第6話 頑張りますよ!女神様!
「スゴミ、別れるわよ」
――氷の刃のような言葉だった。
足が動かない。声も出ない。
アルハはそのまま歩き出す。思わず呼び止めた。
「どこ行くんすか!!」
「帰る。あんたは喧しい奴らと、バカ騒ぎでもしてなさい」
……足取りは静かだった。
でも、揺れる背中が一瞬だけ――震えて見えた。
胸の奥に、何かが引っかかっていた。
これで……よかったんだろ?
アルハは危険だ。狂ってる。命を狙われた。
逃げても当然だし、自分は命ごいしてただけ。
約束なんて、自衛の手段でしかなかった。
正直、この場で殺されるとまで思った。でも、彼女は去った。
それに、安堵すら感じている。
だから、これでいい。
――じゃあ、なんで……
この喪失感は、どこから……?
首筋のキズ。ナイフを刺された傷がジンと疼く。
無理やりだったけど、殺されかけたけど。
確かに――僕は今、学校にいる。
そこへ、祢音さんの追い打ちが飛んでくる。
「やっちまったな、ヒサヅカ。お前が悪いぞ」
「……はい」
言われるまでもない。
女子たちがひそひそと声を交わす。
「なんかすごいの見ちゃったねー」
「修羅場よ! 修羅場!!」
その中に、僕はただ立ち尽くしていた。
そのとき、姫神さんが近づいてきた。
「ねぇ! スゴム君! 名前で呼んでいいでしょ?」
ぐっと距離が近づく。
あの甘い香りが鼻をくすぐった。
「あ、はい。でも、スゴムじゃなくてスゴミっす。久塚 凄巳」
「あれー、そうだっけ? ごめんね! 私、物覚え悪くて……!」
「いや、読みにくい名前ですみません…」
昨日も「クヅカ」って間違われた。姫神さんの中では「クヅカ スゴム」だったらしい。
でも、名前を間違えたことなんて一瞬で忘れたかのように、さらに詰め寄ってくる。
「シロハネさんって、暗くて、クラスでも浮いてたし、スゴミ君の彼女だったなんて、びっくりしちゃった!」
「まあ、自分もビックリしてたんで……」
シロハネ。ああ、アルハの苗字だ。
シロハネ アルハ。――やたら綺麗な名前。
けど、今はもう関係ない。
「スゴミ君、面白いよね。ますます興味出ちゃった!
私、姫神 真理愛でね、みんなにマリアンって呼ばれてるの!」
「マリアン……」
「そ! 私もスゴミ君のこと“スゴミ君”って呼ぶから、スゴミ君も“マリアン”って呼んでね!」
「はあ、善処します……」
「全勝だね!!」
笑顔でドヤるピース。
この人は、ノリだけですべてを吹き飛ばす。
この人が味方、それだけがありがたかった。
絶句した顔を覗き込むように姫神さんが迫る。
「落ち込んでる?」
「……そりゃあ、たった今、フラれましたので」
「あの子は暗いし怖いし、もう関わらない方がいいと思う。
スゴミ君はもっと楽しくしてた方がいいよ!」
「そうっすかねぇ……」
「絶対だよ!」
軽い。その軽さが、心地いい。
あいつみたいに、言葉に刃を仕込んでこない。
殺される気配もない。
笑ってくれるし、構ってくれる。
これが……「普通」ってやつだろ?
それなら、もう――
祢音さんが、姫神さんに便乗する。
「まあ、シロハネと付き合ってるってのは私も驚いたわ。
……あれはちょっと手に負えるタイプじゃねぇよ。ま、気落とすなって」
「ありがとうございます」
あんな公開処刑のあとだというのに、
この二人が味方でいてくれる――
それだけで、ここでの“居場所”を保証されている気がした。
始業のチャイムが鳴る。
朝礼、授業、休み時間。
どれもこれも、9年ぶりのことだった。
教室のアイドルが、休み時間のたびに僕の席まで来てくれる。
話題は昨日の夕飯、テレビ、授業、クラスメイトのこと。
僕が興味なさそうな顔をすれば、すぐに切り替えて、今度は僕に問いかけてくる。
最初は戸惑いしかなかった。
何をどう返せばいいかも分からず、どこか芝居じみた相槌しか出てこなかった。
――でも、だんだんと、変わっていった。
気づけば、彼女の声が待ち遠しくなっていた。
話を振られるたび、少しずつ心がほどけていくのが分かった。
これはきっと、“関わっていく”ってことなんだろう。
長いあいだ避けてきた、もう一つの選択肢。
……悪くない。
放課後、教室の窓から日差しが差し込む。
あの眩しい空気の中、姫神さんはいつも通り、笑顔で来てくれた。
「じゃあね、スゴミ君! 私、部活あるから……また明日ね!」
「ありがとうございます、姫神さん」
自然に言えた。もう、つっかかる感じはどこにもない。
だけど姫神さんは、ちょっと不満そうに頬をふくらませた。
「……マリアンでしょ?」
「……ありがとう、マリアン」
ぱあっと笑う彼女。
その問答は、距離がちゃんと近づいた――その確認の儀式のようだった。
その光に照らされたみたいに、心の中の影が薄れていく。
立ち去る彼女の背中に、僕はニヤけながら手を振り続けていた。
彼女が教室を出て、扉をくぐったところでふと振り返る。
姫神さんは勢いよく手を振り返して、笑顔を残して去っていった。
姫神さんが見えなくなると、すぐに司馬祢音さんがやってきた。
無遠慮に、自分の机に片足を乗せる。
自然と、のしかかる太ももに目がいってしまった。
司馬 祢音――
マリアンが教えてくれた、祢音さんのフルネーム。
とはいえ、さすがに気軽に「祢音」と呼ぶ勇気はなかった。
「司馬さん、お疲れ様っす。何か……?」
「ヒサヅカ、お前さ――マリアンのこと、好きだろ」
ぐいっと顔を寄せて、にやっと笑う。
近い。無駄に近い。
「えっ!? いや、別にその……!」
慌てて両手を揃え、意味のない空中バリアを作る。
「わっかりやす。顔に出まくってんじゃん」
「か、可愛いなって……思いますけど……」
言い逃れしようとすればするほど、逃げ道を塞ぐように祢音さんが迫ってくる。
「マリアンな、ああ見えて彼氏いねぇんだよ」
「……っ!」
その一言に、どうしても反応してしまう。
関係ないフリしてるくせに、期待だけはしっかり高まっている。
「まあ、人のこと言えないけど。私もいないしな。
でもお前、あの不愛想なアルハを落としたんだろ!」
「アルハさんは、落としたというか、落とされかけたというか……」
「なんだそりゃ」
殺されかけました!なんて、今言っても仕方ない。
「彼氏いないなんて……司馬さんも、その……
セクシーで可愛いと思いますよ」
その言葉に、祢音さんの目が一瞬丸くなる。
口角が引きつつ、すぐに体を引いた。机から降りて、前の席の椅子をまたぐようにして座り直す。
距離は取ったけど、さっきより太ももが露出していて、逆に困る。
「あんまそういう目で見んな。……慣れてねーんだよ」
「はは、もしかして司馬さんも可愛い系っすか」
今日初めての勝利だった。
祢音さんはちょっと赤くなってた。
きつい目の奥で、キョドる感じがやけに可愛く見える。
「……私の話はどうでもいいんだよ」
「はあ……」
「マリアンの話をしに来た。お前、マリアン狙うなら今しかねぇぞ」
その言い方はもう、悪友の焚き付けそのものだった。
「いや、僕はそんなつもりじゃ……」
「私もマリアンとは長ぇけどな、あいつがあそこまで積極的なの、正直かなり珍しい。
……お前も男なら、腹くくれって」
また前かがみで顔が近い。迫ってくる。
僕は狭い椅子の中で、じわじわ後ろに逃げようとした。
「腹くくれって、何をですか……?」
「時期は七夕。織姫と彦星が会う日。
いいタイミングじゃん。なんかプレゼントでも持ってアタックしてみろよ」
えらく無茶なことを言い出す。
やっと人と普通に会話できるようになったばかりなんですけど。
「そんな、出会って一日ですよ……。勘違いだったら、地獄じゃないっすか」
「勘違いじゃねーって、私が保証する。絶対、脈あり」
「その自信、どっから……」
一言ごとに顔が近づいてくる祢音さん。
蛇に睨まれたカエル、とはよく言ったものだ。
心が警戒して、勝手に距離を取りたがる。
そのとき、祢音さんの表情がふっと落ち着き、腰が引けた。
「……中学ん時にさ。マリアンが、あんたと同じくらい頑張って話しかけてた男子がいた」
ぽつりと落ちる声。
「結局その子、卒業まで告白も何もせずに別の学校行ってな。
……マリアン、あのとき私に泣きついてきたんだよ。『頑張ったのに、ずっと無駄だった』ってさ」
沈んだ目だった。
「それは……」
「だからさ。マリアンに、また同じ思いさせるのだけは、やめてくれよ」
その言葉が、ずしりと響いた。
でも――都合が良すぎる話にも聞こえる。
押して、押して、急に引いて、情を動かす。
「でも、それって……もし勘違いだったら、僕が傷つくだけじゃないっすか」
「……女々しいんだか、ビビリなのか、ハッキリしろよ」
「危ないことに首突っ込まないって決めてるんです。僕」
思い出す、小学生の夏。
いじめられてた子を庇って、標的になった。
あのとき、はっきり“出る釘”になった。
それ以来、学んだ。
「……はあ」
祢音さんが目を閉じた。
それで終わると思った。
でも、すぐに彼女は目を見開いて、まっすぐにこう言った。
「よし、分かった。お前がフラれたら――私が彼女になってやる」
「……は!?」
「……あ、ダメか。調子乗ったわ」
なに言ってんのこの人!?
朝が初対面で、もうそんなこと言ってくる!?
現実味なさすぎて、頭が混乱する。
「いや、むしろありがとうございますって感じですけど……」
「余り物で悪かったな」
指で頬を掻きながら、目をそらす祢音さんが、妙にいじらしく見える。
「そんな、余り物だなんて。司馬さんは……カッコよさと可愛さ、両方あって魅力的だと思いますよ」
「やめろっつってんだろ! 恥ずいんだよ!」
顔を真っ赤にして、そっぽ向く。
責める側はあんなに強いのに、狙われる側になるとボロボロじゃないですか。
その反応にちょっと調子づいて、今度はこっちが攻めてみる。
「自分にそう言うのさせようとしてたじゃないっすか」
「……だから言ってんだろ、私じゃねぇって。
お前が落とすべきなのは――マリアン、だろ?」
「……そう言われると……ちょっと、意識しますけど」
「だろ? チャンスは今しかねぇ。
プレゼントは用意しろよ? そういうの、最低限だからな」
祢音さんは自信満々の笑みで、親指を立てていた。
【クエスト受注:女神のハートを手に入れろ!】
脳内でファンファーレが鳴る。
憧れのマリアンへのアタック。
……それから、もしダメだった時の、祢音さんという別ルート。
これは、アルハのときとは違う。
勝手に巻き込まれたんじゃない。
こっちは、自分で選べる“好意”だ。
スゴミの心は、わずかに浮き足立っていた。
教室を出る。
入口の短冊に、願い事が飾られていた。
『ジラ・トゥエルフの絶望の華が欲しいです! 姫神 真理愛』
『はやく、かえりたいです。 久塚 凄巳』
本当に、書くことが浮かばなかった。
「……“みんなと仲良くなれますように”とかにしときゃよかったかな」
しかし、攻略に必要な攻撃魔法は分かった。
このイベント、『絶望の華』を入手するところからだ。
校舎を出た先の――異常な日常が、記憶を刺激する。
午後3時、その青空に、くっきり浮かぶ黒い逆三角形。
悠然と佇むピラミッド。
日常とはかけ離れた、あきらかな超常現象が、心を現実に引き戻す。
アルハの言ってたドグマだの、運命だの、天使さんの話も――
今は置いておこう。
現実に生きるなら、現実に沿った楽しみを。
校庭で響く野球のバットの音と、生徒たちのかけ声を背にして
スゴミは部屋ではなく、駅前に向かって歩き出した。
時刻は16時・駅前のジュエリーショップ。
「一、十、百、千、万……35万……無理じゃん……」
――ブブッ!所持金が足りません。
喧しい音が脳内に響く。
スゴミは魂の抜けた顔をしていた。
短冊の願い事、姫神さんの欲しい物。
高級ブランド、ジラ・トゥエルフ 最新モデル「絶望の華」
鎖状の首飾りの先に、
アバラ骨を繋ぎ合わせたような恐ろしい触手が、バラのツボミの形で収まり、
燻ぶった銀の光沢と、赤と黒の墨入れ、所々に邪眼のように散りばめられたダイヤモンド。
確かに、恐怖と美を混在させたような圧倒的存在感のモデルだった……
とはいえ。
35万……スゴミの手持ちは4000円。
でも姫神さんが欲しがってたのはコレ……
眺めていると店員がやって来る。
「いらっしゃいませ、絶望の華ですか?」
「いや違います!!」
逃げるようにウィンドウを後にする。
そして考える。
まず、金は、無い。
姫神さんとは会って二日目、
いきなり35万のプレゼントは、そもそも重い。
姫神さんだって、こんなのプレゼントされてもきっと困る!!
スゴミの中で完璧な理論が構築された。
立ち止まっていると、ふと目に止まるネックレスがあった。
それはピンクゴールドのチェーンに、ウサギをかたどったような中央の飾り。
思い出してみれば、姫神さんのカバンにはウサギの人形のストラップがついていたし、
スマホカバーもうさぎっぽい耳つき。
「マリアンってうさぎ好きなんじゃ……」
うさぎネックレスが姫神さんの胸元で揺れる光景を妄想してみる……
「これ絶対かわいいじゃん!!」
攻略ルートは完成した。
とても自己都合の良い机上の理論。
ネックレスは3500円で、ギリギリ足りる。
購入して梱包してもらうと、スゴミは走った。
姫神さんはおそらく野球部マネージャー。野球部なら18時頃まではいるだろうという、
ほとんど願いに近い推理だった。
18時半。
夏の日は長い。空はダークブルーに明るかった。
学校内は正に迷宮。迷いながらも野球部の部室を見つけ出し、その前に滑り込んだ。
部室の前のベンチに、体操着を着た祢音とマリアン、他二名の女子が座って談笑していた。
「間に合った……!」
走り続けて息も絶え絶え。姫神さんがいつ帰るかは分からない。
ここは、エンカウント……!……戦闘開始!
続きの投稿をするかどうかの指標にしたい為、
遠慮なく☆付けや感想、ご指導など頂けると幸いです。