Double Dragon 23
それがいつなのかと問われれば、ワーズワードとジャンジャックが刹那相まみえた、あの日に戻ることになる。
血に染まるジャンジャックをお姫様だっこしたリゼルが転移した先はまさにこの場所――『アルトハイデルベルヒの王城』地下、封禍宮だった。
暗い廊下で、二重奏を奏でる足音。
一つはリゼルのもの。もう一つは、ひょろりとした印象の薄い男性のもの。
金髪碧眼。ややくすんだ色の髪はウェーブがかって縮れている。糸のセーターと綿のスラックスは異世界転移時の格好のまま。
だとすればもう三日も同じ服を着続けていることになるだろうか。男の名は『リズロット』である。
「ジャンジャックは初めてでしたね。ここはレニの牢獄です。地下への出入りはアルカンエイクが禁じているので、妖精はやってきません。ボクにとっては使いやすい場所です」
「こんなじめじめしたところを住み家に選んじゃうあたり、さすがプロのアンダーグラウンダーって感じよね。根暗だわ、根暗!」
これは一体どういうことなのか。ワーズワードの考察によれば、リゼルはリズロットの操る人形だという話であったが――
「リズロット……」
「なんでしょう」
「なにー?」
絶命寸前のジャンジャックの声に二人が同時に反応する。
血に染まる黒衣の少女は、眉をひそめることに残る力の全てを振り絞った。
「一心別体……己の自我を複製する魔法など……なんとおぞましい……」
「まー、古めかしい考え。汎用多能性幹細胞を利用したクローン医療なんて今じゃ珍しくないでしょ? 肉体の複製は許容できるのに自我の複製は許容できないなんて、どこの神学会の教えかしら」
「いえ、そんなはずはありません。ボクの知る限り、ニンジャは自分の心を別なる肉体に移し替える『魂二ツ』のヒッサツワザを使えるはず。それはボクが使った【ガーディアン・フォーム/竜化転生】の魔法と同じ効果を持つニンポーでしょう」
『魂二ツ』。ソウル・コンバージョンと英訳されるその忍法は、おそらくなんぞやのジャパニメーション(忍者モノ)出典の知識であろう。
いずれにしても、自らをリゼルと名乗る女性は、リズロットの操り人形ではなく、リズロットから複製された存在だというのだ。
複写された自我――コピー品であるが故、それは濬獣の耳を震わす『聲』を発しない。
「自我の複製は現代には伝わっていない古の魔法技術ですね。不滅の肉体へ己の自我を書き写す――求めたのは不老不死の実現なのでしょうが、アルカンエイクから得た知識によれば、この方法は失敗だったようですね。オリジナルを離れた自我は、肉体の在りように引きずられ、その性質を変えてしまうというのですから」
例えるならば、人とは、人の魂が人という肉体に収まっているからこそ人たりえるということだ。もし仮に人の魂が犬の肉体に宿れば、その魂は犬という肉体に引きずられ、やがて完全な犬へと変じてしまう。
同じく、不滅の肉体に複写された人の自我は人ではない別のものへと変質した。不老であるがゆえに生に対する興味を失い、不死であるが死に対する脅威を失い……そうして誕生したのは機械の如き生命だった。人の姿を持ち、人の言語を操ろうとそれはもう人ではない。すなわち『竜』である。
「ボクはジャンジャックやディールダームと違って、表立って動くのは苦手です。いい魔法を教えてもらえてラッキーでした。表で動くのはもう一人のボクに任せます」
「りょうかーい☆ 【竜化転生】っていっても、自分が竜になった実感全然ないんだけどねー。あ、この部屋はどう?」
地下でまともに使える一室を見つけたリゼルがリズロットに声をかける。
「あまり衛生的とは言えませんが良いでしょう。治療といっても手術を行うわけではありません」
リゼルに応えたリズロットが懐から美しい造形の宝玉を取り出す。
アルカンエイクの自室に飾られていたマジック・アーティファクト『傷を癒す宝玉』だ。
「ボクが魔法で治してもいいのですが、まだ魔法は不慣れです。ここは失敗のない方法を取りましょう。この遺物の治癒効果は確認済みです」
「勝手に持ってきたのね。リズロットってば悪い人っ」
「ふふふ。そうです。ボクは悪い人間なのです」
端から見ればおかしいところのないように思われる二人のやり取りは、内実的には独り言なのだ。
リズロットとリゼルのやり取りは、当人以上に聞いている側が耐え難い。ジャンジャックが眉をひそめるのも当然だ。
これに関して、『人は同じ自分が複数いることに耐えられない』と論じたワーズワードは実に正しかったと言えるだろう。自分自身と普通に会話しているリズロットの方が圧倒的におかしいのだ。
「やめるでござる……拙者は、望んでござらん――」
忍びのまま、忍びとしての使命の中で露と果てる。そんな彼女の望みは、だが叶わない。
リズロットの手がジャンジャックの傷口に触れる。それだけで白い手が紅に染まる。苦悶を浮かべる黒衣の少女。未だに息があるのが不思議なくらいの出血量だ。
濡れた手を『傷を癒す宝玉』の上にかざすリズロット。その指先から滴る命の雫。果実の形状をした宝玉の上にぽたり、ぽたりと一滴二滴。それが魔法効果発動のトリガーとなる。
宝玉の発光とともに、優しい光がジャンジャックを包んでゆく。鮮血の赤が白い光に変わり、抉られた傷が見る間に塞がってゆく。
パルメラの使う【ドッグドック/犬医】も強力な治癒魔法だが、古の王国の秘宝はそれ以上だ。もしアルカンエイクが、いやアルカンエイクでなくともリズロットが『宝樹の心果実』の源素図形を解析して、別の魔法道具として再構築・大量生産するならば、この世界の医療レベルは地球を越えるかもしれない。
しかし、彼らにそのような考えはない。自己のために使うことはあっても他者のためには使わない。
ジャンジャックの治療はあくまでリズロット自身のため。本物のニンジャをもっと鑑賞したいという興味本位な目的のためだ。
魔法効果が発動すれば、治癒するのは一瞬だった。
弛緩していたジャンジャックの手足に活力が戻る。リゼルの腕を解き、床の上に片膝をついて降りたった。
「もう治ったようですね」
「……かっか。拙者の今の気持ちをそのまま伝えるでござるよ。リズロット」
怒気のない怒気。あるいは日常の一コマ。
立ち上がったジャンジャックの姿がふっと消える。いや、地下の闇に同化する黒衣と黒髪が故に、その姿を見失ったのだ。
ドシュッ――
次の瞬間には完治したジャンジャックの手刀がリズロットの胸部を貫いていた。
『心宿りし刃』――ジャンジャックの全身は、どこをとっても凶器であるが、特に己の腕を一本の刃金に変える忍法『扠手の術』は、長く厳しい鍛錬の末にやっと得られる忍びの極意の一つである。
刺突の勢いは胸部を貫くだけに収まらず、強烈な勢いでリズロットを吹き飛ばした。その体は奥の壁へとぶち当たり、そこで大量の血を室内に撒き散らした。
死に際の一言を遺す暇も与えない、完璧な殺しの技だ。
「拙者を救わば、こうなることは予測できたでござろう。愚かなり、リズロット」
冷静な忍びらしからぬ感情の爆発。『自由の女神破壊事件』がそうであるように、己の思い通りにならないことがあったとき、つい癇癪を起こして別のものに当たってしまう。そういうところがジャンジャックにはある。
「ワォ、何度見てもアメージング! 本物のニンジャの技って素敵! まあそうよね、殺すわよねー。私でもきっとそうするもの」
惨劇の室内にきゃっきゃと響く嬌声。
自分の死を、リゼルが拍手で受け入れる。それも皮肉や狂気ではなく、ごく普通な物言いで。
故に引き立つその異様さ。
「あら? 本体が死んだのになぜ、って顔してるわね。考え方の違いかしら。んー、こういえばわかるかしら。ジャパニメーション作品には二次創作ってあるじゃない? 上品で貞淑な原作キャラも薄い本で犯される闇落ち二次キャラも、私はどちらも同じだけ大好きなの。複製かオリジナルかなんて私は気にしない。私はリゼル。そしてボクが『リズロット』――なのだわよっ☆」
そうして小悪魔なウインクを飛ばす。
唯一無二の自我でさえ複製品があるならば問題ないというリゼル。およそ信じがたい発想。
著作権無視の違法アバター(アニメキャラ限定)を作成するサイバーテロリスト、『エネミーズ12』リズロット(L.L.)――彼の著作権無視の精神は、自分自身にも適用されるというのである。
ゾクリと背筋を震わせる冷風。沸騰していたジャンジャックの感情が一気に冷却されてゆく。
死を恐れぬ忍びにこのような別角度からの恐怖を与えられるのは、リズロットだけであろう。
「……まさに魔性。お手前こそ真の化け物でござる」
呟いたジャンジャックはリゼルと同じ空間にいることを嫌うように、転移魔法を発動した。
そして、暗黒の地下には『リズロット』のみが残された。
◇◇◇
「フィリーナさまっ」
絶叫し、気を失うフィリーナ。ふらり倒れる彼女をシャルが横から支える。
「びっくりさせちゃった? こんな格好でごめんねっ。にしても、まさかあんな隠し玉がいるなんて、さすがのリゼルちゃんもノーマークだったわ」
口調はいつも通りだが、その姿はシャルにとっても想像し得ないものだった。ワーズワードすら圧倒してみせたリゼルの服はボロボロで髪も一部が焼き切れ、土埃を被っている。
何者かと全力で戦って敗北した――そんな状況を思わせる満身創痍の姿だったのだ。
「リゼルさん。そのお姿は。それに、この崩れた部屋の中の人、さっきフィリーナさまが『リズロット』って。確かワーズワードさんとパレイドパグさんが、リゼルさんのことを同じ名前で呼んでいました」
シャルが、華奢な外見からは想像できない気丈さでリゼルに問いかける。いざという時にはこういう芯の強さを発揮する少女だ。
「ふふー。まあ見られちゃったものは仕方ないわ。そうよ、そこのそれはリズロット。つまり、私」
「あの……よくわかりませんが、今ならまだ助けられるのではないでしょうか。リゼルさんがワーズワードさんと同じくらいすごい魔法を使えるのでしたら」
何を思ったのか、そんなことをいうシャル。
「それはワーズワードの敵よ。敵を助けたいっていうの?」
「関係ありません。目の前に死にそうな人がいたら、助けるのは当たり前のことです」
迷いなく発せられる――それはシャル自身が持つ、価値観だろうか。
まず生命の尊重がある。善悪や敵味方、利益不利益といった俗で属な判断基準が入るのはその次でいい。自分のことはさらにその後だ。
自然体で自分より他者を尊重できるこの価値観に、人と人のつながりが希薄な時代に生まれたワーズワードやパレイドパグ、さらにはリゼルさえも惹きつけられたのだろう。
「こういうのって知識や教育の問題じゃないし、ましてや文明度なんて全然関係ないものなのね。いつの時代にも存在し得る奇跡のようなものかしら?」
まるでジャンヌ・ダルクだわ、といったリゼルの言葉はシャルにはなんのことかわからなかった。
「私が『青髭』なら、部屋の死体を見ちゃったあなたたちを殺さなきゃいけないところなんだけど……そうねー、これが死体じゃないなら、その必要はないってことでいいかしら?」
しかし、なぜシャルは助かりそうな傷だと思ったのだろうか。
シャルは、パルメラ治丘でワーズワードが治癒魔法の効果検証をしているのを横で見ていたので、どの程度の傷なら魔法で治せるものなのかがなんとなくわかる。
とはいえ、ジャンジャックがリズロットを殺したのは三ヶ月以上過去の話だ。いかな『傷を癒す宝玉』であっても、死後一〇〇日もたった死体を蘇らせることはできない。
その答えもまたリゼルが握っていた。
「暗くて寒い地下っていう条件がいいみたい。太陽光の下じゃ一分しか持たない魔法が、ここでなら何ヶ月も持つんだから。やっぱり太陽って最強のエネルギー源なのね。シャルちゃんがそう言うなら、私を生き返らせましょう。でも、きっとワーズワードはいい顔しないわよ。そうなってから後悔しないでね……えいっ、『マジカル・タイム・ストップ』解除っ☆」
そう言って【タイム・ストップ/時間停止】の魔法を解除するリゼル。これが答えだった。
ジャンジャックが消えたあと、リゼルは【時間停止】でリズロットの時間を凍結したのである。
オリジナルのロストを危惧したというよりは、なにかあったときに再利用できるかもという程度の考えで。
ゆえに、リズロットの肉体は今も三ヶ月前の死の直後そのままの状態なのだ。フィリーナが『昨日死んだばかりの死体』だと思ったのは、非常に正しい認識だったと言える。
魔法効果解除とともに、凍結されたリズロットの時間が動き出す。
胸部の穴から再び吹き出す血液が床を汚し、重い頭部が重力に引かれ、グラリ傾く。
時間停止魔法を解除しても、やはりリズロットは死んでいる。
「あとはこれね。色々と不便な世界だけれど、医者いらずっていうところだけは便利でお手軽だわ」
その手にはおそらくまた勝手に持ち出してきたのであろう『傷を癒す宝玉』がある。となれば、シャルに試すようなことを言いながら、最初からオリジナルの蘇生が目的だったということだ。こういうところが実にリゼルである。
ちなみに、地神系の回復魔法は四神殿の稼ぎ頭であり、お手軽とはいえない費用がかかる。故に魔法より安価な薬花治療を行う医者という職業はちゃんと存在しているので、医者いらずな世界なわけでもない。
リゼルは当たり前のようにこれを持ち出しているが、この宝玉は存在自体が奇跡であり、本来は名君・名宰相や大陸中に名を馳せる勇者、あるいは四神殿の聖人など、歴史に名を残すような重要人物にのみ使用が許可される代物だ。
人物選定の役割を担っていた森珠国が滅んだ後は、もっぱら世の厄災を治癒することに使われているあたり、やはり強力なマジック・アーティファクトは正しい管理者により使用が制限されなければいけないのであろう。
白い奇跡がリズロットを包む。千切れた筋が繋がり、破れた皮膚が再生する。リズロットの青白い肌に赤みがさし、ドクンと胸が跳ね上がった。
そして――男は血に黒ずんだ衣服を気にしながら立ち上がった。
「おっと、もしかしてボクはジャンジャックに殺されていましたか。血の乾き具合を見るに、一ヶ月以上……死ぬのは初めてでしたが痛みは我慢できないほどではないんですね。少し耐えるだけですぐに楽になりました。何事も経験してみるものです」
「それは相手がプロだったからじゃないかしら? 下手くそに殺されたら、きっと二度と死にたくないって思うわよ。でもうらやまし~。ジャンジャックに殺されるなんて、きっと一生の宝よ!」
「同感です」
死の体験を喜ぶ、通常ではありえない共感。
だが、さもありなん。リゼルとリズロットは同一存在である。
「ですが、あなたがいればボクは別にいらないでしょう。何かありましたか」
「そうそれ。リゼルちゃん、ちょっと調子に乗りすぎちゃったわ。最後まで見ていたかったけどここでバトンタッチ。引き継ぎとしてはアレね。『ウォルレイン・ストラウフト』っていう面白い子を見つけたわ。ワーズワードと並んで観察対象になりうる存在よ」
「ウォルレイン・ストラウフト? 知らない名ですが、ボクがそういうなら記憶にとどめておきましょう」
「ええ。じゃあ、続きはよろしくっ☆」
なんのつもりか自分自身に向かい、小悪魔なウインクを飛ばすリゼル。そして――役目は終えたとばかりに、そのまま倒れ伏した。
ボロボロなのは見た目だけではなかったらしい。口調はいつも通りだったが、その内部に回復不能なダメージを負っていたのだ。
「リゼルさんっ」
思わず声を上げるシャル。
「あの……リズロットさんと呼ばせて頂いてよいのでしょうか」
「あなたはワーズワードのティンカーベルですね。ふむ、あなたがここにいるということは、ボクは順調に目的を果たせているようだ」
「そんなことはどうでもいいんです。リゼルさんにも回復の魔法をお願いしますっ」
シャルは攫われてきた身ではあるが、そのおかげでレニの現状を知ることができ、フィリーナの力になることができた。全てが不幸だとは思わない。リゼルの全てが悪だとは――敵だとは思わなかった。
「無駄ですね。これはもう直りません」
「そんなっ」
蘇生したばかりのリズロットであるが、その観察眼は『人形』の状態を正確に把握していた。
リゼルは妖精という素体に魔法を付与した水晶珠を埋め込んで【竜化転生】した、いわば『中途半端な竜』である。本物の竜のような不死性を持たず自由な魔法の行使もできないが、内包する自我は肉体的制限を補って余りある破格の魂だ。
そんなリゼルを一体どうやって――
「これはもう直りません。ですが、気にしないでください。これはボクの代わりをしていた人形です。役目を終えただけだと思って頂いてかまいません」
「リゼルさんが人形……」
リズロットがそういうのであればそうなのだろうが、シャルにはまるで理解が追いつかない。
「ああ、これがいなくなったからと、逃げ出そうなんて思わないでくださいね。ボクのことですから何かしらのトラップを仕掛けているはずです」
「……そんなことはしません。私はワーズワードさんが迎えに来てくれると信じています」
「なら問題ありません」
静かなやり取りだった。リズロットがなんらかの魔法を発動し、部屋の入り口を再び重い岩で塞いでゆく。
闇の中に閉ざされる室内。手を組んで横たえられたリゼルの姿が見えなくなってゆく。
シャルは強く手を握り込み、安らかな眠りを祈ることしかできなかった。
そんなシャルと気絶したままのフィリーナを残して、リズロットが歩み去る。
「肉体の損傷は大したものではなく、ボク自身が直接破壊されていました。竜殺しの魔法なんて、アルカンエイクの知識にもなかったはずです。となると、さきほど聞いたウォルレイン・ストラウフトさんにやられたということなんでしょうか。何者でしょう、制限付きとはいえボクを殺せるとは興味深い人物がいたものです。それはそれとして、ボクが死んでいる間に、ボクはワーズワードを動かすことに成功したようだ。英雄が舞台に上がったのなら、もう一方の――そう『魔王』の方にも舞台に上がる準備をしていただきましょう。その前にまずは死んでいた間の情勢変化の確認ですかね」
不穏なつぶやきを残し、厄災が地上へと舞い戻る。
こうしてリゼルはその役割を終え、リズロットが新たな目的に向け、行動を開始したのだった。
◇◇◇
「う……ん、ここは……。そうか、私は気を失って」
「フィリーナさま。良かった、気が付かれたんですね」
意識を取り戻したフィリーナにシャルが声をかける。
「ああ、私としたことがすまなかった。それよりこの部屋はどうしたんだ。入り口が閉ざされて……中にあった男の死体は。それにリゼルは」
「それは……すみません、私にもうまく説明できなくって」
「そうか。いや、良い。そなたが無事であるなら、それ以上望むものはない」
シャルの無事を知り、きゅうと曲がっていたフィリーナの耳がピンと立ち上がる。
と、そこでガチャガチャと響く、複数の足音が聞こえてきた。
「今日はもう人は下りてこないはずだが……なんだろう」
湾曲した回廊の奥に明かりが灯った。それは徐々に大きくなり、同じく足音も大きくなる。その先頭が見えたとき、あっと声を上げたのはフィリーナだった。
落ち着いた足取り。年齢を感じさせない炯眼。上質な宮中服に飾りは少なく、質実剛健な印象を与える。
封禍宮に下りてきたのは法国宰相オーギュスト・エイレン・ゼリドだった。
ゼリドの供をするのは魔法の明かりを灯す王宮魔法師ともう一人のみ。大紗国である法国宰相の身を守るには少なすぎる人数であることを考えれば、これが極秘の行動であるのだと容易に想像できた。
フィリーナの減刑と赦免を乞う幾百通もの嘆願書を黙殺してきたゼリドが王城地下を訪れるのは初めてのことである。
フィリーナの姿を視界に捉えてもその厳しい表情に変化はない。
その為、フィリーナは覚悟を決めてゼリドの前に立った。
「少し、お痩せになられましたな」
「ゼリド宰相。そなたが直接やってきたということは、やっと私の刑が決まったのだろうか。王への叛意は死罪が適当だ。私にそのつもりはなかったけれど、宰相の命であれば私はそれに従おう」
「……」
命令であれば、死すらも受け入れるという、美しいほどに純粋で、愚かしいばかりに無私な在り方。
王女として生まれたフィリーナは、その地位を解かれた後も国家に遵奉する生き方を変えてはいない。
ゼリドは法国最上位の国家意思決定者である。彼の言葉がフィリーナの運命を決定する。
ゼリドが左に立つ王宮魔法師に視線を流した。
視線を受けた王宮魔法師が頷き、短い【プレイル/祈祷】を紡ぎ、なんらかの魔法を【コール/詠唱】する。
だが、詠唱した魔法は発動せず――故に問題ないことを頷きで伝えた。
と、ゼリドの頬に光が流れた。
それは両の瞳より溢れ出した涙に相違なかった。同時に硬い石の床に勢い良く膝を折り、額を床に擦り付けた。
「長き不自由と幽閉の沙汰、全ては我が不忠の至り。主恩の報いぬばかりか、不遇の御身をかように痩せ細らせた。ことが成った後は我が罪、必ずや償いましょうぞ。今はただ、御身の無事を喜ばせてくだされ」
後方に控えていた若い貴族が口を開く。
「フィリーナ様、どうか閣下をお許しください。アルカンエイク王にとって、我らは治めるべき臣民ではなく、命令を与えるだけの駒。たとえ殿下の行動が忠義と真心の結果でもアルカンエイク王の行動を妨げれば、死を賜る結果になっていたことでしょう。殿下に降りかかる死の凶刃を反らすにはああするしかなかったのです」
アルカンエイクにとって国土を拡げる侵略戦争も、その先頭に立つことも法国のための行動ではない。ただ、ティンカーベルと『妖精の粉』を得ることだけが目的だ。
ゼリドはその全てを理解した上でアルカンエイクに盲従する道を選択したのだ。
決定に異を唱えず、誰よりも有能に――それでいて無能に――仕えることで、アルカンエイクの暴走を最大限にコントロールするという、それは容易ならざる決断だった。
アルカンエイクの行動目的に国家としての大義名分を発行し、その行動を承認する。軍を動かし、人を殺し、村を焼く。それをアルカンエイクが行えば万が死ぬが、ゼリドが行うならばその数は千に収まる。これはそういう道だ。
誰よりも最前線でアルカンエイクの狂気に接し、かつ虐殺の汚泥をかぶり続けているのはゼリドに他ならない。
アルカンエイクもゼリドがこのように『使える』からこそ、ラバックの丘での、フィリーナに対する決死の助命嘆願――激昂からの殴打という茶番劇――を見逃したのだ。
あれがゼリド以外の人間であったなら、アルカンエイクは迷うことなく二人まとめて処分していたであろう。
もちろんそれも一時の気まぐれで、後日何かの拍子にフィリーナの姿を見たり、聞いたりすればアルカンエイクはあの日の不愉快を思い出してフィリーナの処刑を命じるかもしれない。故に、ゼリドは王城内でフィリーナの名を口にすることは一切なく、同じくフィリーナに関する話題を封殺してきた。
若い貴族が続ける。
「殿下はもうご存知でしょうが、ここ封禍宮にはルーヴァ・レニ様が滞在されております。アルカンエイク王はなぜかレニ様を忌避されておりますので、アルカンエイク王の目に止まらず最も安全に殿下を隠せる場所はここしかなかったのです」
これぞまさに『灯台下暗し』ということであろうか。
「そんな理由が、あったのか」
全てを聞いたフィリーナは全身を雷に貫かれたような衝撃を受けた。
あの日ゼリドに打たれた頬が、ジンと再び熱を持つ。それは痛みと絶望の熱ではなく。深い愛を感じる温かい熱だった。
「それじゃあ、全て、私のために」
「勘違いされては困ります。貴方様を失えば法国は二度と立て直せませぬ。全ては法国のためにございます」
「ああ。そうだ。そなたは法国のために、ずっと一人の戦いを続けてくれていたのだな。ありがとう、ゼリド宰相」
「……我が職務にございますれば」
フィリーナがぎゅっと両の手でゼリドの手を握り、立ち上がらせる。
フィリーナはフィリーナのやり方でゼリドはゼリドのやり方で、形は違えどどちらも己ではなく国のために行動している。
場の全員が感涙に瞳を潤ませる中、ゼリドが表情を引き締めた。
「時が来ました。フィリーナ様にはここを出て頂きます」
「私に何ができるかわからないけれど、宰相の命であれば私はそれに従おう」
言葉は同じでもその言裏にある想いは先程とは全然違う。悲壮感ではなく、使命感をもってフィリーナはそう答えたのだ。
「良かったですっ、フィリーナさま、ここを出られるんですねっ」
涙を笑顔に変えて、シャルが我が身のごとく喜びを見せる。
「ありがとう、シャル。そうだ、そなたも一緒に」
「いえ、私はここを出るわけにはいきませんので」
「そうか、そなたにも事情があるんだったな。すまない、私は行かなければいけない」
「私は大丈夫です。いってらっしゃいませ、フィリーナさまっ」
「うん、行ってくる」
シャルの存在を報告でしかしらなかったゼリドがピクリと耳を動かした。
ゼリドの視線に気づいたフィリーナが微笑を見せる。
「ゼリド宰相。そなたはこの二ヶ月のことを詫びてくれたが、私はそなたが思っているほど不自由ではなかったんだ。ここに幽閉されたことで、得難い友人ができた。そなたの本心を知らなくとも、私は深く感謝していただろう」
「『丁落死して、生命大地に芽吹く』といいます。神であっても因果の末――先の運命は見えないもの。それは我が国の未来もまた、同じこと」
「ああ。法国の未来はまだ決まっていない。――私はなにをすればいいんだ」
「この先は私が説明させて頂きます」
「そなたか。その顔、どこかで見た記憶はあるんだけど……すまない、名を教えてもらえないか」
「ローアン男爵領を拝領いたしますワルター・ルッツ・ローアンと申します。どうぞ、ローアンとお呼びください」
「思い出した。いつかの宣託会議でアルムトスフィリアの主張にも声を傾けるべきだと意見を上げてくれた卿か」
「あと一歩、届きませんでした。たとえ戯れでも、あそこで王から獣人奴隷解放の言を取れていたならば、今の法国の惨状はなかったはずです」
「そうか、そなたも大きなことのために動いてくれている一人なんだな」
「はい。この先、王城から動けぬ閣下に代わり、私が殿下を補翼させていただきます」
「よろしく頼む」
「はっ」
先を急ぐように螺旋階段を進むフィリーナ一行。
ワルターが続ける。
「殿下はこのあと四将軍と正騎士八〇〇〇を指揮する総大将『代行』に命ぜられます。三日後、殿下には軍を率いて戦場に出ていただきます」
「三日後――」
フィリーナは元・王不在時の王権代行者である。
とはいえ、それはゼリド宰相の裁可の下りた書類に玉璽を押すだけの職務で、軍事力の行使まで代行することはない。それは唯一王と将軍にのみ許された権限である。
だが、フィリーナは元王族の血統であり、四将軍の内の二人とは叔父と姪という血縁関係にある。ゼリドと四将軍、合わせて五人の内の三人、過半数の承認があれば、そんな無理も通せるだろう。
それも『アルカンエイク不在時の』という制限付きであるが、その点も計算済みだ。
王城務めの者であれば皆知っていることだが、アルカンエイクが城を開ける場合、その期間は一週間周期と一ヶ月周期のどちらかになる。
完璧主義者であるからこそ、自分でも意識せずに取ってしまう行動の規則性。その穴をついたのだ。
アルカンエイクが王城を開けて、今日で四日目。ということは、次の帰還は最低でも三日後。出陣は早朝のため、アルカンエイクが戻るのはフィリーナが軍を率いて王都を出たあとになるだろう。
そして、そう、四日目といえば――
「殿下の向かう先は聖都・シジマ。――封禍宮を出ます。この先は現地に入ってからお伝えします。殿下はこの先特別な行動はせず、ただ三日後の出陣に備えてください。いいですか、先程の閣下のお言葉は決して口に出さずお心にも浮かべませんように。魔法による思考の盗聴に絶対の防備はありません」
鉄の門扉を超えれば、そこは住み慣れた王城一階の廊下だ。
本当に久しぶりに浴びる陽光に目を細める。ああ、なんて明るく温かい光なのだろう。
「わかった」
様々な思いを胸の中に収めて、フィリーナは短く応えた。
【悲報】リズロットさん生き返った。




