Double Dragon 06
アルトハイデルベルヒの王城地下、『封禍宮』。
封禍宮とは、アルトハイデルベルヒの王城につくられた地下牢の呼び名だが、罪人をつなぐ牢獄は既に王城外に移転されているため、この名は過去のものである。
そのため、フィリーナは封禍宮という呼び名を知らなかった。生まれてからずっと王城に暮らすフィリーナとて、城の全てをしっているわけではないのだ。
ただ、聞くだに禍々しい言葉の印象は、憔悴したフィリーナの心を更に暗く落ち込ませるものであった。
耳は項垂れ、足取りもおぼつかないフィリーナを両脇から支えるように護送する王宮魔法師は、そんな前王女の姿に心を痛め気遣いの言葉をかけた。
「申し訳ございません、フィリーナ様。これも閣下のご命令でございますれば。きっと閣下には何かお考えがあるのです。すぐに出られるに違いありません」
惨劇の夜。アルカンエイクにことの真意を問うた――問い質そうとしたフィリーナは法国宰相オーギュスト・エイレン・ゼリドの拳を受け、彼の命によりここ封禍宮へと送られることになった。
強く打たれた頬がヒリヒリと痛む。だが、その痛みのおかげでやっと自分の形を保てる。そのような気がする。
この痛みがなければ、自分の身体がどこにあるのか、自分の心がどこにあるのかわからなくなるほどに今のフィリーナの精神は疲れきっていた。
王宮魔法師の足が止まる。
視線を上げたフィリーナの目の前に、頑丈な鉄格子により閉ざされた地下へと続く螺旋階段が現れた。
「……そなたたちはここまででよい。この先は私一人で進む」
疲れ果てた声だ。
王宮魔法師の表情が悲痛にゆがむ。
これまでアルカンエイク不在時の王権代行者として国家に尽くしてきたフィリーナの献身を知らぬものはいない。
法国の民は皆この前王女を愛している。それは、護送の任を負った王宮魔法師も同じである。
「姫様の処遇について私からも必ず閣下に具申します」
「そうでございます、一晩だけの辛抱にございますれば」
常のフィリーナであれば、労いの言葉を口にしたであろう。
だが、今は背中からかけられるそのような声にどのような反応を見せることもなかった。
点々と燃える松明の明かりが足元を照らす中、螺旋階段を一段ずつゆっくりと降りてゆく。
彼女の心に去来するものは悲しみか後悔か、はたまた深い絶望であるだろうか。
階段を降りきった場所は、左右に伸びる回廊になっていた。
「そういえば、地下に入るのは初めてだ」
日を嫌う陰性植物の青臭いが鼻をつき、どこかで水滴の滴る音がする。
松明は灯されているがその間隔は広く、あいだあいだに闇が挟み込まれている。そのせいで、回廊がどこまでも無限につながっている錯覚を覚える。頭上の入り口は閉ざされ、出口はどこにもない。そのような印象を持たざるをえない地下の空間だった。
フィリーナが呟く。
「私の言葉は王に届かないのか。ここで祈ることしかできないのか。神がいるならばどうか聞き届けてほしい。無辜なるラバックの民を、解放を望む獣人たちを――どうか一人でも多く助けてほしい。そのためならば、私の身がどうなろうとかまわない」
自分の全てはこの国のために――それがフィリーナ・アルマイト・アグリアスの在り方である。
祈りの声が回廊にこだまする。こだまし、小さく、消えてゆく。フィリーナの表情がにわかに歪んだ。
「――私は無力だ」
と。
回廊の奥からパタパタと何者かが走ってくる足音が聞こえてきた。
自分を迎えに来た獄使だろうか。
まずそう考えたフィリーナであるが、よく考えればここは現在牢獄としては使われていないはずである。
ゼリド宰相がここを封禍宮と呼んだ以上、まだなにがしかの使われ方はしているのであろうが……
耳をピンと張って身構えるフィリーナ。次の瞬間。その耳が驚きに跳ね上がった。
闇を超えて彼女の前に現れたのが、この場になんとも不似合いな年若い女性だったからである。
ふりふりのスカートにいたずらな瞳。いかにも可愛らしい服装で、男物の衛士服を着こむ自分とは対照的だ。
「あら。どこのお客様かと思ったらフィリーナ王女様じゃない」
「今の私は王女ではないが……そなたとはどこかで会ったことがあるのだろうか」
記憶にない女性だが、ふとそんな気がして問いかけた。
「そうねー。はじめましてではないけれど、この姿でははじめましてかしら?」
「それはどういう――いや、私も有名人だ。私がそなたを知らずとも、そなたが私を知っていることに不思議はない。かわりに一つだけ私の疑問に答えてくれ。そなたがここから先、私を案内してくれる者なのだろうか」
「ううーん。そんな話は聞いてないわね。そもそも、ここには誰も入れちゃダメっていう、アルカンエイク王の命令があるはずなのだけれど」
「すまない。それは知らないが、私がここにいるのはゼリド宰相のご命令のためだ」
「あのおじいちゃん? どういうことかしら。ちょっと待ってね。確認するから」
国家宰相をおじいちゃん呼ばわりする無礼に、やや耳をひそめるフィリーナ。まったく近頃の娘ときたら……そのような感想を持つ。
目の前の女性はそんなフィリーナを気にすることもなく、壁に背をつけてすっと瞳を閉じた。その姿勢のままピタリと動きを止める。
まるで眠ってしまったかのような静止。
この状況は一体なんだ。この女性は何者であるのか。
フィリーナはわけもわからぬまま、声もかけられず女性の目覚めを待つしかなかった。
女性がパチリと瞳を開ける。
開けたかと思えば、けたけたと声を上げて笑い出した。
「あはははっ。フィリーナ王女様ってば、アルカンエイク王に逆らったのね。それってとても勇気ある行動だわ。――でもって本当に無意味」
最後の方はなんと言ったのか、フィリーナにはよく聴こえなかった。
「私の事情を知ったのはパルミスの魔法によるものだろうか。だとすれば、やはりそなたが封禍宮の管理人なのか」
「だから違うってば。もうっ、細かいことはどうでもいいじゃない。とりあえず状況はわかったわけだし。いいわ、王女様の勇気に免じて、追い出さないであげる。どうせ一人も二人も一緒だしねー」
「一人も二人も?」
女性の言うことがフィリーナにはまるで理解できない。圧倒的に説明が足りていない。説明不足を解消するつもりもないらしい。
ただ、一つだけフィリーナの疑問に答える言葉があったとすれば、それは小悪魔なウインクと共に告げられた、
「私のことは『リゼル』って呼んでね☆」
という自己紹介だけだった。
「王女様を歓迎したいところだけど、まだ色々準備中なの。ここで少しの間、待っていてくれるかしら」
「わかった。歓迎も元王族の待遇も必要ない。今の私は王の不興を買った一人の罪人だ。そのように扱ってくれ」
「それこそ私には関係ない話なのよねー」
結局聞きたいことはほとんど聞けず、有益な答えも得られないまま、フィリーナは一つの部屋の前にポツリと残された。
部屋の入口、扉の上部にあたる壁面に一つの宝玉が嵌めこまれていた。
宝玉の内部で青白い光が波打つように輝いている。
「アーティファクトの照明器具だろうか。それにしては明るいものではないが」
感想はそれだけだった。
世にも貴重なアーティファクトであるが、光を灯す程度のものであればフィリーナは見慣れている。
扉の把手に手をかけるフィリーナの耳がピクリと反応した。室内から漏れ聞こえてきた音を拾ったのだ。
「彼女の他にも誰かいるのだな」
フィリーナは思い出した。王城地下。かつて、王の友人の男性を案内した際に聞いた一つの名を。
それは王都近くに治地を持つ濬獣の名前だ。
まさか……フィリーナの長い耳がピンと伸びる。大きな畏れと、そして、少しの期待の感情がフィリーナの動きを止めた。
もっと多くの音を拾おうと、耳に意識を集中させる。
こういう時に長い耳は便利だ。
「――私はワーズワードさんを信じています」
フィリーナの期待を外すように、それは若い少女の声だった。広大な濬獣自治区を長く支配する濬獣のものではないように思う。
それでフィリーナが落胆したかといえば、そうではない。むしろ、更なる驚きをフィリーナに届けたといってよい。
『ワーズワード』。
その名はかつて一人の神官が急ぎ王宮に伝えてきた名として記憶にある。
宣託会議でアルカンエイク王自身がその名を口にしたことから、両者は間違いなく互いを知る間柄にあるはずだ。
この中にいる人物はワーズワードの名を口にした。であれば、この中にいる人物から聞くことが出来るのではないか。
ワーズワードなる人物のことを。――そして、私の知らないアルカンエイク王のことを。
地下に足を踏み入れた時のフィリーナにあったのは己に対する無力感だけであった。
法国にゼリドあり。
オーギュスト・エイレン・ゼリドはゴールナード前法王亡きあと法国を支える国家の重鎮である。
フィリーナの生まれる前から宰相位にあり、父王との関係も浅からず、公務を離れれば祖父とも慕う相手だ。
そんなゼリドの手加減のない拳と冷厳な言葉があった。
アルカンエイクの怒りを買っただけであれば、フィリーナはここまでの無力感を覚えなかっただろう。
国を思う気持ちは自分と同じだと思っていたゼリドの拳が、そんなフィリーナの心を打ち砕いたのだ。
しかし、そんなフィリーナの瞳に輝きが戻っていた。
知りたい。知らなければいけない。
言葉が届かなくても、どれだけ遠ざけられようとも、私は王の紗群だ。
フィリーナは意を決し、トンと扉をノックした。
◇◇◇
そのとき、室内には二人の人物がいた。
一人はパルメラ治丘でリゼルに捕らわれ、ここアルトハイデルベルヒの王城地下まで連れてこられた青い髪と露草色の瞳を持つ異世界の少女シャル・ロー・フェルニである。
室内に足を踏み入れたシャルが出会った人物こそが、世界に一二人だけの存在。『世界の秤』とも呼ばれる人外魔境の統治者・ルーヴァであった。
その名はレニ。濬獣レニである。
「私はシャル・ロー・フェルニといいます。ニアヴ様もパルメラ様もレニ様のことをとても心配されていました。私のこと、これまでのこと……少し長くなりますが、お話させてください」
バサリ。
そう宣言したシャルに応えるように、立ち上がったレニの背に生える純白の羽根が湿った空気を打った。
自身の背丈と同じ大きさを持つ二翼の大きな鳥の羽根である。
有翼種は獣人の中でも特に希少な種族だ。
機械的な飛行手段の存在しない世界で有翼種は大いに珍重されて、多くが狩られた。
人が人を狩ると聞けば禁忌の行いのように感じるが、過去多くの国で獣人は奴隷であり、愛玩動物であったという歴史がある。
四神殿の教えはもとより獣人種族を人間と同じ神の申し子であるとは認めていないのだ。
もとより子の生まれにくい鴇族や美しい声の鶯族は既に見ることができず、その他の種族もこの先絶滅を待つだけのような状況だ。
レニについて言えば、有翼種鶴族の出身である。
癖一つなく、まっすぐ腰まで流れる銀髪の中、前髪が一筋だけ赤い。透き通る肌は生まれてから一度も日を浴びたことがないような白さ。シャルも負けず美しい白い肌を持っているが、健康に赤みを帯びて透き通るシャルの肌と冷たく青く透き通るレニの肌はある意味で正反対である。
前合わせの布服はニアヴ同様であるが、そのしつらえは巫女服というよりは着物が近い。腰には太い帯が巻かれており、帯より上は白く足元の方は赤染めされていた。
ニアヴ、アラナクア、パルメラ。短い間に三人のルーヴァを知ったシャルは、これまで生き神様だと思っていたルーヴァにも様々な性格があり、感情があり、葛藤がある――そんな自分と同じ『人間』であることを知っていた。
だから、畏れることも平伏することもなく、自然体でレニに話しかけることができたのだ。
対するレニは少女がニアヴとパルメラの名を口にしたことに驚きを現し、次いで少女の聲から、それが真実であることを知ると、何かに耐えるような表情を見せた。
それがレニのどのような感情からくるものなのか、シャルにはわからない。
ただ、伝えなければいけないと思った。自分の知る全てのことを。
「どのようにご説明したらよいのかわからないので、はじめからお話させてください。私はニアヴ様の治めるニアヴ治林にほど近いフェルニの村に住んでいます。村の特産品である薬花をユーリカ・ソイルの街に売りに行くため、私はニアヴ治林の中を歩いていました。そこで私はワーズワードさんに出会いました」
「ワーズワード……?」
「はい、ワーズワードさんですっ」
ワーズワードとシャルの出会い。全てはそこから始まったのだ。
レニの知りたいことからは少し遠回りになるだろう。でも、全てを伝えるにはそこから話さなければいけないとシャルは思ったのだ。
自分の知る中で、ワーズワードに聞いた様々な話の中で。どれが重要なものであるのかシャルにはわからない。
だから、全てを伝えるのだ。
「――私の村についたとき、アラナクア様から救援要請、そこでニアヴ様はなにかの魔法でレニ様に連絡を取ろうとして、でも連絡がつながらないことがわかると、見たこともないくらいおつらい表情をされていました」
痛みに耐えるようにまつ毛を震わせるレニ。
そのなにかに耐える表情が、あの時のニアヴ様と同じだとシャルは思った。
きっと、レニ様にも連絡の魔法に出られないなにか理由があったのだ。
「――それでワーズワードさんは、こう説明されました。自分とアルカンエイク、えっと法王様はここからすごく遠いところにある地球という国の人間だって。濬獣自治区はその国に行ける特別な門がある場所で、濬獣様はその門を護るためにいらっしゃるのだと。私は『てぃんかーべる』という人で、その門を開けられる力があるのだそうです。でも普通の人にも濬獣様にも『てぃんかーべる』を見分けることはできなくて、それで濬獣様は濬獣自治区に人間を近づけないようにする使命を持っているのだと」
法王の名が出ると再びレニの羽根がバサリとざわめいた。
一度目にざわめいたのは、ニアヴがニアヴ治林を空にして自分たちと一緒に街に降りたと説明した時である。
拙く要領を得ないところもあった。嬉しかったとか悲しかったとか、そのときの気持ちをただ言うだけの場面もあった。
それでもシャルは一生懸命に言葉を続けた。
法国に入ってからの獣人解放運動の支援とその運動の広がりには、さすがのレニも大きな興味を示したようだった。
法国の維持する獣人奴隷の制度、獣人差別の意識については、ここ法国内に濬獣自治区を持つレニとしても重大な感心事なのだろう。
場面はパルメラ治丘へと移り、パルメラが取り仕切ったワーズワードとニアヴとの群誓式については、それにあこがれを持つ少女らしくシュガースイートでキャンディーポップに甘く語られた。
そこで更に一度。レニの羽根は合計三回ざわめいた。
「――そして、パルメラ治丘で私はリゼルさんに捕らえられて、ここに連れてこられました。私はワーズワードさんを信じています。私のことをここまで迎えに来てくれるって」
「……」
長い話になった。
しかし、レニは途中で話の腰を折ることなく静かにシャルの言葉に耳を傾けた。
ニアヴともアラナクアともパルメラとも違う落ち着きを持つ濬獣である。
全てを話し終えたシャルに、レニは深く頭を下げた。
「たくさんの話をありがとうございます。シャル・ロー・フェルニ。貴女が我が同胞たちと深く関わっていること、それは疑いようもなく確かなようですね。ワーズワードという人族が語った話も、大変に有益でした。そして、私がこの地下に閉じこもっている間に、地上では様々なことが起こっていたのですね」
「はわ。あ、ありがとうございますっ。……あの、私からも聞いてよいでしょうか」
「はい」
レニが頷く。
始めにあったレニの刺々しさは既になかった。
これが本来のレニの性格なのだろう。
「レニさまはどうしてこのような場所にお一人でいらっしゃるのですか。なぜ、レニ様の濬獣自治区にいらっしゃらないのでしょうか?」
「少し、お待ちなさい」
勢い込んで質問を発するシャルを、レニは軽く押しとどめた。
何か失礼があったのかと、はわはわ慌てるシャルだったが、どうもそうではないらしい。
レニの視線は、シャルの後方へと注がれていた。
シャルもまたその視線を追って、後方へ目を向ける。
そこには、シャルも通ってきた部屋の扉がある。
その時、外側から扉がトンとノックされた。