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ななしのワーズワード  作者: 奈久遠
Ep.6 転移者たちの弁証法
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Packdog's Paradox 02

 一人の痩せこけた少女がいた。

 名はジータ。

 背の丈は低く、腰まで伸びる青い髪は手入れされた様子もない。手足は汚れ、ぼんやりと開かれたその瞳は目の前の景色を映すのみで、少女自身は何も見ていないようであった。

 少女の記憶の中に、少女の叔母にあたる女性の声が再生される。


「あんた、ごめんよ。かわいそうだとは思ってるんだけどねぇ、うちじゃもうあんたを食わしていくだけの余裕がないんだよ」


 ジータに言い聞かせるでもなく、まるで自分自身に対して言い訳をしているような、そんな声。

 ジータは孤児である。流行病はやりやまいで両親が亡くなり、遠縁であった叔母の元に預けられた。少女が働き手となれていればよかったのだが、両親の死はが少女の心を悲しみに閉ざしてしまっていた。

 貧しい村では、働けない子供を養う余力はない。少女はとある豪商の元へ奉公に出されることになった。


「でも、あんたは幸運だよ。ベルガモ様と言ったら、国で一二を争う大商人様だって話だからねぇ。きっと良くしてくれるさね」


 それすらもジータにとってはどうでも良かった。

 ただ、もうこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないと、そう考えるだけの心は残っていたのだ。

 迎えの馬車を待たず、少女は村を出た。

 辛うじてそれとわかる獣道。ジータは道無き道を進む。

 ただ前方の景色を映すだけのジータの瞳に、大きく開けた雄大な景色が飛び込んできた。

 目の前の空間には空の青。遥か遠くには断崖の土色が見える。そして、少女の足元にも同じく下の地面が霞んで見えない程に切り立った断崖があった。

 人の立ち入りが許されぬ深山渓谷。大地に刻まれた聖痕。


 ――すなわち『アラナクア治崖』である。


 伝承では、その昔、世界魚・靜爛裳漉マルセイオがまだ一匹の稚魚だった頃、混沌の大地に生まれた闇の獣が水面よりマルセイオに向かい、その鋭い爪を振るったのだといわれる。

 その後、マルセイオは暗い海の底に逃げ延びたのだとも、傷を負いながらも逆に闇の獣を撃退したのだとも伝えられる。

 いずれにせよ、大きく成長し大地へと変じたマルセイオの背中には、そのときの傷がそのまま残されたわけである。

 ことの真偽はともかく、事実アラナクア治崖はマルセイオの大地に深々と刻まれた裂傷であった。

 垂直に落ちる断崖絶壁は一番浅い場所でも100メートルの深さを持ち、崖の対岸までの距離は平均3キロを数える。

 こうなってくると崖というよりも、等高線が一段下がった地底の大地であると言ったほうが正しいかもしれない。

 切り立った崖の上から見下ろせば、眼下には鬱蒼とした緑や流れる川の存在を確認することができる。そのような雄大な情景が東西におよそ50キロに渡り続いているのだ。

 だが、実際に崖の下にどのような世界が広がっているのかを知る者はいない。

 何故ならば、ここは単なる大自然のつくり出した神秘の渓谷ではなく、一人の濬獣ルーヴァが支配する人を寄せ付けぬ人外魔境・濬獣自治区であるからだ。

 聖国の最南端に位置するニアヴ治林のニアヴと異なり、アラナクアなる濬獣が人の前に姿を現したことはない。故に、そこを治める濬獣がどのような人格であるのか知る者はなかった。

 謁見を賜ろうと、あるいはせめてニアヴ治林のように友好な関係を築こうとアラナクア治崖に足を踏み入れた人間も過去何人かあったのだが、崖下より還った者は未だなかった。

 今現在、アラナクアは決して人を受け入れぬ凶悪な濬獣であると見做されており、アラナクア治崖は聖国の中でも最も危険な場所であると認知されている。

 そして、そんな渓谷が聖国のほぼ中央に位置しているため、聖国を往く旅人たちはこのアラナクア治崖を迂回して進まねばならず、大層難儀しているのだという。

 故にアラナクア治崖は近隣の人々からもう一つ、別の名でも呼ばれていた――


 崖を目の前にしてもジータの表情が変わることはなかった。ただ、眼前に広がる空の青さに、まるで自分が鳥になったようだと思った。

 鳥ならば、空を飛べるだろうか。

 空の彼方まで飛んでいけば、愛する父と母にまた会えるのだろうか。

 会いたい。会いたい、会いたいよ、お父さん、お母さん……

 人の姿がなくなった崖の上。そこに一陣の風が吹き抜ける。


 ――アラナクア治崖、そのもう一つの呼び名を『世捨て谷』と言った。



 ◇◇◇



 そして、現在。


「その節はどもでした、アラナクアさまっ、生きてるって素晴らしいですね!」

「んー、なんの話?」


 寝ぼけまなこをこするアラナクアが、お気に入りの寝床の上で、長い足をぺたんと内股に折って、あふぅと気の抜けたあくびをする。

 その無警戒、無防備さは、ここが野生の王国であったならば確実に被捕食者側であろう。

 そして、アラナクアの前には、あれから少し成長した少女ジータの姿がある。

 ここはアラナクア治崖、その中にあるただ一つの人の住む村。村に名はないが皆『アラナクア村』と呼んでいる。その遠い外れにアラナクアの庵があった。

 

「ジーたぁ、こっちぃ~」

「はいはい、なんです――わぷっ」

「ジーた、今日もかわいいねぇ」

「んんん~~~っ!」


 真一文字に引かれたような夢うつつのままのまなこで、ジータをぎゅっと掻き抱くアラナクア。兎の濬獣の長い腕から逃れられる者はいない。

 アラナクアの胸の中で、息も絶え絶えにもがくジータの姿は村の中では見慣れた光景だ。更に言うならば、それはジータだけではなく、全ての村人に適用される光景でもある。

 アラナクアなる濬獣は、とかく目の前にいる人物を抱きしめずにはいられない性格であるらしい。

 見た目とは裏腹の力強い抱擁ハグに、村では過去何人もがその胸の中で昇天しかけるという危機的事案が発生していた。


「ぜはっ、死ぬ、死んじゃいますって!」


 言葉の割に、元気いっぱいの声でジータが大きく息継ぎをする。

 

「ごめんジーた、だいじょうぶ?」

「ええまァ。いつものことですんで」


 自分がやったことだというのに、アラナクアはひどく心配した泣きそうな表情でジータの顔を覗き込む。

 そんなアラナクアをジータは、微笑ましく思う。

 

「さあ行きましょう、村のみんなが待ってますよ」


 アラナクアがコクリと頷く。


「じゃ、近道しよっかぁ」

「え、ちょっと待ってください」

 

 寝床から勢い良く跳ね上がったアラナクアが、すっと呼吸を整えて膝を曲げた。

 そして、逃げようとするジータを後ろから抱きかかえた。兎の濬獣の長い腕から逃れられる者はいないのである。

 その大きな瞳がパチリと開かれる。

 

「――跳んで【コール・ラビット・ステップ/禹歩跳躍】」

「まだ心の準備――」


 そして、両足を揃えたままの膝をバネのように跳ね上げた。

 瞬間、二人の姿が室内からかき消えた。

 

「――がぁぁぁっ!」

 

 と、次の瞬間、庵を見下ろす高い上空に二人の姿が現れた。

 治崖の木々すらも下に見る高さに、思わずアラナクアの腕にしがみ付くジータ。

 一瞬の自由落下、その中でまたもアラナクアが膝を曲げて、何もない空中を蹴り上げる。と、またそこで二人の姿が消え去り、十数メートル先の空中に現れる。

 まるで空中をぴょんぴょんと飛び跳ねるような連続した空間転移。ショートテレポートというのだろうか。

 

「この、」

「落ち続ける、」

「感じが、」

「怖いん、」

「ですっ、」

「てーーー!」

 

 消えては現れ、現れては消える二人。ジータの声もまた途切れ途切れの絶叫を奏でる。

 目的の場所を視界に捉えたアラナクアの最後の跳躍は、音もしないほどの静かなものだ。

 

「はい、とうちゃくなの」

「うう、普通に歩いても十分間に合う時間で行ったのに……」


 腰が砕けたようにへたり込むジータ。あの落ちる感覚は何度経験しても一向に慣れることがない。

 外側から見れば、ずっと同じ高さを移動しているように見える空間転移だが、ジータの体感では、最初から最後まで連続した落下状態でしかない。

 

「おお、アラナクア様。ありがたやありがたや」

「アラナクア様、おはようございますだ」

「今日もいいお天気ですだよ、アラナクア様」

「うん、みんな、おはよう」


 二人が降り立ったのは、村の中央広場から少し離れた炊事場である。

 そこにいるのはみな老人であった。腰が曲がったり、足が動かなかったり、大きな傷を負ったりと健常な者はこの村ではジータただ一人である。

 だが、みな穏やかな笑顔を見せている。アラナクアもまた、ゆるやかな笑顔で皆に挨拶を返す。

 『世捨て谷』――言葉を持たぬ動物であっても、己の死を悟った個体は群れから去ってゆく現象が認められている。知性持つ生命であればなおのこと。己が皆の負担になると感じた者はやはり、紗群アルマを去るのである。

 ジータがそうであったように、老人たちは皆この『アラナクア治崖』に死を望んでやってきた者たちだ。



「なんで……生きて……あなたはだれ……?」

「アラナクあ、だよ」

「ああ……じゃあやっぱり私、死ねるんだ……」

「…………」



 それはかつて、アラナクアに命を救われたジータが口にした言葉である。

 だが、そうはならなかった。

 おのが使命として、治地への人の立ち入りを許さぬ濬獣であるが、アラナクアという濬獣は老い先短い彼らに最期のときを治地内で過ごすことを許したのである。

 アラナクア自身が持つのどやかさ、隔絶されているが故の静穏さ。

 村で過ごす安らぎの時間の中で少女は癒され――そして今、生きとし生けるもの、この世の全てに感謝を捧げる元気いっぱいの女の子の姿がここにあった。

 元より老人たちで構成された村のため、外との連絡手段自体がなく、また村の人間は皆この少しぽやぽやした濬獣を敬愛しており、彼らによりアラナクア治崖の真実の姿が外に漏らされることはなかった。

 そして、アラナクアはいささか臆病なところがあり、濬獣との接触を目的としてアラナクア治崖を訪れる者の前にその姿を表すこともほとんどない。

 結果、アラナクアの名は古来より変わらず、凶悪な濬獣として、恐れられ続けているのだ。

 老人たちとの食事のあとも、アラナクアは眠り足りない様子で大きなあくびを一つして、柔らかい草原の上に寝転がった。

 スラリと伸びた手足、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる理想の体型。まるで美を司る鄙熄晨リュカリオの化身のようだとジータは思うのだが、猫背……いやウサギ背で長い手足をだらしなく遊ばせて、締まりのない表情で寝転がっているアラナクアである。

 ちなみに、鄙熄晨リュカリオとは軍女神・熙鑈碎カグナに従う従神の名だ。

 

「ごろごろごろー」

「なんてもったいない……」

「アラナクア様はこれでいいのじゃよ」

「……ですね!」


 重なる笑い声。優しさに満ちた笑顔。

 今日もまた村は平和であり、何事もない一日が過ぎるかのように思われた。

 だが――

 

 昼を過ぎて、あと少しで日も傾いてくる刻限。

 ジータは夕食となる皆の分の魚を釣り終わり、足の悪い老婆のため、村から離れた薬花やっかの群生地に来ていた。薬花は深い森の中にしか生息しないため、これを採りに来れるのは若いジータだけである。

 村の皆はそんなもの必要ないといつも言うのだが、

 

「私がしたいの! みんなのために、できることはなんでもしたいの!」

 

 と、心を閉ざしていた期間のマイナスを取り戻すかのように、誰かのために何かをしたいという気持ちを抑えられないジータであった。

 

「ふんふん、ふふふん、ふふーんふーん……っとこれくらいあればいいかな」


 鼻歌交じりのジータ。群生地は村からの距離があるだけで、決して危険な場所というわけではない。カゴいっぱいに薬花を摘んだジータは一度立ち上がり、うーんと大きく背を伸ばし――前触れなく、それはやってきた。


 心臓がドクンと、脈絡もなく跳ね上がる。


「っ……なに? ……あはは、立ち上がっただけで立ちくらみとは、私ももう歳かな?」


 不整脈は一瞬で収まったため、ジータは己の身の内に生じた異変に対して、それ以上特に何を考えることもなかった。

 だが、真なる異変は彼女の身の外に生じていたのだ。


「え――」

 

 ジータの目の前に白く輝く渦が巻いていた。

 渦は何かを吸い込んでいる、あるいは吐き出しているように見えるのだが、そこになんの音もしなければ、風の流れも感じない。おかしすぎる現象だ。

 そんな光景にジータとしても危機的な何かを感じるのだが、薬花畑の中心付近とあって身を隠す場所もない。

 近くに大樹の一本で生えていれば、その裏に身を隠せたのに、と思いもしたがないものは仕方ない。

 渦が急激に形を成す。

 それは輝くヒトガタ。苦悶するように形を変えながら、最終的に立体的な輪郭を描き始める。とはいえ、渦の発生からそこまで30秒もかかっていないだろう。

 何が起こったのかわからないまま、ジータは立ちすくむばかり。

 

 ザッ――

 

 そんなジータの前で、輝くヒトガタが『大地に足をついた』。質量を伴って下草を踏み鳴らすそんな音に、やっとジータの身体が反応し、一歩を後退するがそこで足を取られて、尻もちをついてしまった。

 ヒトガタは更なる明確な輪郭線を描いてゆき――光が弾けた。


「きゃっ!」


 閃光の瞬間、ジータにはそれが白だけでなく、赤や青、あるいは黄色、緑といった極彩色の『光の粒』となって弾けたように見えたのだが、眩しさに目を閉じ再び開いた時には、そんな『光の粒』はどこにも存在せず、代わりに目の前には見たこともない『女の子』の姿があった。

 ――それはジータも、そしてワーズワードすらも知らない『エネミーズ16』パレイドパグの生身の姿であった。さすがに生身がぬいぐるみ犬なわけではない。顔だってパグ犬のようにブサイクなわけではないが、如何せん目付きが悪い。


『……っう、何だこの気持ち悪さ。おい、アルカンエイク、こんなの聞いてねーぞ……』

「え、それ、どこの言葉……?」


 現れた女の子――パレイドパグがジータには判然わからない言語で何事かを呟いた。その反射的な言葉で、自分の目の前に座り込んでいるジータの存在に気づいたパレイドパグが驚きの表情とともに少女の腕をつかんだ。


『は? 嘘だろ……アルカンエイク、てめェ女だったのか!? しかも、アタシより若いとかありえねぇーー!』

「何!? わかりません、放してくださいっ! イヤ、助けてアラナクアさまぁっ!!」


 助けを求める『コエ』、それは濬獣の耳には必ず届くものである――

 混乱の渦中。その虚空に長身の濬獣、アラナクアが突然に出現した。


「――っ、ジーたぁ!」

『クソ、次から次へと……説明しやがれ、アルカンエイクッ! ……いや、こいつはアルカンエイクじゃねぇのか? チッ、そりゃそうか』


 【リープ・タイガー/飛虎】を駆るニアヴと転移魔法を得意とするアラナクアの現場対応速度は比較にならない。あの日、崖から身を投げ出したジータ。彼女の身体が地面に到達する前に救出が間にあったのも、アラナクアだからこそできたことだ。

 現場対応速度については間違いなく最速のアラナクアである。が――

 すっとパレイドパグの瞳に冷静さが宿る。


『獣の化物……もしかして、てめェが『アルカンエイク・レポート』にあった『番人ヘルシャア』か? キャハハハ、おもしれェ! おい、さっさとアタシをアルカンエイクのところまで連れていきやがれッ』

「はわわ、誰ですかあなたぁ……」


 問題解決能力については、これまたニアヴとは比較にならないのがアラナクアである。

 狂犬じみたパレイドパグの意味不明な言葉とガンつけにビクリと身が竦ませ、既に涙目になっているアラナクアがそこにいた。

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