Packdog's Paradox 10
「ダート-ン卿」
「ははっ! ご用命で、我が王の友人にして至高なる大魔法使いワーズワード様」
萎縮した様子で大仰な物言いと共にサリンジが大地に片膝をつく。
片膝をつくと、立てた膝が丸々とした腹にぶにょりと食い込むサリンジである。
見た目の全てが暑苦しい。
法国訛りにも慣れてきたので、サリンジ第一印象の脳内豚語翻訳は停止されている。
「そう萎縮することはない。『出会い頭の不幸な衝突』はその後の理解を持って、全て解決されている。であれば、あとはこれから行動を共にする仲間なのだ。俺の国の料理を是非ともダート-ン卿と法国の騎士の皆にも味わってもらいおうと思ってな」
俺はビジネススマイルでサリンジに言葉をかけ、銀食器を乗せた貴賓席テーブルまで誘いをかけた。
サリンジは己の耳を疑うような反応を見せ、そしてその後、安堵の中に少しの計算高さを織り込んだ外向き笑顔で立ち上がった。
「それは願ってもない申し出でございます。ワーズワード様のお国の料理となれば、臣も是非ともご相伴させて頂きたいと考えておりました」
人と人とのコミュニケーションの中で、『微笑み』の重要性は大きい。
笑顔は人をリラックスさせ、好感度を向上させる。言葉の通じない海外であっても、笑顔だけは通じるのだ。
今、俺が作り出した魔法力的圧倒あるいは心理的脅迫の状況下にあるサリンジにとっては、俺の行動の全てが恐怖の対象のようだ。
彼は今俺のことを、他人の心の中をのぞき見てその人の最大の弱点を掴み、それをネタに脅迫するようなサディストではないのかと疑っており、もしもシーズの代わりに馬車を曳けと命じられたならば、それに従うか死かの二者択一を迫られるのではないかと感じている。
たいへんにしんがいである。
フェルニ村と彼らとの間の確執は公式の場で解決させたわけだが、俺に対しては少しでも心象を悪化させる行動をしないよう、常にビクついていたサリンジだ。
だが、ここで俺がそうと理解できるように笑顔で食事へ誘ったことで、やっと俺と言う人間への接し方について、理解し始めたのだろう。
日本でビジネススマイルと言えば悪印象の方が強く敬遠されがちであるが、計算した笑顔の一つも作れない人間が百人百様の人間社会の中でどうして円滑な関係を築くことができよう。
気に入らないからといって付き合いを放棄する人間は、同じ理由で誰から相手にしてもらえないのだ。
蓋の隙間から暖かな湯気を立てる銀の器をソーサーごと手に取り、鼻を鳴らす、違った、目を輝かせるサリンジ。
「銀を作り出すだけでなく、それをこのような杯の形に加工できる魔法があるなどと、地神神殿の者どもも腰を抜かすに違いない! それにこの細工の見事さはどうだ。華美でなく質素でなく……まさに銀の持つ曇り無き貞淑さを表している。聖都の神官長とてこのような素晴らしい器、そうは保有しておりませぬぞ」
「そうそうっ、こんなかわいい銀食器、他に見たことないの!」
わかりやすいサリンジのヨイショに同調するセスリナ。いや、それ、お世辞だから。俺に取り入るための。
若いウルクウットですら俺を感服させるだけのデザインを生み出せるのだ。俺がその場の思いつきで作ったものが一流銀細工職人の技工に敵うわけはないではないか。
「あ、レネシスが描かれているんですね。私、レネシスの花、大好きです」
同じく器を手に取ったシャルは弾ける笑顔でそう口にした。
「それはよかった。カップごと蒸し上げてあるので、器はとても熱くなっているはずだ。気をつけてくれ」
陶器と違い、金属製の食器は熱を通しやすい。その分蒸し時間も短くできるが、とても持てたものではない。
もちろん、それを見越してカップを乗せるソーサーもセットで作ったわけなので、直に手に持って火傷したり、あまつさえ泣き出すような――
「ぴきゃああ、あっついいぃぃ! ふえ、ふえぇぇぇん!」
ような、そんな奴はいないだろう。
「ワーズワードさん……そんな何事も無かったみたいに」
シャルさん、アレはもうどうしようもないのです。
「ダートーン卿もぜひ」
「頂きましょう」
そう言って、サリンジがうきうきした表情で茶碗蒸しの蓋を取る。体型が示すだけあって、食に楽しみを覚えるタイプなのだろう。そして、彼ならば標準的な貴族の知識も持っているはずである。
セスリナでは当てにならないので、それを検証するにはサリンジか、法国の騎士の中でも貴族出身者でなければならなかった。
「ほう、これは――なっ、ぶヒィ!?」
驚きのあまり豚語に戻るサリンジ。いや、俺の脳内翻訳。
器の中を覗き込んだサリンジが、顔色を青く変色させ無言で俺の顔を見上げてきた。ふむ、この反応を見せると言うことは、ちゃんと『銀食器』に関する知識はあるんだな。期待した結果が得られたことに満足した俺は検証に協力してくれた彼ににこやかな笑顔を返す。
サリンジの顔が一層の絶望色に染まっていく。
「ん、なんじゃこれは? スープではなく、中身が詰まっておるではないか」
「なんなんでしょうか、私も見たことないです。なんだかぷるぷるしてますね」
同じく蓋を開けたニアヴとシャルは初めて見る茶碗蒸しに興味津々である。
「器の中は、少し黒ずんでいて……内側は銀色ではないのですね」
そして、料理バトルの終了と共に戻ってきたフェルナが同じ卓につき、別の感想を漏らした。
その言葉にまたもサリンジがビクリと反応する。
「いいから、さっさと食べようぜ」
皆がその半凝固状態のスープ料理の不思議さに目を留めている間に、あーんと早速一口を食べようとするパレイドパグ。
と、そこでサリンジが叫んだ。
「そそそ、それには毒が! 銀が変色してぶひいぃぃ!」
「毒じゃと!?」
「パレイドパグさんっ」
だが、時既に遅し。ごくんと最初の一口を飲み込んだパレイドパグ。
毒を食べてしまったパレイドパグに皆の視線が集まる。
――パレイドパグは、そんな皆を見渡し、
「銀が変色って、ンなもん、たりめぇじゃねーか。チャワンムシっていや、甘くない卵プリンの料理だろ」
と、呆れた口調で言い放った。
そう、それは当たり前のことなのだが、ここにいる彼らにとっては当たり前の知識ではない。
「……なんともないのですか」
「あるわけねェって」
「ですが、この通り銀が変色して――」
「そこから先は俺が説明しよう。すまない、ダートーン卿。銀の硫化反応について、皆にどの程度知識があるものか検証の意味で確認させてもらった。この茶碗蒸しに毒が入っているわけではないので、そこは安心してくれ」
「一体どういうことじゃ、毒などと」
ニアヴは俺の料理に毒が入っているなどと、欠片も信じていない態度だ。
どちらかと言えば、どうせまた俺が何かしらを仕掛けたのだろうと、そちらの方に疑いを持っている口調である。
正解。
「どうせ料理をするのであれば、銀の硫化反応による『防毒対策』の知識を教えておこうと思ってな。銀食器を作成し、そして卵料理を選択したのもその講義のためだ」
さらに言えばそういった前提条件の上で、なおかつ日本らしい料理を考えた結果が茶碗蒸しである。
銀食器の生成は白銀長方形でいけると思っていたので、失敗したときに少し困ったのは内緒だ。
「防毒対策じゃと?」
「そうだ。今後必要になるかもしれないからな。フェルナも知らなかったようだが、銀は硫黄や砒素などに代表される硫化物と非常に反応しやすい。硫化物とは一般的に人体に有害な物質であり、つまりは毒だ。結論から言えば、銀の器に毒を乗せると器が黒く変色する。その反応速度はとても速いため、銀の食器を使うことで料理に毒が混ぜられていた場合に見分けることができるということだ」
「銀食器にそんな魔法効果が……」
「違うぞフェルナ。これは魔法の効果ではない。化学の知識だ」
「そんなことはどうでもよい。この茶碗蒸しとやらに毒が含まれておらんのであれば、なぜに器の色に変わっておるのじゃ」
「良い質問だ。それは卵の成分の中には微量の硫黄が含まれているからだ。微量のために人体への影響もなく、銀との反応を起こしにくいが、卵白を加熱することで発生する硫化水素は銀と強く反応する。また銀自体に熱を加えることでも反応を促進できるため、卵に含まれる程度の硫黄でもこのように銀は変色したというわけだ」
「だな。常識だろ」
と相づちを打つパレイドパグ。
俺たち地球出身者にとっては学生レベルの知識でも、この世界の文明レベルにおいてはそうではないということをまだ理解できていないのか、そもそもそんなことに興味が無いのか。
恐らく後者だろうな。
相手が知らないからと言って何から何まで教えるつもりはないが、今後必要になりそうな知識となれば別だ。
これから向かう法国はアルカンエイク『王』の領土である。アルカンエイクに俺を迎え入れる意志がなければ、そこはすべからく敵地となる。最も簡単な毒の見分け方くらいは知っておいたほうが良いだろう。このような知識は不要であることが望ましいのだが、危機を想定しておきながら備えを怠る愚を犯すわけにはいかない。
最初からしたり顔で説明を加えた挙げ句、「知ってる」と言われるのもアレなので、サリンジを使って皆の知識レベルを検証してみたのだ。
おかげで、サリンジには笑顔で誘っておいて毒を喰らわせようとする最悪のサディストと誤認識されたようだが、こうして解説してやったことで誤解も解けていることだろう。解けてなくても別に問題はないが。
「えっと、銀の器が黒くなったら、食事に毒が混ざっていることがわかるけれど、毒じゃない卵料理でもそうなってしまうことがあるということでしょうか?」
「そうだ、シャル。貴族が銀食器を使うのは、銀が貴金属であるためというよりは、毒が盛られた際にすぐに気付けるという毒殺防止の意味が大きいわけだが、加えて俺が言いたいのは銀の変色だけで全てを判断してはいけないということだ。重要なのは何が原因で銀の硫化反応が起こるのかという『正しい知識』だ」
「わかりました!」
「しらなかった……」
絶句するセスリナ。
本当ならお前は知ってないとおかしいんだがな。
全く新しい知識に関してはヘタに既存の知識を持たないシャルの吸収は速い。
真綿に水が染みこんでいくように、これからも偏見なく色々な知識を吸収してゆくことだろう。
「なかなかに興味深い話じゃったが、一緒に食事を行う以上、食事に毒があらばお主が事前に察知するのではないかや?」
む、その発想はなかった。
「そうかもな」
「ならばそれが一番の防毒対策じゃろう」
ぐうの音も出ない意見である。
食の安全を日本人に任せるという最上の策を出されてしまっては、さすがの俺も反論できない。
ニアヴもなかなか俺のことを理解している。
「さて、こうしておる間に折角の料理が冷めてしまうわ」
「ですね!」
「それはすまなかった。まあ、結論は安心して食べてくれということだ」
「うむっ」
子供のような持ち方でスプーンを掴むニアヴ。そして、その一口目で大きく目を見開く。
「これがスープじゃと……この柔らさはなんじゃ!? 固まりもせずかといってスープでもなく……不思議な口触りじゃ! これはうまいのじゃ!」
「ふーふー。ふわふわって、お口の中で溶けていきますっ! 卵がこんな風なるなんて、とっとも不思議……それにお魚の味の中にキノコやサチアロの味が隠れて、すっごく面白くて、すっごくおいしいですっ」
「はふはふ、あつい! おいしい~、あつい!」
ふーふーと一口ずつ冷ましながら茶碗蒸しを口に運ぶシャル。
熱いけどすぐに食べたい、すぐに食べたいけど熱いという無間地獄に陥っているセスリナ。なんでこんなに落ち着きがないんだこの貴族娘は。
「口にあったのなら良かった。もっとも俺としては、どうしてもひと味足りないと感じてしまうんだけどな。残念ながら日本料理に必須の調味料が入っていないのだ」
ユーリカ・ソイルの街でも入手出来なかったので、こればかりはどうしようもない。
「知ってるぜ、ショーユってやつだろ。ジャパンっていや、ショーユの国だもんな」
その偏った日本知識はパレイドパグが日本好きだからというわけではないだろう。
日本といえば醤油。醤油といえば黒い。黒いといえばヒマンチュウネンオナカクロムシ。それは地球では常識だ。
「醤油か。醤油もあったらあったで嬉しいものだが、それではない」
「じゃ、なんだってンだ?」
「決まっているだろう」
日本料理には絶対必要な――
「オリーブオイルが足りないのだ」
「……マジメに聞いて損したぜ」
失礼な。俺はいつもでもマジメだというのに。
オリーブオイルはなくとも、皆もこの茶碗蒸しを楽しんでいるようだ。
日本料理が海外だけでなく、異世界でも通用することが証明されたな。
味はカツオベースではなく干物の薄味に塩胡椒のみだが、炙ったサチアロの肉汁が良い具合に味を調えてくれている。季節によって食材によって、またあるいは土地々々によってもアレンジを変える。それもまた日本料理の楽しみ方の一つだ。
「今作っていますから! 順番に待っていてください!」
声を上げたのは村娘さんである。我も我もと群がる皆のために、忙しく茶碗蒸しを作ってくれている。
そして御者くんが順番待ちの列に混じっていた。いたのか。
一方俺は、シャルとニアヴの料理に手を付ける。
「これはただ焼いたのではないな。この甘ダレは……そうかサチアロの脂に『薬糖酒』を合わせたんだな」
「さすがワーズワードさん、すぐにわかっちゃうんですね。はいっ、薬糖酒を加えたタレは粘りがでますので、それを皮に塗り直して、ニアヴ様に焼いてもらったんです。薬花は病気のときじゃなくても身体にいいんですよ」
「日本でいうところの漢方だな。そしてこの焼き加減。表面はパリッと仕上がり、噛めば肉汁があふれ出す。確かに豪語するだけはある」
「じゃろう! で、感想はそれだけかや?」
「どうでしょうか……」
角度を下げた不安そうなシャルの長耳とピンと立った自信満々のニアヴの狐耳。
俺に同じことを期待する二人の耳がこれだけ正反対であるのも面白い。
俺は一拍を置いて、ゆっくりと言葉の続きを口にした。
「ああ、とてもおいしいよ。ありがとう、シャル、ニアヴ」
「――はいっ!」
「くふっ、当然じゃ!」
パチンとハイタッチを交わす二人。いつの間にやら、親友のような仲の良さだ。
ここはさすが女の子同士というべきなのか、ニアヴの威厳のなさと言うべきなのかは不明である。
実際においしいわけだが、仮にそうでなかったとしても二人が俺のために作ってくれた料理がおいしくないわけがないのだ。
本当にあるもんなんだな、料理の隠し味というものは。
シャルの父、主審ティル・トロナ・フェルニが優しい表情で俺たちのやり取りを見守る。
「結果が出ましたね。では最後に私が料理対決の裁定を下しましょう」
聞かなくても皆、判然っているだろう。
「双方、大変に美味しい料理を作ってくれました。この対決――引き分けです」
判然っていてもなお、その効果は十分にある。
直後、広場におおおおっ、という大きな歓声と拍手の波が沸き起こった。
◇◇◇
ギスギスしていた騎士たちと村人たちが杯を交わして、肉をほおばり茶碗蒸しを食べる。
異物扱いだったパレイドパグも、なんだかんだでシャルやセスリナの輪に加わり情報収集をしているようだ。
今の状況を作り上げるという、俺とティルの思惑は奇しくも一致していたわけだ。
出会ったばかりのティルの器を量る間はなかったわけだが、これで彼の優秀さは確認できた。
十分に村を治めるに足る人物である。もっともそんな彼をしても、軍であったり魔法であったりという理不尽な暴力には対抗できないのだろうが。
「ところでアラナクアは戻ってくるのか? 」
アラナクア治崖にはパレイドパグを呼び寄せた『ティンカーベル』的な存在がいるはずである。少なくとも、パレイドパグ転移の瞬間にはいたはずだ。今はまだ判明していない地球への帰還方法に『ティンカーベル』が関係している場合、その存在を抑えておかなければパレイドパグは永遠にその手段を失ってしまうことになる。
俺にはシャルがいるのでどうしてもという話ではないし、地球のためにはその方が良いのだが、今後パレイドパグに対して何らか交渉カードとして使えるかもしれない存在をみすみす放置するのは機会損失である。最低限、居場所と掴んでおくことと生死監視はしておきたい。
「んあ? そうは聞いておらぬの」
「であれば、聞いてみるか。俺の通信魔法がアラナクアに届くのかの検証にもなるしな」
「……別に構わぬがの。お主の実験好きは少し度を越しておるの」
「誰も損をしないのだから別にいいだろう。何もせず過ごす一秒と行動する一秒では、経過時間は同じでもその価値は同じではない」
「だから妾も構わぬと言っておるじゃろう。今更お主の行動に口出しなどせぬわ」
呆れたように尻尾をフリフリと振って応じるニアヴ。ぞんざいな。
まあ通信魔法を知らなかった昔ならともかく、今となっては俺とアラナクアとの接触を防ぐことは不可能だからな。
あの兎の化生は見るからに無害であり、舌足らずな話し口調からしても無垢で従容な性格の濬獣であることが窺える。どう見ても俺の交渉術に抵抗する術を持っていないだろう。となれば、一度交渉の席につけば、アラナクアは俺の要求全てに頭を上下に振るだけの首振り人形になる。
善良な常識人であれば、あんな無害な生き物を思いのままに操ることに良心の呵責を覚えるところである。俺が悪い人間で本当によかった。
なにはともあれ、ニアヴの言質はとったので、早速アラナクアを捕まえるか。【パルミスズ・マインド・ネイ/風神伝声】は既に検証済みなので、もう一つの方を試して見よう。
集めるのは、10個の源素。
緑源素x2、白源素x8――
空中に浮かぶ星形の源素図形――ニアヴが使った【スワロー・サイン/飛燕伝令】の魔法である。おそらくは【風神伝声】と同系統の通信魔法なので、発動方法も同じでいけるだろう。
6つの源素で発動する【風神伝声】よりも使用する源素数が多い分、なんらか別の効果があるかもしれない。見上げるほどの長身と長く垂れた耳、大きなタレ目。同じく大きな以下略。
心の中にアラナクアを思い浮かべ、そして発動。
カッという魔法の発動光とともに俺の周りには内側の五角形が残り、5つの星の頂点がフッと虚空に消える。
次の瞬間、俺の眼前にアラナクアが姿を現した。
「――ッ!」
突然の視界の変化が、驚きとなって俺の心臓を一つ大きく脈動させる。
「どうかしたのかや?」
村娘さんから薬糖酒のおかわりを受けながら、それほど興味もなさそうに俺の驚きの理由を聞いてくるニアヴ。
俺は即座に答えを返す。
「なんでもない」
「……アラナクアにあまり阿呆なことをするでないぞ。あ奴になにかあれば、妾が代わってお主に噛み付いてやるからの」
「覚えておこう」
なんだ噛み付くって。
ニアヴとの会話を打ち切り、俺は冷静に魔法の効果を分析する。
俺の目の前にいるアラナクアは俺の存在に気づかないまま、バシャバシャと水音を立てている。そして、俺の真横にいるニアヴと村娘さんにはアラナクアが見えている様子はない。
即ちこれは俺にだけ見える虚像なのだ。
アラナクアが俺の目の前に現れたのではなく、俺が遠い場所にいるアラナクアの姿を見ている。
【飛燕伝令】は確かに【風神伝声】と同系統の魔法であるが、声だけでなく視覚も同時に飛ばすことができるわけだな。しかし別の違和感として、アラナクアにまとわりつく源素が見えない。源素は直接自分の目を通さないと見えないということか。
アラナクアの隣には、別の少女の姿が見える。
どうやらこの魔法は魔法の対象者だけでなく、対象者を中心とした周囲数メートルの状況を見ることができるようだ。
少女は、必死の形相でアラナクアから離れようとしている。
『ジーた、どこも怪我してないみたい。よかったの~。ぎゅ~~っ』
そして、聞こえるアラナクアの心の声。
哀れ少女はアラナクアの呼吸器系を封殺するハグに捕まり、その長い腕をタップする。
軽い痙攣を経た後、徐々にその腕が力を失い、だらりと垂れ下がる。
凶悪すぎる光景にやや目を逸らしつつ、俺はアラナクアに呼びかけた。
『アラナクア、聞こえるか?』
『ぴぃ!? 誰なの……っ』
姿なき声に恐れおののく兎の姿もはっきりと見て取れる。問題なく声は届くようだ。携帯電話がビデオ通話になった感じか。やはり濬獣の扱う魔法は人間たちのそれよりも上位のものだ。
それで腕から逃れられた少女が呼吸を整えながら、アラナクアの変化を不思議そうに眺める。
『突然ですまないな。ワーズワードだ』
『ワーズワーの! あ~、びっくりしたの』
俺のことを思い出し胸を撫で下ろすアラナクア。
凶悪すぎる光景にやはり俺は目を逸らす。
『少しお前と話をしたくてな。料理なども用意しているのだが、もう一度こちらに来れないか?』
『ん~。ジーたも心配だし、お外はこわいから断ろうかな』
という心の声が全部聞こえてしまっている。
相手の心配している内容が完全に伝わってくるというのは、直球もいいところなので対策も取りやすいわけだ。
『ジータというのは、その少女か?』
『うん、そうだよ』
『であれば一緒に連れてくるというのはどうだ? 見たところシャルとも歳が近そうだ。同年代の友人ができればジータもきっと喜ぶだろう』
渋る様子を見せたアラナクアに対し、今度は別方面から攻めて見る。
『馬上の将軍を討ちたければ先に馬を射るべし』。本人にその気がない場合は、周りから攻め落とすのは交渉における常套手段である。
『ジーたのため。……でもニアうは治林のお外だし、レにさんも連絡つかないから、何かあったら最初に動けるナクあがここにいないとダメだし……』
一瞬食いつきそうになったアラナクアが、別の否定の材料を並べ始める。
アラナクアはそういうものの考え方をする濬獣なのか。
己の使命として、危機発生時の対応を一番に考える彼女の在り方は俺を感心させるに十分なものだった。
『なるほど。ニアヴはお前のことを臆病だと言ったが、それとは少し違うようだな』
『そうなの?』
『そうだ。俺の見たところで言えば、空間転移という素晴らしい魔法を自由に使えるお前は、行こうと思えばどこまでも行け、やろうと思えばなんでもできてしまうはずだ。とは言っても身体は一つしかないのだから、行動の取捨選択を行わなければいけない。それはまさに万の中から一つを選ぶ行為だ。選択の自由さに反して、責任ある立場のお前は自ら選択の幅を狭め、なるべく危機を回避するように行動している――だとすれば、お前のその臆病さは慎重さの裏返しだ』
慎重さを持つことは、評価すべき資質だ。
だが、それも行き過ぎれば己自身に科した魂の枷となる。それが今のアラナクアだ。
アラナクアがびっくりしたように、問い返す。
『ワーズワーの、ナクあのこと、わかるの?』
『昔のことだが、俺にも幾分覚えがあるからな。同時にニアヴがお前のことを夭いと言った理由もわかった。お前は危機を回避する思考に囚われすぎている。あれだけ濬獣の責務に実直なニアヴが己の治地を離れて、俺についてきている理由がわかるか?』
『うーん、ニアうはなんでもできて、すごいから』
『俺も漠然とそう考えていたのだがな。お前の存在を知ってやっと腑に落ちた。ニアヴはお前を信用しているからこそ、これだけ自由に行動できている』
『なのっ!?』
垂れ下がったアラナクアの耳がピクリと揺れる。
行動の自由だけならば歴史上他に類を見ないほどに発達した現代地球ですら、人は不自由さを感じずにはいられない。
それはなぜか?
答えは簡単だ。どれだけの行動の自由があっても、『魂』が自由でないからだ。
故に思うままに進んでいける魂の自由さは、ニアヴの数多い美点の一つだろう。
『一人でできることには限界がある。己の限界を知り、自分のできないところはできる他者を信用する。それができるからこそ、ニアヴは強いのだ。そしてアラナクア、お前はニアヴに信用されるだけの能力を持っているのにそれを自覚できておらず、自分の限界を見誤って過小評価してしまっている。それゆえにお前は夭いといわれるのだ』
ニアヴとサリンジ、それにミゴットを含めた街の魔法使いを全員並べたとしても、アラナクアの能力は頭一つ抜きんでている。背が高いので、物理的にも抜きんでるか。
なんにしても万物を支配する二つの絶対律『時間』と『空間』のうちの一つを自在に操るアラナクアの魔法は、他の魔法とはレベルが違う。一点特化型の恐さだな。
『だが若さは未熟さだけを意味しない、それは成長の余地があることも意味する。行動を求められたときは避けるのではなく飛び込め。能力を鍛え、自分に自信を付けろ。それがお前を成長させる』
『ナクあ、強くなれる?』
『なれる』
その能力のために行動しない理由を考えるのではなく、何かあっても自分ならこうできるという問題解決型の思考ができるようになれば、この兎の化生はまさしく化けるのではなかろうか。
興奮したアラナクアの強い心の声が波紋のように俺に流れ込んでくる。
『ナクあ、そんなこと言ってもらえたの初めてかも!』
濬獣に意見する奴はそういないみたいだしな。
能力があるのにそれを己で殺してしまっている奴には、どうしても一言言ってやりたくなってしまう。過去の自分を重ね合わせてしまうわけではないが、その無為さ、非効率さという人生の無駄については、他の誰かが言うよりは俺の方がうまく伝えられることだろう。
『故に断言できるが、お前が多少自分の治地を離れたところで何ら問題はない。何があっても対応できる能力をお前は既に持っているのだからな』
『うん、ナクあもワーズワーののお話、もっと聞きたいの!』
いや、話を聞きたいのはこっちの方なんだが。
どちらにしても来てくれるようなので、交渉は完了である。弱点を付く脅迫的交渉や口先三寸で丸め込む詐術的交渉も嫌いではないが、転移魔法を持つアラナクアとは、友好な関係を築いておきたい。
であれば、信頼されるべく親身になって相手のことを考えてやることもまた交渉術の一つである。
それが必要であるというなら、俺はその行使を自重しない。
言っている間に、アラナクアがなんぞバシャリと一つ跳ねた。
『――抜けて【コール・ホワイトホール/兎穴】』
「ストォォォォッップ!」
『のッ!?』
「のわ、なんじゃ!?」
しまった。俺としたことが心だけで収められず、声に出してしまった。これではニアヴのことを言えないな。
『何でとめるの? すぐにワーズワーのの所に行くの!』
『だが、少し待て。その前にやるべきことが色々あるだろう』
『……すぐに行っちゃだめなの?』
本当に不思議そうな声で聞くな。
何故俺がこんなにも目を逸らしながら話を続けなければならないのか、その理由も思いつかないのか。
濬獣と言う奴らは、本当にどいつもこいつも。
『……水浴びを終えたなら、まずは岸に上がって髪と身体を乾かせ。そこの少女だって、そのままでは風邪を引いてしまうだろう。なんにしても、服を着てからこっちに来なさい』
『う~ん……ワーズワーのがそう言うなら、そうするの~』
やや不服そうに了解の意を伝えてくるアラナクア。
治地を護る使命だかなんだかしらんが、人を避けて姿を現さないような生活をしているから、常識や恥じらいの念が欠けてゆくのだ。
俺の言葉に従い、岸に向かいバシャバシャポヨポヨと水面を移動する化生の姿はまさに凶悪の一言。
いや、凶悪なのはこの魔法の方か。
俺は静かに魔法を解除する。
深呼吸。深呼吸。深呼吸。そして、溜め。
俺の謎絶叫と謎行動に、ニアヴが首をかしげて見つめてくる。
そんな中、俺は淡々と宣言した。
「『ヒトトシテ条例』に基づき【飛燕伝令】――この魔法は今後禁呪指定とする」