Lycanthropes Liberation 13
「――癒やせ【ドッグドック/犬医】」
魔法の発動光にはその魔法の発動元となる源素図形に含まれる源素の色が影響する。
赤源素のみで構成された【カグナズ・ファイア/火神火球】の魔法は真紅、そこに黄源素の混ざった【フォックスファイア/狐火】は赤みを帯びた黄金の発動光になる。
そしてパルメラの使う治癒魔法は赤と白の溶け合った桃色。
発芽する双葉。一葉のクローバー。あるいは初心運転者標識図形。【犬医】は八個の白源素で構成されたハート型の中に、赤源素で構成された小さなハートが入っている二重のハートがその発動図形である。
「ハートもアリなのかよ。魔法の種類っていくつあんだ」
こうして検証してみると、四神殿由来の魔法が一様に硬質な角度を持つ幾何学図形であるのに対し、濬獣由来の魔法には曲線でつながる柔らかな図形が存在するというのが特徴だな。
これは四神殿の【プレイル/祈祷】という魔法発動手順が万人向けに整理された数理的手法であるということだ。例えば、白紙の紙とペンを渡されてハートを描けと言われても全員が同じ図形にはならないが、正方形を描けと言われた場合、描かれる図形に大きなズレは生まれない。万人向けとはそういう意味だ。
一方、曲線を描く濬獣の魔法は個別的手法である。一族秘伝などというのはそのためだろう。
にしても美しいハートの図形だ。パルメラの魔法の腕はさすが白耳だな。
「とても温かいです」
流血する腕を抑え、苦痛を見せていたフェルナの表情が和らいでいく。
セスリナが青ざめるくらいざっくりいったフェルナである。濬獣秘伝の治癒魔法が受けられる前提があったにせよ、自分の腕にナイフを深く突き立てるなんて、ちょっと勇気ある行動すぎるだろう。
だが、勇気を示しただけの価値は得られたと言って良い。
【犬医】の魔法効果により、言葉通り『瞬く間に』腕の傷痕がふさがってゆく。指先まで流れていた赤い流血も白い光に還元されるかのようにふわりと消えてゆく。
「もう、痛みはありません。傷のあとも消えてしまいました。心なしか腕以外の身体の痛みも消えている気がします」
「傷病快癒。【犬医】は一つの傷だけを治す魔法じゃない。君という一人の人間を健常な状態に癒す魔法だからね」
「すっごーい! 【ジマズ・メディカル・リーフ/地神薬葉】の魔法と全然違う!」
「当然じゃ。人族の使う魔法と妾たちの秘術を一緒にするでない」
「いくつか問いたい。今はケガの治療だったが、これが病気の場合はどうなるんだ。それに更に深い瀕死の状況であった場合は、いや、それこそ死んだ者を蘇生できたりは」
状況を挙げて問いかける俺に、パルメラが答える。
「いいかい、ワーズワード。不老の濬獣にも死は存在する。わたしの魔法であっても死は癒せない。死は絶対だ」
迷いのない、その答えを。
「だから君たちは『愛』に生きなければいけない。迷いなく。後悔なく。己を尽くしてやっと――死を恐怖ではなく笑顔で受け入れられる」
ドキリとする一言だった。
科学技術に人文経済。無数の規則と法律と常識と。完成しすぎているがため、あらゆる『可能性』が剥ぎ取られた世界で、俺は俺として生きられなかった。
人生をやめるか、自分をやめるか。
そんな最悪の二択を選ばざるを得ないところまで……追い詰められていた。
パルメラの言うとおり死は絶対だ。絶対の恐怖だ。
だが、同時に手足を縮めて、自分ではない誰かとして生きる生は死と同義だ。自分にできることをする。そんな当たり前の行為すら制限される人生になんの意味があるだろうか。
二者択一のどちらも選べないなら、それを強いる『箱』の外側に出るしかない。『己の全てを自重しない』という、それは第三の選択。
孤絶主義者。サイバーテロリスト。エネミーズ23。生ける悪疫。世界の敵。
自重しない俺の行為が世界にとっての悪だというなら、なんと呼んでもらって構わない。俺はそれを否定しない。
むしろ、日本人としての名乗るべき本名こそ、俺が『箱』の中に置き捨てていったものだ。
「あー。そういう説教臭い話を聞きたかったわけじゃない。具体的な魔法効果の限界を教えてくれ。ちょっとずつフェルナの肉体損傷度合いを増やして順に試すのもいいんだが、さすがに非効率だろう」
だから、俺は『ワーズワード』なのだ。
そういう意味で、俺はもとより世界の枠組みの外に身を置く選択をしていた。そんな俺がこの異世界にやってきたところで、どうしても元の世界に還りたいなどと考える理由はなかった。
そう、俺に地球に還る理由はない。還る――還らなければいけない理由は、この世界で暮らす中で発生したものだった。
「順に度合いを……」
「鬼か、テメーは」
駄犬のツッコミはスルーする。
「説教臭い……」
一方、パルメラは大地に両手をついて落ち込んでいた。
「主ァッ、同胞への暴言、いくら温厚な妾でも見過ごすことはできぬぞ!」
「やかましい。お前が温厚なのは食後だけだろうが」
どいつもこいつも面倒臭いやつらめ。
「はは……いいさ、わたしは見ての通りの『白耳』だ。……そうだね、【犬医】の魔法は『いずれ治る』であろう傷ならば、どれだけ深い傷でも治癒可能だ。同じ傷でも傷を負った直後と時間が経ったあとでは違いが出るだろう」
「なるほど。治る見込みの有無か。瀕死の状況を考えた場合、時間との勝負という医療の基本まで覆せるわけじゃないんだな。では、病気についてはどうだ」
「それは――」
パルメラが口を閉ざし、考えこむ様子を見せる。
いくら強力な治癒魔法でも病気系は駄目か?
「どうだろう」
「どう、とは?」
「わたしは濬獣の仲間たちにしかこの魔法を使ったことがないからね。ニアヴ、君は病気にかかったことはあったかな」
「妾も永く生きておるが、とんと無縁じゃのう」
「わたしもだ」
想定外だと言わんばかりに話し合いを始める二匹の獣。健康優良児どもめ。
『濬獣は風邪をひかない』。そういうことらしい。
「話は判然った。それでは検証してみるしかないだろう」
「どのようにじゃ?」
俺は先ほどと同じスマイルを紗群に向ける。
「すまないが、ちょっとその辺の森でキノコを採ってきてくれるか。なるべく毒々しい色のやつを」
「…………はい」
「マジで鬼だな。あ、アタシも試してぇから二回分で頼むぜ」
「二回分って、お前は一発で成功しないだろ」
「うっせーな! そんときゃ、何回でも試しゃいいだろ!」
「…………」
手持ちの仕事も終わらせたことだし、余裕はある。今のうちにできうる限りの検証はしておこう。
パルメラ治丘。そこには世界を吹き荒れる強風から切り離されたような平和な時間があった。
◇◇◇
そう、一歩パルメラ治丘を出れば、風は世界中に吹いている。
一つは北へ。
『北の聖国』 副都ユーリカ・ソイル
「こんにちは、ラーナさん」
南街に位置する『ワーズワード魔法道具店』に駆け込んできたのは狼族の青年ウルクウット・ゼアである。
「おっと、お早い到着ですね~。お待ちしていました、ウルクウットさん」
「おお、おお……! 此度はご機嫌麗しく」
「ラニアン様、お久しぶりです」
ペコリと頭を下げるウルクウット。
『シズリナ商会』のユーリカ・ソイル支部長であるイサン・ラニアンと貧民窟に住まう獣人のウルクウットがこのような気軽な挨拶を交わせる間柄になれたのも、全ては『ワーズワード魔法道具店』が紡いだ縁である。
「あとはベルガモ様待ちですね」
「着いとるで」
「ちょわ!? ベルガモ様ってば、そんなお腹を抱えていつの間に!」
「ハラのことは言いな。『商売は風神の尾を掴むが如し』や。ワイが大事な商売相手を待たせるかいな」
「おお、おお……! まさしく」
「こんにちは、ベルガモ様」
今日皆を呼び集めたのはイサンだ。
魔法道具の核の在庫が尽きてしまい、ここしばらく『ワーズワード魔法道具店』は臨時休業であったため、久々の開店である。
といってもまだ魔法道具はなく、がらんとした店内だ。そこに四人が集まっていた。
ドッカと腰を下ろしたオージャン・ベルガモが問いかける。
「イサンはん。今日話がある言うんは、そういうことでエエんやな」
「まさしく、待望の連絡がありますれば」
「私もさすがにこれは無茶振りかなーって思ったんですけどね。【フォックスライト/狐光灯】が五〇〇〇、【ウォーターフォウル・ボトル/降鵜水筒】が五〇〇〇、それに新製品の【パルミスズ・マインドフォン/風神伝声機】が五〇〇〇セット! たったの三週間で作っちゃうなんて、店長ってば、凄すぎますっ」
「ほんま、化け物やな、あのニィさんは」
「あはは……」
ワーズワードからイサンに依頼完遂の連絡があったのは今朝方のことだ。
「ワーズワードさまは、法国はパルメラ治丘に滞在中とのことでございまする」
「『毒ガス噴き出すパルメラ治丘』かいな。普通やったら驚くとこなんやろうけどなあ。あのニィさんなら、なんとも思わんわ」
「本当ですね」
「でもって、すぐさま法国にある『シズリナ商会』の支部に配達馬車を出してもらいました。濬獣自治区の麓まで往復で三日ほどかかるそうですが、その後はすぐにユーリカ・ソイルまで届けて頂けるとのことです」
「転移魔法やな。さすが『シズリナ商会』やで。転移魔法の使い手は雇おう思うてもそもそも、使えるもんがおらん。悔しい話やけどまだワイんとこにはおらん人材や」
「ほんとですねぇ」
そこが聖国内だけで商売を行う『ベルガモ商会』と多くの国にまたがった商売をしている『シズリナ商会』の、地力の差ということになるだろう。
「なんにしても三日後ですか。オーダーメイド品を除いても五〇〇〇近い【ウォータークラウン・ケース/雫型容器】を準備しないといけないんですよね。これはもうすぐにでも、作業に入らなきゃいけないですね」
再び忙しい日々が始まる。そう気合を入れなおすウルクウット。
そこでオージャンとイサンが目配せをし、互いに頷きあった。
「そのことやけどな、ウルクウットのニィさん」
「はい。なんでしょうか」
「ニィさんトコで五〇〇〇の器を造るのに何日かかるやろうか」
「えと、それは」
「『クェス鉄腕工房』の生産能力から計算しますれば、およそ一年後になりまする」
「そら、論外や」
「あ……」
二人の大商人の交わす言葉にウルクウットの尾がしなだれてゆく。
【雫型容器】はワーズワードも認めたウルクウットの仕事の成果だ。ワーズワードは日産五つもあれば十分だという判断を下したが、魔法道具の需要は指数関数的に高まっている。その点でワーズワードの判断基準は過去のものであり、オージャンとイサンはそれでは足りないと言っているのだ。生産能力が足りないとなれば、当然――
「待ってください! 俺がもっと頑張ります! 一日三〇、いえ五〇でも一〇〇でも作ってみせます! だから……だから、『クェス鉄腕工房』を切り捨てないでくださいッ」
額を床にこすりつけるように懇願するウルクウット。
それでは、クェス姐さんにも自分に期待してくれている貧民窟の仲間たちにも顔向けできない。
なにより、
「俺がワーズワードさんに頼まれたんです。魔法道具の器の製造は『俺の仕事』ですッ!!」
職人の誇りをかけて、ウルクウットはたとえ大商人の二人が相手でも一歩も引くことはできなかった。
その気迫を……オージャンとイサンはややポカンとした表情で見る。
「ちょい待ったりぃや。ナニ勘違いしとんのや。『クェス鉄腕工房』を切り捨てる? 誰もそないなこと言うてへんがな」
「しかり」
「えっ」
「そういう話やない。あー、北の商業区にワイが持っとる工房があってな。そこなら『ベルガモ商会』も『シズリナ商会』も近うて商売がし易い。今日ニィさんに来てもろうたんは『クェス鉄腕工房』を北街に移さへんかっちゅう話のためや」
「おお、おお……! まさしく、そのようにして頂ければ」
「は……」
「工房はウチとこで準備する。ついでに腕利きの職人三〇人を預ける。ニィさんの下で使うてもろたら、さっき言うとった一日一〇〇はボチボチいけるやろ」
「待ってください。そんな話いきなり。それに俺は獣人で――」
突然の申し出に、目を白黒させるウルクウット。
「ニィさん。商売に獣人かどうかなんぞ、関係あらへん。そらま、ちぃっとはあるけどな。それも昔の話や。すくのうてもニィさんは仕事の内容でこのオージャン・ベルガモを認めさせた。せやから、これは対等な『商売相手』としての話や。この商売を一緒に続ける以上、ニィさんとこも大きゅうなってもらわな困る。なんせ、このワイらと商売するんやからな」
「私もそう思いまする」
「でも俺、貧民窟に住んでて、そんな俺に……」
なお言いよどむウルクウットの肩をぽんと叩く者がいた。
「ウルクウットさん。店長だったらなんていうでしょうね」
「ワーズワードさんなら?」
そこラーナが目尻をキュッと引っ張ってみせた。
「ウルクウット。できないというなら出て行け。やる気のないやつはこの店にはいらない」
目を細める意味はよくわからないが、そのセリフ自体は、ウルクウットの尻尾が思わず反応してしまうほど特徴を捉えていた。
同じトーンでラーナが続ける。
「――だが、やるというのなら、全力で支援しよう。やるかやらないか。お前が選べ」
「ラーナ、さん」
パッと自分の顔から手を離したラーナが、ウルクウットに笑いかける。
「んっふっふー。ウルクウットさん、これはチャンスです。ただのラッキーです。考える必要ありますか? もっとたくさん作って売って、がっぽり大儲けしちゃいましょう!」
商売の家に生まれた娘らしい、この上なくわかりやすい判断基準。オージャンもイサンも深く頷く。
「あ、あはは。そうだ。悩む必要なんて全然ないじゃないか。やります。やらせてください! …………くぉ」
抑えられない衝動がウルクウットの口から漏れだす。
「おっとー。いつもの、来ちゃいますね」
長い耳を押さえ、ラーナがきゅっと身構える。
「――――くおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉんんっ!!」
店の中から聞こえる長く尾を引く咆哮に、通りを歩く皆はみな何事かとワーズワード魔法道具店を振り返った。
◇◇◇
一つは南へ。
『南の法国』ラバックの街
ラバックは人口三千人規模を誇るライドー子爵領の主都市である。子爵の身分が治められる領治とは基本主都市が一つ、それに樹村がいくつか含まれていれば広い方だ。子爵の身分が治める都市としては、かなり大規模であるという理解で正しい。
もちろん、その人口の半数以上が買い集められた獣人奴隸であるということを考えなければ、という前提付きではあるが。
「あっはっはっはっは!」
室内に主人の高笑いがこだました。
主人の名はベルゼス・ラック・ライドー子爵。
いつもは西辺衛星都市・アストンの別邸に暮らすベルゼスだが、彼を刺した獣人兄妹の引き渡し要求に対し、アルムトスフィリアはこれを拒否、逆にラバックの街で過酷な労働を強いられている同胞たちの人権保護――という名目の解放――を求めたことから両者の対立が激化、ついにはベルゼス自身が己の領地に帰らざるを得ない状況にまで事態は悪化していた。
貴族である自分を刺したリナへの憎悪と、たかが獣人の反乱に付き合わされていることへの苛立ちから、ラバックに戻ってからずっと機嫌の悪かったベルゼスがこうして笑っている。
「勝ったな」
そんな主人に対し、家宰は冷静に対応する。
「まことに喜ばしく。中央からの火急の伝声によりますれば、王が到着されるのは三日後になるとのことです」
「ラバックに王を迎えるとなれば、過去にも例を見ない最上の名誉だ。おい、王を迎える準備に手ぬかるでないぞ」
「心得ております。それよりもベルゼス様。此度のこと、館内でありましても、当日までどうか口外なされませぬよう」
ベルゼスが鼻を鳴らす。
「さすがに俺もそこまでの阿呆ではないわ。三日後のご親征を奴らが知れば、その前に過激な行動に出るかもしれん。この情報を漏らすわけにはいかぬ。そうであろう」
「はい。僭越でございました。なにせこの街の半数以上はアルムトスフィリアに同調する可能性のある獣人たちでございますれば」
今、ラバックの街では金で集められた臨時の兵が見回りを強化している。また冒険者を雇い入れ、街の外も警戒させている。
経済的には余裕のあるライドー子爵家であるが、このにらみ合いの状況に対応するために多大な出費を強いられているのだ。それはそれで痛いのだが、なによりも家宰は『内部にも敵を抱えている』状況についての危機を主人に伝えているのだ。
「許す。なにせ、今日は気分が良いからな」
果実酒を片手に、館の窓から外を見下ろすベルゼス。
背の高い建物は木造二階建ての己の館のみ。あとは広大な果樹園と果実酒・果実水を生産する加工工場がやや大きいくらいで、他には見るべきものの少ない田舎の風景だ。
彼の目には籠を背負い収穫の列を作る女たち、重い樽を数人掛かりで馬車に積み込む男たちの姿が映る。その全てが獣人だ。子どももいれば老人もいる。質を問わず、とにかく数を求めて買い集めた奴隷たちだ。
屋外の作業は逃亡のリスクも生まれるものだが、そこはベルゼスが発案した画期的な管理方法が功を奏していた。
同郷の獣人同士で組を作らせ、別々の場所で働かせるのだ。もし片方が逃亡すれば、もう片方には重い罰が下る。
数として少数である獣人たちは、仲間同士のつながりが強い。己がどれだけ苦しくとも、仲間のために耐えるのだ。
結果、獣人奴隷はよく働き、ライドー子爵家は莫大な富を得ることに成功した。
だとしても――
見渡す限りの獣人、獣人、獣人。こんな街が己の領地であるなど、吐き気すら覚える。
ベルゼスは心のなかで吐き捨てる。
最悪の街だ、と。
「これもあと三日の辛抱よ。この騒ぎが収まれば、俺は反乱鎮圧と王を迎える栄誉という二つを携え、またアストンに帰れる」
主人の呟きに家宰は特に反応を返さず、静かに頭を下げて退室した。
同時刻――
ラバック郊外に敷かれたアルムトスフィリアの陣に一人のきゃるんとした少女が訪れていた。
訪問を告げられたシーバが驚きの声を上げる。
「あっ、あなたは」
「あの時のお姉ちゃんにゃ!」
「まあ、子猫ちゃんたちもここにいたのね。実は耳寄りな情報があったから、あなた達に教えて差し上げようと思って」
突然の来訪に驚きを隠せないシーバに向かい、少女は小悪魔なウインクを飛ばした。
◇◇◇
風は東へ。
『東の皇国』王都シャール
古く辺境と呼ばれる皇国は山と川、海と小島群の入り混じった複雑な地形の上に成り立つ国である。
複雑なのは地形だけでなく、そこは人種の坩堝でもある。多数の山岳部族。小島に住む少数民族。国を追われた流れ者。犯罪者の村。希少種獣人族の隠し集落。竜と古王国辺境遺跡群。シンシア治岸。ヤン・クン治島。
あらゆる地形・人種が入り交じる皇国の王には、血筋よりもまず力が求められた。
そもそもが一つにまとまるような国ではないのだ。力を示し、それぞれが独立する部族の長たちに誰が王であるかを認めさせる。力なき者には誰も従わない。力により皆に自分を認めさせる存在。
それすなわち『魔皇』である。
求められるものは単純な軍事の力だけではない。ことの表裏を見抜く洞察力。内憂を解決し外患を排す智謀。総合的な政治センス。加えれば、清濁を併せ呑む度量も必要か。
全てを備えたものでなければ、ルーワスという国は治められない。
ゼファー・ギーヴ・ドルク・ルーワスは歴代の中でも特に年若い魔皇であるが、若くして魔皇の称号を継いだ事実それ自体が、彼の非凡さを物語るものだった。
王都シャールにある魔皇の居城を『ゲイビ宮』と言った。
美麗で知られる光国の天空宮と違い、灰色一色の無骨な王宮である。無骨な、山の如き不動の王宮。
それもそのはずで、ゲイビ宮は実際に岩山一つを魔法の力でくりぬいて造られた石造りどころではない『岩造り』の王宮なのだ。
裾野を広げるその偉容は、王都を訪れる全ての人間の肝を抜き、魔皇の力の強大さを魂に刻み込ませる。
絶対の力の誇示は皇国平穏の要なのだ。
「『ワーズワード魔法道具店』だと……つまりなにか。ワーズワードとは商人、ただの平民だということか?」
「ただの平民ではありません。魔法道具店の看板の通り、未だ何人も成し得なかった道具への『魔法の付与』を成功させた天才魔法使いであるとのことです」
「なるほど、『これ』を作った者だということか」
ゼファーは手元においた黄金の輝きを放つ【狐光灯】を見た。
「それであればまだ話はわかる。で、そやつはどのような男なのだ」
「報告によれば、年の頃は二十代前半もしくは十代後半。出自は不明。特徴としては黒色の髪を持ち――」
「そうではない」
腕を振ってやめさせる魔皇。
「そのワーズワードはこの俺よりも色男なのか?」
「はっ……」
質問の意味がわからず、言葉に詰まる諜報部員。だが、魔皇の前で無能を晒すことはこの国では何よりの罪である。
「申し訳ございません。我らが諜報を開始したときには既に街にはおらず、顔までは確認できておりません。ただ、聖国貴族子弟から集めた情報によれば、魔法の力を笠に着ることのない好人物であるとのことです。また貴族の晩餐会場にて前衛的な曲を即興で弾いてみせ、更には彼が踊ってみせた『シャコー・ダンス』が新しい流行として聖国の貴族社会に広まりつつあるとの情報があります」
人物調査を指示されて、たった一つの名から一月もかからぬ間にこれだけの情報を集めてきた皇国諜報部は決して無能とは言われまい。
特に隠しているわけでもない、寧ろ積極的に宣伝しているワーズワード魔法道具店に辿り着くこと自体は難しくなかっただろう。だが、マーズリー家で開かれた晩餐会の詳細まで聞き及んでいるとなれば、皇国諜報部の爪は聖国貴族社会に深く穿たれていると見るべきである。
「魔法だけでなく、音楽芸術にも多才な人物であるということか。が、それだけであれば、ルルシスがワーズワードを使うことはあっても群兜と仰ぐことはあるまい。ワーズワードは『魔法付与』さえ霞む更なる別の才を持つ者であろう。ことによればその才、この俺に並ぶか。あるいは超えるか」
「まさか! そこまでは」
気に入らぬ相手であっても軽視せず、数少ない情報からそこまで予測する。ゼファーの直感と本能はまさに魔皇たらんものである。
「にしても情報が少なすぎる!」
「も、申し訳ございません」
「何者だ、ワーズワード。この驚き、まるで法国の新王の再来よ。いや待て、そうなのか……?」
激高から生まれる閃き。
ゼファーは顎に手をやり、思考を深化させる。
「無から突然現れたように思われる法国新王アルカンエイク。たった一人で『アルトハイデルベルヒの王城』を陥とした最強の魔法使い。聖国に現れたワーズワードも同じく『魔法付与』という特別な才を持ち、ルルシスという難攻不落の要塞を落とした。アルカンエイクとワーズワード……そう整理すれば、二人の名もどこか似ている気がする」
二人を直接に知らぬゼファーが、限りなく正解に近い結論を導き出す。
と、そこで姿勢を崩し、玉座に深く背をもたれた。
そして、くっくと笑い声を上げる。
「ルルシスめ、やはり油断できぬ女よ。面白い。此度の『対ヴァンス三国同盟』では、法国の国力低下だけではなく、その一歩先まで見据える必要がありそうだ。だが――」
ゼファーの瞳が、再度【狐光灯】を見た。
「……どうであろうな」
ゼファーの呟き。それはどういう意味であろうか。
「もうよい。ゆけ、更に情報を集めよ」
「はっ」
答えた諜報員が下がってゆく。
「混乱に乗じてまずは失地を取り返しておこうかとも考えたが、どうやらもう少し見に回ったほうが良さそうだ。ワーズワードとやら……本当にルルシスの言うように、世界を変える者か、ここから見せてもらうぞ」
魔皇ゼファー。誰よりも遠い辺境にありながら、ある意味で最も正しく状況を捉えている者かも知れなかった。
◇◇◇
風が最後に吹き寄せたのは聖国の王都である。
『北の聖国』 王都エト・セト
聖国皇帝の名をアルテネギス・アラフェン・ドルク・ウルターヴという。
アルテネギスが住まうのは王都エト・セトにある『アルマイト宮』だが、世界唯一の皇帝の住まう宮殿ということで『帝宮』の名で呼ばれることの方が多い。
他国に比べ開かれた宮殿で、魔法使いを育てる帝宮付属魔法教導神学校、通称『帝学』には国中から魔法を学ぶ生徒が集まっている。
あのセスリナ・アル・マーズリーも帝学出身者の一人だ。
魔法を使う神官・魔法使いは特権階級者である。
帝学が新しいのは、四神殿・貴族の推薦がなくとも入学が認められるところだ。貴族も平民も。貧しい者でも獣人でも。魔法の才の鱗片を示すことができれば、勉学を通してその才能を伸ばすことができる。国から補助も出る。
従源素光量に個人差がある以上、生まれながらの魔法の才――魔法を使える人間、使えない人間――を選別する『入学試験』は必要だが、能力さえあれば上を目指すことができる帝学は、階級制度の下層に暮らす多くの人々に希望を与えるものだった。
別の角度から見れば、法国のゼリドが四神殿との結びつきを強化することで軍事力の安定化を成功させたのに対して、アルテネギスは国内の魔法使いの絶対数を増やす政策で国力を上げようとしているとも言える。それは法国とは全く逆の、四神殿との結びつきを段階的に弱める政策だ。
帝学の歴史はまだ十年に満たない。未だ四神殿の権威は絶大であり、魔法使い重視の特権階級制度を崩すこともできてはいないが、時代の遥か先を見据えたアルテネギスの政策はやがて大きな実を結ぶであろう。
一点。
やがてとは言ったが、帝学は既に一つの大きな実を実らせている。市井から『彼』の存在を見出すことができただけでも、帝学創立には黄金の価値があった。
『百年に一人の天才』とも呼ばれる、
ウォルレイン・ストラウフト
その人である。
「どう見る」
六十手前には見えぬ太い足と分厚い肉体を持つ偉丈夫が無精に伸ばしたヒゲをさすりながら、竜の駒を進めた。
「えっ。あ、そうですね。うーん、難しいと思います」
対面から同じ盤上を見つめていた青年がワンテンポ遅れた反応を返す。
そして、竜の征路を塞ぐマスに騎士の駒を進めた。
「騎士を倒せば、後ろの神官に捕らわれるか。嫌な手を打つ」
「『征竜攫民』はランスの基本ですから。民を守るには、騎士を盾に神官で防ぐのが王道です。どうぞ、陛下の番ですよ」
「少し考えさせろ」
二人が対局するのは『戦戯』と呼ばれるゲームである。
奴隸、民、騎士、神官、六足馬、竜、王の七種二〇個の駒を戦わせるボードゲームであり、広く世界中で遊ばれている。
室内には二人の姿だけがあった。すなわち、聖国皇帝アルテネギスと帝宮最高魔法師ウォルレイン・ストラウフトの姿だ。
「どう難しい」
「えーとですね。仮に彼と法王が同じだけの力を持っているとしましょうか。ランスで言えば竜の駒ですね」
「王の駒ではないのか?」
アルテネギスが竜を進める。
「駒としては王よりも竜の方が強いので……あ、すみません」
ウォルレインも騎士を進め、竜を追い詰める。
ランスの勝利条件は二つだ。王を討つか、奴隸が成るか。その他、敗北条件として民の全滅がある。ランスにおいて、民を捨てての勝利はない。
「構わん。続けろ」
「竜は民に強く神官に弱いです。では竜対竜ではどうでしょう」
「先手が勝つ」
「そうです。なので竜は常に前線に出すのがランスの鉄則です。そして法王は動く時、必ず前線に出る王です」
「そして、もう一方の竜は後方にいる、か」
「それだけならよいのですが」
「他にもあるか」
「あ、はい。これは憶測も混じりますが、彼はおそらくそこまで本気で行動していません。もしかしたら遊び半分かも」
「会ったことのない者のことがそこまでわかるか」
「えーと、はい。なんとなくですが」
ウォルレインがずれたメガネを直しながら、気の抜けた返事を返した。
「貴様が言うのであれば間違いあるまい。それで」
「それで、それは法王も同じなんです。法王の戦争も遊びです。違いは一つだけ……法王は遊びで人を殺せます。そしてルアン公爵様にお話を聞く限り、彼にはそれができません。だから難しいです」
「人を殺せぬ竜か」
手の中に駒を遊ばせながら、アルテネギスがいう。
「だが難しいという以上、不可能ではないのであろう」
「えーと、そうですね。僕が思うのは遊びで人を殺さないというだけで、竜は竜だということでしょうか」
「竜――古よりアーティファクトを護る強大な生物。その塒を荒らすものには等しく厄災が訪れる、か」
しばし長考ののち、次の一手、アルテネギスが神官の駒を動かした。
「もっと簡単な手がある。竜対竜で一手及ばぬならば、神官が竜を助ければ良い」
「『護僧舞竜』ですね。堅い手です。えーと、それってご命令でしょうか?」
「ランスの話よ。貴様は竜が敗れた場合の最後の保険。軽々には動かせぬ」
「はあ……」
困ったように頭をかくウォルレイン。
「また、同盟組んだりといえど、皇国の小僧めがどう動くか」
「あ、それは大丈夫だと思います。この間ご挨拶させていただきましたが、あの方の感じからすると双竜相打ちが一番嬉しいでしょうから、しばらくは手出しせずの様子見だと思います」
「であるか」
まるでゲイビ宮の様子を見てきたかのような断言。
ウォルレイン・ストラウフトという男、一体どこまで見えているものか。
立ち居振る舞いに威厳こそ一切ないが、その洞察力と分析力はかの魔皇ゼファーに、ともすればワーズワードにすら比肩しうるかもしれない。
アルテネギスの改革がなければ、これほどの男が野に埋もれていたのだ。もしそうであったならば、聖国にとって『百年分の損失』と言えるものだっただろう。
ウォルレインを、そして盤上の様々な駒を見つめアルテネギスが言う。
「世界にはこうも数多くの若い才能が発芽しておる。サンハイム、ゴールナード、ゼリド、エリンらと競った時代が懐かしいわ。時代の変化を否とはせぬ。だが、法王の時代を認めるわけにはいかぬ」
盤上の竜の駒をつかみあげ――やや強く盤上に打ち下ろす。
「『ワーズワード』。貴様が娘の選んだ男だというのなら、遊びを捨て、本気を示してみせよ」
そういうアルテネギスには、どこのうまの骨ともわからぬ男に愛しい娘を奪われた父親のいらだちのようなものが見えなくもなかった。
◇◇◇
風は世界中を吹き抜け、また新しい風が吹き始める。
それは皆が望む春風となるか、あるいは凶風となるか。
――そして、運命の一日が始まる。
一方、出てこなかった西の方の国。
シノン「はい、あーん、ミーシャ」
ミハイル「やめぬか、シノン。そういうことは、その、二人きりのときにだな」
※勝手にやってればいいので、本編からは省略されました。