Double Dragon 07
ルビ回。
「――」
「……」
「……」
四面を石材とレンガに囲まれた室内である。
息苦しさを覚えるほどの狭さではないが、その中に三人の面識のない人間が入るとなれば、さすがに窮屈であろうか。
人非ざる濬獣レニ。
男物の衛士服に身を包んだ法国の元王女、フィリーナ・アルマイト・アグリアス。
そして囚われの少女、シャル・ロー・フェルニ。
いずれも美しい女性たちだ。殺風景な室内も華やいで見える。
青い髪の少女は野に咲く可憐なたんぽぽであり、流麗な銀髪を持つ濬獣は夜に花咲く月下美人。となれば、肩口で切りそろえられた明るい陽緑の髪を持つ王女は凛然と背を伸ばす百合の花だろうか。
シャルが問うた、この封禍宮にレニがいるという最大の疑問。その答えは、フィリーナの登場で少しばかり遠回りをすることになった。
同じ濬獣の同胞ニアヴの信頼を受け、更にはアラナクア、パルメラをも知るシャルに対しては柔らかさを見せたレニであるが、元とはいえ法国の王女であるフィリーナに対しては同じ態度ではない。
事実として、法国歴代の王はレニ治窟の豊かな実りと資源を欲して、幾度も濬獣と敵対してきた。
フィリーナ個人にレニ治窟に対する野心がなくともレニと法国との関係は険悪である。
例えば、過去法国は、二〇〇〇の兵を揃えて濬獣自治区を攻めたことがあった。
たとえ濬獣が一騎当千であったとしてもその上を行く、明らかにやり過ぎな兵力だ。
交渉ではなく武力を選択した法国の傲慢さがある。
例外なき不可侵を求め、僅かの譲歩もしないレニの性格がある。
もし、両者の間で緩やかな共存ができていたならば、こうはならなかったかもしれない。だが事実として、法国は一人の濬獣相手に国家規模の軍勢を送り込んだのだ。
それほどの憎悪と敵意を見せつけられたレニがどうしてそう簡単に打ち解けられようか。
法国に誤算があったとすれば、濬獣をただ魔法が使えるだけの獣人と見くびったことだ。彼らは知らなかったのだろう。濬獣が四神殿の使うそれとは別の、独自の魔法を操ることを。その中でもレニが得意とする『幻影魔法』は一対多の場面でこそ最大の効果を発揮することを。
結論を先にすれば、レニはたった一人で二〇〇〇の軍勢を打ち払った。
鶴族秘伝の【ナイトピジョン・ビジョン/夜鳩顕幻】は、痛覚を共有する幻影を見せる魔法だ。
一〇〇の兵であれば、幻影の数は一〇〇。二〇〇〇の兵であれば、幻影の数も二〇〇〇となる。そして、自分と同じ姿をしたその幻影を斬りつければ、斬りつけたのと同じ痛みを己が負うのだ。
それは幻影であるが故、本物の痛みではない。幻痛だ。だが、幻と知ってなお耐えられないのが、人の持つ『痛さ』という感覚である。
フィリーナが部屋に入って以降、レニは口を閉ざし、シャルが代わって自分たちの状況を説明した。
説明するシャル自身がつい数時間前に無理やり連れてこられた側の人間であるので、多くのことを説明できたわけではないが、彼女の存在は非常に大きかったと言わざるをえない。もしもシャルがいなければ、レニは即座にフィリーナを追い出したであろうし、フィリーナもまたレニに問い返す言葉を持たず、閉ざされた扉の前で立ち尽くしていただろう。
「濬獣レニ、それにフェルニ」
「アグリアス王女さま、私のことはシャルと呼んでください。その方が私も話やすいですのでっ」
「ありがとう、シャル。私のこともフィリーナとだけ呼んで欲しい」
「はわわっ、そ、そんな失礼な呼び方っ」
「いいんだ。そなたは我が国の民でも私の臣下でもないのだから、そう呼んでほしい」
「フィリーナ、さま」
「うん」
まだ少しの時間しか話していないが、フィリーナは一発で目の前の少女を気に入ってしまった。
王族出身のフィリーナを前にはわはわと慌てる小動物のような愛らしさもあるが、それよりもフィリーナを惹きつけたのはシャルの目だ。
このような陰鬱な地下にあって、シャルの瞳は力強い輝きを放っている。
いかなる状況にあっても未来への希望を失わない――それは心の強さの現れだろうか。
ついさっきまで無力感に打ちひしがれていたフィリーナには、そんなシャルの目が眩しく映ったのだ。
フィリーナさまとおそるおそる口にするその謙虚さも好ましい。
不思議だ。このようなときだというのに、私はシャルと友人になりたいと思っているらしい。
そんな考えがふとよぎった。
「欲を言えば『さま』もいらないけれど、そこは我慢しよう」
そんな戯れ言のようなセリフがつい唇からあふれた。
改めて言葉を続ける。
「リゼルという女性にこの部屋で待つように言われたんだ。そなたたちの話に口をはさむことはしないで、ここにいさせてもらえないだろうか」
「もちろんですっ。いいですよね、レニさま」
「……」
「レ・ニ・さま」
同意を求めたシャルに無言を通すレニ。シャルは答えを強要するように、再度強く言い直した。
フィリーナが現れて以降のレニの変化には、シャルも気付いていた。フィリーナに対して、出て行けといわんばかりのきつい態度を見せているのがそれだ。
両者の複雑な事情を一切の事情を知らないシャルは、単純にレニのそんなよくない態度をたしなめたのだ。いわば濬獣を叱りつけたようなもの。
濬獣の怒りを買うのでは、と隣で聞いているフィリーナの方が緊張する。
フィリーナの長い耳がピンと立っていた。
レニはそんなシャルから、逃げるように視線を逸らすが、どこに逃げても、シャルの瞳が追いかけてくる。
じー。
こういう押しの強さがシャルにはある。
結局レニは、
「……好きになさい」
とばつが悪さそうに答えた。
「はい、ありがとうございますっ。フィリーナさま、レニさまも大丈夫だと仰ってくださいました!」
「ああ、ありがとう」
にこりと微笑むシャルに、フィリーナはやや引きつった笑みを返した。
もしかして、この室内で一番強いのはこの少女なのだろうか?
「レニさま。改めて聞いてよいでしょうか、このような場所にいらっしゃる理由を。ご自身の治地を離れていることを、どうして他の方々に何もご連絡されなかったのですか」
都合四つの瞳がレニを見ていた。
「……貴女の話を聞いた以上、話さないわけにもいきませんね。法国王家の娘。これは貴女に関係のない話ではありません」
「私にも?」
「そうです。これは法王に関係する話です。すなわち、我が群兜アルカンエイク王の」
「えっ」
そうしてレニは語りだした。
◇◇◇
実りの季節。レニ治窟の上層地表に広がる大森林には甘い香りがあふれていた。
果実がたわわに実り、熟した実から自身の重さで地面に落ちる。落ちた果実は森に棲む全ての動物の胃袋を満たしてなおあまり、甘い香りを放ち続けているのだ。
天敵のいない森の中で、鳥達が無警戒に地上に舞い降りて割れた果実をついばむ。
口一杯に餌を詰め込んで巣へと舞い戻る親鳥。一〇を超える雛がその姿を見つけて、巣の中から一斉に鳴き声を上げた。
実りの季節は誕生の季節でもあるのだ。
バサリ――そんなの鳥の巣の上を大きな影が横切る。
羽根を広げて、大空を滑空する巨大な鳥――いや、そうではない。人の姿と羽根を持つ希少な有翼種族、濬獣レニの姿だ。
あまりに気持ちの良い天気だったため『中央洞道』を抜け出し、空中散歩をしていたのだ。
生命力に満ちた地上の様子を空から眺めることが、レニ唯一の楽しみでもあった。
「大きく育ちなさい、愛し子たち」
柔らかい微笑みがそこにあった。
と、その表情が一変した。厳しい表情だ。
「――いますね。我が治地を侵す者が」
何かを感知したらしいレニが、矢のように飛び出した。
「少しだけ……ちょっとだけお許しください、濬獣様」
森の中、誰にいうでもないつぶやきを落としたのは一人の少女だった。
歳は一二、三であろうか。粗末な服のやせ細った少女である。
少女の名をアリア・ノルスといった。
レニはニアヴと違い、一時的であっても人間の自治区内への立ち入りを許していない。
そのことを知りながら、少女はあえてレニ治窟に足を踏み入れたのだ。
アリアが手にしているは今が旬のロッシの実である。
真っ赤に熟れて甘い香りを放つ大きな果実に、少女の目が輝いた。
「とってもおいしそう。これならお母さんもきっと良くなるわ」
彼女の家は明日のパンすら買えぬ貧乏暮らしだ。
アリアは、病気となった母のために新鮮な果実をどうしても手に入れたかった。しかし、パンすら買えぬ状況で、どうしてそのようなものが手に入ろう。
となれば選択肢は二つ。貴族の管理する果樹林に忍びこむか、レニ治窟に入るか。
少女は後者を選択した。
この地を支配する濬獣に見つからないよう、背を低くして周囲を注意深く探る少女。長い耳がピコピコと動いて遠い音を拾う。
だが、彼女は知らない。濬獣には、目で見ずとも治地内の全てを知る魔法があることを。遠く離れた人の聲を聴く能力があることを。そして、この地の濬獣にはその背中に大きな羽根があることを。
バサリ。
瞬間日が陰り、木の幹が震えた。
その音に反応して、頭上を見上げるアリア。
「えっ、上。……あ、あああっ!?」
見上げる枝の先に、アリアを見下ろす『弋翼』がいた。
全長三メートル、巨大なクチバシと鋭い鉤爪を持ち、両翼を広げれば八メートルにも達するタイカは人間や獣人すらも食料とする大型の猛禽である。
獰猛な性格で、腹が減っておらずとも遊びの狩りを楽しむ習性があるため、身を隠す場所のない平野で襲われれば、たとえ食われずとも、傷つき動けなくなるまでいたぶられて死んでしまうこともある。
領民を苦しめる領主を指して『弋翼の如き振る舞い』とは、マルセイオ大陸のどの国でも通じる言い回しだ。
絶句し、青ざめてペタリと地面に腰を落とすアリア。
『この地に入り込んだ汝は何者か』
「は、はい。私はアリア・ノルスとい、いいます。み、南にあるペルシュの街に住んでいます」
『よかろう、偽りなき答えだ。娘。この地は汝の在るべき場所に非ず。今ならば見逃してやろう。疾く立ち去れ』
しかも、タイカが人の言葉を喋ったではないか。
あまりのことに少女は立ち上がることもできず、蒼白なままコクコクと頭を縦に振った。
「はい、今すぐに出てゆきます。ありがとうございます――あっ」
なんとか立ち上がった少女の服の裾から、今もいだばかりのロッシの実が転がり落ちた。
慌てて拾い上げるが、それを見逃すタイカではなかった。
『それはおいてゆけ。ここは人族不可侵の地。何かを持ち込むことも持ち出すことも許されぬ』
「そんな。お、お許しください。どうかこれだけでも」
『例外はない』
少女の懇願は冷たく拒絶された。まさしくタイカの如き振る舞いである。
身を守る鎧も相手を突き刺す槍も持たぬ少女はこの命令に従うしかないだろう。
「……い、いやですッ」
しかし、少女がとった行動はそうではなかった。
地面に転がるロッシの実を掴み上げると、そのまま逃亡に転じたのだ。
これを病気の母のもとへ持って帰るのだ。少女にも譲れぬ想いがあった。
『待て――待ちなさい』
想定しない少女の行動にタイカの言葉が乱れた。
同時にその姿がゆらりと薄らいだ。すると、タイカの姿に重なるようにレニの姿が現れたではないか。
これは己の姿を別のものに見せる【モーフィン・グース/擬雁】の魔法である。
動揺したレニの精神に同調して【擬雁】の制御が一瞬甘くなったのだ。
ニアヴが【リープ・タイガー/飛虎】の口を借りて喋っていたことを思い出せば、濬獣が人族へ治地侵入の警告を行うような場合、直接に己の姿を現さないものであるらしい。
さりとて動揺は一瞬。タイカの幻影を纏うレニは、木の枝を蹴って空中に舞い上がり、急旋回して少女の行く手を塞いだ。
地上で両翼を広げるタイカの姿は、目の前に漆黒の壁が現れたようなものである。
思わぬ必死さを見せた少女であるが、羽根持つレニから逃げおおせるわけがなかった。
観念したかのように、アリアが足を止める。
『愚かな。此処がレニ治窟であることを知らぬのか』
「……知っています。知っていて入り込みました。あなたさまは濬獣さまの使いなのでしょうか。教えてください。なぜ濬獣さまはこんなに豊かな森を独り占めされ、ただの一つの恵みも許されないのですか」
『お前の一つを許せば次の二つを求めて、明日にはまた別の人族が入り込もう。前例を作るわけにはいかぬ』
「私の母は病気なのです。罰があるというのでしたら、私はどうなっても構いません。だから、これだけでも、どうか家に届けさせてください」
『ならぬ』
「そんな」
それが濬獣の掟である。
ニアヴであれば、果実の一つや二つは許したであろう。しかし、レニは許さない。
レニと法国との関係は悪い。レニは人間を嫌っている。レニは濬獣の掟に忠実である。レニは潔癖症である。
様々な理由があるだろう。
だが、最大の理由はそれらとは関係ない。
それとは別の大きな理由があった。
どうやっても許してもらえないのだと理解したアリアがふらふらとよろめく。
その足が運悪く脆い『天井』を踏み抜いた。
「……えっ」
そう、忘れてはいけない。ここは『レニ治窟』なのだ。
確かに地上の森は広大で豊かであるが、真なる空間は大地の下にこそ広がっている。地表のあちこちに大穴が空いており、このあたりもまた、薄い岩盤を木の根が支えているだけの危険な場所なのだ。少しの振動でいつどこが崩落するともわからない。
『くっ、言わぬではない』
自らの足元に空いた穴に吸い込まれてゆくアリア。
レニが【擬雁】を解いて、地面を滑るように滑空する。有翼種だからこそ可能な瞬時の行動だ。
「きゃああああ!」
レニもまた同じ穴から地面の中に滑りこむ。
中央洞道の天井は高い。
少女が地の底の地面にたたきつけられる前に、空中でレニがアリアの身体を掴んだ。
バサリ。バサリ、バサリ。
「よもやこのようなタイミングで。なんと運の悪い娘なのでしょう」
レニの見せる厳しさの理由。
レニと法国との関係は悪い。レニは人間を嫌っている。レニは濬獣の掟に忠実である。レニは潔癖症である。
様々な理由がある。が、それ以上に――レニは優しい。
脆く崩れる地表の森は小動物と鳥類以外の生存を許さず、地底に広がる暗黒の空間は一度迷い込めば脱出不可能な無限迷路だ。
実のところ、法国最大の要害はパルメラ治丘でもリーリン治礁でもない。ここレニ治窟こそがその名にふさわしい。
この地を手に入れれば、外から見える豊かさが手に入ると考えているならば、それこそが幻。
そして、それこそがレニが人間を受け入れない最大の理由。
濬獣の掟を守ることが、結果としては多くの人命を救うことに繋がる。
厳しさの根底に優しさがある。
厳しさと優しさ、その二つを併せ持つ濬獣。それがレニであるのだ。
◇◇◇
ガララ……
また一つ、天井の穴が増えた。
天井までの高さがおよそ二〇メートルという巨大な横穴である『中央洞道』内で、レニがひらりひらりと空中を舞う。その腕の中にはアリアが抱きかかえられている。だらりと伸びた足。極限状態の中、足元の地面が崩れ落ちるという衝撃のせいで、気絶してしまったようだ。
複雑に絡み合う木の根のおかげでこれ以上崩落の連鎖が起こることはないが、しばらく同じ場所には近づかないほうが良いだろう。
背中の羽根をうまく使って、落下スピードを綺麗に殺していくレニ。
人一人を抱えて飛び続けるのは難しいが、下降制御程度であれば何の苦もない。
ふわり。最後の着地は、土埃もほとんど立たぬ柔らかいものだった。
高い天井から柔らかな光の差し込む中央洞道内で、レニがひとりごちた。
「これだから人族は始末に終えません。常であれば、このまま全てを幻として森の外に放り出すところですが――」
レニの幻影魔法は人の記憶すらも幻に変えることができる。
森に入ったこともタイカに出会ったことも全てを幻にすることができる。
レニは腕の中のアリアを見た。アリアはその胸の中にロッシの実をしっかりと抱え込んでいた。何があろうと、これだけは絶対に離さないようにと。
「ただの果実を自らの命より優先するとは本当に愚かです。ですが、この手を離させるのは難しそうです。取り上げてまた治地に侵入されてはたまりません。仕方ありません。今回だけは許しましょう」
そういうレニであるが、そもそも誰に向けた言葉か、言い訳がましくも聞こえた。
ばさり。
再び地上へ舞い上がるべくレニが羽根を広げる。
――異変はその時に起こった。
ドクンと気絶しているはずのアリアの身体が跳ねた。
そして、それに呼応するように、目の前に白い渦が巻いたのだ。
キラキラと輝く白い光の渦は何かを吸い込むように、あるいは吐き出すように回転する。
「これは何事です」
腕の中の少女が目覚めている様子はない。聲からもそれはわかる。
であれば、この謎の事象とアリアという少女は無関係であろうか。
レニはふわりと後方に距離を取ると、安全な位置にアリアを横たえた。
両の腕が自由になったレニが、注意深く光の渦がなんであるかを探る。
一見すれば、魔法的事象である。だが、数多くの魔法を操るレニが、見たことのない現象だ。
それでもなお、既知の魔法に類似点を求めるとするならば、
「空間に穴を開けるような動き……空間転移の魔法でしょうか」
そう考えた時には光の渦は次なる動きを見せていた。渦巻きながら、次第に形を変え、人の形を成していったのだ。
「なんですか、これは」
叫ぶレニの目の前で、光の渦が弾けた。
レニにはその瞬間、赤や青、あるいは黄色、緑といった極彩色の『光の粒』が見えたような気がした。
『おおお……』
目がくらむ一瞬が過ぎ、洞窟内に薄い闇が戻ってきたとき、レニはその『声』と『聲』を聞いた。
『おお、おお。成功です。成功しました。ついに私は人の可能性、その限界を超えたのです! さて、超えた先のここはどこでしょう。なんという名を持つ世界でしょう。神の野。地上の楽園。常若国。始まりの牧野。幻想の国。高天原。滅亡帝国。枢密仏都。黄金郷。超文明都市。最果ての地。水没大陸。伝説の島。崑崙。理想郷。中つ国。――どこにもない国! 名の候補はいくらでもあります。人類は異界・異郷の存在を指す伝承を数多残しているのですから。あらゆる地域の、あらゆる文明が、あらゆる言語で! その全てを実在しない神話・空想と切り捨てるなどナンセンス。在るのです。在るから伝えられ、在るからこうして辿りついた。私こそが到達者です』
興奮のためだろうか、レニに理解できない言語で、誰にも理解できない言葉を吐き出し続ける何者か。それは男の声であった。
そしてまた、その感情が鮮烈に訴えかける。興奮・歓喜・狂乱。そのような感情の色。
『辿り着いたここはどうやら洞窟内のようですね。これもまた興味深い。First, I tried to look down and make out what I was coming to, but it was too dark to see anything♪』
歌うように口ずさんだ英語のメロディは、とある有名な童話の改変された一節である。
『まずはそうね、下の方を覗き込んで、どこに向かおうとしているのか見てみましょう。でも暗すぎてなにも見えないわ』――そのように訳される、これはルイス・キャロル著『不思議の国のアリス』の導入部にあたる一節。白ウサギを追ってウサギ穴に飛び込んだアリスの状況を描いた場面だ。
今の自分の状況を、そのようになぞらえたのだろう。
あまりにも訳がわからない状況に、レニはここまで一言も発することができなかった。
男は多くの言葉を一気に吐き出したのち、それがまるで嘘であったったかのように冷静さを取り戻した。
男の目がレニを見る。
『サテ、喜びのひとときはここで。情報の収集。分析と解析をはじめましょう。ふむ。光の粉が宙を舞い、天使が存在する世界とは。かの聖人ももしかしたら、この世界をのぞきみたのかもしれませんね』
言葉はわからない。だというのに、レニはぞっとする感覚に襲われた。
通常、人間がレニ治窟に足を踏み入れたなら、警告と排除を行うのがレニの――濬獣の役割である。
だというのに、レニはそれとは全く逆の言葉を口にしていた。
「……この男を、治地の外に出してはいけない」
なぜそう思ったのかレニにも説明できなかった。なんら論理的でないそれをあえて説明しようとするならば、濬獣の直感としか言いようがない。
目の前の男を自由にしてはならないと、そう直感したのだ。
『おっと。言葉が通じませんか。天使の言葉はさすがに専門外です。ではこちらから自己紹介をいたしましょう。私は――そうですね、この世界へは『絶望と嘆きの海』を越えてやってきたのですから、名乗るのならばこちらでしょう。『アルカンエイク』。そうです、ワターシはアルカンエイク! アルカンエイクとお呼びください!』
道化のように戯けた態度で、道化のように高く笑う。
レニ治窟に突如現れたこの男こそが、アルカンエイク。
本名のエクシルト・ロンドベルではなく、アルカンエイクを名乗った理由が『絶望と嘆きの海』を越えてやってきたからなどとは、いかにもふざけた理由である。
「あるかんえいく。それが貴方の名ですか。ですが、貴方が何者であろうと関係ありません」
『なんです? おお、この光の粒を操っているのでーすか? これはそういうものなのですか』
互い通じない会話の中、かのアルカンエイクが、ありえない油断を見せていた。
大業を成し遂げたという歓喜と興奮が強すぎたのであろう。万能感。超越感。今の自分は無敵であるという錯覚がさしもの大天才を油断させたのだ。
それがレニ最大のチャンスとなった。
「永遠の夜の中で朽ち果てなさい――夜に啼け【夜鳩顕幻】!」
先手を打って発動された魔法が、アルカンエイクを幻影の闇の中に包み込んだ。
『おお? おおおっ!?』
おそらくはその闇の中で自分自身の幻影を見ているアルカンエイクが中央洞道の側面に追いつめられてゆく。
中央洞道側面には地底へ伸びる大小の穴が無数にあいている。追いつめられたアルカンエイクがその内の一つへと足を滑らせた。
「まさか! まさかまさか! 貴様は導くものではなく、排除するものか! このワタシが、このようなァァァァァ!」
絶叫が洞窟内に大きく反響し、そして尾を引いて小さく消えた。
止めだと言わんばかりに地質操作の魔法で男の落ちた穴を塞ぐ。そこまでしてやっとレニの心臓はいつもの鼓動を取り戻した。
「レニ治窟は我とて全容知りえぬ無限の迷宮。二度と日の光を見ることはないでしょう」
◇◇◇
「そ、それでどうなったのだ」
身を乗り出して問いかけるフィリーナ。
もし本当にそのまま地底の穴の中で朽ち果てたのならば、今のアルカンエイクは存在しない。
「私は少女を治地の外へと運びました。その日から凡そ三〇日。男は――アルカンエイク王は暗黒の地底で生き延びました。そして、再び私の前に現れたのです」
闇の中で三〇日……常人であれば狂い死んでいてもおかしくない状況だ。そんな中、アルカンエイクは泥水をすすり、毒性の有無も不明な苔とキノコだけを食べて命を繋いだというのだ。
再びレニの前に姿を現したアルカンエイクは鬼気迫る風貌であったという。
そして、レニの魔法は二度とはアルカンエイクに通じなかった。
「シャル。貴女が先ほど語ったのと同じ言葉を、私はアルカンエイク王から聞きました。レニ治窟がアルカンエイク王の世界とつながっているという話、そして私は――濬獣はその門番であり、世界を越えてやってこられたアルカンエイク王に仕える役目をもった存在なのだと」
「はわっ」
どのような言葉を用いたかは明らかではないが、それは理性の濬獣を納得させるだけの内容を含んでいたのだろう。
「ワーズワードさんからその話を聞いた時に、ニアヴ様もとても混乱されていました。レニさまはなぜ、パルメラさまやニアヴさま、他の方々に相談されなかったのでしょうか」
「そのようなことはできませんでした。いつか別の世界からやってくるであろう何者かを待ち続けることが役目であるなど……七〇〇年を経てなお一人で治地を守るパルメラに、どのように説明できましょう」
そのような役目の話は、最も永く生きる白耳ですら知らぬ話であるのだ。永遠を待っても現れないかもしれないものを待てなどとは到底口にできない。そして、もし本人を前にすれば、知ってなお隠し通せる自信もなかった。そんなレニだからこそ、誰にも相談できなかった。一人で背負い込んでしまったのだ。
「ニアヴと同じ状況にありながら、私は群兜と呼ぶべき者を殺そうとしました」
「それは……違うと思います。ニアヴさまは役目だからワーズワードさんの紗群になられたんじゃありません。ニアヴさまとワーズワードさんはお二人の気持ちが通じて、それで」
「経緯は関係ありません。私たち濬獣は世界を超えてくる者たちのために存在する。それだけが真実なのです。群兜に仕える理由はそれだけでよいのです」
「そんな……」
「シャル。そなたは納得いかぬようだが、群兜と紗群とは常にその心が通じるわけじゃないんだ。それは私も……。濬獣レニ、それならばそなたはなぜ王の傍ではなくこのような地下に幽閉されているんだ。そなたは濬獣。あまりいいたくはないけれど、こと魔法においては我が国の誰よりも王のお役に立てるんじゃないのか」
「王が私を必要としないからです。私の魔法の力も濬獣の役目として捧げた忠誠も、あの方には不要なもの。存在を無視されたのです。一人残された私は怖くなりました。真実を知りながらそれを伝えもせず、治地すら捨てて仕えた王にさえ無視されるこの身……自分の状況が他の同胞たちに知られることが怖かったのです。そうして、逃げ込んだ先がこの部屋でした。この部屋の入り口には『古の王国』が残した、どのような魔法も遮断するアーティファクトの宝玉が備えられています。ここにいる限り、どのような魔法も私には届きません」
「あの宝玉にそのような魔法効果があったのか」
思わず入り口を振り返るフィリーナ。
二人を相手に、抑えこんでいた心の中を打ち明けたことで、心の箍が緩んだかあるいは、解放されたのであろうか。
レニは言葉を続けた。
「私がここから出ないのには、もう一つ理由があります」
「もう一つ、ですか」
「アルカンエイク王を群兜と呼ぶ私ですが、私の心は今もあの男を治地の外に出してはいけなかったと叫び続けています。王家の娘よ、その理由は貴女が一番にご存知でしょう」
「それは」
レニは王城を火の海に変えた王位簒奪の件を言っているのかもしれない。
だが、フィリーナは今日まさに目の前に見たラバックの街を思い出していた。
「口では群兜と呼びながら、私はあの男を恐れている。そしてあの男が世界に振りまく不幸を知りながら、何もせず何もできず、ただそれを見たくなくて、この部屋の中で耳と目を塞いでいるのです。私は、私が恥ずかしい」
「レニさま……」
深々と頭を下げるレニ。
「あの男を世界に解き放った――これは私の咎です」
最後の理由は、懺悔だった。