎を大きく開いて硬直したまま。アメルージャは泥土の上を這い逃げる格好のままで。その姿が俺たちの目の前から瞬時にかき消えた。
「…………」
「はわわわわ」
振り向くとフェルナとシャルが同じような顔で俺のことを凝視している。兄妹だから似ていて当然だな。
俺はにこやかな笑顔を二人に返す。
「二人を先に飛ばして、転移先の安全を確かめさせる。安全が確認され次第、順次皆を馬車ごと『大脱出』の魔法効果で移動させる。そこからまた次に転移できる場所を探して進んでゆけばいい。目に見える道ではなく魔法でつくった虹の道を進めば、最短最速で湿原を越えられる。これなら道を迂回する必要はないだろう?」
ブルルッとシーズが一声鳴いた。青い大きな瞳がやや喜びに輝いて見えるのは、この湿原の中を走らなくてもよいのだと理解したからかもしれない。シーズだって女の子なのだ、綺麗なその足を泥に汚したくはないだろう。
そんな中、フェルナが皆の気持ちを代弁するように、喉の奥から声を絞りだした。
「……そんな方法、ワーズワード様以外の一体誰が思いつくというのです!」
◇◇◇
濬獣の誕生に地球からの転移者が関わっている。
地球とマルセイオ。この二つの世界は完全に断絶した異なる世界ではなく、両者の長い歴史上少なからずの関り合いをもって今日まで来たのではないだろうか。
関わり合いと言っても、極稀に世界がつながってしまう偶発的事象が発生していたのではなかろうかというくらいの話だが。
例えば、俺の世界の古い書物には『深い森には人とおなじ姿をした妖精が住んでいる』と書かれている。
人の姿をしているならばほ乳類なのだと仮定しよう。だが、地球の分類階級ほ乳類に属する4856種の生物の中にエルフの名は見つけられない。仮定を捨てて、は虫類昆虫類鳥類に魚類と両生類も含めたところで、そんな生物は発見できない。
民間伝承――勿論人は空想でも妄想でもそれを文字に残すことができる。
もともとないものを書き残しただけだと言われればそれまでなんだが。
だがもし遠い過去に、実際にこの世界に住む耳の長い人々の姿を目にした誰かがいたのだとしたら――それを人と同じ姿をもつ、それでいて人ではない『妖精』なのだと認識したら――それは空想でも妄想でもなく、本当にあった出来事を記した書物だということになる。
同じく、俺はこの世界では失われたという『魔法付与』を再現させたが、それは源素を見ることのできる地球出身の人間であれば、案外簡単にできることなのではないかとも思う。
ときに開かれる異界の門。二つの世界は関わりあっていたのだろう。だがそれは金箔よりもなお薄い、いつ開き、いつ閉じつとも知れない希薄さ。そんな薄い関り合いが、その後現れた濬獣により完全に失われたのだと考えれば、色々と納得も行く。
源素の見えない濬獣には『ティンカーベル』は識別できない、ならいっそのこと全ての人間を近づけなければいいじゃない的な発想なんだとすると、その大雑把かつ現実的な発想には脱帽だな。
確かめようもない過去を想像する――これが考古学の面白さというやつだろ。
獣の特徴を持つ強大な魔法の使い手。老いのない肉体。それに、死んでも代替わりするという不思議な生態。
ここまでの説を真だと仮定した上で『濬獣とは何者であるのか?』を問うならば、俺はこう回答することになる。
二つの世界を断絶する目的で人工的に生み出された『人間排除のシステム』――それが濬獣だ。
そういえば2章でオルドさんがニアヴさんのことを『世界の秤』と言っていましたね。
(誰も覚えていないフラグを思い出してもらおうと必死の作者)