Double Dragon 24
半年ぶりですが、特に前説なく続きます。
『セブン・デイズ・ウォー』四日目。
マルシオン平原は晴れあがった青空の下にあった。
一迅の心地よい風が頬をなでた。風は前方へと進み、背の低い草花を波のように揺らす。遠い景色の中、二重三重に広がる波紋は躍動する大海原を想起させた。
波に乗るように、平原を移動する丸い影。空を仰げば、そこには点在する雲の存在がある。
ただの雲の影であるが、この世界では天空を征く六足天馬・卷躊寧が地上に落とす影だといわれている。
パルミスの存在が信じられているというよりは、そのように言い習わされているということなのだろう。
神様の一匹や二匹本当に飛んでいてもいいと思える、そんな気持ちの良い一日だった。
視線を地上に戻すと、遠く見えるのは四神を信奉する四神殿の聖都・シジマだ。
牧歌的風景の中に突然現れるギンギラギンが一欠片のさり気なさもない存在感を醸し出している。
何もない砂漠の中に突然現れるラスベガスと似た印象を覚える。宗教も賭博も似たようなもんだし、いっそ姉妹都市提携すればいいんじゃないかな。
聖都の大神殿から伸びる三本の高い尖塔も、これだけ離れていると爪楊枝くらいの大きさにしか見えない。
でもって聖都から伸びる青い筋。それは傍を流れるユーコーン川までまっすぐにつながる人工の水路である。
ユーコーン川はここから視線をぐるりと移した聖都の南方を流れている。どうせゼロから都市を造るならこの川沿いに造ったほうが色々捗りそうなものなのだがそこはそれ、魔法であればなんでも使い放題の四神殿である。運河とまでは呼べないが、それなりの太さの疎水を掘って聖都を潤しているのだ。
水路は聖都を囲う堀に直接つながっている。おそらくは都市を囲う『銀壁』をより美しく見せるためだけに掘られたもので、外敵を防ぐための日本の城の堀とは初めから利用目的が違うのだと思われる。あるいは、単純に人を銀壁に近づけさせないための対策かもな。なにせ銀でできた壁だ。削って持って帰ろうとする不信心者もいなくないだろう。バレたときのお仕置きとの天秤がどちらに傾くかは個人差ありだ。
そんな聖都を視界に収めながら、風そよぐ丘の上で発動させるのは濬獣秘伝の【オウル・オール・ノウン/梟知全知】の魔法だ。
魔法発動と同時に自分の意識が風に乗り丘を吹き下ろしてゆく感覚に襲われる。
地上を滑る風となって、四方に散らばる視界。それは目の粗い網のようなもので、流れ行く視界の中、気になるところに意識を向ければ、そこに視界が固定される。そうして、魔法効果範囲内の全てを認知できる魔法が【梟知全知】なのである。
リスト、ダスカー、タリオンは部隊を率いて集団戦闘の訓練中。そして、四人一組で巡回する拠点防衛の兵士。夜間担当は柔らかい草の上で、今が丁度おねむの時間だ。
エテ公はレオニードと打ち合わせ中。口が動いているのが見えるが、この魔法では声は拾えない。まああの二人が聞いて面白い話をしているわけもないので、そこはどうでもいい。
フェルナと御者くんは六足馬の世話をしているようだ。昨日鹵獲した巨体の六足馬がシーズに猛烈にアタックをかけている姿が見える。それを男二人で必死に手綱を引いている。一方のシーズは意にも介さないおすまし顔でこれをガンスルー。さすが鉄面皮ルルシスの愛馬である。飼い馬は飼い主に似る。これもまた世界の真理だ。
チウチウさんのお料理部隊は、元気に野良仕事中。今日は晩飯抜きであるが、だからといって彼女たちの仕事が休みになるわけではない。今日がゼロなら明日は二倍の食事が必要ということで、今日もせっせこ働いているのだ。こういう獣人の働きようを見ていると、法国が奴隷労働力として彼らを手放せない気持ちがよく判然る。むしろ、他の列強各国がよく獣人奴隷制度を手放したものだ。
奴隷という最下級の身分を解放すれば、次は一般の平民が最下級となる。そして、今度は彼らの不満が溜まり、同様にこれも解放せざるを得なくなる。
それは封建制度の崩壊と同義であり、万民平等・人民主権の時代が訪れる。晴れて異世界デモクラシーだ。
それはともかく、このように【梟知全知】の魔法を使えば、ざっと数箇所の状況を同時認識できるというわけだ。
……いや、なんだこれ。入ってくる情報量が多すぎて普通の人間には処理しきれないぞ。たとえるなら、二時間の映画を五分で終わらせる超早送りで見るような情報量だ。その情報の濁流の中から必要なモノだけ拾い上げて意識を合わせるという高度な情報処理能力が求められる。魔法の難易度ではなく、情報処理の難易度が高いのだ。俺はたまたま並列思考が使えるのでなんとかなったが、これを普通に使えるルーヴァって実はすごいんだな。
とりあえず拠点内は問題なし、問題は拠点外である。防衛拠点を遠く望む平原の奥、馬に乗る人数五。林間に反応二。別の地点、土中に反応二。
馬の五人組は法国の騎士様御一行だ。王都が近いとはいえ毎日の情報収集、ご苦労なことである。林間の二は聖都の神官で、土中に潜むプロフェッショナルくんは皇国諜報部の諜報員である。『対ヴァンス三国同盟』には俺から直接最新の情報を流しているのだが、皇国の魔皇様はちゃんと独自の情報入手ルートを維持しているのだ。ルルシスは魔皇を餓狼のような人物だと評したが、なかなかどうしてきめ細かい対応のできる人物だ。野生の獣ではありえない。今のところの感想は味方で良かったということくらいか。敵側にいたら面倒くさい相手になっていたことだろう。
四神殿の連中は外に出ている二名以外にも何かしらの魔法でこちらの動きを監視しているだろうが、高位神官は聖都の中から直接監視魔法を発動させればいいだけなので、【梟知全知】には引っかからない。朝方には上空に数人浮いていたが、奇襲を仕掛けてくるでもなく帰って行った。まあ今日は、各地に散る神官を聖都に集めるのに忙しいだろうから、こちらに出兵の動きがないか直接確認にしきただけだろう。
もちろん何かするつもりがあるなら、当方に迎撃の用意あり、だ。一に対しては一の、二に対しては二の力で押された分押し返す。それがアイソバリック・ディフェンスの極意である。そうでなくても俺とニアヴの目を掻い潜って奇襲を仕掛けるのはかなり高難度のミッションなので、転移系の魔法が使える神官が出払っている今日は仕掛けてこないと思うが。
「あ、ちなみに皇国諜報部だけじゃなく、法国騎士も放置でいいぞ。彼らの諜報活動は妨害の必要なし。四神殿の神官はそうだな、レオニードに通報程度で。先輩が直接出向いて排除するようなことはしないように。それは一の力に一〇の力で対応するようなものだからな」
「はあ」
「索敵活動についてはこんなところだ。他に怪我人の治療も俺の仕事だ。近くに俺か駄犬がいれば、使えないこともない。食糧管理に関して、野菜は拠点内で収穫できるようにしているが、肉については毎日新鮮なものを取り寄せている。今日は馬車一台分のサチアロ肉が届くことになっているのでその受け取りをする予定だ。ほらあそこ、川向こうに山が見えるだろ。『対ヴァンス三国同盟』に協力するとある商会の人間があの山の裏手まで食材を運んでくるので、そこから馬車ごと転移魔法でここに運んでくる簡単なお仕事だ。軍費管理や兵士の不満低減策、生活向上策は優先度をつけて対応している。今はトイレ問題が最優先だな。一号から六号トイレが想定外の速さで限界水位に達してしまったので、新しく七号から二〇号トイレを造る予定だ。地上部の小屋はレオニードの部隊が組むので、土中に深い縦穴を掘るところは魔法の出番だ。でもって一号から六号トイレは蓋をして埋め立てる。『臭いものには蓋』、当然の道理だ。同盟への定時報告は夕方日が沈む時間。これも俺の仕事だ。そのときに入手した外部情報を連携するので戦況分析の判断材料にしてくれ」
「えぇーと」
このように目下、ウォーレン先輩に引き継ぐ俺の仕事を説明中だった。先輩にはこれから俺の右腕として働いてもらうのだから、色々知ってもらわないといけない。
いやしかし、本当にいい拾い物をした。人形だか竜だか知らんが、リゼルを撃退した先輩の実力は本物だ。ウォーレン先輩は使える子である。
「何か質問はあるか」
「そのですねー」
困ったように頭を掻く先輩。
「周辺索敵はいいとして、兵士の治療に食材の運搬とトイレの増築……半分くらいただの雑用のような」
「雑用といえば雑用だが、魔法を使えるヤツがやった方が効率のいい雑用だ」
「それはそうですが、えっと、それを全部一人で?」
「それな。これまで任せられる人がいなかったからな。ゆゆしき人材不足だ」
駄犬と小ニアヴ兄妹は最初からものの数に入らないとして、ニアヴもこういう雑務は手伝ってくれない。となるとあとはセスリナだが、セスリナを使えば逆に自分の仕事が増えるだけである。
結論として、自分でやるしかなかった。人材が来い。
何事か考え込むウォーレン先輩。
「その他に魔法道具の作成もされてますよね?」
「そうだな。壊れた魔法道具の補充に追加分の作成。おっと、今日は減った分のスプーンも作らないとな」
金属生成の【ジマズ・アルケミック・ベリー/地神創成果実】系の魔法はウォーレン先輩にも使えるだろうが、そこに黄源素を追加してステンレス製のスプーンを作る【ジマズ・ステンレスウェア/地神不銹鋼食器】は俺のオリジナル魔法である。
「盗まれたスプーンを回収すればいいんじゃないですか」
「それでもいいが……ここにいる獣人くんの中には法国で奴隷の身分だった者も多い。それは誰かに所有されていたということだ。自分の身体さえ自分のものでなく、唯一の心すら暴力に縛られる。たかがスプーン一本。だが、それを所有することでやっと自分が奴隷の身分から解放されたのだと実感できる、そういう者も中にはいるのだ。個人感情の問題を集団ルールに適用すべきではないと思うかもしれないが、これを無視して進むならば、なんのためのアルムトスフィリアだという話になる。結論として、なくなったスプーンの回収は行わないということだ」
アルムトスフィリア。『春を呼ぶ革命』は、獣人の自由を目的とした解放運動である。それは奴隷制という法からの解放だけでなく、精神的な解放もその目的の内だ。
「そもそもスプーン盗難程度の軽犯罪で犯人探しをするなど、皆の連携が求められる戦場においては百害あって一利なし。連帯責任の罰にしたのはそういった理由もある」
深く感銘したように息を吐くウォーレン。
「なるほど。そういう考えですか。一つ先、いえ、二つ先の未来まで見据えてのことだったのですね。まるで同じ経験があるみたいな説得力でした」
「奴隷の経験などないがな」
そう、同じ経験はしていない。俺の国に奴隷制は基本的に存在しない。
一部の農業と林業と漁業と鉱業と建設業と製造業と電気・ガス・水道業と運輸・通信業と卸売・小売・飲食業と金融・保険業と不動産業とサービス業と教育・医療・福祉業と公務員における労働の中にそれっぽい制度が残っているが、それは見なかったことにして。
俺に関して言えば、同じ経験をしていないどころか、彼らとは真逆に恵まれていた。
日本という国の福祉は立派なもので、親のない子にも十分な金がかけられ、様々なものが買い与えられる。
衣服、本、ゲーム、菓子。自由に使えるお小遣いですら与えられた。全て間違いなく自分の所有物だった。
ただ、そうでありながら、俺にとってはその全てが借り物だった。
あったのは自分の命すら自分の非所有物なのだという自意識。本来であれば、生まれてすぐに失われていた命が、たくさんの借り物に囲まれて、仮に生かされている。
自立できる年齢までひたすらに積み上がった借金を、俺は誰よりもまともな人間になることで返したかった。借り物全てを返せたそのとき、初めて本当に自分のものだといえる『何か』を所有できるのだと思っていた。
だから俺と彼らは同じじゃない。同じじゃないが、自分だけの何かを所有したいという気持ちは、少しだけ判然るのだ。
いいさ、スプーンの一本くらい。取り上げたりしないさ。
「どちらにしても、戦地で兵を率いる身分の人がする仕事ではないような。直接の指揮は猛将と名高いスローリ殿に任せるにしても、魔法に対する防衛、戦略の構築や戦術の更新なんかのワーズワードさんにしかできない役割を重視すべきだと思いますけれど」
「その通り。ゆえにお前の力が必要なんだ」
「はぁ。とりあえずはわかりました。僕がその雑用をやればいいんですね」
「いや?」
「え?」
「誤解のある説明はなかったと思うが……そうではなく、雑用が俺の仕事だ。トイレ増築なんて帝宮最高魔法師様のやる仕事じゃないだろ。ウォーレン先輩には今自分で言った戦略の構築や戦術の更新などの役割をやってもらおうかと」
「あのー。それはさすがに。それに僕はそういうの、向いてないというか」
「向いてる向いてないは次善だ。まずは能力のある者がこれを行う。それが『適材適所』ということだ」
「どちらかというと『竜殺しの勇者』な気がします」
お、それはこっちの世界で使われる慣用句だな。こういう切り返しがすぐ出てくるところがさすが先輩だ。
魔法については、膨大な源素を纏うティンカーベル体質と、どこぞの竜からもらったというメガネ型アーティファクトのおかげがあるのだろうが、それを除いてもやはり天才くんは天才くんだ。
こいつを一国のトップに引き上げた聖国皇帝は見る目があると言わざるを得ない。でもってその皇帝の娘がルルシスなわけだから、今の聖国は人材の宝庫である。
であれば、ウォーレン先輩をちょっとの間借りるくらいは許してくれるだろう。
やり取り自体を楽しむように俺は言葉を返した。
「なおのこと適役じゃないか、『竜殺しのウォーレン先輩』」
これまた困ったように頭を掻く先輩。
竜を殺せたとしても、その人間は勇者とは呼ばれない。竜に認められた者だけが勇者と呼ばれる。
『竜殺しの勇者』――その意味は『本末転倒』である。
◇◇◇
防衛拠点に接する雑木林に四匹の獣の姿があった。
四匹の獣、とそれだけ聞いてもここには獣の特徴を持つ人間――獣人がたくさんいるので誰のことかはわからない。
ここでいう四匹の獣とは、狐の耳を持ったのが三匹に犬っぽいが一匹のことである。
「おはようございますなのじゃ、ぱぐの姉者!」
「こんにちはですのじゃ、ぱぐぱぐの姉者!」
「おう、小狐ども。パグだのパグパグだの、アタシをバカにしてるつもりならまとめてブッとばすぞ」
「「ぴー!」」
ガルルと牙を剥く駄犬に、ナスサリア兄妹が抱き合って悲鳴を上げる。
実の年齢でいうとパレイドパグの方が双子よりも下なのだが、パレイドパグの魔法の能力を知って以降、双子から姉者と呼ばれるようになったパレイドパグである。
「やめぬか。お主の名はそもそもが呼びにくいのじゃ」
「てめェの名ほどにゃおかしかねェよ」
「それじゃ。力持つ者は言葉にも重みを持たねばならぬ。浮薄な挑発は心の内に制御せい。妾に頭を下げてまで教えを乞うた、己の決意まで軽いものにする気かや」
「……チッ」
渋い舌打ち。
ここで、更に言い返さないだけ、成長したというべきだろうか。
「ニアヴ様、ぱぐの姉者、今日は戦争はしないと聞いたのじゃ」
「戦争はしないし、晩ごはんも出ないのじゃ」
「そのようじゃな。飯はともかく、お主はワーズワードからなにか聞いておらんか」
「しらねー。話をしようにもあのヤロー、昨日からずっと新しいオモチャに夢中だしな」
「お主の魔法を弾いたあの若者かや」
それがパレイドパグには面白くない。ニアヴも表情には出さないが、共感を示すようにぶわっさと太い尾を揺らした。
しかし、二人がこのように話している姿にはなにか新しい感動がある。
一体、二人の間になにがあったのだろうか。
それを遡れば、パルメラ治丘に行き着く。
あのルーヴァ自治区での一件は、パレイドパグの心境に大きな変化をもたらした。
もともとワーズワードの旅の目的は、法国で王様ごっこをやっているアルカンエイクとコンタクトを取り、シャルの身を自由にするというもの。今では獣人解放、攫われたシャルの救出という新たな目的も加わっているが、それらはしかし、パレイドパグにとっての行動目的ではない。有り体にいえば、どうでも良かった。シャルのことは助けたいとは思うが、自分の大事な何かと引き替えにするほどの大きさではない。それくらいには他人である。
パレイドパグの行動目的はただ一つ。
ワーズワードと一緒に旅ができる。一緒にいられて嬉しい。一緒に遊べて楽しい。それだけだった。
楽しいついでに『世界の敵の敵』となったワーズワードを襲撃してくる他のエネミーズを華麗に撃退し、自分の有能さを見せつける。
どんな魔法も源素図形を見れば発動できるのだから、地球同様、この世界にも自分の敵はいない。傍若無人の『エネミーズ16』をやめる必要はまったくなかった。
最終的にはアルカンエイクと化け狐をまとめてぶっ飛ばし、シャルの問題が片付いた頃にはワーズワードは自分にメロメロだ。
――そんなパレイドパグの完璧な計画はリゼルの登場で破綻した。
天上の雲さえ切り裂く【アルテシア/乾坤剣】。気付いたときには全てが終わっている【タイム・ストップ/時間停止】。究極の魔法を操るリゼルにワーズワードですら不覚を取り、パレイドパグに至っては反撃の機会すら与えられなかった。
特にパレイドパグを打ちのめしたのは、リゼルに言われるまでワーズワードがBPM(ブレイン・パーソナライゼーション・メソッド)の発案者だと気づかなかったことである。
以前にワーズワードがBPMの方法論を詳しく解説したことがあった。天才の発想。煌めく才能。でもってジャパニーズ。ンなもん、その時点で気づけよって話だろ。
もしもリゼルの目的がワーズワードを殺すことなら、その目的は既に達せられていた。
なにもしないまま――何もできないまま、目の前で大切なものを失うところだった。
何が華麗に、だ。何がシャルの問題が片付いた頃には、だ。
ワーズワードと一緒にいることがただ嬉しくて、楽しくて。結局、アタシは何もしてこなかったんだ。
だから、パレイドパグは決意を固めた。
リムダイセルの村。『水神祭』で行われる生贄の儀式を阻止すべく、ワーズワードが足を止めたあの湖畔で。
とびっきりの決意を持って、パレイドパグはニアヴに話しかけたのだ。
『アイツは今、すげー頑張ってる。らしくもなくいろンなモン背負い込んでよ。らしかねェけど、悪くもねェ。誰にどう思われようがやりたいことやンのがアタシらだ。やりたいなら、やりゃあいい。アイツがやるってンなら、アタシが誰にも邪魔させねェ。だから――』
そこまで言って、口ごもる。
――だから、アタシに魔法を教えてほしい。
そのたった一言が出てこない。これまで全部一人でやってきた。欲しいものはポチればいいし、気に入らないものには噛み付けば良かった。誰かに何かをお願いしたことがない。頼み方がわからない。なにより、その相手が誰よりも一番気に食わない化け狐である。
遠回りな言葉を重ね、そしてついに言葉もなくなり、口を閉じた。
ザザーン。
無音に割り込むように、緩やかな波音が響き、ぴーぴるるーと鳥が鳴いた。
耐えかねたようにニアヴが息を吐いた。
『たわけ。ワーズワードもそうじゃが、お主らの生まれた世界では心のままに話すことを禁ずる法でもあるのかや。よく聴こえる耳を疎ましゅう思ったのは今日が初めてじゃ』
『ああ? 何が言いてェんだ』
『気に入らぬと言っておるのじゃ』
『……ハッ、そりゃこっちのセリフだ。クソ、じゃあもういいぜ!』
『全く気に入らぬ。気に入らぬことじゃが……助けを求める純粋な聲に弱いというのもまた妾たちの性なのじゃろうな。構えよ、手取り足取りなどお主も望んでおるまい』
じゃり……と砂を踏むニアヴ。その眼前に源素が集まってくる。それらが銀糸のような腕を伸ばして、源素図形を形作る。ルーヴァは【プレイル/祈祷】なしに魔法を【コール/詠唱】できる。
捨て台詞で立ち去ろうとしたパレイドパグが足を止めた。
ニヤリと口角を上げる口元に小さな犬歯が覗く。
『ああ、そいつは願ったりだ。キャハハハハッ、見せてみろよ、テメェの全部を盗んでやンぜ!』
『それがお主にできればの――弾けよ【バニシングバード・エア/溌空鳳】!』
気流操作の魔法が砂粒を巻き上げ、パレイドパグの視界を奪った。
全てを盗むといっても、見えないものは盗めない。
『は? ちょ、そりゃナシだろ!』
虚を突かれたパレイドパグが砂から守るために目をつぶる。
それを狙っていたかのように、強烈な風の圧力が向きを変えた。下から上へ。パレイドパグの両足が地面を離れ、宙を掻いた。浮遊感に驚いて目を開くと、上下が逆転した視界の中、空のように青い湖面が頭上に煌めいていた。
高さで言えば一〇メートルくらいであろうか。水泳競技の高飛びであればそれくらいの高さからダイブするので、人によっては大した高さには感じないだろう。だが、それは引きこもりのパレイドパグには無限に感じる高さだった。
『ふぎゃーーーー!!』
長く尾を引く絶叫。重力に引かれ落下。そして、着水。
『ぷっはッ!』
『この程度にも反応できぬのかや。これは先が長そうじゃのう。これからのことを考えると妾の心も痛むのじゃ、くふふふっ』
『嘘つけ、性悪狐! てめェ、 マジでやりやがって、ブッ殺すッ!』
『やってみよ、それができれば晴れて雛を卒業じゃ』
そして、ニアヴとパレイドパグの秘密の特訓が始まったのだ。
◇◇◇
「甘い、そして遅い。妾であれば、お主が一度魔法を使う間に二度ワーズワードを殺せておる」
「もう一回!」
ナスサリア兄妹の眼の前に魔法の奥義が吹き荒れていた。
「すごいのじゃ!」
「すごい勉強になるのじゃ!」
ウカとシズナは年若いとはいえ、こと魔法においては特別な才能を持つ。
そんな二人の目から見ても、異常だとしか思えない高度な魔法戦。
宣言通り、ニアヴは一切の手を抜かなかった。実践と実戦。二人の特訓は見ているだけでも多くの経験を得られるものだった。
「ハァハァ、うらあッ!」
「どうした、もう足が止まっておるぞ。ワーズワードも大概じゃが、お主の体力は赤ん坊以下じゃな」
「クソが、もう一回だッ」
誰の目も届かない所で続けられる秘密の特訓の日々。
二人揃っていなくなる状況も不思議と思って姿を探せば不思議になるのだろうが、そう思う前にいつの間にか戻ってきているため、誰も二人の不在を不思議に思うことはなかった。
聖都攻略戦の準備に忙殺されていたこともあるが、ワーズワードですら気づかなかったのだから、この特訓を隠すためにニアヴの心の『聲』を聴く能力が遺憾なく発揮されていたと思うべきだろう。
「――走れ【サラマンド・ランナー/火鯢疾走】!」
「魔法、障壁――しャア!」
「阿呆。一度身を守っただけで緊張を途切らせるでない。お主が止まっても相手は止まらぬ。流れを感じよ。次を予見せい。真の強者は必殺の一撃すら牽制に変えて次に繋げてくるものじゃ。このようにの――」
地に潜む魔法生物と並行して距離を詰めていたニアヴの掌底がパレイドパグの顎を打ち抜いた。
勢いのまま草むらに転がるパレイドパグ。強力な治癒魔法も瞬間の痛みまでは消し去ってくれない。指のささくれですら死の痛みに感じる現代人にとって、直接殴られる衝撃はそれだけで失神ものだ。
「ぱぐぱぐの姉者!」
この秘密特訓に参加するようになって以降、妹のシズナは特にパレイドパグに心酔しているようだった。繰り返すようだがシズナの方が年上である。
経験したことのない痛みに眦に涙が浮かぶ。心が怯む。これまでのパレイドパグであれば、ここで放り出していたかもしれない状況で、しかし彼女は立ち上がった。
「ぐぐ……いッてェ! てめェ、直接殴ってくるとか卑怯かよ!」
「事切れたワーズワードの死体の前で同じ言葉を口にするつもりかや。あの人形娘であれば、あるいは笑って応えるかもしれぬがの」
パレイドパグには耳の痛い皮肉である。
事実、リゼルであれば、笑顔をもって応えるであろう。
「くそ、源素が見えて、どんな魔法だって使えるってのになんでテメェ一人に勝てねェんだ」
自分は火神の燃える魔法も水神の凍える魔法も風神の吹きすさぶ魔法もルーヴァの秘伝魔法ですら詠唱できる。
なのになんでだ、とパレイドパグが吐き捨てる。
ナスサリアの双子が同意を示すようにコクコクと頷いた。
確かにルーヴァであるニアヴが敗北する姿は想像できないのだが、無詠唱で複数の魔法を同時・連続に発動するパレイドパグもまた想像を越える魔法の使い手である。目に見えるほどの実力の差があるようには思えない。
そうであるにも関わらず、いつもあと一歩の所でニアヴに届かない。
そのあと一歩の差がどこにあるのか、双子にもわからないのだ。
諭すように、あるいは導くようにニアヴが静かに口を開く。
「お主に魔法の源が見えるとて、それでお主が万能になったというわけではない。魔法を使えることと使いこなすことの意味は違う。見るが良い。発火せよ――」
――【フォックスファイア/狐火】。
ニアヴの詠唱により魔法が発動。大きく燃え上がった黄金の炎が、曲線を描いて地に落ちた。
炎は揺らめきながらその形状を変えてゆく。
四足を伸ばし、大地から立ち上がり、膨らんだ火炎が、そのまま頭部となる。
尖った耳、つきだした鼻、二つの目と鋭い牙。より詳細に獣の特徴をそなえてゆく魔法の炎。
最後にぱっと輪を描いて弾けた紅炎がそのまま太い尾となった。
現れたのは一匹の炎の狐。
自ら意思を持つようにニアヴの緋の袴に頭を擦り寄せる。それで燃えてしまわないのが【狐火】の特徴だ。
「狐なのじゃ、炎の狐なのじゃ!」
「しっぽを振っておるのじゃ、かわいいのじゃ!」
ちなみにだが狐の獣人が通常の狐を見た場合の感情の中に、それが自分の同胞だとかご先祖様だとかいう気持ちはない。
単純に野生の動物の一種でしかなく、見るだけならかわいいと思うが、撫でようとは思わない。野生の動物に触れることで発症する病気は多いのである。
畑を荒らす狐を狩り殺す程度には人と動物の関係であり、特別な感情で見る対象ではないのだ。
鼠の如き小動物を種の起源とし、猿の姿を経て人へと進化した己の歴史を知る現代人類とて、鼠や猿に特別な感情を持たないのだから、それだからといって、獣人を薄情ということはできまい。
炎の狐の姿を持つ【狐火】を初めて見たパレイドパグは、驚きにぽかんと口を開いた。
「なんだそりゃ、【狐火】って薪を燃やすための魔法だろ」
「……ほんにお主は。じゃが、つまりはそういうことじゃ。お主の使うは【狐火】はただの火炎魔法であり、妾の使う【狐火】とは別物だということじゃ。ワーズワードは【狐火】の魔法を光と熱の特性に分解するというおよそ信じられぬ解釈をしおったが、それとても【狐火】の真髄ではない。妾とお主との違い、わかるかや」
「テメェとアタシの違いだぁ?」
挑発的な口調とは裏腹に、炎の狐を見つめるパレイドパグの瞳は真剣さがある。
【リープ・タイガー/飛虎】と同様に感情を持つかのように踊る炎狐。
見るだに自分が唱える【狐火】と同じ魔法とは思えない。
炎狐の体内に透けて見える源素図形に違いはない。源素の大きさも特別変わらない。
では一体なにか違うのか。
源素に違いがないのであれば、それは魔法を使う術者の側にあるのだろう。
「経験の差、技術の差……いや違ェ、それだけならワーズワードはとっくに同じレベルに達してるはずだ。技術じゃねェなら、あとは……手順か。コイツらにあってアタシにないもの――」
ニアヴにあって、パレイドパグにないもの。それすなわち――
「もしかして、【詠唱】ってやつか。心をこめて、魔法を唱える。アタシたちに必要ねェものが、実は一番大事な要素だってことかよ」
地球からの転移者は源素図形さえ正しければ、【詠唱】せずとも魔法を発動できる。ライターを使うときに「炎よ、燃えろ! バーニングライター!」などと声を発して着火ボタンを押す人間がいないように、パレイドパグもまた魔法の【詠唱】になんの意思も込めていない。機械的に図形化し、機械的に発動させている。
もちろん発動した魔法を制御することは必要だが、それは制御であって、意思ではない。
感心のような、苦虫を噛み潰したような、判断の難しい表情を見せるニアヴ。
「答えにたどり着くまでが早すぎる! 全く、お主らは揃いも揃って。じゃがまあ正解じゃ。妾たち魔法を使う者は皆信心深い。神に対する畏敬と尊崇、感動と感謝、自律と節制を持つ。心に祈り、言葉に落とす――それが【祈祷】と【詠唱】じゃ。それこそがお主らの使う魔法に圧倒的に欠けているものじゃ」
「感謝? 確かにンなもんはねーな。でも待てよ、それならテメェだって【詠唱】はともかく【祈祷】は使ってねェじゃねーか」
「妾はルーヴァじゃ、声に出さずとも聲がある。お主に聴こえぬだけで使っておらぬわけではない」
『聲』とはルーヴァのみが持つ心の聲を聴く能力だ。その能力が【祈祷】を必要としない【詠唱】を可能とするらしい。ルーヴァは謎多き存在であるが、その最も大きな要因はこの『聲』に関する能力に他ならないのかもしれない。
「源素の見えねェこっちの魔法使いどもがどうやって魔法を使えンのかは確かに不思議だったが、つまりこういうことなのか? 源素は心の中で移動の念を込めりゃ、その通りに動かせる。同じように源素をたまたまうまく図形化できちまう祈りの形があったと。この世界の長耳どもは、あやふやなテメェの心を明瞭口に出すことで源素を図形化してるってことか」
目に見えぬ源素を図形化する。それは偶然の幸運、あるいは必然の運命の元でしか起こりえないものであったのだろう。
「んでもって、同じ言葉は、それを口にする人の心も同じにする。宗教の基本だな。努力の積み重ねでも、手探りの偶然でもなんでもいい、たまたま源素を図形化できる新しい祈りの言葉、【祈祷】が見つかりゃ――」
ニアヴが頷く。
「別の者も同じ魔法を使えるようになる。そういうことなのじゃろうな。それが妾たちの信ずる魔法の理であり、ワーズワードの源素理論とも矛盾せぬ解であろう」
「盲目なりの知恵、偶発蓄積の集合知だったってことかよ。うへぇ、気の遠くなる話だぜ」
偶発蓄積の集合知――それはまさに『四神殿』を指す言葉である。
ルーヴァは不老長命と秘伝の継承で。短命な人族は、記録と組織化で。魔法という不可思議の技術を現代につなげているのだ。
げーと舌を出す少女の姿がおかしかったのか、炎狐がはしゃぐように跳ね回る。
本物の生物の如き振る舞い。どのような念を、感情を、祈りを込めれば、このような魔法の真髄に到達できるのか。
理論を聞き、現物を目の前に見てもパレイドパグにはその実現方法が見つけられない。これが魔法の真髄だというのなら、今のパレイドパグはその入り口にも立てていない。
これまでの特訓が全て徒労であったとも思われる、それがニアヴの教導だった。
だが、
「言いたいことはわかったぜ」
「うむ。そうであろう」
並の人間なら心が折れていたかもしれない。あるいはこれまでのやり方を捨て、魔法の真髄に一歩近づこうとしたかもしれない。
だが、少女はそうではない。できないと諦めない。かといって自分を変えたりしない。
『だってさー。どうする、【祈祷】っての覚えてみる? 意味なーし。同意。同意ツヴァーイ。だよねー。口に出した所で感謝も畏怖も感じないわ。そもそも神様信じてないし。とりあえず目の前にあるこれをもう少し分析してみる? 結果が目の前ある。なら、やりようはあるでしょ。うん、絶対再現できるよね。できないわけない。同じ結果を得られる別のやり方――それくらいできなきゃ、化け物の名折れだわ』
パレイドパグが思考に埋没する横で、ナスサリアの双子がニアヴに頭を下げた。
「ニアヴ様、次は我らにも稽古をつけてほしいのじゃ」
「ほしいですのじゃ」
「良いじゃろう。昨晩の言を覚えておるぞ。あのオーム・ザラを相手にできるという根拠、見せてもらおうかの」
「「はいなのじゃ!!」」
元気よく答えたウカとシズナがトーンと大きく後方に跳ねる。対魔法戦の間合い――接敵距離は詠唱する魔法の種類によって変わってくるが、近すぎれば妨害され、遠すぎれば威力と命中が落ちる。
ニアヴと双子との距離はおよそ一〇メートル。この距離で放つ魔法は当たれば必殺の一撃となるものが多い。
「我、炎獣・溶鴻碎に願い奉る。地底に燃ゆる赤の血流、地上に顕現し我が敵を撃滅せん――」
「我、天魚・英忝今淤に願い奉る。其の深き寝所を守る猛き大渦を貸し与えん――」
重なる二つの【祈祷】。息ぴったりである。
「なるほどの、二人同時の魔法詠唱あるいは時間差詠唱かや。相手が一人であれば、追い詰められるやもしれぬ。じゃが、その程度、妾に通じるかの。まして人族の最高峰、近衛神官に」
二人の意図を見抜いたニアヴが厳しい判断を下す。
息の合った双子による二重の詠唱は、確かに他の者が行うよりはよい連携が取れるだろうが、オーム・ザラはそれだけで崩せる相手だとは思われない。
そんな分析を弾き返すように、ウカが笑みを浮かべた。シズナもまた同じく笑みを浮かべる。二人揃って自分では不敵な笑みを浮かべているつもりなのだろうが、ピコピコと耳を動かす無垢な笑顔はただかわいいだけである。
「通じるか通じぬか、これを見てから断じてほしいのじゃ、ゆくのじゃ、妹者!」
「いつでもいけるのじゃ、兄者!」
二人の【詠唱】が重なる。
「――裂けよ【マグナズ・ファイアブラッド/火神炎血】!」
「――固めよ【イサナウオズ・ウォーターボルテックス/水神水渦】!」
粘度を持つ火炎を放つ【火神炎血】の魔法と大渦を生み出す【水神水渦】の魔法。前者の魔法で一〇メートルの距離は遠すぎるし、後者は水中であれば有効だが、水自体を生み出す魔法ではないので地上で唱えても意味がない。
なによりも組み合わせがあべこべで、この二つの魔法を同時に詠唱した所でなんの連携にもならない。
双子の心の聲――それは今も自信に溢れているが、この魔法を自信満々に放つ双子の意図までは読めず、ニアヴは逆に混乱する。
しかし、その疑問はすぐに回答を得た。
本来前方へ放射されるだけの火炎が、ニアヴの目の前で渦を巻いたのだ。
そう、水の代わりに炎を――
双子の声が重なる。
「「これぞクダンの秘術、【フレイムトルネード/火炎竜巻】じゃ!」」
主人の危機を察した【狐火】が己自身を火球に変えて【火炎竜巻】の前に躍り出る。
しかし、ただ前方からぶつかるだけでは、渦巻く回転のエネルギーを纏った粘性の火炎を打ち消せない。
これはただの魔法の掛け合わせではない。最大の相乗効果をもつ魔法を研究し追求し完成させた、いうなれば魔法合成の秘術だ。
その威力を認めたニアヴが全力で回避する。
祈祷不要のルーヴァとはいえ、この威力を相殺できる魔法を瞬時に唱えることはできないと判断したのだ。
チリリと尾をわずかに焦がして【火炎竜巻】が通りすぎる。振り返ると双子の位置からニアヴのいた位置まで、真っ黒に焦げた一本の道ができ上がっていた。
「まさかこのような魔法を操るとは想像しておらなんだ。ウカ、シズナ、そしてこれを成したクダンの一族よ、あっぱれじゃ!」
「ニアヴ様に褒められたのじゃ!」
「やったのじゃ! 嬉しいのじゃ!」
称賛を隠さず、ニアヴが声を上げる。
喜びを隠さず、双子が声を上げる。
そして、それを横から見ていたパレイドパグもまた、大きく声を上げた。
「それだー!!」