1-3 学校の花子さん
23時13分ーー俺たちは予定通り村瀬さんが通う青蘭中学校に来ていた。
まだ校舎どころか学校の敷地を跨ぐ前なのに、すでに異様な雰囲気に飲まれそうになっている。
夜の校舎はどうしてこうも不気味なのだろうか。
窓ガラスに月の光が反射して、誰かがたっているように錯覚させる。
ちらりと隣に立つ村瀬さんを見ると、彼女は学校を見ようとせずに視線を下に向けていた。
「二人ともなに突っ立ってんの? 行くよ」
神代さんだけが、普段と変わらずに堂々としていた。いつものジャージ姿ではなく、羽織と袴を着ているからかカッコいいと思ってしまった。
「行こうか」
俺の言葉に村瀬さんはこくりと頷き、俺が背負っている巨大なリュックの一部を掴んだ。一人で歩くのが不安なんだろう。
神代さんが俺に持たせた巨大リュックがこんなことで役に立つとは。でも絶対こんな大きいリュックじゃなくていいと思うけど。
村瀬さんの歩幅に合わせてゆっくり歩く。そんな俺たちに構わず、神代さんはどんどん前に進んでいく。あの人には恐怖という感情はないのだろうか。
校庭を通り抜け、ようやく玄関に辿り着いた。大勢の生徒が出入りするため、両開きの扉がいくつも横に並んでいる。そのどれもがガラスでできているため、校舎の中が見えた。
「そういえば鍵かかってるのにどうやって入ります?」
「そりゃあ鍵開けて入るに決まってるでしょ」
神代さんはそういって腰に下げている布袋の中を探り、鍵を一本取り出した。
「じゃーん。この学校のマスターキーでーす」
「なんで持ってるんですか」
「必要だから用意した」
その鍵が本物であることはすぐに証明された。
神代さんが開けた扉から校舎の中に入ると、より一層不気味な雰囲気が増した。実際はそんなことないのだろうが、体が少し重くなったような感覚に陥る。
まだ外の灯りで目が見えるうちに、俺はカバンの中から懐中電灯と上履き取り出した。
「神代さん、どうぞ」
「さんきゅ」
「村瀬さんも懐中電灯どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
懐中電灯を三本つけると真っ暗な校舎の中がそれなりに明るくなった。
「村瀬さんの上履きは用意してないから、下駄箱まで取りに行きましょう」
「なら二人で行ってきてくれ」
「わかりました。村瀬さん、一緒に上履きを取りに行こう」
「......はい。えっと、あっちです」
彼女が指差した方向へ一緒に向かう。さっきまでいた場所から右へ四列移動した場所に村瀬さんの下駄箱があった。
村瀬さんが靴を履き替える。
何気なく辺りを見渡していた時だった。
玄関の前に広がっている通路。その窓際に人の影が見えた。月明かりに照らされて肩までかかった真っ黒な髪の毛は見えたが、顔は闇に隠れて全く見えない。村瀬さんが昼間に来ていたのと同じ制服を着ている。
『花子さん』
村瀬さんが言っていた話を思い出し、背筋が凍りつき、鼓動が速くなる。だが、瞬きした直後にその姿は消えていた。
「ーーさん、お兄さん」
村瀬さんの声で我に帰る。
きっと見間違いだ。学校の雰囲気に飲まれてちょっとしたことに機敏になってしまっているのだ。
さっきのだって、たまたま月明かりでできた影が人に見えただけだ。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてた。寝不足のせいかな」
村瀬さんの方が俺よりもずっと不安なんだ。俺がビビってどうする。
俺も上履きに履き替え、廊下へと足を踏み入れる。さっき幻を見た場所をもう一度見たが、やっぱり誰もいない。その事実にホッとする。
間も無くして神代さんも最初にいた場所から靴を履き替えて廊下にやってきた。
玄関で何をしてたんだ? 鍵を閉めていたにしては遅い気がするが、気にするだけ無駄か。
「里奈、花子さんに襲われたトイレはどこだ」
「一階の、一年生の教室があるところのトイレです」
「そうか。案内してくれ」
「はい。あのお姉さん......手を繋いでもいいですか?」
「いいとも。青年、錫杖を持ってくれ」
「はい」
そう言われて錫杖を受け取ると、見た目は細身なのにかなりの重さがあった。とてもじゃないが片手で持っていられない。よくこれを軽々と持ち歩いていたものだ。
神代さんは自分から村瀬さんの右手を握りしめた。この人が男だったら絶対にモテる。
村瀬さんの表情に少し明るさが戻った気がした。
「あっちです。一年生の教室が全部で5つあって、トイレはその奥にあります」
「まずはそこに行くか」
村瀬さんが指を刺した先は真っ暗な闇が広がっていて、まるでどこまでも続いているかのように見えた。
誰もいない廊下に、俺たち三人の足音が響き、反響する。後ろからもう一人ついてきてるんじゃないかと錯覚してしまいそうになり、時々後ろを振り向くけれども当然誰もいない。
「学校の中は霊の探知がし辛い。そこら中に霊気があってどれが花子さんのものなのかわからない」
「それってつまり、花子さん以外にも霊がいるってことですか?」
「そうだ。青年は何も感じないか?」
「俺は、別に何も」
「現世に干渉できる霊は限られている。そこらにいる霊は何もできやしない」
「そうですか。なら安心ですね」
ここにきて初めて神主らしい言葉を聞いた気がする。本当かどうかは知らないが、今の神代さんがいうと妙な説得力がある。やはり見た目は大事ということか。
教室を一つ通り過ぎるたびに一歩ずつトイレへと近づいていることを実感する。こんな状況ではあるが、教室の中を見ていると自分が学生だった頃の記憶が蘇ってくる。
あの頃は借金なんてなくて、もちろんギャンブルなんて知らない普通の人間だったんだけどな。なんでこうなっちまったのやら。
「里奈、一応確認するが女子トイレでいいのか?」
「そうです」
「扉に何か貼ってあるな」
俺の位置からはまだ何も見えないが、千早さんの角度からはすでにトイレの扉が見えているらしい。
最後の教室の前を通り過ぎ、いよいよ目的のトイレへ到着した。
扉には確かに張り紙があって、それを見た瞬間に村瀬さんが肩を震わせ、神代さんの背に隠れるように後ろへ下がった。
「こ、これ......。前......私の机に入ってた手紙と、同じ字です」
村瀬さんはこれ以上直視できないと言わんばかりに、神代さんの体に顔を埋めた。
『お前を許さない』
張り紙にはそう書かれていた。マジックペンで、書き殴るような乱暴な文字。
俺たちーーいや、村瀬さんに向けられたメッセージ。
「里奈、そのままでいいから私から離れるな」
村瀬さんが小さく頷くと、神代さんは張り紙を気にも止めずにトイレの中に入った。
リュックを一度廊下に下ろし、俺も続けて中に入る。
直後、俺の全身に鳥肌が走った。ここにいてはいけないと、俺の中の本能が警鐘を鳴らしている。
何もない、何もないはずなんだ。俺が変に意識しているだけだ。
自分にそう言い聞かせ、神代さんの背を追う。
トイレの中は至ってシンプルな作りだった。入ってすぐ左手側に洗面器が三つ並んでおり、そのすぐ上の壁面に大きな鏡が一枚掛けられている。
そこを通り過ぎると個室トイレが計四つ並んでいて、男子トイレと違って小便器がない分通路が広い。
二人はどんどん奥に進んで行く。俺は鏡の前で立ち止まり、その様子を見ていた。
その時、視界の端で何かが動いた。
反射的にその方向へ体を向ける。だが、懐中電灯が照らしたのは鏡に映る自分だけ。
気のせい......なのか。
直後、すぐ近くで軋むような音が聞こえた。すぐにそちらへ向かうと、先ほどまでは空いていたはずの一番手前の個室の扉が閉まっていた。
神代さんも村瀬さんも今は一番奥の個室の前にいる。二人が入ったわけじゃない。
二人も俺と同じくドアの音を聞き、こちらへライトを向けて様子を伺っている。
俺はゆっくりとドアの前に近づいた。
「開けます」
ドアに手を当てて、ゆっくりと押す。
中には、誰もいなかった。
ほっとしたのと同時に、なぜ通常なら開いているはずのドアが直前まで閉じられていたのかという疑問が浮かび上がる。なぜだ?
その答えは、すぐに判明することになった。
「里奈! しゃがめ!」
神代さんの大きな声が聞こえ、急いで個室から出る。
すぐに左に顔を向けると、そこにはさっきまではいなかった少女の姿があった。少女は俺に背を向けるようにして神代さんと対峙しており、伸ばした片手を神代さんが掴んでいる。その間に挟まれるようにして村瀬さんがしゃがみ込んでいた。
俺はすぐに少女が玄関で見た子だと直感した。
「邪魔、するな!」
神代さんの手を振り払った少女は、その場から姿を消した。そう、文字通り一瞬にして消えてしまったのだ。
「なんだよ今の」
俺はこの目で消える少女を目撃した。
まさか、今のが花子さんなのか? 幽霊は本当に存在したってことなのかよ。
「上か!」
神代さんの声に反応して俺も咄嗟に上を見る。
そこには天井から上半身だけをだし、逆さまになっている少女がいた。ずっと見えなかった彼女の顔を見た瞬間に、俺の背筋が凍った。
青白く、生きている人間とは思えない肌色。そして、何よりも俺が恐怖したのは彼女の目だった。
憎しみと殺意が込められた血走るような彼女の目。その目線の先にいたのはーー村瀬さんだった。
直後、少女の髪の毛が勢いよく伸び、神代さんの体に巻き付いた。
「里奈、青年の方の走れ!」
神代さんに言われて立ちあがろうとする村瀬さんだったが、腰が抜けてしまって立ち上がれない。
俺も恐怖のせいか体が動かなかった。
二人を助けないとーーその気持ちはあるのに体はいうことを聞かない。
絶体絶命。そう思ったのも束の間、神代さんはその場で跳躍し、バク転の軌道で天井の霊に蹴りを入れた。
だが、神代さんの攻撃よりも先にまたもや霊が姿を消す。同時に、神代さんを拘束していた髪の毛も無くなっていた。
「大丈夫ですか!」
ようやく体が動くようになり、俺は二人の元へ近寄った。
「間違いないな。今のが花子さんだ」
「本当にいるなんて」
一連の出来事が全て夢だったんじゃないかと思えるくらい非現実的だ。でもこれは紛れもない現実だ。
「里奈、怪我はないか?」
村瀬さんはガクガクと震えてしまっている。
「動けそうにないな。青年、すまないがあとは任せた。私は花子さんを追う」
「え、ちょ、こんなとこに置いてく気ですか!?」
「これをやる。私の霊力がこもったお守りだ。持ってるだけで雑魚霊は近づくことすらできない」
「だとしても、また花子さんが襲ってきたらどうするんですか。多分あいつの狙いは......」
その先は村瀬さんを余計怖がらせてしまうと思い、口を閉じた。
「花子さんの霊気は完全に把握した。その時は私もすぐに駆けつける。これで安心だ」
「安心って、神代さんが間に合わないかもしれないじゃないですか」
「それはない。絶対」
神代さんは今ので説明を終えたと言わんばかりに、俺が持っていた錫杖に手を伸ばした。
「頼んだぞ」
本当に出ていってしまった。まじかよ。あの人、正気か?
「村瀬さん、とにかくここを出よう」
「わかり、ました」
「立てる?」
「力が......足に、入らなくて」
「手を貸すよ。俺の腕に捕まりながらでいいからゆっくり移動しよう」
「ありがとう、ございます」
村瀬さんが俺の腕に捕まると、その震えが俺にも伝わってきた。彼女は震えながらもなんとか立ち上がった。
神代さんがいない今、俺がしっかりしないと。
村瀬さんの歩みに合わせてゆっくりとトイレから出た。
不思議なことに、トイレから出たというだけで妙な解放感があった。さっきまで重かった体が軽くなり、頭も冴えてくる。
あの空間自体が何かおかしかったのかもしれない。
「学校から出よう。きっとその方が安全だと思う」
「はい」
俺たちは玄関に向かって歩き出した。ここにくるまでと違って、その道のりがとても長く感じる。
こうしている間にも、神代さんは花子さんと闘っているのだろうか。
そもそも、花子さんはなぜ俺たちをーーいや、村瀬さんを狙っているんだ?
トイレの前にあったメッセージ、そして邪魔をするなという言葉。村瀬さんに向けられた憎しみの目。
村瀬さんが狙われているのには、何か理由があるんじゃないのか? 例えば、花子さんを怒らせるような何かをしてしまった、とか。
「村瀬さん、花子さんが君を狙っていることに何か心当たりってないかな」
「......わかりません。なんで私がこんな目に遭わなくちゃいけないのか、全然わかりません」
「そっか。君の友達も花子さんの被害に遭ってるって言ってたよね。その友達が原因ってことはないかな。君の友達が花子さんを怒らせたせいでとばっちりをくらってるとか」
「私は......私たちは何もしてない! 悪いのは全部、花子さんよ!」
村瀬さんが初めて感情を剥き出しにして声を荒げた。正常じゃない彼女に対して質問攻めはまずかったか。
「ごめん。村瀬さんが悪いだなんて思ってないよ。俺はただ、理由がわかれば事件解決の糸口になるんじゃないかって思ったんだ」
「......いえ。ごめんなさい」
そこからは会話一つなく玄関まで歩いた。
「靴履き替えて出ようか」
下駄箱の前でようやく俺が言葉を出す。村瀬さんは頷き、自分の下駄箱まで歩いて行った。
俺の靴はどこだったかなと記憶を頼りに探しだす。俺の靴と神代さんの草履が並んでいた。
外靴に履き替え、玄関の扉へ向かう。
鍵は内側から開けれる仕様になっているため、出る時は神代さんが持つマスターキーは必要ない。
あとから神代さんに施錠して貰えばいいだけなので、遠慮なく鍵を開ける。
扉の持ち手に手をかけ、軽く前に押す。
「え?」
思わず声が出る。
動かないのだ。力一杯押しても、逆に引いてみてもびくともしない。
試しに他の扉でも同じことをしてみたけど、動かない。
花子さんの力がここまで働いているのか? そうとしか考えられない。
どうしたらいい? 村瀬さんを安全に逃すためには、扉を壊してでも外に出るべきか?
バタン!
突如、何かが床に落ちたような音が聞こえた。
「村瀬さん!」
音が聞こえたのは村瀬さんの下駄箱がある方向だ。
花子さんが来たのか? それとも他の幽霊か?
急いで駆けつけると、村瀬さんが下駄箱の前で倒れていた。
全身から血の気が引いていく。
すぐに彼女を抱き起こす。呼吸はしている。外傷も見られない。
「村瀬さん、大丈夫?」
ただ、気を失っているのか俺の呼びかけに反応はない。
一体何が起きた? もう何が何だかわからない。
でも無事でよかった。
「壊すしかないか」
俺の中の迷いが消えた。どんな手を使ってでも外に出る。それがベストだと判断した。
自分の上着を畳んで床に置き、それを枕代わりに村瀬さんを寝かせる。
直後、村瀬さんが目を見開いた。
「助けなきゃ」
村瀬さんはそう呟き、ゆっくりと立ち上がった。
「立って大丈夫? すぐにここから出れるから無理せず安静にしてていいんだよ」
村瀬さんは俺の方をチラリと見た。その顔には、学校に入ってからずっと消えなかった不安がなくなっていた。
「行かなきゃ。花子さんが消えちゃう」
「花子さんが消えるって、それは君にとってはいいことなんじゃないのか?」
俺の問いかけに返事をせず、村瀬さんは走り出した。懐中電灯も持たず、暗い校舎の中へ消えていく。
頭が真っ白になる。次々と起きる出来事に俺の理解が追いつかない。
「あーもうわけわかんねえ。どうなってんだよ!」
もうどうにでもなれという気分だった。村瀬さんを追いかけ、俺も走り出した。
姿は見えないけど静かな校舎の中に響く足音が彼女の行き先を教えてくれる。
村瀬さんは階段を登っているようだった。ずっとずっと上まで。
俺が辿り着いたのは、階段の一番上の場所。屋上へ続く扉だった。