8・魔術に沈む
僕のところに、唐突に帝国のお姫さまが顔出ししてから、数日が経過した。
暮らしの変化は特に起きていない。
僕の生活は、これまでと同様だ。
何も変わりないし何をするのもダルい。
次から次へと絶えず人が来るとか、そんな忙しいこともなく、今までそうだったようにダラダラと時間を惜しみなく無駄にしている。
そんな中でも、飽きることなく続けていることがある。
魔術の練習だ。
やはり面白い。
暇つぶしのためではない。楽しいからやっている。
魔術だけは、やっててもダルくない。
なんだろうこの思い。
探究心とでもいうのかな?
あの蒼炎皇女との一戦を経て、魔術への関心が、僕の中でさらに大きくなった気がする。
……いや、間違いない。
なっている。
以前よりも強く、魔術というものへの、僕の生み出すこの濁った水への好奇心が増した、そんな実感がある。前よりさらに楽しくなっている。
どうしてだろう?
まさか、彼女の熱意が僕の心に飛び火した……それはないな、ないない。
そこまで僕は単純じゃない。
ひねくれている。
だから。
これはまあ、同い年との勝負がいい刺激になったんだろうと、そう思う。
あの、ファルティニア姫は、僕との勝負を楽しんでいた。
負けたくないという意地や、自分の攻めを容易くいなされてることへの腹立たしさもあっただろうけど。
でも、彼女は笑っていた。
僕という高い壁に、嬉しそうに挑んだ。
体力を失い、地面に膝をつき、魔術の制御ができなくなり、全身に炎をまとっていたのが解除されるまで、最後まで挑み、笑っていた。
楽しそうだった。
その、楽しさが、僕の心に置き土産として残ってるのかもしれない。
どうなんだろ。
「もう、今頃は帰りの馬車かな。それとも、まだ……」
机だけでなく、椅子や床にまで、乱雑に本が積み置かれてある部屋。
僕の勉強部屋だ。
その部屋の真ん中に、僕は立っていた。
柱時計が教えてくれる時刻は、まだ午前。
朝食はもう終えている。
今日は、珍しく早く起きたのだ。
宙に、水の球を浮かべる。
あのお姫さまは今どうしているのかと、ふと、そんなことが頭をよぎった。
帝国に帰る途中だろうか。
あるいは、他にもやることがあって、どこかに護衛ともども滞在してるのだろうか。
……まあどっちでもいいや。
そこは大事なことなんかじゃない。
大事なのは、僕に負けたことであり、問題なのは、そのことをずっと喋らないでいてくれるかどうかだ。ここ重要。
なんなら忘れてくれてもいい。
僕に負けたことなんか野良犬に噛まれたようなものだと笑い飛ばして、そのまま記憶から消してほしい。たのむ。
よどみ、濁りきった水球に指先で触れる。
問題はそれだけじゃない。
他にもある。
こちらはこちらで、怪しい流れができつつある。
ボニーとその主であるレバインメット伯爵が、僕を利用(無理にではなく、できるようなら)しようと企んでいるのだ。
迷惑な話だよ、ほんと。
他人の権力争いや出世の道具にされるなんてたまったものじゃない。
いやだいやだ、あー嫌だ。
変わらぬ日々を、ぼんやりとした心境で過ごし続けたいだけなんだよ僕は。責任も義務もない人生を送りたいだけなのに。
そっとしておいてほしいのに。
指先を、さらに水球の中に突っ込む。
軽く混ぜる。
このくらいでいい。
混ぜる動きをやめ、指を抜く。
濁っていた丸い水は、透明な、清らかなものへと変わり、
僕の指には、どろりとした、黒や灰色、茶色の粘液のようなものがくっついていた。
ふっ
ロウソクを吹き消すように息をかけると、粘液は空気に溶けたように消え去り、ほんのわずかなねばりも残さず無くなった。
残ったのは、一切の不純物のない、球状の水だけ。
「臭いも……よし」
あの独特の、僕以外の人間が吐き気をもよおす臭気も消えてる。
聖属性の者が魔術で作り出すという聖水。
それに勝るとも劣らない──いや、それよりも清浄かもしれない水ができた。
「僕自身の生み出した汚水だからこそ、こうできるのか、それとも、どんな汚水でも同じようにできるのか……」
興味は尽きない。
魔術ってのは、やはり、奥深いね。
書物こそたくさんあるが、独学でしかない僕が、どこまでこの力を高めることができるのかわからないけど、
「まあ、飽きるまでやればいいさ」
また柱時計を見る。
まだまだ正午は遠い。
「いちいち指で除くのは……手間だね。戦っているときとか、余裕のないときには困るな。作り出すときに、同時に、除外と気化もするのが──」
また、新たな水球を、何もない空間に作り出していく。
今度は、さっきのように後から指で混ぜて余計なものを絡め取るのではない。
作りながら、除き、散らす。
「……あらら」
失敗した。
「なんとも中途半端」
分別はできたが、気化をしくじった。
黒いクラゲが、清らかな水球の中で泳いでいるような感じになっている。
「はい次」
手をヒラヒラと振る。
クラゲ入りの水が、重力を思い出したかのように宙から落下し、水槽をひっくり返したみたいに床にぶちまけられた。
床や、床に置いてあった本がびしょびしょになったが、すぐに蒸発して、何事もなかったかのように戻っていく。
そうしている間に、また新しい水球が生まれる。
「これも駄目か。でも、コツは掴んできたね。お昼ごはんまでには、それなりに形になれたらいいな」
また水球を作る。
集中していく。
頭から、次第に余計な思いが薄れていく。
僕は、水の魔術の奥深さに沈み、没頭していく──




