7・ボニーの真意
「ふー……」
皇女と護衛。
王宮の沼と呼ばれた、僕の住処から去りゆく二人の後ろ姿を見ながら。
唇を尖らせ、息と一緒に、緊張も身体の中から吹き出した。
魔術のお披露目以来。
久しぶりとなる、緊張だった。
他人とほぼ会わない暮らしをしていたせいか、たった二人の人物に会っただけで、肉体的にではなく精神的に重いものがあったけど、それがポロリと取れた気分だ。
でも。
(……あのお姫様が、余計なことを言わなきゃいいけどな……)
緊張はなくなりはしたけど、不安がある。
──ファルティニア姫が立ち直った後。
僕は彼女に、勝負に負けたことだけでなく、僕と魔術勝負したこと自体を黙っていてほしいと、そう頼みこんだ。
こんなことが明るみになれば、僕への周囲の態度も変わる。
大騒ぎだ。
引きこもりの汚水王子である僕が、飛ぶ鳥を落とす勢いの第三皇女を完封したなんてことが知れ渡れば、大騒ぎにならないわけがない。
そうなれば評価も変わる。
評価が変われば待遇も変わる。責任のある立場に置かれるようになる。忙しくなる。
そんなの、たまったものじゃない。
だから勝負を内緒にしてもらいたいのだ。
勝ったのだからそのくらいの要望は呑んでくれないかなと、多少下手に出てみると……皇女は、驚くほどあっさりと承諾してくれた。
それがちょっと怪しい。
そのあっさり具合が実に怪しい。
彼女は、何一つごねなかった。
あれだけ、優れた力を有しているなら世界に見せつけてやれだの力説していた彼女が、僕の控え目な要望に対し皮肉すら言わず首を縦に振るとか、ありえるのだろうか。
やはり、怪しい。
けど、もう彼女は僕の手を離れた。
あとは、帝国の皇女としての、誠実さに委ねるしかない。
彼女は、ティータイムを楽しむ暇もなく、護衛のパトラさんと共に去っていった。
忙しい合間を縫って、僕に会いに来たうえに、しかも魔術勝負までした。もう予定がカツカツなんだろう。
第三皇女という立場は大変だ。
約束は破らないとは思うけど、頼むから、口を滑らせたりしないでほしいなぁ……。
「終わったね」
「はい」
二人の姿が見えなくなってから、僕は住居の中へ戻った。
数歩遅れて、礼儀正しくボニーがついてくる。
「王子、ひとつよろしいですか」
ボニーが訪ねてくる。
「なにかな?」
「……どうして、見返そうとなさらないのですか?」
「君までそんなことを言うんだ」
足を止め、しかし振り返ることなく、話を続ける。
「僕は今のままで十分なんだよ。申し分ない。この生活が続くのなら、どんな風にけなされようと、それでいいんだ」
「…………」
「それに、あながち不当な評判でもない。僕の水が濁っているのは確かだからね」
「しかし、臭いはしませんでしたよ」
「どうせバレてるんだからハッキリ言うけどさ、暇つぶしに色々と試していたら、臭いのない水を出すこともできるようになったんだ」
「でしたら、かつての大惨事を……いえ、申し訳ありません」
「いーよいーよ、実際大惨事だったもんあれ。いいから話続けて」
「……その、かつてのその出来事を、払拭するべきではありませんか? このまま、才能と実力を腐らせるおつもりですか?」
ボニーは言う。
なんだろう。彼女の言葉に、これまでにない熱のようなものを感じる。
今までのボニーとは別人のようだ。
「王子は、ここで終わるべき人間ではないと、私は思います」
そこまで言うと、ボニーは黙り込んだ。
「買いかぶりすぎだよ。キミも、あの皇女さまもね」
僕は自室でくつろぐため、再び足を動かした。
時刻は、昼と夕の中間くらい。
嵐のような出会いは幕を下ろした。
これからは、いつも通り、おやつの時間だ。
「──という結果になりました」
第六王子ラハブにあてがわれた、王宮の端の、あまり大きくない屋敷。
嫌われ者の汚水王子を飼い殺しにするための籠。
そんな屋敷の地下室で。
何者かと、メイドのボニーが、密談をしていた。
「はい、信じられないのもわかりますが、しかし事実です。嘘偽りなど一切ございません。圧勝でした。あの蒼炎皇女に」
密談の相手。
それは、ボニーが本当に仕えている者のようだ。
ラハブ王子に対するときとは違い、声色がへりくだっている。
その相手だが、この地下室にはいない。
ぴちゃり
ぴちゃり
結露でもしているのか。
どこからか、水滴のしたたる音が、一定の間隔で聞こえてくる。
春が過ぎ去ろうというのに、いまだ、うすら寒い空気に満ちているこの地下室にいるのは、たった一人だけだった。
密談の相手は、遠く離れた場所から、ボニーと通話しているのだ。
飛声石。
魔術の使い手しか使用することのできない、遠距離での通話を可能とする魔石。
つまり。
ボニーも、
ボニーの主も、魔術の使い手ということになる。
「皇女や私も焚きつけはしたのですが、効果がありません。やはり、二年に渡る冷遇は王子の心を卑屈なものに変えてしまったようです。……如何いたしましょうか、伯爵さま」
伯爵。
そうなのだ。
彼女の本当の主であり、汚水王子の監視を任せたのは、王国の有力貴族の一人──レバインメット伯爵であった。
自他共に認める野心家。当年四十五歳。
風の魔術の使い手でもある。
ラハブ王子の下でボニーを働かせるために、裏から手を回したのもこの男だ。
高位の神官たちですら手を焼いた、悪臭を放つ濁った水を生み出した王子。
大半の者が嫌悪し、関わりを持とうとしない中、表向きは伯爵もそうしていたが、内心はまた別であった。
これは、利用価値がある。
忌まわしい存在だとしても、その優れた才能には、目を見張るものがある。
しかも、いくら誰からも嫌われていようと、れっきとした六番目の王子なのだ。使い道などいくらでもある。
伯爵はそう考え、ボニーを送り込んだ。
芽が出ることなく、不発に終わるなら、それでもいい。
どうせ数ある策のひとつだ。
他にも種はいくつもまいてある。汚水王子もそのうちのひとつに過ぎない。執着などはない。
「…………そうですね。ええ、まだ八歳ですから。何かの弾みで心変わりして、自尊心が燃え上がるかもしれません」
伯爵は、様子見することにしたらしい。
いつものやり方だ。
無理に動かず、事態の変化を待つ。
あえて強引に動こうとはしない。
その結果、好機を逃したとしても、やむを得ない。
強い野心の持ち主でありながら、レバインメット伯爵は慎重な人物であった。
「できることなら、私がそれとなく誘導したいのですが……はい、わかっております。出過ぎた真似などするつもりは、はい」
いささか性急なところのあるボニーには、主のそのやり方が、慎重を通り越して臆病に思えている。
しかし、主の方針には逆らえない。
文句を言うつもりもない。
嫌われ者である第六王子の、世話係。
辛気臭い任務だが、そこさえ気にしなければ、どうってことのない仕事だ。
「……では、また何かありましたら、ご報告します」
通話を終える。
輝きの消えた魔石を、懐にしまう。
「王子には、早くその気になってほしいものね」
本当にラハブ王子の評判が裏返り、他の王子たちが脅威に感じるほどになったら。
王子にもっとも近しい使用人である自分も、お側役として、それなりにおいしい汁をすすれるのでないか。
それだけではない。
もし、伯爵家と評価の上がった王子との間に強固な繋がりができたら、中継役として、私の役目はさらに重要なものとなっていくに違いない。
「このまま、ただのお目付け役で終わりたくはないわ」
毒の属性なんてものがあったおかげで、あの田舎の孤児院から伯爵に見出だされた。
要領がよく、何をするにも飲み込みが早かった。
十年ほど経過した、ある日。
伯爵直々に呼び出されると、かの汚水王子の世話係をやれと命じられ、連絡用の魔石を渡された。
がっかりした。
出世の見込みはないのだと悟った。
このまま、嫌われ者の王族のために働いて一生を終えるのかと、失望の日々が続くばかり。
そんな矢先──今回の事態となった。
「ラハブ王子の手綱……絶対に、この私が必ず引いてみせる」
欲にまみれた決意を誓い。
ボニーは、水で濡れている床を気にせず歩き、上り階段へと向かうと、ひんやりとしている地下室を後にした。
そして、地下室には、誰もいなくなった。
「──引けるものなら、引いてみるんだね、ボニー」
自分の部屋で、地下室の水音に聞き耳を立てていたラハブ王子が、そうつぶやいた。




