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ななしのワーズワード  作者: 奈久遠
Ep.6 転移者たちの弁証法
68/143

Packdog's Paradox 12

 『否定の否定の法則』――それは、あるひとつの意見テーゼについて、その否定アンチテーゼを繰り返すことで内在する矛盾を超克し、最終的に『他から否定される矛盾のない、より高次の統合的見地アウフヘーベン』へと昇華させるらせん的弁証手法だ。

 例えば、「散歩に行こう」という意見があったとする。

 そこに「雨が振ったらどうするのか?」という否定意見をあげる。

 否定意見に従えば、「散歩に行かない」という選択になるわけだが、そこに「傘を持って行けばよい」という否定を重ねる。

 否定の否定を繰り返したことで、その内容は元の意見と同一でありながら「傘を持って散歩に行こう」というより高次ものに置き換わるというわけだ。

 否定の否定という言葉だけを聞けば、粗探しや批判的な攻撃手法だと受け取られがちだがそうではない。


 否定の否定――二重否定とは即ち『肯定』を指すのだから。


 脳内思考を擬似人格単位を分割し、個別の意見を戦わせるパレイドパグの思考手法は、奇しくも――あるいは意図してか――同じ独国ドイツ生まれの偉大な哲学者、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの唱えた弁証法に従ったものである。

 

 

 何もない宙空に人影が現れた。

 バサバサバサと枝葉を鳴らして、数メートルの高さから落ちてくるが、その着地はほとんど音のしない静かなものだ。

 俺の生み出した【フォックスファイア/狐火】の明かりに照らし出される人影は二つ。


「はい、到着~」

「くっふっふっ……残念じゃったな! わらわの【オウル・オール・ノウン/梟知全知】とアラナクアの【ラビット・ステップ/禹歩跳躍】を合わせれば、何者もこの手より逃れること叶わぬ!」


 なにその合成魔法、カッコイイ。

 1キロ程度の距離では、3分も稼げなかったらしい。


 ニアヴの声を聞き、楽しい脳内考証に逃避していた俺の意識が戻ってくる。

 

 俺はこちらの世界でひとりきりの怖さに怯え、愛しの彼女に会えない寂しさを感じていた。

 パレイドパグは自分の住む世界よりも俺を選び、どうやったのかは知らんがアルカンエイクの技術でこちらの世界に渡ってきた。

 俺はパレイドパグを愛しているので、彼女に危害を加えることは絶対ない。

 そして、パレイドパグの目的はそんな俺をアルカンエイクの魔の手から俺を護ること。

 今始まる、レッツ二人の新天地――

 

 それが俺の能力限界108並列思考でもツッコミ切れない駄犬的統合見地パグズヘーベンであるらしい。

 喩えようもない無気力感に、ガクリと膝が折れその場に崩れ落ちる俺。

 

「きゃ……順番が違っ、先にキス……って、なんだてめェら、いつからそこにッ!?」


 俺よりワンテンポ遅れて現実に戻ってきたパレイドパグが、やっと目の前にいる狐と兎に気がついた。

 駄犬の胸元を掠める軌道になったのは偶然です。

 そんな俺の姿に、嬉々と俺を追い詰めにきたはずのニアヴの顔色が変わる。


「小娘、お主ワーズワードに何をしたのじゃ!」

「ナニって、まだなんもしてねぇし!」

「まだじゃと? ではやはり、ワーズワードを狙っておったのじゃな!」

「ね、狙うとか、バッカじゃねーの!?」

「その動揺が何よりの証拠じゃ。申し開きがあらば聞かぬでもない……じゃがまずはそやつをこちらに渡してもらおう」

「ハァ、なんでてめェに渡さなきゃいけねぇんだ」


 俺の身を案じてその身柄を取り戻そうとするニアヴと、胸の中に俺の頭を抱きかかえたまま離そうとしない駄犬のキンキン声。その会話は全く噛み合っていない。

 

 ここはさすが世界の敵になるだけの『ウイルス作成者ヴィレン・シュライバー』というべきか。

 盗聴魔法パルミスズ・マインド・ネイを仕掛けた俺に、逆に侵喰してくるこの狂気オトメゴコロ

 精神攻撃は基本だとしても、カウンタートラップに引っかかるなどハッカーとして二流すぎる。

 俺はパレイドパグの評価を一段上げると共に、自己の評価を一段下げることにした。

 

 あとで……あとでちゃんと否定の否定じゃない完全否定をしてやるから今は少し休ませてくれ……

 思った以上のダメージに俺の意識は強制シャットダウンへと向かっていた。



 ◇◇◇



 マルセイオ大陸に四雄あり。

 高い国力と広い国土を持つそれらの国は大紗国ドルク・アルスと呼ばれる。

 大紗国はそれぞれが覇者である証として四方位名を冠して国号とする。

 即ち――


 『北の聖国ラ・ウルターヴ


 『南の法国イ・ヴァンス


 『西の光国ロス・アロニア


 『東の皇国ニ・ルーワス


 である。

 それ以外に四雄に属さない独立国家がいくつかあり、それらは小紗国リント・アルスと呼ばれていた。

 小紗国は興亡を繰り返しその数は一定しないが、今は七つの小紗国が存在する。


 そして、人間の国家とは無関係に存在する十二の濬獣ルーヴァ自治区――

 濬獣自治区は人の立ち入りを禁ずるが、それゆえに人間国家同士の緩衝地帯として国境線に存在することも多く、実際ニアヴ治林を含む『モートォ大樹林』一帯を緩衝地として国境を接する聖国と法国の間では、軍事的衝突はまずもって発生し得ない。逆に直接に国境を接する聖国と光国の間では、事ある毎に小競り合いが繰り返されてきた歴史がある。

 直近では5年前の大戦がそれだろう。国境の町での町民拉致事件を巡って両国の主張が激突し、大きな戦争状態が発生。およそ一ヶ月の攻防を経て、当時の若き女将ルルシス・トリエ・アラフェンが指揮する雷光一閃の攻略作戦が決め手となり、国境の砦『ウルバス山塞』の所有権が光国から聖国に移った。

 その作戦で大きくえぐり取られたウルバス山の山肌は今でも聖国の勝利の象徴として――光国の屈辱の烙印として――その剥げた斜面を晒し続けている。

 だがそれとても大局的に見れば氷山の一角。

 実力の均衡した四大紗国は互い牽制しあいながらも、それはそれで安定状態を保っていたのだ。

 そのパワーバランスが崩れ始めたのは3年前からである。

 

 始まりは南の法国。そしてその首都『アルトハイデルベルヒ』――

 難攻不落・絶対不破と呼ばれるアルトハイデルベルヒの王城は重厚にして頑強。威風堂々という表現がもっとも馴染む立派な王城である。

 土台を固める黒の石垣は緻密に組み合わせた黒曜石であり、その継ぎ目にはナイフ一本差し込むことができない。この高い石材加工の技術力は、聖国でも多く見られる名も伝わらぬ古の王国の持っていた技術の名残だろう。

 石垣の周りを流れる水路を見れば、戦国時代の織豊系城郭の造りに似た印象を覚える。白と黒のコンストラストで見た目も美しい、まさに法国が世界に誇る王城である。


 その夜、アルトハイデルベルヒの王城に白い炎を纏った大岩が降り注いだ。

 王都の住人や外勤の騎士たちは夜空から星が落ちてきたのだという感想を口にし、神官たちはそんなことは例え魔法でも不可能だと自信なさげに否定した。

 だが、事実それは人の手によるもの――魔法の力によってなされた事件だった。

 たとえ不意をついた強襲であったとしても、たった一人でそれを成さしめた男。

 頑強で知られるアルトハイデルベルヒの王城を半壊させるだけの魔法の力を見せつけて法国の王位を奪ったのはアルカンエイクという名を名乗る男だった。

 その後聖都にある四神殿聖庁もアルカンエイクを法国の王と認め、正式に新王が誕生した。


 四大紗国の内、聖国と光国はこの新王の誕生を警戒して停戦の協定を結び、皇国はその混乱に乗じるべく法国へと軍を送ったが、逆に手痛い反撃を受けて己の国土を減らす結果となった。

 そして法国の軍事行動はそれだけで終わらなかった。

 同年には小紗国の一つ『森珠国ドラキア』を滅ぼし、それ以降は手当たり次第、ところ構わず侵略行為を繰り返しまるで自重しない。

 これだけの横暴を許してなお、周辺諸国が法国に手を出せないのは、法王アルカンエイクが強すぎるからである。

 魔法が強大な戦闘力であることは周知の事実だが、ただ一人の魔法使いが、本当に強い。

 もともと聖都を擁し、魔法研究の盛んなこの魔『法』の王『国』において、ドルク・マータと認められる条件の第一は魔法の才能が高いことであるが、それにしてもその強さは異常だった。

 さらにアルカンエイク王は魔法使いでありながら戦場にあって先頭に立つ王である。そのため法国軍の士気も高く、王の出る戦場に負けはない。


 鳴り止まぬ勝利の鐘と続々と王都に送られてくる獣人奴隷たち。周辺小紗国は侵攻の恐怖に怯え、大紗国も法国の動きには最大の警戒を持っていた。

 常勝国の高揚感は国民にも活気を与え、今法国は空前の好景気に沸き上がっている。

 ――それがアルカンエイクという王を知らぬ国民の認識だった。

 

 一方、王を知る城内の者は、新王には側近の誰にも何も告げずふらりと消えまたふらりと戻ってくる放浪癖があることを知っている。

 冒険者に化けて市井の暮らしを見て回っているのだという者もいれば、一人地下の秘密の部屋に篭り新たな魔法の研究をしているのだという者もいた。だが、結局は王がどこで何をしているのか、それを知る者はなかった。

 もともとアルカンエイクという王は内政にあまり興味を持たず、国務は大臣たちに権限が委譲されているため、王の不在により政務が滞ることはないのだが――


「王……ッ」

「法王様帰還! 法王様帰還!」

「アルカンエイク王!」


 城内に伝令の発するよく通る声が響き渡る。

 王の帰還を知らせる合図は、魔法により打ち上げられる紫光弾が一般的であるが、城内に関しては伝令を走らせたほうが早い。

 おおよそ半月ぶりの王の帰還に、その知らせを聞いた王城内は蜂の巣をつついたような騒ぎを見せる。

 そして、カツンと磨き上げられた床石を踏み鳴らしてアルカンエイク王が玉座の間に姿を現した。

 最高難度の転移魔法を自在に操る法王であれば、突然王座の上に姿を現すのも珍しいことではないが、今日は王城へ入る跳ね橋の前、珍しく城の外側より帰還したのだ。

 それがため皆は王が玉座の間に辿り着くより前に集合することが出来たのだとも言える。

 城に詰める王宮騎士と魔法使いたちは我遅れじと玉座の間に集結し、内政と外交を司る行政官たちはその後方にて不安の表情を隠すことができない。


 王を知る者たちに共通する感情、それは未だに得体のしれぬ自分たちの王に対する恐怖である。


 出自もわからぬ男がただ力のみで王位につく。

 そこだけを切りとれば英雄譚であるが、その後の国の統治についてはまるで無関心であり、国を動かすのは侵略戦争を行うときのみときている。

 王宮内に派閥も作らず、臣下との関わりはただ厳然と命令を下すのみ。当然四神殿との関わりも薄く、法王認定も強力な魔法を操るアルカンエイクを敵に回さないよう聖庁自身が洞が峠を決め込んだ結果だといわれている。実際根拠のない話でもないだろう。

 そんな謎多き孤高の王。だが、今日ばかりはいつもと勝手が違った。

 日はまだ傾く前で、広間は十分に明るい。

 法国の色、白の絨毯の上には四つの影。

 四つ――

 孤高の王が客人と思しき人物を連れていたことで、皆の驚きと興味は最高潮に達した。

 謎多き王。その客人。一人の少女を除き、みな耳が短い。

 

 ザッ――

 

 玉座へと続く白絨毯の左右に立ち並ぶ三列総員200名弱の群臣たちが一斉に片膝をついて頭を垂れる。傅く彼らの耳は今、遠いニューヨークに嵐を引き起こす勢いで猛烈にピコっていた。

 

『おっと。異世界文明と城の見学も興味深かったですが、これはこれで壮観だ。本当に妖精の国の王様をやっているのですね』

『エエ、そこは信じてくださってケッコウ』

『エネミーズの言葉を信じる? 面白い冗談です。もしかして貴方はボクたちのことを信じてくれているのですか』

『それこそご冗談でしょう、リズロットさん』


 互いの皮肉を愉しむにこやかな会話。互いの不信というテーブルの上に成り立つ関係は、ある意味でフェアである。

 アルカンエイクとリズロットは孤絶主義者の中でも、世の中に溶けこむ技術を持つ者だろう。

 もちろん溶けこむと言っても所詮は分類の違う水と油、撹拌する手を止めた途端に水面に浮き上がって来るであろうが。


『くだらぬ』


 一方、そう吐き捨てるディールダームは水底に沈む鉄塊か。混ざらぬどころか液体と固体の差がある。

 ここまで違えば地球上でもどのような生活をしていたのか謎である。

 そして、レニ治窟より連れだされたティンカーベルの少女がそんなディールダームに無言でつき従う。

 そのようにアルカンエイクに命令されたという理由もあるが、それ以上にこの笑顔なき人物に何か目の離せないものを感じているのも確かだった。

 まるで理解できない言葉で話すアルカンエイク王とその客人らしき人物。

 客人が何者であるか以前に、自分たちの王についての謎が一層深まるばかりである。

 

 そんな世界の敵ご一行様の前に、一人の女性が立ち塞がった。いや、少女といったほうが正確だろうか。

 凛として咲く百合の花を思わせる気品ある立ち姿。王の進路を塞いだことを詫びる動作の一つ一つにもメリハリがある。

 ハリのある若い肌。耳は長く、その出自が高貴であることが窺える。肩口で切りそろえられた明るい陽緑ミントグリーンの髪は、法国人の血が濃い特徴だろう。

 ただし、女性でありながら身に着けているのは男性用の衛士服である。

 年の頃は二十歳に満たない若さの完成された一つの美を感じさせる男装の麗人であった。

  

「帰還を待っていたぞ、法王」


 リズロットが目線だけでアルカンエイクに尋ねる。


『この娘は前王の娘で、確かフィリーナという名前ですな』

『妖精の国の王女様ですか。とても興味深い、ファンタスティックだ』


 今度は二人の交わす言語イングリッシュの意味が判然わからないフィリーナの方が、やや眉をひそめる。


 フィリーナ・アルマイト・アグリアス。

 

 アルカンエイクの説明の通り、ゴールナード前王の血を受け継ぐ王女であり、正式にはアグリアス前王女フィリーナと呼ばれる御年17歳の少女である。


「そなたが国を空けている間に、様々な問題が起こっている。王自身の指示を待つ案件もあるんだ。お客人の手前申し訳ないが、どうか先に国務についてもらえないだろうか」


 誰もがアルカンエイクを畏れる中、フィリーナだけは常に決然とした態度で彼に対していた。


「些事ですな。貴女にお任せいたしますよ、フィリーナ王女」


 まるでつまらない話だったというようにアルカンエイクがその意見を退ける。

 だが、フィリーナはまっすぐにその道を譲らない。


「それではダメだ。そなたはこの国の王なんだ。王なくして、紗国アルスは成り立たない。国民のため、どうか聞き入れてほしい」


 傅く群臣たちの間に、緊張が走る。

 言い方は丁寧だが、それは諫言である。以前に侵略行為の是非で王を諌めた将軍がその場で死を賜った事例もある。王への諫言は命を賭けた行いである。

 

「面倒な娘ですねぇ。死にたいのですか?」


 そもそも人を人とも思わぬ孤絶主義者であるが、アルカンエイクがこの世界の人間に見せるそれは、もはや実験動物以下である。


「かまわない。私はもともと法国のために生まれて、法国にために死ぬ運命さだめなんだ。父王亡き後、そなたの温情で生かされているこの身を惜しいと思ったことはない。王であるそなたを正しき道へと導びくのが私の使命だ」


 そこにあるのは毅然とした決意だ。悲壮さなどはただの一欠片も含まれていない。

 普通父親を殺された娘はその相手を恨んでいてもおかしくないものだが、フィリーナは王族の常としてそれを受け入れた。

 国があってこその王、我が身の全ては国民のもの。国民にとってみれば、王が誰であろうと構わない。ただ国が豊かになり、自分たちの暮らしが向上することが望みだ。

 フィリーナは自然体として、己を捨てて国民のための選択ができる王女であった。


 だが、その想いはアルカンエイクには届かない。

 彼とフィリーナの間には、大きな断絶がある。

 彼女の命を賭した願いも、彼にとっては己の行動を阻害するノイズでしかない。


「貴女を生かしている理由は、貴女が王族だからというわけではありませんよ。いてもいなくても邪魔にならない存在、どうでもよいからです。ですが、そうでないというのなら話は別……イエ、ただ殺してしまうのもあれですね――」


 不穏な言葉と共にアルカンエイクがスッと指をさす。


「こうしましょう。そこのアナタ」

「はッ」


 指名されビクリと背を伸ばして立ち上がったのは、どこにでもいる下級衛士の青年だった。


「アナタ、フィリーナとつがいなさい」

「……は」


 顔の作りだけは端正であるアルカンエイクがにこやかに命じる。

 青年のぽかんとした表情はその言葉の意味が全く脳に届かなかったからだろう。

 だが本人以外はそうではない。その非情な宣告に、さすがの群臣たちも驚きと悲憤を抑えきれず、カッと自分たちの王を見上げる。


「貴女自体には価値がありませんが、王族という希少種自体は別の使い道があるかもしれません。殺す前に二三体バックアップを作っておくことにしましょう」

「な……あ……は……」


 命じられた衛士の青年は、返答すら出来ずに王とフィリーナ前王女の間に視線を彷徨わせる。

 青年が選ばれた理由は誰もが理解できた。誰でも良かったのだと。

 群臣たちの中にはアルカンエイクを畏れながらも、皆の希望であるフィリーナ前王女を生かし、これまでの政治の継続を許すやり方を評価する者もあった。

 だが、今回の無慈悲な命令はどうだ。

 仮にも正統な血を継ぐ法国の前王女に、相手は誰でも良いから子を作れを命じたのだ。

 さすがのフィリーナもぐっとその拳に力が込め、何かに耐えている様子を見せる。


「フィリーナ様……じ、自分は」


 青年は今にも失神しそうなほどに青ざめながら、ガクガクと身体を震わせる。

 どんな高貴な花よりも気高く咲きほこるフィリーナ王女は法国の希望であり、全ての衛士たちの憧れでもある。その王女に触れるなどという不遜は、命じられたからと言って実行できるものではなく、さりとて王命に従わなければ死あるのみだ。


 アルカンエイクは一代の傑物である。それ故か王が血統を重んじる向きはない。

 だがそれは都合の良いことでもあった。

 アルカンエイクを奉じる上級貴族たちであるが、彼らの王が王座についてより数年を経ても、子を成したり親族を登用する様子もないことから、いずれ王が薨じた後は、またその王位をアグリアス家に戻し、法国に正統な血統を取り戻すことができると考えていたのだ。そんな上級貴族たちにとっても、今回の命令は決して看過できるものではなかった。

 命令の撤回は無理でも、せめてその相手は我が一族の者に。むしろ、自分が。

 しかし、この場で最初に異を唱える者があれば、それは間違いなく王の逆鱗に触れ、血の粛清を受けることになるだろう。その血が禊になり、更なる反対意見があればさすがの王とて命令を変えてくれるに違いない。

 

 誰か、誰か最初の一人になってくれないものか――

 

 ギリギリと歯を噛み締めながら、互い様子を窺い合う貴族たち。

 氷点下のにらみ合いの中、フィリーナはふっと拳の力を抜き、青年に向かい話しかける。


「王がそうお望みであるのだ。私などではそなたにも不満があろうが、どうか頷いてもらえぬか」


 春風の清々しさをもったフィリーナ王女は、既に己の運命を受け入れようとしていた。


「そのような、もったいないッ! で、ですが……うわああああ」


 誰も望まぬ悲劇がそこで行われようとしていた。

 そんな空気とは無関係にポツリと一つ小さな呟きがこぼれる。


『フィリーナ王女でしたか。類似事象を見ない希少な感情制御と融解の手法ですね。この世界の住人をアルカンエイクは妖精と言いますが、これは人間の持つ感情だ。となれば、利用価値は十分にありますか』


 それはアルカンエイクの背中越しにそのやり取りを眺めていたリズロットの声である。

 そしてもう一つ――誰も気にしてなかった、存在することすら忘れかけられてた一人の少女が動いた。

 それは小さな動きだった。

 己の目の前にある大きな背中。未だ誰であるのか知らない。笑顔一つ見せず、言葉も少ない。そもそも言葉が通じていない。

 だけど――

 レニ治窟より連れだされたティンカーベルの少女は、俯いたままで目の前の男の服をきゅっと握った。

 行ったことはただそれだけ。だが、それが大きな変化をもたらした。


 引き起こされたのは誠に稀有な大山の鳴動か。

 微動だにしなかったディールダームが、コキリと首を鳴らして一切表情を変えないまま、ドスンと足を踏み鳴らした。

 緊張の中、その音は大きく響きわたり皆の注目を集める。

 

「戯事が過ぎる」

「おやディールダームさん、貴方言葉が」


 それは、この異世界の言葉だった。


「雑なる声、貴様の能弁――サンプルは揃った。ならば解析に難なし。貴様の戯事に付き合う暇もなし」


 ズンとその巌のような肉体を進め、フィリーナの前に立つディールダーム。彼が動くと、彼の周囲数メートルの空気も一緒に動く、そんな大きな圧力の流れを感じる。

 フィリーナは動くこともできず、アルカンエイク王を前にする時とはまた違った緊張に、長い耳をピリリと尖らせた。

 

「アルカンエイクは道化。その言葉は劇中にのみ意味を持ち、劇後には意味を遺さず夢幻泡影。我らが進みし後は速やかに幕を引き下ろすべし」

「どういう、意味だろうか」


 それには答えず、ディールダームはフィリーナを押しのけるように先へと進む。

 ディールダームのすぐ後ろにはティンカーベルの少女が続く。あっけにとられる彼女へ一礼をしながら、その横をすり抜けた。

 そして彼に追いつくと、これまでよりも半歩近い距離を保って動く巨石に付き従った。

 己の意に反するディールダームの行動に、だがアルカンエイクは肩を竦めただけで、フィリーナの存在を忘れたかのように歩き出した。

 

『ま、よろしいでしょう。いやはや、これで私の面目も丸つぶれです。一つ貸し、イエ、その使用済みティンカーベルの件もあわせて二つ貸しですよ、ディールダームさん』


 取り残されたフィリーナと群臣たちはそれをどう受け取ったものか判断できずに、視線を彷徨わせる。

 あまりに意味が判然らない。

 そこにパチパチという場違いな拍手が響いた。

 その出処はもう一人の王の客人である。

 

「底ない、ディールダーム。麿、ボク? これから、これでも、やっと、言語、覚えた、のに」

 

 拙い喋り方だが、それは先ほどまでの理解できない言葉ではない、彼らにも理解できる法国の言葉だった。

 一部つながりがおかしいが、リズロットもまた王城に入ってからの全ての言葉を記憶し、整理し、文法を推定してこの世界の言葉の理解に至っていたのだ。

 そして、

 

「教える、意味。アルカンエイク、命令、受精、結婚? 無効ということ」


 それだけを言うと、アルカンエイクの後を追って歩き出した。

 冷静そうな大人の男性であるリズロットの片言が笑いを誘う事もあって、悲劇が一転喜劇となる。

 アルカンエイクたちが玉座の間の更に奥――王の自室に消えていった後、真っ先に安堵の息を落としたのは件の青年であり、続いて立ち並ぶ群臣たちも歓喜の表情を見せた。

 なんにせよ、王は無慈悲な命令を撤回したのだ。


 フィリーナには喜びより先に困惑があった。

 アルカンエイクは将軍であろうと神官であろうと、相手が人ではないような不遜な態度で接する冷たいところのある王である。

 そんな王の見せたことない表情。対等な関係であるかのような、二人の客人。

 本当に一体何者なのだろう。

 なによりもフィリーナは助けてもらったはずなのにあまり感謝の気持ちを持てなかった。そう感じるのは勇壮な肉体の男性も理知的な男性も、その目がフィリーナを見ていなかったからだ。

 大きな何かが始まる。そんな予感がする。それはあまりいい予感じゃない。

 ……と言ってもいられないな。

 気持ちを切り替えると、すぐさまに青年に向かうと、深く頭を下げた。


「すまない。先ほどああはいったが、忘れてもらえるだろうか。私にはやるべきことがあるんだ。子を作り母としての人生を歩む道はまだ選べない」


 そんな真正直な謝罪の言葉は亡き前王の教育の賜物故か、はたまた天然か。


「かわりに幸せを祈らせてほしい。――そなたの頭上に卷躊寧パルミスが羽ばたきますように」

「……あり、がとうございます。勿体なきお言葉でございます」


 王女に見えぬ叩頭の下で、青年が激しい喜悲をない混ぜた表情を作る。

 今夜の彼はいろんな意味で眠ることができないだろう。


 一方のフィリーナは、王の消えた方向をしばし見つめた後、一つため息を落とした。


「神官が急ぎ伝えてきた『ワーズワード』となる者についてご報告したかったのだが、この様子では今日はもう無理だな」


 くるりと身を翻し、フィリーナが玉座の間を後にする。

 臣下の礼よろしく、白絨毯を外して石の床の上を進む彼女の一歩一歩には颯爽とした美しさがある。

 フィリーナは思う。

 法国は今、最大富裕のときにある。だけどそれは最大幸福じゃない。王の気分一つで最大不幸へと転がり落ちることすらありえる危うい状況だと思う。その全てはアルカンエイクという王が誰も寄せ付けず孤高でありすぎるからだ。

 でも、王――

 国民はそなたを王として認めた。だからすべての国民は――私はそなたの紗群アルマだ。紗群として、群兜であるそなたを信じ支えるのが私の使命なんだ。

 

 王城の誰もが恐怖によりアルカンエイクに従う中、彼女だけが正しい『国の在り方』としてアルカンエイクの許にいる。


 一時の凪。やがて来る嵐の予感。

 その予兆を感じ取ったのは現時点ではフィリーナただ一人だけだった。

まさかのここで新キャラ追加。


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