Lycanthropes Liberation 17
『ラバックの街』ライドー子爵城館
子爵城館とはいうが、それは虫食いの壁を何度も補強した跡が残る木造二階建ての家屋でしかなく、きらびやかな貴族生活などは一切連想できない建物である。
お貴族様と皆はいうが一般的な下級貴族の生活は、実は質素なものなのだ。
貴族の持つ権限とは、総括的には『土地と街を治める』権利である。土地について、領地内に山林があれば材木や石材資源が、川があれば、水産資源や渡河料(交通料)などが、何もない平坦な土地でも開墾すれば、農産資源の税収が見込まれる。そして、街については住居に関する市民税と旅行者や商人の支払う足税があり、それらの合計が貴族の収入源になる。
例えば、労働人口が一〇〇〇人の街なら、貴族の得られる市民税は六〇〇万ジット――日本円で六億円――程度だ。そこに生産資源から得られる税収や足税を含めれば、日本円換算でおよそ三〇億円程度になる。
年収三〇億と聞けば、まさしく貴族様様だと思うかもしれないが『土地と街を治める』とは、その管理と維持について責任を負うという意味も持つ。権利に対する、義務の行使だ。
外敵や犯罪に対する備えとしての守備兵や政務に関する人員の雇用。街の改築や土地の保全に関する費用もかかれば、貴族としての付き合いにも金がかかる。四神殿に納める寄進の額も年々上がっていて頭の痛い問題だ。
人件費・修繕費・維持費・管理費・社交費・寄進。
社員数一〇〇〇人、社員の平均年収四〇〇万円の企業なら、年商一五〇億円程度が損益分離点であることを考えれば、土地に特産品を持たない下級貴族の生活がどれだけカツカツで質素なものになるか理解できるだろう。
今、ライドー子爵城館内の客間には一〇人ばかりの人影が見え、廊下にも同数が控えている。
さして広くもない客間内。長いテーブルを挟んだ向こう側にはアルカンエイク王が座しているとなれば、もはや息苦しさしか感じない。王城の高い天井を見慣れた者には、天井もやけに低く感じられる。
床は木目が浮いた茶色い板張り。それにぬくもりを感じる人間もいるだろうが、このような粗末な館に王を迎えることになったベルゼス・ラック・ライドーは、ただ顔を下にして恥辱に耐えるしかなかった。
「法王アルカンエイク様。御身が忠実なる貴族、ライドー子爵ベルゼスの治めるラバックの街にようこそおいでくださいました」
歓迎の口上を述べるのはライドー子爵家家宰である。
それを頭の上に聞きながら、ベルゼスはただ不満のみを心中に吐き捨てる。
なぜ今日なのだ。早すぎるではないか。明日早朝には高級な調度品と王への献上品の品々が館に届いていたのだ。それが今日ではこのボロ部屋も飾れず、俺の心の準備も整っておらぬ。日もまたがず、今から行くなどという連絡は前触れとは言わぬ。ただの通告であろう。
「まず皆様にはラバック特産のロッシの果実酒で喉を潤して頂ければ、これ以上の誉れはございません」
飲み物を注いでまわるメイドたちの声を聞いてなお、ベルゼスは火の出る思いを抑えることができなかった。
王にお出しできる飲み物が獣人の絞った果実酒であるなど汚らわしい。まさに俺の名の穢れだ。とても御前にお出しできるようなものではない。
「なんて濃厚で新鮮な果実の香りなんだ。このようにおいしい果実水は口にしたのは初めてだ」
そんなベルゼスの思いとは裏腹に、重苦しい雰囲気を醸していた室内に爽やかな声が響いた。
ハッと頭を上げたベルゼスの目に飛び込んできたのは、彼にとっては法王アルカンエイクと並んで雲上の人物であるフィリーナの姿だった。
彼女は酒類を避けて、果実水の方を選んだらしい。
美しいフィリーナを見るだけで、先ほどの羞恥がまるでなかったものであるかのようにベルゼスの頬が緩んだ。
彼女に王女の自覚が生まれる前に前王ゴールナードは斃れ、アルカンエイクの治世へと移った。
ゆえに、フィリーナ『前』王女。彼女は先代王家の生き残りであるのに王城からも追われることもなく、今も王城に暮らしている。
それは悲運か幸運か。
どちらでもよい。ただ彼女が今も元気であるという事実こそが、国民が新王アルカンエイクを支持する理由の一つになっている。
「わ、我が身の誉れにございます、殿下。この街で作られる果実酒と果実水は、国内のみならず、大陸中から注文の入る特産品でごじゃ、ございますれば」
ベルゼスがフィリーナに向ける感情は一般の国民が抱くそんな親愛の感情とは少し異なる。例えば、王族の娘が有力貴族の許に下ることはよくある話である。貴族の生まれである自分。そして、歳も近いフィリーナ王女。
瞬間、ベルゼスの脳裏に青年時代の夢想が蘇った。
あゝ、高く咲き誇る王家の花よ、叶うならば我が庭に。
王家に生まれた娘に焦がれる心を歌ったこのうたは、貴族子弟の男子であれば一度は歌ったことのあるものだろう。決してベルゼスだけが特別なわけではない。
答えるベルゼスにフィリーナは慣れたことだとばかりに微笑む。
「殿下はやめよ。わたしはもはや王女ではない」
「もっ、申し訳――」
「よい。窓から見える見事な果樹の実りの風景。ライドー子爵。そなたの街は良い街だな」
視線を窓の外に移し、眩しい物を見るように目を細めるフィリーナに、ベルゼスはいとも簡単に魅入られた。
過去、幼いフィリーナを遠くに目にしたことはあったが、こうして直に言葉をかわすのは初めてだった。
今ベルゼスの前に愛らしい少女から爽やかな美しさを纏う女性へと成長したフィリーナがいる。男装している理由はわからないが、それが逆に彼女の清純さを引き立てているようにも思う。
一方の自分も今や家督を継ぎ、数年で自家の資金を十倍以上に増やした実力派だ。たとえ陰で成り上がりと揶揄されていようと、己の能力には確固とした自信がある。
領民の数は少なく、旅人が足を止める観光資源も持たないライドー子爵領。
唯一誇れる果樹林も、気象条件や虫害に弱く、その収穫は安定しなかった。それでも歴代の領主はこの風景を愛し、大切に大切に育ててきたのだ。
先代が急な病に斃れ、思わぬタイミングで爵位を継いだベルゼスが目をつけたのは森珠国戦争で法国が得た多くの獣人奴隸の存在である。
勝機とばかりに、自家に蓄えられていた伝来の財産のほとんどを現金に変え、その金で多くの奴隸を購入した。
奴隸には労働力としての人件費がかからない。初期投資と維持管理費だけに抑えられる。それは現代社会の言葉に置き換えれば、農耕機や生産ラインと言った機械の購入に例えられる。
現代に生きる人間は、機械の存在しない産業革命以前の世界では、人はさぞ非効率で生産性の低い生活をしていたのだろうと思うものだが、産業革命以前には奴隸が機械の代わりを果たしていたのだと考えれば、今も昔もそれを使う側の人の暮らしは、実際は現代とそれほど大きく変わっていないのかもしれない。
人権思想の観点で語れば他国に劣っているように見える法国だが、国力に直結する生産性の数字は四大紗国の中でもっとも高いのだ。
ラバックの街で行われた大量の獣人奴隸の購入とは、大規模機械の購入と同義であり、それによる費用対効果の改善と総所有コストの削減が、それまで他の下級貴族と同じく質素で貧しい暮らしをしていたライドー子爵家に、莫大な富を産み落としたのである。
金はある。顔もいい。爵位こそ低いが、実力ではそこいらの同世代に負ける気はしない。
そしてフィリーナ自身が口にしたとおり、今の彼女は王族ではない。王女と前王女では、花の咲く崖の高さは同じではない。
であれば、俺の手が本当にこの美しき花に届きうることも――
ドクン。
そこまでを考えた時、一つの想いがベルゼスの全身を貫いた。
そうだ。これは千載一遇の好機ではないか。
王との面会の仲介を上級貴族に頼めばそれにかかる仲介料はべらぼうなものになる。まず西方を統括するアストン公爵。それに王の近くに勤める近習文官に近衛武官。実際に王都に向かえば、王城に入る前に、全ての中央貴族の門を叩き、少なくない金をばらまいて面通しをしなくてはならない。
その出費と手間を惜しむ新参は、二度と王都に呼ばれることはなくなる。
結局子爵位程度の貴族が持つ力は、そこいらのちょっとした商人にも劣るものなのだ。
そう考えれば、此度の王のご訪問は、直接に俺の名を覚えていただける大きな好機だ。
名さえ覚えて頂ければ、面倒くさい様々な決め事を全てすっ飛ばしての直接の面会が可能になる。
中抜きさえされなければ、俺は他のどんな貴族よりも莫大な『奉仕』ができるだろう。
積んで積んで、更に積んで。足りなければ、また奴隸を買い足せばよい。もっともっと働かせるのだ。金はまだまだ生み出せる。
最大の忠誠を示す俺に、王はきっと褒美をくだされる。
忠義深き、我が紗群よ。望みを言え。余はそれを叶えるであろう、と。
そこで俺の望む褒美は――
天啓のように。落雷のように。素晴らしい未来が開けてゆく大いなる感覚がベルゼスを包む。
痺れるような恍惚に、自然口元が三日月に持ち上がった。
「うん? どうしたのだ、ライドー子爵」
フィリーナはベルゼスの自分を見る目に、ある変化が生まれたことに気づかない。
それに気づけるほど、彼女は奸計渦巻く貴族の社会を知らない。
「……いえ。それはようございました。どうぞ、いくらでも代わりをお命じください。おい、お前たち。早くお注ぎ申さぬか!」
「申し訳ございません、ご主人様っ」
銀製のポットを手に走る二三のメイドたち。さすがにこの場では獣人奴隸は出さず、全員人間の娘で揃えている。
「ありがたいが、そんなにたくさんは飲めないぞ……」
困惑の笑顔を見せるフィリーナ。一方のベルゼスは逆に思考を切り替えてゆく。
一度立ち上がり、長机の横の床で片膝をつく最上の礼を示してから、アルカンエイクへ向かい頭を垂れた。
「我が全ての忠誠を偉大なる法王様に捧げます。王の忠実なるこのベルゼス・ラック・ライドーめに何なりとお命じください。どのような困難でも必ずや成し遂げて見せましょう」
普段の傲岸さを見せない完璧な貴族としての振る舞い。
若いベルゼスは、いつか中央へ進出することを夢見ていた。そのため、日頃は見せない己を下に置く貴族的振る舞いも、形だけであればこなせるのである。
ベルセスが西辺衛星都市・アストンの別邸で暮らしているのも、田舎臭いラバックが嫌いだというだけの理由ではなく、アストン公爵や他の上級貴族に多く知遇を得るため、という理由もあるのだ。
貴族と貴族の関係の中で己の力を伸ばしていこうと思えば、なによりもまず自分の名をと顔を覚えてもらうことが重要になる。
日々どこかの貴族邸宅で開かれる茶会や晩餐会やサロンに出向き、存在感を示していかねばならない。
ろくに名も顔も売れていなかったベルゼスは、とにかく金をばらまくというなりふり構わぬ強引さでアストンの社交界に進出したが、それで呼ばれるようになったのは『獣人奴隸で小金を儲けた成金』というありがたくもなんともない風評だけであった。
ふん。別に構わん。さえずることしかできぬ能なしどもの陰口よ。
そうは嘯いても、やはり渦巻く不快の感情は抑えられず、その癇癪は身近な獣人奴隸へと向けられた。
最初は安価な労働力として獣人奴隸を正しく評価していたベルゼスが今のように嫌悪感を強くしていったのも、意気揚々と出かけていった貴族同士の社交界の中で、獣人奴隸と自分とを紐付けて『成金』と呼ばれるようになってしまったことに対する鬱屈が溜まっていった結果であるかも知れなかった。
「今からいくつかの質問をします。正確にお答えなさい」
そんなベルゼスにかけられるのは、どこまでも平坦なアルカンエイクの言葉である。
こうして見せるベルゼスの忠誠の姿も、アルカンエイクの心には一切響かない。
彼にとって耳の長いこの世界の人間は、それが誰であれ妖精でしかない。独自の言語を持つ、人間の姿に似た『人間ではないもの』。
役に立てば使い、立たねば捨てる。それだけの存在だ。
「はっ。なんでもお答えいたします!」
「では、まずこの集落の中にいる全ての者の数です」
「領民の数、ということでしょうか……それはおおよそ一四〇〇人程度にございます。奴隸も数に数えて良ければ、三〇〇〇を超えましょうか。それも全て、このわたくし、ベルゼス・ラック・ライドーがライドー子爵の地位を継いでからのことでして――」
「無駄な口上は不要です。それに、私は正確にと言いました」
「はっ。正確に……でございますか」
己を売り込もうと熱弁を振るうベルゼスとアルカンエイクの退屈を宿した表情は対照的だ。
アルカンエイクの言う『正確に』の意味がわからず、左右に視線を彷徨わせるベルゼス。
そこで近くに控えていた家宰が恐れながら、と言葉を挟んだ。
「このラバックの街には領民一四三〇、獣人一八五二が居住しております。加えまして『アルムトスフィリア』への備えとして守備兵三二二を臨時に雇い入れております。その他行商・観光等の訪問者数については、すぐに足帳を確認いたしますので、今しばらくのお時間を頂ければ」
「よろしいでしょう。確認なさい。では次に街の外にいるというアルムトスフィリアの人数について」
「最低で九五〇、最大で一一〇〇程度と推測されます。すぐに調べ直しますが、かの集団は日々拡大しており、正確な情報は掴めません。不確かな情報であることをお許し下さい」
知る限りを正確に。わからぬことは即座に部下を動かして調べさせる家宰の報告内容は、ゼリドですら白くなった眉を上げて、ややの驚きを見せるほどであった。
まずアルカンエイクを退屈させずに会話を続けられる人物自体が、アルトハイデルベルヒの王城においてもゼリド一人しかいないといってよいくらいなのだから。
会話からはじき出されたベルゼスが、焦りの表情で両者の間に視線を彷徨わせる。
「では次にこの集落の周辺地形についてです」
「やっ、それであればこの私からご説明を! 幼き頃にはこの山野を友としてよく駆けまわった私でございます。懐かしきあの日に思いを馳せますれば、鮮やかに思い出される――」
「街道は南北に伸び、東西には果樹林が街の外まで広がっております。街から三〇〇尹西に位置する高台は低いながらに街の全てを一望できるだけの標高を持ち、川が氾濫した場合の避難先として高台の上まで登れる道が整備されております」
「よろしい」
三〇〇エンという距離はおよそ六〇〇メートルといったところか。それくらいの距離であれば、顔まではわからずとも街の中をちょこちょこと歩きまわる人の姿くらいは見て取れるだろう。
法王の下問にどうにか口を挟もうとするベルゼスであるが、アルカンエイクの視線が彼に戻ることは最後までなかった。
◇◇◇
ラバックの街近郊『アルムトスフィリア第二隊』陣中
「どうしてダメなんだよ、ロエルさん!」
「どうしてもだよ」
皆が忙しく動きまわる陣中に、激しい声が響いた。
見れば、犬族の青年に小柄な猫族の少年が食ってかかっているようであった。
尾を逆立てて聲を荒立てている少年の名はルシアン。彼の腰には、妹のミィが泣きそうな顔でぎゅっとしがみついている。
それを柔らかく受け止める犬族の青年はシーバ・ロエルだ。
法国北方の樹村『ニルべの村』から出てきたシーバは、獣人解放を叫ぶ『春を呼ぶ革命』結成の最初期メンバーになり、今ではこの第二隊を任せられるほどの重要人物になっていた。
もっとも、シーバに獅族のレオニード・ボーレフのような一〇〇〇の仲間をまとめあげる将器があるわけではない。仮に法国軍との戦闘になれば、細い腕しか持たない彼はものの数には数えられないだろう。彼より種族・体格共に屈強な獣人の仲間は他に何人もいるのだ。
シーバの良いところは、何かの判断が必要になれば必ずワーズワードの指示を仰くという犬族特有の直実さと、法国全てに対する恨みのない精神を持っているところである。奴隸として扱われた者が恨みを持って行動すれば、それは苦痛を苦痛で返すという負の連鎖の始まりになる。それでは皆が求める理想の革命は成就しない。レオニードは高い統率力により、シーバは暴走することのないワーズワードの代行者として、ともすればたやすく恨みに傾く可能性のある大集団を動かしているのだ。
ルシアンとミィを受け入れた第二隊はライドー子爵に対し、二人の引き渡しの拒否。逆にラバックの街の獣人奴隷の解放を訴えたことにより対立が激化。状況は、両者の激突がもはや避けられないというところまで悪化していた。
いや、悪化という表現はあくまでワーズワードの認識を言ったものであり、多くの獣人たちは、自分たちを奴隸の身分に落とした法国へやっと反撃ができるのだという闘争心に満ちていた。彼らの多くにとって今の状況は望むべきものなのだ。
そんな緊迫の陣中に変化が訪れたのは昨日のことである。
ライドー子爵領に向け、法国の正規軍が動いたという情報が一人の女性の口より伝えられた。
ライドー子爵が金に糸目もつけずかき集めた守備兵は三〇〇程度。たとえ向こうがプロの傭兵や冒険者であっても、今までは数の上で三倍以上の優位があったのだが、法国正規軍がそこに加わるとなれば状況は逆転する。
一時撤退の議論と、なお引かないという議論の天秤。
いや撤退とはいうが、目の前のラバックの街には今も過酷で非人道的な労働を強いられている一五〇〇以上の仲間がいるのだ。前者が積極的に支持されることはなく、穏健派のシーバですら後者を支持した。
種族として少数である分、彼らの横のつながりは非情に強いのである。
法国軍と直接ぶつかるのはさすがに愚策であるとして、その到着前、まだいくらか勝算がある内に街に強襲を仕掛け、その裏で繋がれている仲間たちを解放して、一緒に逃げ出すという作戦が皆の話し合いによって決められた。
強襲部隊と救出部隊。隊を二つに分ければ、先にあった数的優位はなくなる。仮に一対一となれば、素人集団の獣人たちに勝機はない。
そんな、強襲部隊総玉砕すら覚悟される状況に、ワーズワードは一つの策を示した。
それは仲間の救出後に隣接するローアン男爵領へ逃げこむというもの。
なんとしても目の前の仲間を救出する。シーバたちが決めた作戦は、いわばそれだけだった。
強襲部隊はいつまで戦えばいいのか。継戦と撤退の判断は。救出部隊は仲間を助けた後どこへ逃げればいいのか。皆の食糧は。
そんなことは一切考えていなかった。そこまで考えなければいけないということに、思いも及ばなかった。
ワーズワードが彼らに示して見せたものとはつまり明確な『勝利条件』である。
救出部隊の勝利条件は、皆を最終到達地点であるローアン男爵領まで連れてゆくこと。
となれば、強襲部隊の勝利条件は、救出部隊が街を出るまでの時間稼ぎということになる。
敵を何人殺す、あるいは自分が死ぬまで闘うことが勝利条件ではないということを知った彼らの瞳はそれを知る前までとは明らかに違う輝きを見せた。
無謀な作戦の先に生きる未来が残されたということ。その光の名を『希望』という。
全員が玉砕するまで闘う必要はなく、相手を一定時間釘付けすればよい。救出部隊の動きに合わせて、同時に退く。途中で合流し、皆で一緒に一つの目的地を目指す。
仲間を救いたいという自分たちの思いを無謀な作戦だとただ一言で否定することはせず、無謀であることを十分に承知した上で、シーバには思いつきもしなかった角度から、無謀は無謀なりに未来へつながる希望を与えてくれた。
本当にすごい人だ。
シーバは改めてワーズワードに対する信頼を厚くした。
「ロエルさん!」
そして今、作戦開始前に残された少しの時間。
けが人・女性・子供らは先行して、ローアン男爵領へ向かうことになっている。その数は全体の二割といったところだ。
ルシアンとミィの兄妹も当然その中に入るのだが、そこでルシアンがシーバに噛み付いたのだ。
「僕だって闘えるんだ! こうなったのだって、元は僕があいつを刺したせいなんだから、僕だけが逃げることなんてできない」
事の始まりを言えばたしかにそうである。だが、ここにルシアンをそれで責める者はいない。むしろ、よくやってくれたと称賛されている。
シーバはゆっくりと首を振って答えた。
「敵と闘うことだけが戦いじゃない。守ることも戦いだ。君ならわかるはずだよ、ルシアン」
「それはっ」
ぐっと握られていたルシアンの腕に小さな手が触れる。
「お兄ちゃん、ミィもいくの。お兄ちゃん一人だけで危ないことしちゃ、やだぁ」
妹が瞳に涙を浮かべて兄の腕を掴んだのだ。
あの日、兄が妹を守るためにナイフを振るったのと同様に、妹もまた大好きな兄が心配でならないのだ。
「ミィ……」
そんな妹の言葉に初めの勢いもなくなり、ルシアンの拳が下げられる。
シーバはルシアンに優しく声を掛けた。
「君には君が守らなくちゃいけない人をいる。それが君の戦いだ。これは他の誰にも頼めない、君だけにしかできないことなんだ」
「ロエルさん」
シーバの瞳には幼いミィが、自分になついてくれた村の小さな娘の姿に重なって見える。
そうだ、俺もあの子に必ず帰るって約束したな。
「俺たちもすぐに追いつく。大丈夫、必ず帰る。だからそれまでミィを頼む」
「わかった。みんながくるまで僕がミィを守るよ」
「うん。約束だ」
シーバとルシアンが固い握手を交わす。
やがて、数台の馬車に荷物を詰め終わった先行隊がローアン男爵領に向かい出発した。
手を振る二人を見送ったところで、強襲部隊の要となる胸板も厚い若い牛族の部隊長がやってきた。
後ろには同じく魂に火を灯した仲間たちの姿が見える。
副長がビシリと気をつけの姿勢で報告をあげる。
「ロエル隊長。陣の引き払いは完了しましたモ」
「うん。俺たちの出番はもう少し日が落ちてからだ。皆、目的を達成した後もバラバラにならず必ず小隊ごとにまとまって行動すること。道を失わないように夜目の利く仲間に頼ることを忘れないように」
「了解しましたモ」
部隊長に言葉を送りながら、シーバは首からかけた水晶玉をぎゅっと握りしめた。
ワーズワードさん、見ていてください。
あなたに言われたアルムトスフィリア成功の鍵――『立ち向かう覚悟』。
それが俺たちにあることを、今日お見せします。