10・鏡の中の聖女
ササッと身だしなみの手直しをするための鏡。
その鏡に、見知らぬ女の子が映っている。
鏡の中にだけ、神官のような装いをした美少女がいる。
鼻とか口とか顎とか頬とかベールで隠されてて見えないんだけど、こう、僕の中の(頼りになるのかどうか怪しい)直感が美少女だと告げている。
どこの誰なのか知らないけど、どうせなら可愛い子のほうがいいよねという思いが直感を鈍らせてる気もするが。
「あなたが、第六王子なのでしょう?」
抑揚のない声色で。
淡々と語る、神官少女。
表情は当然わからない。
ずっとベールが邪魔してるから。
けれど、ほんの愛想笑いひとつ浮かべず、問いかけてきてるのだろうとわかる、そんな口調だ。
さて。
どう答えようかな。
はぐらかすか、素直に認めるか。
「そうだよ。僕がこの国の第六王子ラハブさ。汚水王子とも呼ばれている。知らないはずはないよね?」
認めることにした。
隠す意味がないからだ。
だいたい、聞くまでもなく、僕がそうだとわかっているはずなんだよ。だからこそ、こうやって鏡の中からご挨拶してきたんだろうから。
まさか、それっぽい人物を手当たり次第に選んで声かけしてるなんてことは……それは流石にないよね。
「知っています。こうしてお目にかかるのは初めてですが」
「そうだろうね。僕も、キミみたいな子には一度も会ったことがないな。もし会っていたとしたら、忘れるはずがない」
「お世辞ですか?」
「本心だよ」
キミみたいな魅力的な子に会ってたら忘れるはずがない──なんて意味で僕が言ったのだと、神官少女はそう捉えたらしい。
なわけない。
この不可思議な状況でとっさに口説けるほど、僕は節操の無い女好きじゃないもの。
「鏡の中にしかいない女の子なんて、忘れたくても忘れられないからね」
「そういうことですか。ああ、言われてみればそれもそうですね。私としたことが」
と言うと、
鏡の中だけで僕の背後に立っている少女が、すっと前へ出てきた。
そのまま鏡へ接近していく。
鏡には、もはや神官少女しか映っていない。
でも、鏡の前にいるのは僕だけ。
奇っ怪だ。
自分の本当の姿がこれなのかと、つい勘違いしてしまいそうになる不思議な光景だ。
でも現実だ。
幻にしては、存在感がありすぎる。
「お邪魔します」
神官少女が、あちら側から、こちら側へと右手を伸ばす。
細く白い指先が、鏡に触れる。
…………まさか。
ちゃぷんっ
実際にそんな音はしなかったが、そういう音が聞こえてきそうな具合に、
少女の手が、こちら側に来た。
波ひとつない水面からゆるりと出てきたかのように、何の抵抗もなく。
きれいに磨かれた鏡をすり抜けて。
僕の「いくら何でもまさかそれはないだろう」という予想の、その通りに。
手だけに留まらず、少女はさらにこちらに来る。
手首、肘、二の腕、肩、さらには上半身──そして、全身まるごと出てきた。
信じられないことだった。
どう見ても、その鏡の大きさでは、子供の体型であっても出入りなんかできるはずがない。無理だ。それは詳しく測ったりしなくたって目測でわかる。
でも、少女は姿を現して、目の前にいる。
ならどうやって出てきたのか。
なんと、鏡をすり抜けるときだけ少女のサイズが縮まり、できるはずのない通過を可能にしていたのだ。
そうして。
鏡の中にいた謎の少女は、勉強部屋の床に降り立った。
「……これじゃ、戸締まりの意味もないね。泥棒し放題だ」
「そのようなことは決して行いません。罪無き方々の家に忍び込み、金品を盗むなど……」
「罪無き」って前置きにちょっと不穏なものを感じたけど、そこは流しておこう。
他に聞きたいことがあるから。
「あの、無理にとは言わないけどさ」
「何でしょう」
「どうしてここに来たのかは置いといて、まず、自己紹介とかしてもらえる? どうしても素性を教えたくないなら、まあ、それでもいいけど……」
「自己紹介? 素性?」
この問いかけ、神官少女には思いがけないことだったらしい。
目をパチパチと数回瞬かせた。
「私のことを、知らないのですか?」
「うん」
ぜんぜん知らない。
でも、この反応。
自分を知らないとか信じられないという、反応。演技には見えない。
もしかしてこの子、世間で有名だったりするのかな。
知る人ぞ知る……とかじゃないよね?
「そうですか。この状況と、私の通り名で、薄々勘づいているものとばかり」
「ごめんね世間知らずで」
引きこもり生活を二年もやってるから、流行とか有名人とか、とんとわからないんだよね。
あの帝国のお姫さまのことも、蒼炎皇女なんて呼ばれ方されてるなんて知らなかったし。
「でしたら、ここは自己紹介から始めましょう」
神官少女は、帽子に片手をそえると、ベールの留め具らしきものを外した。
素顔が明らかになる。
やっぱり美少女だった。
それも飛びきりの。
「私の名は、エルスティル。人は私のことを『鏡の聖女』エルスティルと呼びます」
まっすぐな視線。
僕を正面から見据える『鏡の聖女』と名乗った少女は、美しいが感情の希薄そうな、微笑すらない仮面じみた顔をしていた。




