Double Dragon 03
「人身供犠のアニミズム。考えるまでもない。くだらぬ。が――人心を支配する強大なる生物は面白し。神鼈。我が『標的』として不足なし」
「アンタ、なんを言って――」
ディールダームが立つ。それはもはや物言わぬ巨石ではない。
まるで熱風が吹き付けるかのような圧力を感じて、ハキム婆は巨漢を見上げた。
動かず、喋らず――これまで、ただの石にしか見えなかったことがウソであったかのような劇的な、いっそ爆発的な変化だといってよい。
全ての者が神鼈の前に平伏する中、ただ一人立ち上がったディールダームに視線が集まる。
「ディールダームさま」
静から動へ。
近くに遊ぶ小鳥が気配を感じないほどに自然の中に溶け込むかと思えば、こうして場の全ての人間の注目を集めるような存在感を放つ。いや、その認識は逆であろうか。そもそも、これだけ屈強な肉体を有する男の存在をこれまで誰も気にしなかった事のほうがよほどおかしい。となれば、これまでの静の気配はディールダームがそうと自らの存在感を制御していた結果なのであろう。
忘れてはいけない。男は厭世の修験者でもなければ、放浪の旅人でもないのだ。この男こそは、アルカンエイクの提案するワーズワード排除の計画に乗り異世界までやってきた世界の四番目の敵、『エネミーズ4』ディールダームであるのだから。
ディールダームの足が桟橋を踏んだ。
神輿流しの準備をしていた神官の手が止まった。
「何者か。神聖なる水神祭を妨げることは許されぬぞ。もっとも、それ以上は近づけぬであろうが」
祭壇上の近衛神官が警告を発する。
近衛神官が発動した【マルセイオズ・リパルシブ・アーマー/水神斥力鎧】の魔法は未だ有効だ。
この魔法はあらゆる物理攻撃を弾く水神系の結界魔法である。その魔法を近衛神官が最大範囲で発動すれば、半径一〇メートル以内には誰も近づくことはできない。
だが、そんな警告でディールダームが足を止めることはない。
メキリ――
ディールダームが拳を握りしめる。それだけで右腕が巨大なハンマーとなる。
歩みを止めることなく、その拳をディールダームの目にだけ見える三角錐の壁面に叩きつけた。
三角錐の頂点を構成する光の粉が吹き飛ぶ。まるでガラスを叩き割ったかの如く、パキンと結界魔法を消失した。
「なっ……」
男が何をしたのかはわからない。
だが、魔法が破られたことにはすぐに気づいた。
【水神斥力鎧】の結界内では風の流れがやみ、音が遠くなる。いわば、透明な壁に囲まれた密室の中に入った状態になるのだ。そこに風や音という体に感じる変化が戻ってきたのである。
「ふん、弱すぎる。四神殿とはこの程度か」
「ぬぅ、この俺が弱いだと!? 聖庁にて大役を務めるこの近衛神官に向かい、その言。まさに天に唾棄する非礼ぞ!」
それを侮辱と受け取った近衛神官がたるんだ頬をぷるぷると震わせて咆哮した。
その咆哮にはディールダームではなく、湖岸の村人の方が青ざめた表情を見せた。
どれほど屈強であろうと男一人であれば、数人がかりで抑えつけることもできる。だが、最強の魔法を使う近衛神官を怒らせたとあっては、村一つが滅びかねない。
「あの男を取り押さえるんだよ」
ハキム婆の発した声に、村の男衆が立ち上がった。
しかし、男たちは桟橋の先には進めなかった。そこに一人の少女がその根本に立ちふさがったからである。
「そこをどくんだ、嬢ちゃん」
「あの……できません」
ロゼットはふるふると首を振った。
背は高いが気の弱そうな少女だ。広げた両手も小刻みに震え、男の力であれば簡単に押しのけて通ることができるだろう。
だが、少女の行動には自分の意志では絶対に道を譲らないという決意が見えた。
それが、男たちをたじろがせたのだ。
杖をついたハキムが、ロゼットの前に立つ。
「わかっているのかい、ロゼット。こんなことをしてどうなるんだい」
「ハキムさん……ハキムさんはよそ者の私に優しくしてくれました。なのになぜ、あの子はだめなんですか。来年は自分の番だって、なんでそんなことを言うんですか。ハキムさんの足は治ります。医者の娘の私がいうんですから、間違いありません。私はこう教わりました。人が健康で長生きができるように土神さまは私たちに医療の薬と術をくださったんだって。いつか神さまの元の帰るその時がくるまで、他人の命も、自分の生命も大切にしないとだめなんだって。だからこんな――小さい子の命を捧げる、こんな水神祭は間違っています」
震えながら、時に声が涙に揺れながら。
水神祭は間違っていると、ロゼットは明瞭とそういった。
「ロゼット、あんた……」
それは皆心のどこかに持っていた気持ちで。でも口に出せなかった想いで。
「だからって、どうすんだ。神鼈様はこうして、お姿を現しておられる。神鼈様を怒らせたら、この村がどうなるものか」
「そうだ。それに四神殿に楯突いちゃ、生きちゃいけねえ」
事実として湖には神鼈が住まい、水神祭は四神殿がそうすべしと定めた神事である。
生け贄に同情する気持ちがあったとしても、神の代行者として祭りを取り仕切る四神殿に逆らえるわけがない。
四神殿の言葉は神の言葉。四神殿の行いは神の意志。魔法の使えぬ一般の市民から見れば、四神殿は信仰の対象であるとともに、決して逆らってはいけない禁忌であるのだ。
「いいえ、きっと大丈夫です」
それでもロゼットは引かなかった。
それは彼女が生まれ育った祖国の滅亡という大きな変化を経験したためかもしれない。
または、アルカンエイクやディールダームという四神殿を超えるような存在を知りえたからかもしれない。
彼女は人の世の全ては絶対ではなく変えられるということを理屈ではなく、実体験で学んだのだ。
ロゼットが湖を振り返る。
何を見ろというのか。皆がロゼットの視線の先を追う。
そこには桟橋を進む巨漢の姿がある。
「見ていてください。私には、私たちには確かに何もできません。でもディールダームさまなら――」
桟橋が終わり、ディールダームの足が祭壇を踏んだ。
それだけで足場がぐらりと揺れる。重量のある重い一歩だ。
近衛神官の怒気を感じ取った村長以下村人は、左右からかがり火の燃える小舟に乗り移り、祭壇上には近衛神官と補佐として数名の神官、それに生け贄の獣人の子だけが残る状況となっていた。
補佐の神官たちは【プレイル/祈祷】を唱え始め、万全の体制でディールダームを迎え撃つ。
「この俺の前に立ったこと、後悔しても遅いぞ。薄汚れたナリの蛮人めが」
「魔法を使うか。貴様らのそれは児戯よ」
「馬鹿め。児戯かどうか、その身で確かめてみるがよい。――神の名を称えよ。其は凍土の主。神弓アイオーム・エル・ドル。霜つけ【マルセイオズ・フロスト・ボウ/水神霜弓】!」
既に始まっていた神官の【祈祷】よりあとに始まり、先に発動する近衛神官の魔法。三〇の音韻からなる【水神霜弓】の【祈祷】をたったの三音まで圧縮した【インスタント・コール/瞬時詠唱】だ。
魔法の能力で認定される上級神官、近衛神官という神官職であるが、それはただ高難易度の魔法を唱えられるというだけの区別ではない。
例えば【祈祷】に必要となる音韻数は魔法により決まっているが、熟練度によっては音数の削減や個別化が可能なのだ。
上級神官であれば一般的に半分程度に音数を減らしているものであるし、暗殺を職業にするものは意味を持たない【祈祷】から魔法を【詠唱】できる特異な訓練を積むという。
この近衛神官は自分の得意魔法を、一〇分の一まで削減できるらしかった。こうして五音節以下まで圧縮された【祈祷】で発動する魔法を【瞬時詠唱】と呼ぶのである。
【瞬時詠唱】がどれだけの脅威であるか、魔法による戦闘を知るものであれば、より実感できるだろう。
魔法には先出し有利の法則がある。相手より先に魔法を発動できれば、相手の【詠唱】より前に【祈祷】を妨害できるし、それでなくとも長い【祈祷】を待ってくれる敵などいない。
このことから濬獣のみが可能とする無詠唱魔法がどれだけ脅威であるかもわかるだろう。それがため、濬獣自治区は依然人間がおいそれと手の出せない領域であり続けているのだ。
矢の形状を持つ凍結の魔法が、ディールダームの目の前に現れる。
【水神霜弓】は平時には生鮮食料の冷凍保存に使える便利な魔法だ。聖国には【水神霜弓】の魔法を唱えることのできる冷蔵官という官職が存在し、三交代制で食料貯蔵庫の温度管理をしている。帝宮勤めを希望する帝学学生の中で、安定職として人気だ。
暑い夜には貴族の寝室に呼ばれるというスペシャルな待遇も得られるため競争倍率は高い。
その魔法を対人で使えばどうなるか。
人体の七〇%は水分であり、それを瞬時に凍結させる【水神霜弓】は即死の魔法に変わる。
「ぶふぉふぉぉ、凍てつけ! 貴様も生け贄となるのだ!」
「くだらぬ」
ディールダームはそれだけを吐き捨てる。
近衛神官の生み出した凍結の矢は、ディールダームへは向かわず、そのまま発動者である近衛神官に向かい飛来した。
――ピキン。
「はっ?」
「あああ、アモール様!」
近衛神官ファグラ・アモールは必殺を確信したまま、一本の氷柱に変わった。
思わず口を突いて出た叫び声に神官の【祈祷】が止まる。
「お前たちも消えよ」
「ゴファッ!?」
続いて無造作に振るわれるディールダームの豪腕。その拳はなんの魔法効果も持たない。
だというのに、神官は軽く三メートルは宙を飛んで、大きな音と共に湖へと沈んだ。
村人が舟を動かし、神官たちの救出に向かう。
「きゅーんきゅーん」
残るは、神輿に繋がれた獣人の少女だけである。
「お前も邪魔だ」
ディールダームの言葉はそのまま発光となる。
鋼鉄の鎖は水に変わったかのようにドロリと溶け出し、少女の拘束を解いた。
「はやく、こっちにっ」
「きゅーん!」
桟橋の上からロゼットが叫んだ。
手を足のように使い、弾かれたように走り出す少女。獣人は子供の頃の方が俊敏である。
祭壇の上には一人と一柱。一柱はディールダームの拳を受けて砕けて散った。ディールダームが、首を長く伸ばしたままの神鼈を見る。
ここまでほとんど一瞬の出来事である。想像を超える事態に、湖岸の村人たちはなんの思考もできないまま、ただ見守るしかなかった。
ディールダームが神鼈を睨み、まるで話しかけるかのように言葉を放つ。
「始めよう。今が貴様の『試練』の時だ」
「グロォォォォォウウウルゥゥゥ!!」
神鼈はなにかの危険を察したかのように大きく鳴いた。
鳴くと同時に、神鼈の周囲に複数の光が瞬いた。
「ひぃぃぃぃ、神鼈様がお怒りじゃ!」
「目の前で生け贄を逃したからだ。やはり、水神祭は必要な祭りだったんだ」
「この村はもう終わりだぁ!」
悲鳴を上げて、逃げ惑う村人たち。
「きゅーんきゅーん!」
「大丈夫、大丈夫だから」
ロゼットは膝立ちになり、生け贄の少女を強く抱きしめる。
ハキム婆がロゼットに問いかけた。
「ロゼットや、あの男は一体なんなんだい」
「私にもわかりません。でも、少しだけわかったことがあります。あの人は、私たちにはどうすることもできない、大きななにかを見ている人なんです」
「大きななにかだって?」
「はい。でも、それしか見ていなくて。だから、小さいことや足元のことは私がやってあげないといけなくて。そんな仕方のない人でもあって」
ふにゃりとロゼットの耳が折れ曲がる。
「あわわ。じゃなくて、だからどんなに無理なことでも、無茶だって思えることでも、ディールダームさまが動かれるなら、きっとなにか変えられると思うんです。私たちにはどうにもできない、この水神祭だって」
ロゼットの説明は要領を得ない。
ハキムは自分の目で確かめるように祭壇上の男を改めて見た。確かに屈強な肉体を維持しているが歳はそんな若くない。
ロゼットの言うとおりの男であれば、あの歳になるまでの間に、なにかしら世に名声を轟かせる実績を残しているはずである。
確かにここは辺境の小村であるが、月に一度は訪れる風神神殿の巡回神官が様々なニュースを届けてくれるために、そこまで世情に疎いわけではない。
今法国を騒がしている獣人解放運動『アルムトスフィリア』のことも知っているし、その結果起こった『ラバックの惨劇』のことも聞き及んでいる。
他に娯楽のない村のため、巡回神官の話をほとんど覚えているハキムであるが、どれだけ記憶を遡ってもディールダームという名は聞いたことがなかった。
聞いてもわからぬ以上、今はこうして岸辺から見ているしかなかった。
神鼈の魔法。それは亀甲を模した六角形の源素図形で発動する魔法だった。
それが正面に三層。周囲にも二層の障壁を張っている。ディールダームの目にはそれが見える。
「己の身を守る防御型の魔法と分析する。よかろう。ならばそれで俺の一撃を受け切ること。これを貴様の『試練』とする。超えて見せよ」
ハキム婆の目には、祭壇の上で拳を振るうディールダームの姿が見えるだけだ。
祭壇から神鼈までは数メートルの距離がある。最大限に手を伸ばしても届く距離ではない。
だというのに――
ガギギギギッ!!
その一振りは不可視のハンマーであった。
分厚い鉄板にハンマーを打ち付け、そのまま打ち破るような奇怪な金切り音。
そんな破壊の音の後、湖面に伸びていた神鼈の首が消えた。
水中に潜ったのではない。血肉を散らして、吹き飛んだのである。頭を失った神鼈の身体が、腹を上に向けて浮かび上がる。まるで湖に新しい小島が生まれたような、それほどの巨大な身体が水面下に隠れていたのだ。
赤く染まる湖面は夕日の照り返しであろうか、それとも神鼈の流す血の色であろうか。
神鼈は神に連なる眷属の中でも、最強の竜に等しい力を持つといわれる眷属神だ。その眷属神を人間が殺した。しかも誰にも理解できない拳の一撃で。
初めから終わりまで信じられない状況の連続に村人はもはや声をあげることもできなかった。
ただ一つ、生け贄を捧げるべき対象がいなくなった以上、これ以上祭りを続けることはできない。
――リムロスの村で長く続けられてきた水神祭の歴史は、今日で終わったのだ。
拳を下ろしたディールダームが誰にともなく独白する。
「神鼈もまた我が試練を超えられず……つまらぬ」