Lycanthropes Liberation 14
透明な水面に自分の顔が映る。
そこには今にも泣き出しそうな自分がいた。
「ワーズワードさん、私はどうしたらよいのでしょうか……」
シャルが偶然に聞いてしまったワーズワードとパレイドパグの会話。
ワーズワードさんはニホンという別の世界から来た。それは聞いていた。
でも、そう聞かされても自分にはピンと来ていなかった。
別の世界というくらいなのだから、そのニホンがとても遠い場所にある国なのだということはわかる。だけれど自分は、この世界がどれだけ広いかすら知らないのだ。
遠いと言えば、ここパルメラ治丘だって初めて訪れる遠い場所だ。聖国辺境の樹村に育った自分には、村の外に広がる全ての場所が、真新しい別世界だった。
私の世界はこの旅の中で広がり続けている。
思うのは一つだけ。
どんな遠い場所でもワーズワードさんが連れて行ってくれる。紗群である自分はただ信じてワーズワードさんについていけばいい。ずっと一緒に。
――でも。
『その時には俺も地球に還ることになる』
決然としたその喋り方でわかってしまった。
それは、別れを意味する言葉なのだと。
ワーズワードさんがいなくなってしまったら、私は――
「どうすればいいのか……私には……わかりません」
シャル・ロー・フェルニは不意に溢れだしそうになる何かをごまかすように、掬いあげた冷たい水を自分の顔にたたきつけた。
「お嬢ちゃん、もしかして泣いているの?」
「はわ」
と、そこで突然声を掛けられ、シャルはびくりと立ち上がる。
濡れた顔をぐしぐしと拭いながら振り返った。
そこに立っていたのは、見たことのない『女性』だった。
「いえ、なんでもありません。……あの、どなたでしょうか?」
女がにこりと微笑む。
「その前に、一つお願いしていいかしら?」
◇◇◇
「【ドッグドック/犬医】の魔法は腹痛や食中毒を含む病気に関しても幅広く治癒可能であることがわかった。身体の痛みや内科的な病状などは当人がそうと認識するものだ。それらを総合的に治癒する【犬医】は、【犬医】の魔法効果として傷や病気を直接治癒するのではなく、当人が認識する『身体の変調』を対象として、それを正常な状態に回復させる魔法なのだと理解するのが正しい。そこが直接傷口に対して治療効果を発する【ジマズ・メディカル・リーフ/地神薬葉】の魔法との違いだ」
「おー」
「本人の認識というたが、それでは眠っていたり、気を失っている場合には魔法効果を発揮せぬということかや?」
「いや、それは大丈夫だろう。自分では意識しない身体の変調もある。【犬医】はそんな自己認識しない症状も治癒する。それに複雑な思考を持たない動物のケガも治癒するのだから意識の有無の問題ではない。俺の言う『身体の変調』とは心ではなく脳が、さらに言えば当人の肉体そのものが発信する変調だ。故に睡眠中や気絶中であっても効果は発揮される。逆に言えば、心で――口でいくら変調を訴えても治らない症状もある」
「それはどういうものなの?」
「例えば、生まれながらに目の見えない人間とかだな。本人が、いくら目が見えるようになりたいと願っても【犬医】の魔法は視力が回復しない」
「わかりやすい例えだ。一度も目が見えたことがなければ『視力が回復した状態』を認識することもないという理屈だね」
「そうだ。あくまで身体の変調を『回復』する、つまり『元に戻す』魔法なのだから、その元がなければ治しようがない。なんでも願いを叶えてくれる魔法ではないということだ」
「んな特殊ケースまで考える必要ねェだろ。アタシたちはみんな手足もありゃ、目も見えてンだ。ってこたぁ、アタシらに関しちゃあ、もう病気も怪我も怖くねェってことだろ」
「そういう油断が一番危ない。大丈夫だと高をくくって即死したら治せないぞ」
「そくしっ!? コエーこと言うんじゃねーよ!」
「魔法効果を正しく理解するとはそういうことを言っているんだ。仮に死に直面する最悪の状況が発生したとして、手足を捨てても生命さえ守れればこの魔法で治癒可能だと事前に知っておくことが重要だ」
「完全に理解しました、群兜」
「わかるんだけど、手足を捨てる覚悟って、かなり難しいよね。手ならまだいいけど、尻尾だったらボク泣いちゃうかも」
「その感覚は一切判然らん」
いや、男にも同じようなものがついているか。アレがちょん切れるのと同じ感覚なのかな?
「【犬医】は私の得意魔法ではあるけれど、そこまで深く考えたことはなかったよ。君は常に現実で必要とされる知識を求めているんだね。知行合一。実践を伴う知識。それこそが本物の知識だ。キミは本当にすごい子だね、ワーズワード」
「すごいのはお前の魔法の方だと俺は思うぞ」
今、十分な時間をかけて調査・解析した【犬医】の効果範囲を皆に説明しているところだった。
今後重要性を増すと思われるこの治癒魔法については、どの程度・どれだけの症状を治癒可能であるのか、全員に理解して貰う必要があった。
その甲斐もあり、この魔法の効果については全員が正しく理解してくれたことと思う。
実体験ありのフェルナは特に。
ただ一人、この場にシャルがいないのは、彼女が近場の沢に食器を洗いに行っているからである。
時間がかかりそうなので先に始めさせてもらったが、シャルにもあとで同じ話をしてやれば良いだろう。
シャルといえば、最近ずっと元気がないように思われる。もし体調に関わる問題であるなら、【犬医】で治してやれるかもしれないな。それも一緒に話してみよう。
さて、全員を集めた理由はもうひとつある。
「話の続きだ。本日『シズリナ商会』の商人に魔法道具の核の引き渡しが完了した。パルメラ治丘でやるべきことは全て片付いたので、次の目的地へ移動しようと思う」
「おおー」
「そっか。パルメラさまとお別れするのは寂しいけど、ボーレフのことも心配だしね」
「それでどこへ向かうのですか」
「それについてはシーバから気になる情報が入ってな。そちらに向かおうと考えている」
「シーバサンってことは、ライドーって貴族の領地だね」
「そうなる。なんでも法国軍が動くというタレコミがあったらしく、軍が来る前に街で働かされている同胞を救出する強行策を出るらしい」
「強行……それはどういった策なのでしょうか」
「全員で街に突っ込んで乱戦の混乱のうちに別働隊が獣人奴隸の枷を外し、法国軍が到着する前に全員揃ってライドー子爵領から抜け出そうという作戦だそうだ」
「なるほど、それならば、うまく行きそうで――」
「ハッ、あったま悪そうな策。支援万全のワンコロ部隊はともかく、奴隸になってる奴らは飯だってまともに食ってねェだろうに、そんな奴ら抱えて全員逃げるなんて、そんなご都合うまくいくかよ」
「…………」
パレイドパグの一言に沈黙するフェルナ。
でも、そうなんだよなあ。
「他にも何点か問題がある。タレコミでは法国軍は王都・アルトハイデルベルヒからライドー子爵領まで三日で到着するという。となればそれは歩兵なしの全員騎士編成に違いない。たとえ作戦が成功してもその後必ず追いつかれる。なによりの問題は法国軍が『三日後』に到着するという点だ。タレコミ時点での『三日後』とはつまり明日であり、シーバたちが行動を起こそうというのが今夜のことだ」
「ちょ!? 全然時間がないじゃない!」
「前途多難。それはわたしが聞いても無茶な作戦に聞こえるね」
「そこまでわかっていて、お主は止めなかったのかや」
「そうだよ。いったんは退いて、また戻ってくるとかは?」
「今言ったとおり、法国軍が全員騎士編成であるのが難点だ。シーバたちだけでの退避を考えても、それすらもう遅い。どうやっても法国軍に追いつかれる。それなら、多少リスクが増えても仲間を助けてから逃げ出そうという話で皆の意見がまとまったらしい」
ここまで言えば、シーバが置かれている状況がどれだけ絶望的なものであるか、全員が理解したに違いない。
リストが叫ぶ。
「なんでさ、アルムトスフィリアは人権保護を訴えているだけで、国や貴族を直接攻撃するようなことはしていないじゃないか!」
「直接なものだけを攻撃とは言わないだろう。たとえ平和を口にしようと、アルムトスフィリアの活動が獣人奴隸制度を持つ法国への言論攻撃であることは否定できない。事実ルルシス含む三大紗国もそうと理解しているからこそ、全面的な支援と協力をしてくれている」
「とはいえ直接の攻撃でないことは事実です。獣人解放に理解を示す領民もいる手前、法国軍とて一方的にアルムトスフィリアを攻撃するものでしょうか」
「もし俺が法国軍を指揮する将軍で、アルムトスフィリアと話し合いをするつもりなら、多くの軍費のかかる騎士隊を動かしたりはしないだろう。そうであるなら、もっと少数でいい。多数を動かすというのは多数が必要である、つまり多数の騎士を使う理由がある場合だ」
「その通りじゃろうな。言いたくはないが、民の声を気にするのであれば、もとよりこの国に獣人奴隷制度など存在しておらぬ」
憂いの篭ったニアヴの言葉に、リストとフェルナが沈黙した。
「じゃあじゃあ、とにかくシーバさんたちを助けにいくのね」
「助けるといって、今日ここを出発して間に合うかというと全然間に合わないんだが」
言った俺の言葉に沈黙は更に深くなる。
と、あまりマイナスばかりを挙げて、皆をいじめるものではないな。
シーバがそういう作戦で行くと決めたからと言って、勝手にやれと突き放したわけではないのだ。
「直接は間に合わんが、一つだけ俺から助言を与えておいた」
「それってなに!」
「法国軍が動くといってもアルムトスフィリアが法国の全てから敵視されているわけではない。むしろ数で言えば応援の声の方が大きいということを忘れてはいけない。主張が正しい以上、法国貴族の中にもアルムトスフィリアを認める人間がいるということだ。その名をローアン男爵という」
「ローアンだんしゃく?」
「ここまでの活動の結果として、様々な点で獣人奴隸の地位改善が図られた街は既にあるんだ。例えば、獣人奴隷にも定期的な休みを認めるとかな。中でもローアン男爵の対応は最も革新的だった。領内全ての街と村で、獣人の市民権を認めたのだ」
「えっ、すごい!」
「市民権……それって最終目的じゃないの?」
「そうだな。法国の法は獣人奴隸を認めているが、ローアン男爵の統治する領内に限っては、奴隸制度は廃止されていると考えて良い」
「そんなことが可能なのかい」
「可能だろうな。基本的に法律が適用される場合、許可と禁止では禁止が強いが、権利と義務では権利の方が強いからだ」
「もっとちゃんと説明せぬか! 全くわからぬわ!」
「確かに土地は治めても民を持たないお前たちに法律適用の複雑さは判然らないだろうが……いいのか? しろというならするぞ。正確な説明を。お前に理解できるまで」
「いや、妾が求めておるのは正確さの理解ではなく、妾にもわかる易しい説明であってじゃな……」
呆れ顔の駄犬が口を挟む。
「話が脱線してんぞ。それがどう今の話につながんだよ」
「それは簡単だ。ローアン男爵領はライドー子爵領に隣接している。でもってライドー子爵領は子爵領というだけあって、そんなに広くない」
ここまで説明したことでやっと皆の表情に明るさが戻ってきた。
「おおっ」
「ってことは街でみんなを助けた後、隣のローアン男爵領に向かえばっ」
「そういうことだ。もちろん時間がない以上どうしてもリスクはある。だが、うまくいけば、その後ローアン男爵の保護を受けられる可能性はある。最低でも俺たちが到着するまでの時間くらいは稼げるだろう」
全ては時間との勝負であることの認識と逃げる先を指示すること。どうしても仲間を助けるのだと聞かないシーバに与えられる助言はこれくらいだった。
貴族とは独立した統治が認められた王の紗群であり、法国軍といえども領主の許可無くそうそう手出しはできないはず。そして、獣人の市民権を認めるというまさしく国の方針に逆らう決定をおこなったローアン男爵であれば、自領内に逃げ込んだ獣人をおいそれと引き渡したりはしないだろう。
「ともかく、俺たちにできるのは少しでも早く合流できるよう行動することだけだ。シャルが戻り次第ここを引き払って出発する。いいな」
「はっ」
「うんっ」
静かに燃える瞳。力強く握られる拳。
皆がそれぞれ頑張っているときに温泉地でのんびり保養というやや後ろ暗い状況から抜け出せることが嬉しいのかもしれない。
「世話になったの、パルメラよ」
「千古不易。わたしはいつでもここにいる。また会おう、ニアヴ。君には私の分も新しい時代を見てきてほしい。レニのことも頼んだよ」
「もちろんじゃ」
「君も元気で、かわいい姫君」
別れの挨拶。
パルメラからなんとも表現できない慈しみの視線を見られたパレイドパグがビクリと身を震わせたあと、いつもの高笑いを見せた。
「キャハハハ! こっちゃあ、テメェと離れられるってだけで最高の気分だぜ!」
そして、この言い草である。
同じ犬同士、どうして仲良くできないのか。
だというのに、パルメラの慈愛の視線は変わらない。
「ああ、本当にかわいい姫君だ。君の誰よりも純粋な『愛』をわたしは知っている。だけれど、それはわたしが濬獣であるからだ。姫君、本当の君を見てもらいたいなら、時には素直になることも必要だよ」
「ああ、テメェ何を言って!?」
「無駄じゃ、パルメラよ。そやつの声聲不一致っぷりは矯正が聞かぬ。常に横で聴かされる妾の方が呆れて赤面してしまうほどなのじゃからな」
「そこがかわいいんじゃないか」
「じゃから妾もそこまで嫌うことができぬ。口を開けば小憎たらしい小娘じゃが、一人の男を追って世界まで渡ろうという一途さは、妾にも真似できぬじゃろうからな」
「一生一途。まさに真の『愛』だね」
「なっ!? テメェら、いい加減に――」
「まあ、こやつはこのまま変わらぬ方が妾は都合が良いがの。――ワーズワード!」
なんだか賑やかに別れを惜しんでいたコックリならぬ狐狗狗さんたちの中から声があがった。
「ん? なんだ」
「そちらに行くのじゃ」
言うが早いか、腕を広げ、大概な距離をただの一飛びで飛び込んでくるニアヴ。
ちょ、なんだ。いきなり。
飛んでくるものは仕方ないので抱きとめる。
抱きとめると言えば聞こえは良いが、避けようもなく激突されただけかもしれない。
「くっふっふっ。よくぞ受け止めた。我が愛しい群兜様よ」
「なんのつもりだ。こら、頬を擦り付けるな。尻尾で俺の尻を撫でるのはやめろ!」
「あー、ニアヴサマうらやましいー」
その感想も大概おかしいと思うんだが。
俺に甘えているのだろうか。それはそれで意味が判然らないが。
「ななな――」
と、聞こえた声に狐が飛んできた方向を見ると、源素の乱流現象を引き起こす駄犬がいた。
「おやおや」
「――テメェ、ルーキー、ぶっ殺す!」
「なんで俺が殺されるんだ」
「ほれ、小娘が何ぞ危険な魔法を飛ばしてくるかもしれぬぞ。妾を護ってたもれ?」
俺の首にしがみついて離そうとしない狐。
何の遊びがしらんが、俺を巻き込むのは本当におやめいただきたい。
「ワーズワードさーん」
渓流へつながる獣道の方から、シャルの声が聞こえた。
ようやく戻ってきたようだ。
と、そこで俺の尻を撫でていたニアヴの尻尾がピタリ動きを止めた。
「どうしたんだ」
俺の視界を塞ぐ狐をどかす。
今度は抵抗なく離れるニアヴ。
そして、戻ってきたシャルを視界に入れた瞬間。俺もまた状況を理解した。
やや困惑気味の様子で後ろを気にしながら歩いてくるシャル。
「あの、ワーズワードさんに会いたいっていうお客さんをご案内したのですが……」
シャルの後ろには、もう一人の『女性』があった。
その顔は見覚えのあるものである。
「お前は――」
女の顔には愛嬌のある笑顔がある。
「お久しぶり、ワーズワード」
ザッと土を踏む音は、ニアヴとパレイドパグ、それにパルメラが臨戦態勢をとった音だ。
皆の険しい表情にビクリと反応し、シャルが足を止めた。
フェルナとリストも即座に場の緊張感を感じ取り、円を描いて広がる。
自分を取り囲む輪の中に、一切の物怖じをせず軽やかなステップで歩みを進める女。
同じ輪の中で、俺もまたリスクマネジメントレベルを最大まで引き上げつつ挨拶を返した。
「こんな山の中にようこそ『リゼル』。いや――今更偽名の偽名など使う意味はないんじゃないか、『リズロット』」
アルカンエイクの誘いに乗り異世界に渡った二人目の魔人。『エネミーズ12』|リズロット(L.L.)。
その、おそらくは仮の姿。緑髪の長耳女がリズロットの本当の姿であるはずがない。
「まあ! 偽名だなんて、非道いわ。『この姿』の私はリゼル。そう決めたの」
一度目の邂逅。そのときに、また会いましょうと言い残して姿を消したリゼル。それは予言でも確信でもなく、決定事項だったのだ。
にしても、あまりに予期せぬタイミングでの再会だと言わざるをえなかった。