Lycanthropes Liberation 19
次回、えぴ8最終話です。
『ラバックの街』ライドー子爵城館
「急報! 急報! 武装したアルムトスフィリアの一団が、我が街に迫ってきております!」
「なんだとォッ!?」
夕日が果樹林を赤く染め始めるころ、巡回の守備兵から緊急の報告が飛び込んできた。
ベルゼスは思わず立ち上がり、狼狽の高い声を上げてしまった。
明日になれば国軍の力を借りて、こちらから一気に反乱勢力を押し潰す予定だった。その前に奴らが動いたということは、この情報がどこからか漏れていたということになる。
重大な情報の漏えいに加えて、法王のいる前で受け取った奇襲の報告は、ベルゼスにとってこの上ない不名誉であり恥辱であった。
いつものベルゼスであれば、即座に周囲に怒りをぶちまけるところであるが、今は御前である。
視線を動かした彼の瞳に、王の隣に立つフィリーナの姿が飛び込んできた。
殿下の前でこれ以上の不名誉を晒すわけにはゆかぬ。貴族としてではなく、一人の男としての矜持がベルゼスの精神を支えた。
そこでベルゼスの脳裏に閃きが走る。
明日国軍が到着してしまえば、俺に指揮権はない。戦場での活躍も雇いの兵士どもより屈強な法国騎士の方が優る。そうなれば我が名が王の耳に残ることはなく、フィリーナ殿下の記憶の中にも俺の顔は残らない。
そうだ、今こそが俺の有能さを示すことのできる唯一にして無二の好機ではないのか!
「本当に彼らがそんな暴挙に……そなたはこれを予期していたというのか」
王にそう問いかけるフィリーナに、ベルゼスが反応した。
「おお。それでは我が街を案じ、こうしてお越しいただけたのですね。お心遣い、感謝いたします。で、ございますが、どうぞご心配なきよう。このようなこともあろうかと我が街では多くの兵士を雇い入れております。皆様はこの安全な城館内でこのままお寛ぎいただけますれば。反乱分子の獣人どもなど、このベルゼス・ラック・ライドーがすぐに駆逐して参ります」
これまでの失態を打ち消すように、胸を張って宣言するベルゼス。
フィリーナはそんな様子のベルゼスに愁眉を寄せて、言い募る。
「ライドー子爵、彼らとて理由なく声を上げているのではない。どうか穏便に対応して欲しい」
「お任せください、殿下。おのが身の不満のために烏合しただけの奴隸連中など、我が一括で散らしてみせましょう。我が兵が傷つくことなどありませぬ。あっはっはっはっはっ」
ここで惰弱を見せないことが男らしさであると考えるベルゼスが笑い声で応える。
仮にフィリーナが獣人たちの身を案じると知ったところで、それは女がペットに見せる愛情であると理解しただけだろう。
ベルゼスにとって――法国貴族にとって――『人ではない』獣人奴隸の扱いは、その程度のものであり、それ以上にはなりえない。
「しばし御前を失礼いたします。出るぞ。我が旗を持ってこい!」
「はっ」
報告に来た部下と家宰を引き連れて、ベルゼスが部屋を後にする。
法国軍が到着する前にライドー子爵領の兵のみで反乱勢力を制圧することができれば、それは大いなる功績になろう。
王の目の前でそれをなすことは名誉であり、ベルゼスの名は一気に中央に広がることになる。
いくら数を揃えようと、訓練もされていない獣人相手に遅れを取る状況などありえない。輝かしい己の武勲を疑う余地などなかった。
アルカンエイクは無言。
王宮魔法師たちは、どう動けばよいか判断できず、ただ動揺の視線を彷徨わせる。
強大な魔法を習得している彼らだが、王宮勤めの魔法師は基本的に文官である。
「アルカンエイク王。いかがなさいましょう」
となれば、この場を取り仕切れるのはゼリドしかいない。
アルカンエイクは今の状況を予測して、こうしてラバックの街に前日入りしたのであるから、当然これからの行動も決定しているに違いないのだ。
椅子から立ち上がったアルカンエイクが窓の外を眺めながら、つぶやきを発する。
「そうですねぇ」
窓の外は、闇色の混じり始めた夕暮れの景色だ。
動く人の姿はわかれども、その表情まではうかがい知れない。今すれ違った誰ぞ彼は。そんな夜へとつながる黄昏どき。
「ジャンジャックさん」
「ここにござる」
声は部屋の隅から発せられた。
黒の上下。黒の頭巾。身を覆う衣服だけでなく、僅かばかり見える瞳も髪も全てが黒い。影から生まれたと黒一色の姿。しかもそれは女性――少女である。
なにかの魔法で潜んでいたのか。いや、そうであれば王の周辺を警戒する王宮魔法師が気づかないはずはない。
しかし、この狭い室内にそれ以外の方法で隠れる場所などどこにもないはずだった。一体いつから、どのような手段で室内に潜り込んでいたというのか。
明らかなに怪しげな姿。すわ、皇国が飼う暗殺者の一族かと、警戒する王宮魔法師。
彼らの口から疑念と警戒がどよめきとなって溢れ出る。が、王の呼びかけがきっかけで現れた人物であることは明白であり、その外見がどれだけ怪しくとも少女が見た目通りの敵ではないと信じるほかなかった。
「すみませんが集団の中に『ピーターパン』氏がおられるか、見てきていただけますか?」
「おらぬよ。間違いなく」
「さすがジャンジャックさん。仕事が早い。有能です。有能すぎます! ゆえに。アナタの有能さがそのままピーターパン氏の有能さの確信に変わります。アナタ方は本当に厄介な民族だと評せざるを得ません」
「かっか。主君に褒めてもらったでござる」
「アナタの場合、そういう反応が本当に面倒なのですよねぇ」
誰とも馴れ合わぬ王と突然現れた小柄な少女の奇妙な会話。それは、一応とはいえジャンジャックの存在を知るフィリーナを除く全員に衝撃を与えるものだった。
「では、私も準備を始めるとしましょう。全て予定通りです」
「予定通り? ワーズワードはおらぬでござるに?」
「それだからよいのです。嫌がらせは嫌がらせで返すのが『ベータ・ネット』の流儀でしょう?」
現代の魔人は、薄い笑みとともにそう言ってのけた。
◇◇◇
『ラバックの街』前線バリケード付近
「ヴモォォォーー!」
「くそっ、なんて怪力だ。槍だ、槍を突き出してこれ以上接近させるな!」
「そうは行くかッ、俺たち仲間の恨み思い知れ! ガルルッ」
「くっ、勢いが強い、押し留めるので精一杯だ。手が足りん、もっと応援を!」
「こっちは手どころか足も足りねぇんだ! てめぇの責任で守りぬけ!」
もともと防壁を持たないラバックの街では、アルムトスフィリアの侵入を防ぐため臨時に組まれたバリケードを挟んで、守備兵と強襲部隊がぶつかっていた。
木板や樽を鉄柵でまとめただけのバリケードは牛族の副長が振るうハンマーの一撃でたやすく破壊される。
だが、もとよりそれは織り込み済みだ。開いた穴からすぐさま槍が突き出されてくるため、一部を破壊しても、それ以上に傷口を大きく広げるのは難しい。
金で集められた兵士は皆屈強であるがそれは騎士崩れや腕に覚えのある冒険者といった個人の能力に秀でたメンバーで構成されているため、飛び道具の専門家や効率的な指揮の行える指揮官というものが存在しない。
一方のアルムトスフィリアは仲間のためと士気が高く、仲間同士の連携もよい。だが、ただ法国貴族に対する恨みだけで強襲部隊に志願したような若者も多く混ざっているため、個人の戦闘能力は低い。
士気と連携で攻める強襲部隊と質で防ぐラバック守備兵という構図。一進一退の状況ではあるが、わずかに強襲部隊が押している。
「ベルゼス様。右翼の攻めがまばらに見えます」
「そうか。おい、お前たち、右に回って獣人どもを蹴散らしてこい」
「はッ」
その拮抗が崩れ始めたのは、ベルゼスが前線に到着してからだった。
「相手方の主軸は、あの牛族の戦士でしょうか」
「ほう。なら弓だ。数はいらん。あの牛族の男だけを狙い続けろ。自由にさせるな」
実に的確なベルゼスの指示で戦線は見る間に、押し戻されていった。
車輪のついた指揮車にベルゼスと家宰が乗り、その前後にベルゼスの命令を伝える、伝令官が付き従う。
もとより数にして三〇〇程度のぶつかり合いである。小規模の戦闘では攻撃あるいは防御の起点となる数人が戦況を左右する。
故にその数人を素早く見極め、その行動を抑え込むことで戦況全体をコントロールできるのだ。
「副長、狙わています! 下がってください!」
「モ゛ッ」
副長が抑えこまれ、右翼が崩される。
それにより前線が押し返され、バリケードが遠ざかる。
「見事な采配でございます」
「あっはっはっは。脆いな。所詮は反乱奴隸の寄せ集めよ」
指揮車は高い台座を備えており、地上から数段高い位置から全体を見渡せる造りになっている。
そのため、高笑いするベルゼスの姿はバリケード越しに見ることができた。
「出てきたぞ。あの指揮車に乗っているのがベルゼス・ラック・ライドーだ!」
「あいつが……あいつが俺達の仲間をッ」
敵指揮官にして諸悪の根源であるベルゼスが目の前に現れたことで、獣人たちの怒りのボルテージはマックスになる。
だが、ここで怒りに任せて無理な突撃をするようならば、それこそ相手の思う壺だ。
「ウモモモモーーッ!」
雷のような嘶きが戦場の大気を震わせた。
我を忘れそうになっていた獣人たちがハッと首を回してその発生源を見る。
そこには襲撃部隊を任された牛族副長の姿があった。
彼らの目的は陽動であり、こうしてベルゼスと守備兵を引きつけている現状こそが、すなわち作戦の成功である。
ここでベルゼスを討ち取ることも、無理に前線を押し返すことも『勝利条件』には含まれない。
目的を違えるな。怒りに呑まれてはいけないモ。
言葉ではなく瞳で。腿に腕に矢傷を受けてなお、副長は皆を見渡して、大きく頷いた。
ここからが襲撃部隊の剣ヶ峰である。受けに徹して、陽動目的だと気取られるわけにはいかない。
攻勢の中での時間稼ぎと守勢の中での時間稼ぎでは、その難易度は跳ね上がる。
救出部隊の無事な脱出まで、部隊を壊滅させることなくベルゼスを引きつけ続ける、それをこれから行うのだ。
「あっはっは。恐ろしさのあまり声が出たか。だが、今更撤退は許さん。包囲を敷け、反乱勢力を殲滅する」
「お待ちください、そこまでする必要はありません。それよりも戦況を落ち着かせて、広い視野で敵の目的を探るべきでございます」
静かに引き止める家宰にベルゼスが怒鳴り返す。
「何を言っておる。王が見ておられるのだぞ。今こそ我が武勇をお見せする最大の機会だ。奴らが再び仕掛けてこないのはこの俺の指揮を恐れているからだ。守りなどいらん。皆進め、全兵力を持って攻撃を仕掛けよ。そうだ、一匹仕留めるごとに一〇〇〇旛の恩賞を出すぞ」
「「ウオオーーッ!!」」
ベルゼスの言葉に、兵たちは目の色を変えて武器を構え直した。
実際の戦場でも落とした首の数で戦功を図るが、それにしても一首級一〇〇〇ジットは大将首にも匹敵する破格の値付けである。
奴隸の首一つが一ヶ月分の働きに変わるとなれば、味方を押しのけてでも前にでなければ損である。
王の前に、絶対に引くことのできないベルゼスと瞳に金貨を浮かべる兵たち。
こうなれば、もう誰にも止められない。
ライド―子爵家家宰は後方――獣人奴隸たちの宿舎のある向き――へ一瞬視線を巡らせたが、それ以上何も言わずベルゼスに従った。
激戦が始まった。
空の色は赤から紫へ。日が沈み、徐々に闇色のベールが覆いかぶさってくる。
準備された松明に次々と火がつけられてゆく。
そして、街の頭上に一番星が輝いた。
◇◇◇
『ラバックの街』・獣人宿舎裏
「みんな、すいません。もう少しだけ耐えてください」
強襲部隊が戦っているであろう方向を向いて、シーバは祈るように呟いた。
救出部隊の人数は少ない。目立たず素早く行動するためだ。
カチャリ――
「開きましたぜ」
「ありがとう」
「やめてくだせぇよ、ダンナ」
答えたのは奴隷の身分から逃亡し、法国各地で窃盗を繰り返していた鼠族の男である。
「あっしみてぇのにこんな大役を任せてくれた。礼を言うのはあっしの方ですぜ」
「いいや。君が居なければ、この計画は初めからなかった。本当にありがとう」
「ダンナァ」
獣人の社会においても犯罪者と呼ばれるべき彼だが、鍵開けの腕前で彼の右に出るものはなかった。この救出計画のまさに要となる人物だった。
「ここで最後だ。急ごう。でも最後まで気を抜かないで――」
「物音を立てず静かに迅速に、でやすね。わかってまさァ」
夜の明かりの貴重なこの世界では夕暮れ前に食事を取るのが一般的だ。夕日の赤は就寝の合図である。
街で働かされている獣人たちは、既にそれぞれの部屋に帰されている時間帯だった。
獣人奴隸――彼らは奴隸であって、囚人ではない。一般に誤解されがちだが、奴隸だからといって手足を拘束されて生活しているわけではない。
この獣人宿舎も入り口には固く鍵が掛けられているが、中に入ってしまえば内部での行動は自由である。
宿舎内部の構造については、まさにこの街から逃亡してアルムトスフィリアに加わった仲間から情報を得ている。
宿舎の鍵を開け、中にいる仲間たちを連れて密かに街を出る。個人個人であれば躊躇する者もいるだろうが、全員一緒にと言われれば、賛同しないものはいなかった。
あとの問題は、同じような獣人宿舎が複数建っていることである。
多数の獣人奴隸を抱えるラバックでは同郷の獣人同士で組を作らせ、それぞれを別の場所で働かせる。
一方が果樹林の仕事に割り振られれば、もう一方は工場内で果実を絞る仕事になる。もし片方が逃亡すれば、残ったもう片方に重い罰が下るというルールは獣人の逃亡を防ぐが、より知能に長けたものであれば、示し合わせて同時に逃亡することも考えるだろう。
そのために、労働中だけでなく、寝る場所も別々に分けることで極力獣人同士の連携を阻んでいるのだ。
獣人宿舎が一箇所であったなら、鍵開けも一回で済んだのだが、幾つもあるとなれば、一箇所に多くの時間は掛けられない。扉を破壊するのにも時間がかかる。どうしても鍵開けの技術を持つ者が必要だった。
「見張りは俺に任せて中を頼む」
「いいや、ダンナこそ中に。見張りならあっしが」
「いいえ、この役目は犬族の俺が一番向いています」
「……わかりやした、お願いしやす」
男を先頭に幾人かの仲間が宿舎内に滑り込む。シーバはそれを見届けた後、扉の影に身を潜めつつ周囲を警戒した。
もしこの極秘の作戦が敵の目に見つかれば、その時は己が身を挺して出口を死守しなければいけない。
そんな危険な役目をアルムトスフィリア第二隊隊長であるシーバ自ら買ってでたたのだ。
そんなシーバの警戒とは裏腹に、拍子抜けするほど静かな時間が過ぎてゆく。
「よく分からないけれど、見回りが全くいないな。あと少し……あと少しだけこのまま――」
武功に焦るベルゼスは盲目的に目の前の敵しか見ていない。
後方の守りに残されていた兵たちも高額な恩賞の話を伝え聞き、持ち場を離れて前線に飛びだしていったのだから当然である。
作戦が始まってから短くも長い時間が経過していた。
これまでに解放した宿舎はもう空になっている頃だろう。
夕日の赤に染まっていた街の風景はいつの間にか闇を濃くした紫に変わっている。
この最後の宿舎の皆を連れ出すころには、山はすっかり闇に沈み、暗視の能力を持たない人間には、道を進むことさえできなくなるはずだ。
自分の心臓の音だけがどくどくと大きく聞こえる、そんな時間が流れ。そして、シーバの耳に複数の足音が聞こえてきた。
聞き間違えることのない、それは仲間の足音。
「ダンナ、出れやすっ」
「よし!」
成功だ。
街の頭上に一番星が煌めいたのは、未来が開けた瞬間だった。
そして、衝撃がシーバを襲った。
◇◇◇
『ラバックの街』・西の高台
「なにをして、いるんだ」
「もちろん、この街に来た目的を果たそうとしているのです」
「なぜこんな場所に。アルムトスフィリアに参加する者達の暴走。そなたはこうなるであろう状況を察して、両者のぶつかり合いが大きな被害となる前に、両者を調停するためにやってきたのではないか」
アルカンエイクに良き王を望むフィリーナは、未だ理想を持ち続けていた。
「調停。考えたこともありませんな」
「そんな」
だが、それはあまりにも無確認な理想だった。
フィリーナの中にだけ存在する、そんな理想だ。
「私は常々言っております。お好きになさいと。アナタ方はアナタ方で好きにすればよろしい。ワタシはワタシの好きにします。なぜ、こんな簡単なことがいつまでも理解できないのですか」
「それは……違う。それじゃ、ダメなんだ」
「ついてきたいというアナタを私は許しました。アナタの自由にさせたのです。お互い、自由を尊重すべきではないですか、フィリーナ王女。アナタはワタシの邪魔をせず、そこで黙って見ていなさい」
「王ッ」
それ以上は議論にすらならない。
アルカンエイクにとって、『人ではない』妖精の扱いは、その程度のものなのだから。
アルカンエイクのフィリーナを見る瞳が温度を失う前に、勁い老人の声が響いた。
「アグリアス執務官を拘束せよ」
「お許しください、殿……アグリアス執務官」
ゼリドの命令を受けた王宮魔法師がアルカンエイクからフィリーナを引き離す。フィリーナはその拘束に逆らったりはしない。
静かにゼリドを見つめた。
「ゼリド宰相。そなたは、そなたはなぜ何も言わぬのだ」
「……」
悔しさをにじませたフィリーナの叫びに、ゼリドは沈黙で返答した。
そこに、別の声が重なる。
「主君に向けた美しい忠心。心打たれるでござるな」
ライドー子爵の城館で、ジャンジャックは一つの魔法を唱えた。
「――忍法、『風神大天翔の術』」
それは【パルミスズ・エアセイル/風神天翔】の魔法の効果を拡大したジャンジャックのオリジナル忍法であろうか。
通常は数人しか転移できないはずの魔法で、ジャンジャックにアルカンエイク、フィリーナ、ゼリドと従っていた全ての王宮魔法師を一度に西の高台の上まで転移させたのである。
赤く染まる視界の中に、確かにラバックの街のすべてが収められていた。
「ジャンジャック……殿」
名だけは知っている。だが、未だに謎しかない黒衣の少女。
王と共に帰還した男性二名は王城で見かけなくなって久しいが、この黒衣の少女だけは常に王の傍に使えているように思える。
一縷の望みを賭けて、フィリーナはジャンジャックに声を掛けた。
「そなたからも言ってほしい。そなたの言葉であれば王は聞き入れてくれるのではないか。そなたも私と同じく王に忠誠を尽くす紗群なのだろう」
「違うのでござるなあ」
「違う? 何が違うのだ」
「拙者はただ主君に振るわれるを望む生きた武器。心宿りし刃。すなわち忍にござる」
「シノビ……」
「拙者の忠と姫君の忠は別物でござる。姫君は主君に『英雄』を望んでござろう。正しい道、正しい国、正しい王であれと」
「当然じゃないか」
真っ直ぐなフィリーナの答えに、漆黒の瞳が柔らかい笑みを浮かべたように見えた。
「そこが違うのでござる。忠の形は一つではござらん。姫君の持つ穢れ無き忠もあれば、拙者の如き滅私の忠もあり申す。かと思えば、一つのために他の全てを犠牲に捧げる忠もござる。人とは、かくも面白き」
何を指してそういうのか。やはりフィリーナにとってジャンジャックは、アルカンエイクと同じ理解できない世界の人間であるらしかった。
ジャンジャックが戯れにフィリーナの相手をしている間、アルカンエイクは街を見下ろしていた。
街の入り口あたりでうごめく豆粒ほどの人の群れ。それは二組の魚群のようにも見える。
アルカンエイクの視線が視界の全てに及んでいれば、街の反対側、果樹林の影から影へと不審な動きを見せる豆粒たちの存在にも気づいたもしれない。
高台から街を見下ろす法王アルカンエイク。時間が過ぎる。
五分……十分……
身を拘束されたフィリーナはもちろん、ゼリドも王宮魔法師たちもただアルカンエイクを見守るしかない。
一体何をしているのか、もとより源素の見えないこの世界の人間には、アルカンエイクが、ただ色を変えゆく街の景色を眺めているようにしか見えない。
しかし違うのだ。変化は眼下の景色ではなく目線を上げた先に生み出されつつある。
長い時間を掛けて、少しずつ構築されてゆく源素図形。
アルカンエイクの源素操作技術を持ってしても、これだけ時間のかかるのだ。たとえジャンジャックであろうとも、一見しただけでこの魔法を習得することはできないだろう。
そして、虚空に組み上がる恐ろしく巨大で複雑な積層立体源素図形。
「完成です」
それにかかった時間の長さを示すように、初め赤く染まっていた風景は今はもう夜の入口の景色に変わってしまっている。
街の入口を見てみれば、初めにはなかった松明の明かりがいつの間にか多く点灯し、未だ乱戦が続いている状況を知らせていた。
カッ――
薄闇の中に突如発生した巨大な魔法の発動光に思わず目が眩む。
再び瞳を開いたフィリーナが見たものは、共に夜天を見上げるアルカンエイクとジャンジャックの姿だった。
何を……見ているんだ。
二人の視線の先を追う。そこには輝く一つの星があった。とても明るい一番星だ。
「星――」
そう、星だ。確かに星ではある。だがそれはただの『星』ではない。
星の輝きが点から線へ。重力に引かれ、大地に流れ落ちる『流星』がその正体だった。
流星は垂直に落ちてくる。
ながれ、星。
そこだけを切り取ればとても美しく神秘的な光景だ。
それ故に、フィリーナの頭のなかには何も浮かんでこなかった。ただ目だけが流星を追う。上から下へ。高速で目の前を通り過ぎる、それは白い火の玉だった。
落ちた。
衝撃。
超質量の落下が生み出す衝撃波は音より早く高台に届き、大きく木々を揺らした。
轟音。振動。
靜爛裳漉の身震いを思わせる大きな大地の揺れ。
耐え切れず、両手をついて地面に倒れこむ。
「な、にが」
なんとか身を起こしたフィリーナが見たものは地獄の風景だった。
眼下に広がっていた豊かな果樹林に巨大な大穴が開いていた。円形のクレーターと真っ赤に燃える周辺の木々。大火災が発生していた。
目の前の光景をどう思えばいいのか。何を感じればよいのか。
何も考えられない。感じられない。フィリーナの思考はただただ白く染まる。
「どうです、ジャンジャックさん。アナータの引き起こしたかの事件を思い出しませんか?」
同じ光景を見るアルカンエイクが、同じ光景を見ているはずのアルカンエイクが楽しげな口調で戯れを口にする。
「『流星落下』……この破壊は、それを拙者に言うためだけに? 若気の至りを思い出して赤面する乙女の麗し顔でも見たかったのでござるか」
「まさかまさか。ちゃーんと目的あってのことです。ですが、『自由』を破壊するにはこれ以上のうってつけはありませんでしょう?」
「参ったでござる。これぞまさにアルカンエイク。まさに外道にござるな」
「そうお褒めにならないでください」
どこまでも楽しげに。救いようもなく無慈悲に。
そして、信じられない言葉を続けた。
「久しぶりに使う魔法でしたので、思いの外時間がかかってしまいましたよ。ですが、試弾で最後の調整も終わりました。さて、続けましょう」
再び巨大な魔法の発動光。
キラキラキラキラ……
そして、空に輝く二番星、三番星、四番星、五番星、六番星、七番星、八番星、九番星、十番星、十一番星。
それ以上の、数えきれないほどの星々の煌めき。
アルカンエイクがくるりと振り返った。
「ジャンジャックさん、一つ訂正しておきましょう。わたくしのこの魔法は『流星落下』ではありません。数的上限を持たない『流星群落下』です」