Double Dragon 22
遅くなりました。続きです。
アルトハイデルベルヒの王城地下『封禍宮』。
ゆらりと炎が揺れた。金の燭台の上で燃えるのは紫海蝋の蝋燭だ。
紫海蝋は深い海に棲む紫海魚の油から作られる蝋であり、これ一本で平民が七日は食べられる最高級品だ。ちなみに紫海魚とは、靜爛裳漉が己の姿を似せて生み出したと言われる神の眷属たる動物である。
アルトハイデルベルヒの王城は名も伝わらぬ古の王国の技術で作られた城だ。この地下の空間にも失われた技術が残されているらしく、閉ざされた室内で長時間炎を燃やしても酸欠を起こすことはない。見たところ通風口のようなものは見当たらないが、何処かに地上とつながる風の通り道が隠されているのであろう。
そんな地下の一室。室内には殺風景な石壁にそぐわぬ高級ベッドや調度品が並べられていた。
ここはフィリーナのために用意された部屋である。
ゼリド宰相の命により封禍宮へ幽閉されたフィリーナであるが、王城へとつながる螺旋階段を上ることを禁じられているくらいで封禍宮内での行動には特に制限はかけられていなかった。
「アルムトスフィリアの聖都包囲から今日で四日目……まさか、あの四神殿が我が国に出兵を要請してきたというのか」
「ええ、姫様。今朝はその話でもちきりですの。神蒼将軍と神紅将軍はいつもどおりですわ。お競いあって出兵準備にとりかかっておられます。おかげで、王城内は嵐が来たような有様ですわ」
「王城勤めの騎士も苦労しますわい」
室内には四人の姿がある。うちの二人は日々の食事を運ぶ女官と老衛士であり、積極的に世間話や地上での新しい情報を持ち込んでフィリーナの寂しさを紛らわせようとしてくれる。
もっとも、フィリーナ自身はそこまでの寂しさや苦しさを感じてはいない。それはある少女が傍にいてくれるからである。
「神蒼将軍様と神紅将軍様……ですか?」
「そうだ。シャル、そなたは知らぬであろうから私から説明しよう。この者が言ったのはザンデ大公とラティーナ公のお二方のことだ。神蒼騎士隊の将軍がトルバルト・クレイ・ザンデ大公爵、神紅騎士隊の将軍がゲッコー・ドール・ラティーナ公爵だな。歳はザンデ大公の方が上で今年で五〇になられる壮健な方だ。ラティーナ公はザンデ大公より三つほど下だったと思う。お二方とも私には良い叔父上なのだけれど、こういったときに武勲を競いあうところがあるんだ」
「そうなのですか」
残りの二人はシャルとフィリーナだ。
ふんふんと真面目に頷くシャルに、フィリーナの唇に自然な微笑みが浮かぶ。
女官と老衛士が地下に降りてくるのは一日の中の極短い時間だけ。その他の時間、フィリーナとシャルは二人で過ごすことが多い。
濬獣レニはあの日から二ヶ月以上が経った今も部屋を出ようとしない。レニはフィリーナのように幽閉されているわけではなく、シャルのように誘拐されたわけでもない。背中の翼でどこへでも飛んで行けるはずの彼女は、自らの意志で暗く小さい籠の中から出ようとしないのだ。
世話係の二人が深いお辞儀をして、名残惜しそうに地上へと上がってゆく。
それを見送ったフィリーナの思考はまたあの日へと回帰してゆく。考えるべきことがある。私はどうすればいいのか。なにが正しいのだろう。
さいわい考える時間だけはたくさんあった。
全てはあの日聞いた――
◇◇◇
『その代わり、私も教えてあげる。あなたたちの知らない世界の話を』
それはフィリーナがこの王城地下に始めて足を踏み入れた日のことだった。
濬獣レニとシャルの二人に初めて出会い、そしてアルカンエイク王とレニの複雑な関係を聞いたあの日。リゼルという謎多き女性がそう切り出したのだ。
リゼルが続ける。
「アルカンエイクとワーズワードがもともとこの世界の人間じゃないっていうのは今そこの門番ちゃんから聞いた通りよ。だから、その先を教えてあげる。生まれたばかりの赤ん坊18,527人を攫った『絶望と嘆きの海』。一つの島の住人6,209人を一夜のうちに消し去った『雲散霧消の島』。ある、たった一人が起こした事件で24,736人もの人間が犠牲になった。普通の人にはそんなことはできない。人は自分にできないことがらは、とても理解し難いもの。だから、誰もその犯罪者を理解できなかった。いいえ、そうじゃないわね。理解できない存在だと理解したのよ。それが『アルカンエイク』よ。そして、ディールダーム。ジャンジャック。パレイドパグ。ワーズワード。このリゼルちゃんもその一人。人の形をした厄災。人類共通の敵対者。私たちは『エネミーズ』と呼ばれる存在よ」
そして、フィリーナは知ったのだ。アルカンエイクのことを。
淡々と言葉を重ねるリゼル。具体的かつ客観的であるが故に、その話が事実であるのだと信じざるを得なかった。
レニは何かに耐えるように目を伏せる。言葉で説明を受けずともレニの――ルーヴァの『聲』を聴く能力はアルカンエイクの本性を感じ取っていた。リゼルの話が自分の聲を否定してくれるものであれば良かった。だが、そうではなかった。やはりという想いとともにレニは自己嫌悪の殻の中に深く閉じこもってゆく。
フィリーナは、下半身の感覚が消えてしまったかのようにふらふらとよろめいた。
常に気丈な彼女が、今はなにも思考できないほどの衝撃を受けていた。
「『えねみーず』……アルカンエイク王は、そなたたちの世界で、そのような重犯罪者だというのか……」
「そうねー。人の物差しで測るなら、確かに非道で外道な大量殺戮者ね。人を超えた存在を人の物差しで測ることにあまり意味はないけれど」
言葉のない静寂。言葉が出てこないがゆえの沈黙。無音の室内に、カツンと一歩を踏み出す音が鳴った。
「ワーズワードさんのこと、教えてください」
それはシャルだった。
聞かずにはいられないとばかりに、決意を込めた拳を胸の前にぎゅっと握り込んで問いかける。
「アルカンエイクの登場から九年。その間に世界の敵と呼ばれる人間が何人か現れたけれど、アルカンエイクを超える者はいなかった。そこに現れたのがワーズワードよ。ふふー、シャルちゃん、あなたにこの先を聞く勇気はある?」
「はい」
短い答え。アルカンエイクの犯した比類なき大犯罪の話はワーズワードから聞いていたため、フィリーナほどの衝撃は受けていないシャルだが、ワーズワード自身もそれと同列に並べられる大犯罪者なのだと聞かされれば、これ以上何も聞きたくないと耳を覆ってもおかしくない状況だというのに、小柄な少女の瞳には怯えも恐れも浮かんでいなかった。
軽い気持ちで問いかけたリゼルの表情が変わる。
まるで興味深い観察対象を見つけたかのように、シャルを見るリゼルの瞳が観察者のそれに変わる。
リゼル――リズロットは観察する。人間の内側、その情動変化を鑑賞する。
恐怖という外部刺激を打ち消す感情制御は『勇気』とも呼べるもの。ですが、裏付けのない勇気はただの鍍金。メッキものに興味はありませんが、本物であるならおもしろい。本物かメッキか……一つ試してみましょう。
「いいわ、教えてあげる。ワーズワードの起こした犯罪をあなたたちにわかるように言い換えれば、金庫破りよ。今後二〇年は誰にも破れないと言われていた鍵を破ってみせた。その被害額をこっちの貨幣価値に換算するとざっと二七〇〇億ジットってところね」
「我が国の国家予算二〇年分以上だと……ッ!?」
隣で聞いていたフィリーナの長い耳が驚きに跳ね上がった。
国家を運営する費用の莫大さを知っているフィリーナにはそれがどれだけの巨額であるか理解できる。理解してなお、信じられない額である。
「確かに額は大きいわね。だとしても、ただの金庫破りが『絶望と嘆きの海』を越える凶悪事件であるはずがない。でも現実として、ワーズワードはアルカンエイクを越える世界最高賞金首になった」
「なぜ、でしょうか」
「世界はアルカンエイクよりもワーズワードをより許容できなかったということね」
「それは、やはり被害額が大きすぎることが原因ではないのか」
「少し違うわね。ワーズワードの犯罪の本質、それは人類の持つ共通認識への攻撃だからよ。人類がこれからの二〇年をかけてやっと到達できるか否かのハッキングを成功させた彼が、そのことをなんて言ったと思う? 『できるからやった』の一言だけよ。気分一つで世界を壊せる能力。それをワーズワードは自重しない。そんな現在進行系の危険性に、世界は過敏に反応したのよ。だから私はこう例えた。象と蟻は同じ地面の上に立っているけれど、その一歩は同じじゃない。象の一歩は蟻を潰す。蟻の常識に従っては、象は一歩も歩けないってね。彼が立つ大地と私たちの立つ大地は同じであって同じじゃない。ワーズワードが犯罪者なのは当然だわ。象が生きるためには蟻を踏み潰すしかないように、彼が彼であろうとするなら人間の法や常識を踏み潰すしかないのだから」
もちろん、蟻だってただ踏まれるだけではない。自分の世界を守るために象を殺そうとする。
一匹では無理でも九〇億が集まれば殺せるだろう。それがバウンティハントシステム『エネミーズ』だと言い換えることもできる。
確かにアイシールドが提供する感応入力とBPMの思考制御に適応し、未曾有の事件を引き起こすエネミーズにこれまでの世界常識は通じない。通じないが故、世界は彼らを孤絶主義者と呼ぶわけだが、エネミーズの側からすれば――少なくともリズロットに言わせれば――アイシールドは多少の金額で購入できる製品であり、BPMも並列思考の方法論を除けば誰でも入手できる知識である。自分も同じく自己進化できる手段を有しながら、それをしない、あるいは否定する人類こそが次代の人類文明に適応できなかった旧い種なのだ、と。
こういった特異な発想は、まさしく孤絶主義者の特徴だ。
エネミーズの中では比較的まともな部類に思われるリズロットがこうなのであるから、他のエネミーズがどうであるかも、推して知れるというものだ。
そこまでを一気に話したリゼルがシャルの反応を待つ。
ティンカーベルの少女、シャル・ロー・フェルニ。あなたの知るワーズワードが異世界の犯罪者というだけではなく、そもそもが住まう世界自体の違う人間だと知ってなお、彼を受け入れることができるでしょうか。
レニが見せる苦痛と苦悩のように、フィリーナが見せる恐怖と絶望のように、あなたもまたワーズワードを拒絶するのであれば――
リゼルの観察する瞳がシャルを試す。
「ああ、そうだったんですね」
話を聞いたシャルが安堵するような笑顔を見せ、ほっと息を落としたのである。
リズロットからすれば、想定し得ない反応。
「あら、話が難しすぎて理解できなかったかしら?」
「いいえ。リゼルさんのお話はよくわかりました。リゼルさんはワーズワードさんと同じ世界から来られて、出会ってまだちょっとだけの私よりずっと親しい関係で……でも、ワーズワードさんのことは私より全然知らないんだってことがわかりました。だから、安心したんです」
「私がワーズワードのことを知らない? おもしろいことを言うじゃない。私はワーズワードのことなら、なんでも知っているわよ。出身国、経歴、年齢、彼の好きなアニメキャラだって――」
「いいえ、リゼルさんはワーズワードさんのこと、全然わかっていません」
それは、確固たる意志より放たれる断言だった。
「昔のワーズワードさんが悪いことをやったっていうのはわかりました。私も昔は悪いことをしました。森で見つけた蜜樹を村の大人に知らせないで、一人でこっそり舐めたり」
「そんな子供のいたずらみたいな話とワーズワードの犯罪を同列で語られてもねー」
「同じです。リゼルさんの話は全部昔の話です。私が出会ってからの、この世界でのワーズワードさんのことを見ていますか。ワーズワードさんは私なんかのために、こんな遠い法国まで付き合ってくれました。面倒だって言いながらも、獣人さんを奴隷から解放するのに、誰より忙しく行動されているのを私は知っています。リゼルさんのおっしゃるとおりワーズワードさんが象だっていうなら、ワーズワードさんは蟻を踏み潰さない優しい象さんですっ」
優しい象――そんな表現に知識・情報・能力、全ての面で優位に立つはずのリゼルが思わず気圧される。
小柄な身体のどこにこれだけのエネルギーが隠されていたのかと思うほどの強固な意志。
リズロットの理論で語るならば、この世界の妖精たちはワーズワードから見れば、まさしく蟻の如き存在だろう。事実、アルカンエイクは彼らを踏み潰すような行動を自重していない。だが同じく事実として、ワーズワードは彼らを踏み潰すどころか、逆に引き上げようとしている。
リズロットの理論に従えば、ワーズワードもまたこの世界を蹂躙していなければならないがそうはなっていない。
「それこそ、ワーズワードの遊びの延長だとは思わない?」
とはいえ、言われっぱなしで黙るリゼルではない。
そんな返しにもシャルは揺るがない。
「……やっぱりリゼルさんはワーズワードさんのことを何も知りません。ワーズワードさんはとても恥ずかしがり屋さんなので『自分のこと』ではふざけることもありますが、『誰かのため』に行動するときはいつも本気なんです。これまでもずっと、本気で行動されていました。リゼルさんはワーズワードさんの本気を見たいとおっしゃっていましたが、今のワーズワードさんをちゃんと見ていたなら、そんな言葉は出てこないはずなんです。だから、リゼルさんはワーズワードさんのことをわかっていません。ワーズワードさんを見ていません。自分の見たい何かを、ワーズワードさんに重ねているだけなんです。もし昔のワーズワードさんが、本気で生きていなかったのだとしたら、それはきっとワーズワードさんの隣に大切な誰かがいなかったのでないでしょうか。でも今は違います、ニアヴさまが、ルルシスさまが――私が、ワーズワードさんの隣にいますっ!」
まっすぐなシャルの言葉に、心遠く視線を落としていたレニが、はっとするように頭を上げた。
フィリーナもまた、同じ瞳でシャルを見つめる。
源素の見えない彼女たちにも見えるシャルの光。メッキではない本物の輝き。暗い地下室に差し込む、それは一筋の陽光のようだった。
ワーズワードの過去を聞きながら、それでも自分がいるから大丈夫だと、そんなことを口にできる人間が何人いるでしょう。メッキではない。この少女は本物の『勇気』を持っている……いえ、これは勇気というよりも『愛』と呼ぶべきでしょうか。ワォ。アメージング。イッツ・ベリー・アメージングです。
いいでしょう、ここは僕の負けです。愛の前に敗北する。こんなに気持ちのいい負けは、ワーズワードと遊んだ『トリック・オア・トリート』以来ですかね。
諸手を上げて肩をすくめる仕草。シャルにはそれが何を意味するのかわからないが、これ以上リゼルが議論を続けるつもりがないのだということだけは、感じ取れた。
「ま、いいわ。リゼルちゃんの休憩もおしまい。そろそろ退場するわ。最後に一つだけいいかしら、シャルちゃん」
「なんでしょうか」
「今は今。それでも過去は変えられない。ワーズワードの犯罪で被害を被った人は多くいる。それについてはどう考える?」
「謝ります。私がワーズワードさんに謝らせます。悪いことをしたなら、謝らなきゃだめですから。でもワーズワードさんだけじゃなくて、私も一緒に、許してもらえるように一生懸命謝ります。それが私の、紗群の務めですからっ」
一切笑いのない真面目な顔でそんなことをいう。
完全に虚をつかれたリゼルの方が、ぷっと吹き出してきゃらきゃらと笑う。
はは。ははは。ワーズワードに謝らせる。その答えは本当に想像できませんでした。本当におもしろい子です。
退出の間際、元の調子に戻ったリゼルが小悪魔なウインクを飛ばす。
「あーもー。そんなことできるレベルじゃないんだけどなー。ふふ、でも私はその答え好きよ。でもって私も好きになったわ、シャルちゃんのこと」
「はわっ!? あの、はい、ありがとうございます……」
反射的に感謝を口にしてしまったが、自分を誘拐した人間からそんなことを言われ、困惑するばかりのシャルである。
「じゃあ、またあとでね☆」
廊下に歩み出たリゼルの足取りは部屋に入る前よりも軽やかだ。
自分ではない誰かのためになら本気を出せる優しい象。それは確かに僕の知るワーズワードとは違う。
僕の知るワーズワードであれば、『自分のために』あなたを助け出すでしょう。異世界転移の鍵であるティンカーベルを回収するという実利と整合性があるために。
僕の知らないワーズワードであれば、『シャルのため』に本気を出すということになるのでしょうか。そんなワーズワードは想像できませんが、もうそうならば、サプライズという楽しみがあります。
問題ありません。そのどちらであっても僕の目的は達せられる。
「ヒーローだけでは物語は面白くないわ。やっぱり魅力的なヒロインがいなくっちゃ! その点シャルちゃんは大合格! これから始まる素敵なショーを、私は最前列で楽しみましょう」
心のままに、リゼルがくるりと一回転のステップを踏む。
闇に踊るリゼル。その姿が回廊の奥へと消えていった。
――一方、残された室内。
「シャル。そなたは強いな」
「ふぇぇぇっ、そっ、そんなこと。リゼルさん相手になんであんなこと言えたのか、今になってすっごく怖くなってきました。はわわわ……」
そういって、腰が抜けたようにぺたりと座り込むシャル。頬に手をやって青ざめる、そんな仕草すら愛らしい。
シャルに敗北感を覚えたのはリズロットだけではない。フィリーナもまた同じ感覚を抱いていた。
私とシャル。アルマとしての立場は同じはずなのに、私はシャルと同じ言葉を口に出来なかった。それが情けない。
いや、それだけが問題じゃない。同じ言葉ではだめなんだ。アルカンエイク王に対する、私は、私だけの言葉を見つけなくてはいけない。
今すぐには出てこないかもしれないけれど、そう、考える時間はこれからたくさんあるだろうから。
◇◇◇
ガラララ――ッ!
暗い回廊の奥で、何かが崩れる大きな音が鳴った。
あの日のことをふと思い出し、一瞬内向きに入り込んでいたフィリーナの思考が戻ってくる。
「きゃ」
「大丈夫だ、シャル。ここは何百年も上にある王城を支えてきた場所だ。ちょっとやそっとじゃ崩れはしない」
とはいえ、フィリーナだって一人だったら、思わず悲鳴を上げていたかもしれない。シャルがいるおかげで平静を保てているのだ。
「でもそうだな。向こうは誰もいないはずの場所だ。何が崩れたのか、様子を見に行ってみよう」
「は、はいっ。私もお供しますっ」
封禍宮は、名こそ『宮』というが、王の住まう宮殿のような広さはない。螺旋階段を下りてすぐの回廊は、ぐるりと大きな円を描くようにつながっていて、途中分かれ道もないため左に向かって進めば一〇分もしないうちに、元いた場所まで戻ってこられる。
回廊及び室内はフィリーナが言ったとおりどこも年月の風化を感じさせない堅牢な造りであり、王城城壁を粉々に砕いたアルカンエイクの【メテオ・ストライク/流星落下】の衝撃にも耐えたという実績がある。
そんな封禍宮に響いた何かが崩れる音。
そういえば、一箇所だけ天井が崩れて中に入れない部屋があったな。歩きながら、フィリーナはそのことに思い至った。
長い幽閉生活で、封禍宮内で入れる部屋は全て探索済みだ。
ちぎれた鎖と赤黒いシミ。マジック・アーティファクトが青白い光を放つ部屋。錆びて動かない操作棒。大きくて足がいっぱい生えた気持ち悪い虫。壁の一部と同化している太い木の根。
それは、長く王城に暮らしていたフィリーナが知らなかった地下に広がるもう一つの世界だった。シャルと二人手を取り合う恐ろしさの中、どこかにずっしりと感じる歴史的な美に感嘆を漏らす、そんな冒険の日々があった。
「ここだ」
その場所にはすぐについた。天井を支えていた大きく四角い石が、鋭利に切り崩された断面を晒している。
「あ、でも以前と違います。部屋に入れるようになっています」
周囲を埋める土砂が石の重みで少しずつ押し出された結果、ついに入り口を塞いでいた巨大な石がバランスを崩したのかもしれない。そこには人が一人なんとかくぐれるだけの穴が空いていた。
崩れが連鎖する可能性もある。用心して近づく二人。
回廊に燃える松明の明かりでは、穴の奥までは見通せない。
手に持った燭台をおそるおそる近づける。
穴からは、ツンと鼻を刺す赤錆の匂い。
そして、閉ざされていた室内が照らし出される。黒く変色した床石。壁にはなにかが飛び散った跡。
そうだ、これは錆の匂いじゃない。この匂いは――
「ひッ――!!」
声ならぬ声。シャルが押し殺した悲鳴を上げた。
ぎゅっとフィリーナの腕にしがみつくシャル。
またも先に声を上げたシャルのおかげで、声を堪えることのできたフィリーナだったが、その動揺はシャル以上に大きなものだった。
部屋の一番奥。壁にもたれ掛かるよう腰をついて座り込む男性。いや、男性の死体。
遠くからでもわかる、杭が打ち込まれたかのように大きく穿たれた胸の穴。
部屋中に飛び散る黒いシミが、この胸の大穴から吹き出したものであるならば完全に致死量だ。
しかし、フィリーナの動揺はそれが原因ではなかった。
「馬鹿な。なぜ、この者がこんなところで」
それがミイラ化した遠い昔の死体であれば、フィリーナはここまで動揺しなかっただろう。
だがそうではなく、その死体はまるで昨日死んだばかりのような状態であり、しかもその顔は、フィリーナの知る人間のものだったのだ。
「そういえば、あれ以来ずっと姿を見ていなかったが……まさかこんなところで。王が連れてきたうちの一人。名は確か『リズロット』――」
そこまでを口にした時、フィリーナは背後に誰かの気配を感じ、耳を尖らせた。
「あら、見られちゃった? もー。こうなると思って隠しておいたのに。見られちゃったんじゃあ……仕方ないわね☆」
背中越しにかけられた声。弾かれたように首を回すフィリーナ。
皃靆霪熙熙熙熙熙熙皃熙罕――――――
フィリーナの喉から、今度ばかりはこらえきれない絶叫が迸った。
【朗報】リズロットさん、死んでた。