第5話 よろしくね!女神様!
てんしさん! てんしさん!
おはなしが、はじまるよ!
最初は、空から天使がふってきて、血が出てるんだよ!
お家には、使者がやってきて、刺されるんだよ!
でも、アトラスが守ってくれるから安心してね!
ちゅー!ってしてくれたら、もう彼女なんだって! 嬉しいね!
……
目が覚めた。
額に汗。
濡れたシャツが、皮膚にぴたりと張りついていた。
蛍光灯――UFOみたいなやつが、ぼんやりと光っている。
天井、壁、棚の美少女フィギュアたち。
見慣れたワンルーム……のはずだった。
でも、昨日と同じままの“異物”がそこかしこに残っていた。
割れた窓。床に散らばったガラス片。
血の染みたシーツ。
そして、首に貼られた絆創膏が、チクリと自己主張をする。
部屋の隅――
アトラスのフィギュアが、いつもの場所から、黙って天井を見上げていた。
「あああああ―――!!!」
突如噴き出す羞恥と混乱。
顔から火が出そうになる。
枕に顔を突っ伏して、バタバタと布団に潜り込む。
刺された。
殺されかけた。
その全部をぶっ飛ばして、
彼女だと宣言されて――
そして、キスされた。
その柔らかさと熱が、まだ唇の奥に残っている。
「……明日から学校に来なさい」
アルハの声が、脳の奥で響く。
シャンプーの香りが幻のように蘇る。
……ほんとに、夢じゃないのか?
「……起きたら全部夢でした! なんて、ね……。ないか……。」
スゴミはベッドの端に腰かけた。
窓の外に目を向けると――
空には、朝日を受けても黒く、重く、異質なまま。
あの逆三角のピラミッドが、今日も静かに浮いていた。
「……あんなもん、無視できるわけないだろ」
昨日ネットで調べた。
結局「9年前に現れて、誰も近づけなくて、でも害もない」それだけ。
みんな慣れちゃって、もう誰も気にしてないらしい。
「……僕が異常なのか、世界が異常なのか……」
ジジジ……ミ――ンミンミン。
セミの鳴き声が、エンジンをかけ始めた。
スゴミは制服に手を伸ばす。
9年間袖を通すことのなかった新品のシャツとズボン。
手触りがざらついている。
鏡に映る自分が、別人に見えた。
薄く、青ざめた顔。
どこか必死に「普通」を演じているようだった。
玄関を通りかかると、写真が目に入る。
見覚えのないツーショット。
学ラン姿の自分と、そっぽを向いてピースを作るアルハ。
……撮った記憶なんて、ない。
「どっかの世界線、混ざってないっすかね……」
外に出ると、夏の暑さが肌を包む。
濃密で、まとわりつくような空気。
スマホを取り出す。圏外。
電柱に貼られた選挙ポスターが目に入る。
『ピラミッドに調査を! 日本の安全を! まるやま けいと』
「ご町内の皆様~、お騒がせしております~」
選挙カーは今日もやかましく、町内を走っている。
「……昨日、やっぱ死んでたりして。これ、死後の世界とか……」
ふざけ半分で呟く。
「暑いし、痛いし……なんでそこだけリアルなんだよ……」
道すがら、トラックに轢かれたはずの場所を通る。
昨日、天使が蹴り飛ばし、音速で突っ込んできたトラック。
世界が真っ白に弾き飛んだ場所。
でも、そこには――何もなかった。
地面は平らで、傷一つない。
まるで、最初からそんな出来事はなかったかのように。
『現世の僕が、現世に転生したら、日常が始まった件』
みたいなやつ……?
苦笑してみせる。
「……地獄すぎる。剣も魔法もある世界でよろしくっすよ…
女神も、ステータスバーも出てこないし。」
学校が見えてきた。
フェンスの向こうに立つ校舎。
昨日までは、行くはずのなかった場所。
校門の向こうが、世界の裏側みたいに見えた。
その向こうに――アルハが、いる。
あの目で。あの声で。
―――「逃げるなら、明日また殺しに来るわ」
そのセリフを思い出すと、スゴミの背筋を冷たい汗が伝う。
校舎から、チャイムが鳴る。
高く、澄んだ音。
その音が、まるで教会の鐘のように重く響いた。
……この現実こそが、スゴミにとっての『異世界』
『ガッコウ』――それは、最終ダンジョンの入り口。
魔物の侵入を社会のバリアで跳ねのける、
そんな空間。
「……不登校妖怪、一名様、入りまーす……」
乾いた声とともに、一歩、踏み出した。
アスファルトの上、靴底が重く沈んだ。
そういや、自分のクラスとか、知らないんだけど。
ていうか、職員室ってどこ……?
校舎の前で棒立ちになる。
昨日まで異世界だった場所が、急に現実味を帯びてくる。
誰も僕など気にしてないはずなのに、
通り過ぎる生徒は、立ち止まる僕を
異質なものを見るように見てくる気がした。
胃がキュッと縮む。
行く先不明、地図なし、味方なし。
帰りたくなってきた――
そのとき、不意に明るい声が飛んできた。
「おはよー!」
「えっ」
顔を上げると、昨日フェンス越しにボールのやり取りをした女子
姫神さんがそこにいた。
ふわりと揺れるウェーブの髪。
クロワッサンを丁寧にほぐして巻いたみたいな艶とボリューム。
ぱっちりした目に、バシッとキマったまつ毛。
そして制服のシャツを押し上げる圧倒的な主張。
元気さと可愛さが両立してて、ただ眩しい。
「ヒサヅカ君、学校来たんだね!」
キラキラの笑顔で、迷子の子ども相手のように声をかけてくる。
――ああ。
異世界に『女神』出てこないと思ってたけど、いたじゃん。
「あ、はい! おはようございます……! 来ました!」
「誘ってみた甲斐、あったね!」
ホントはナイフで脅されて来ました。
なんて言えるはずもなく……
「はい! 声かけてくれて…ありがとうございます!」
これが宗教勧誘だったら、入信しちゃいますよ、僕は。
「あはは……緊張してる?」
にこにこと顔を覗き込んでくる。
近い。
昨日はあったフェンスが、今日はない。
心拍数が跳ね上がる。
「ま、まあ、それなりには……」
出てきたのは、精一杯の強がり。
ダサい。
でも、これが限界だった。
「そうだよね、会うのも久しぶりだもんねー!」
姫神さんは、一言一言が楽しそうだ。
……いや、昨日会ったよね?
とは思ったけど、
きっと陽キャの時間は、僕の三倍速で流れてるんだと思う。
昨日の僕も、正直言って三ヶ月分くらいの濃さだったけど。
それでも、姫神さんに引っかかる言葉は言いたくなかった。
「あ、はい……そうかも?」
「じゃあ、教室いこっか!」
「え、あ、どうも……」
……同じクラス? マジで?
知らなかった。
こんなことなら、もっと早く学校……
来ておけばよかったかも――
なんて、ほんの少しだけ思った。
近くにいるだけで、いい匂いがする。
姫神さんは、歩く空気清浄機か何かだろうか。
僕は斜め後ろをついて歩く。
横顔をチラチラと盗み見る。
艶やかに光を反射する髪。
その隙間から見え隠れするうなじ。
思わず意識が向いてしまう。
「おはよー!」 「おはよー!」
通りすがる生徒たちに、姫神さんは明るい挨拶を送る。
返す声はみんな笑顔混じりで、それが自然な流れのようだった。
光の道を歩いていくその姿は、
勇者の凱旋か、教祖と信者か。
いや、むしろ女神。
光り輝く女神に、祈りを捧げる町民の構図。
横の僕はさしづめ、女神の荷物をニヤニヤ顔で持ち運ぶゴブリン。
「誰?」「なにあれ?」
そんな心の声が聞こえるような、周囲の目つき。
好奇心とちょっとの敵意。
姫神様の後光ビームで焼却されてるかの如く体温が上がる。
やがて教室の前にたどり着く。
姫神さんがひとりの女子生徒に声をかけた。
「おはよう! 祢音ちゃん!」
「おはよー」
返事をしたのは、鋭い目つきの女子だった。
長めの髪を後ろでざっくりまとめ、前髪は上げて分けていた。
肩の力は抜けているのに、目だけやたら強い。
明らかに強者の気配。
装備無しでボス戦に来てしまった気分。
祢音さんと呼ばれていた。
彼女は僕に気づくなり、ストレートに言った。
「なにそいつ、誰?」
うわあ、キタよ……苦手なタイプだ。
心の中で素直にため息をつく。
姫神さんは笑顔のまま、すぐに答えた。
「ヒサヅカ君だよ。覚えてないの?」
「……ああ、空席くんね」
祢音さんは、親指で無言の裏ポーズを作る。
教室の一番後ろ
何の荷物もなく、誰にも触れられた様子のない机を指していた。
一瞬で察した。
不登校の存在と、空席を自然につなげて示したんだ。
その理解の早さが、逆に怖い。
「あの席そうだったんだ!
よかったね、ヒサヅカ君、教えてもらえて!」
女神様は異世界のガイド。
ココがこの世界での僕の居場所……
「はい、どもっす……」
形ばかりの返事しか出てこない。
僕の空席にも、ちゃんと履歴ってあったんだな。
祢音は睨む様な顔で覗き込んでくる。
「なんだ、緊張してんの?」
「えっ、まあ、はい」
心の中で全力反撃しつつ、顔はヘラヘラ防御。
祢音はニヤリと笑って、肩をすくめる。
「だったら、せっかく来たんだからさ、短冊書いてけよ」
「た、短冊……っすか?」
言われて目をやる。
教室の入口横には、竹飾りが吊るされていた。
季節は7月上旬、七夕。
そういや、そんなイベントあったな……。
姫神さんが両手を合わせて、逃げ場を塞ぐようににっこり笑った。
「いいね! 祢音ちゃんナイス!
ヒサヅカ君、せっかくだから書こうよ!」
「うっ……」
無邪気な誘い方が逆にキツい。
優しさという名の、圧倒的な強制力。
9年間引きこもった僕が、クラスの催しへの飛び入り参加。
聖歌隊の歌声に、銅鑼を鳴らして乱入するくらいの無謀。
「あの、自分はちょっと……」
「やろやろ! 私、ヒサヅカ君のこともっと知りたいし!」
ニコニコ笑顔で無垢な好奇心。
知られるのが嫌なんすよ……
なんて言えたら、どんなに楽だったか。
姫神さんは、もう短冊コーナーへ歩き出していた。
立ち止まる僕に祢音さんが追い打ちをかける。
「乗っといた方がいいぞ、こういうのはな」
…いや、言い出したのお前だろ!
心の中でツッコミを入れる。
しかし、黙って進むしかなかった。
せめてこのバトルの前に武器くらい……
できれば、陽キャ職、聖剣、チート能力のフル装備で挑ませてほしかった。
姫神がニッコリと振り返る。
「はい、ヒサヅカ君!」
差し出されたのは、女神様の推しの最強装備。
【剣・油性マジックを手に入れた。】
【盾・短冊を手に入れた。】
【 願いを一つ書かせてやろう 】
そんな天の声が聞こえた気がした。
書くだけかよ…やかましすぎる。
「ん~、なに書こっかな~♪」
右隣では姫神さんが楽しそうに、ペンをあごに当てている。
左側では祢音さんが、壁に背を預けて腕を組む。
僕の動きを観察していた。
HP1で「たたかう」しか選べない絶望的状況。
必死に願い事を考えていると、姫神さんの周りから
別の女子たちの会話が耳に飛び込んできた。
「ねえ、見た? ジラ・トゥエルフの新作!」
「クトゥルフモチーフのやつでしょ? やばいよね~」
「"絶望の華"でしょ! あれほんとエグ可愛い!」
楽しそうな、でもどこか見栄っ張りな女子トークの笑い声。
知らないブランド名、聞き慣れない単語が引っかかる。
すかさず話題に乗っかる姫神さん。
「あれ良いよね! 私も気になってるの!…そうだ!」
勢いよくペンを走らせた姫神さんの短冊には――
『ジラ・トゥエルフの絶望の華が欲しいです!
姫神 真理愛』
「できたー!」
今決めただろう願いを、迷いもなく書き込んでいた。
周りの女子の群れがわちゃわちゃ湧き出す。
「マリアン現金すぎでしょー!」
「私もそれ書こ~!」
「マジ?じゃあ私もー!」
その光景はまさに『魅了』
姫神さんが動くと、全員がそれに味方する。
それ……チート能力なんすよ……
ぽかんと口を開け、スゴミは短冊を持ったまま硬直していた。
気づけば、七夕飾りは『絶望の華』だらけで飾られていた。
そのとき──
「……バカみたい」
姫神さんの反対側、祢音さんのさらに向こうから、
ひどくテンションの低い声が飛んできた。
振り返ると、そこには
アルハが立っていた。
元から不愛想だけど、さらに酷く不機嫌そうな顔。
鋭く、スゴミを射抜くような視線で、遠慮なく言い放った。
「女子に囲まれてニヤニヤしちゃって、気持ち悪いわよ」
「アルハさん……」
反応して、つい声が出る。
それを祢音さんが聞き逃さなかった。
「知り合いか?」
「まあ……アルハさんに来いって言われて、学校来たんです」
「ふーん。親戚とか?」
祢音の普通のトーンの会話を切り裂くように、
アルハが冷淡に言った。
「彼女ですけど」
「ちょ、待っ……」
周りの女子たちが、ざわつき始めた。
廊下中の視線が集まる。
突如始まった公開羞恥。
そこはまさに、罪人の死を眺める娯楽―――コロッセオ。
「マジか……」
祢音さんが、引き気味に眉をひそめた。
あんなにボス感が満載だったのに。
思わず、止めようとする。
「ちょっとー!! やめてくださいっすよ!! こんなところで!」
アルハは顔を濁らせた。
「はあ?」
すかさず姫神さんが食いついてくる。
「ねぇねぇ! どうやって告白したの!?」
「いや、その、成り行きと言うか……」
話を誤魔化そうとしてると、アルハがさらに突っ込んだ。
「ふざけてんの? 成り行き? キスまでさせたくせに?」
騒めく民衆――
「ええ!?」「うそ!」
僕の声がさらに荒ぶる。
「今言う事じゃ無いですよね……!!」
姫神さんは目を輝かせている。
「どこまでいったの!? ねえねえ!」
勝手にヒートアップしていく廊下に、心臓が耐えられそうになかった。
「本当に、何も無いんですよ! 見た目通りでして……!」
「何も無いって、胸を破いて見せた時の話?
今、その感想言ってんの? 殺すわよ」
「ちょ!」
アルハの意図せぬカミングアウトが止まらない。
野次馬の湧き上がりも止まらない。
そんな中、祢音だけはスゴミを冷静に見ていた。
「お前……見た目によらず、やるな……」
「違いますって!! 本当にいい加減にしてくださいっすよ!!」
ダメだっ……帰りたい……
割と最初から帰りたかったけど……
本気で帰りたい……
「こいつがね! 勝手に僕の部屋に乗り込んで来たんすよ!
それで、ベッドで――」
「…その話、今するの!?」
アルハの大声でカットされる。
ここ一番の湧き上がり。
「えええ―――!!」
「ちょ! 最後まで言わせろ!!」
姫神さんが両手を口に当てて下がる。
「すごい……そんな、そこまで……」
「違うんですって!!
別に、こいつのことなんか、なんとも思ってなくて!!
勢いなんです!! 別に好きでも、何でもないんすよ!!!」
また、口が先走った。
必死の弁明に、辺りは騒然。
そして……
「……は?」
アルハの一言。
完全に静まり返る。
空間が凍った。
「ああ、そうなのね。
必死だったから、都合よく彼女って言っただけね、分かった」
その表情が、崩れた。
怒りでも、呆れでもない。
冷淡、無感情、無慈悲、そんな印象に支配されていたアルハ。
その目元が歪み、確かに涙が浮かんでいた。
「……え」
女子たちがヒソヒソと寄り集まっている。
アルハはゆっくりと背を向ける。
「言うとおりに学校出てきたから、もしやと思ったのに……」
声は低く、刺すように冷たかった。
「やっぱあんた、最低ね」
自分の失言を取り戻す言葉も、分からなかった。
「アルハさん……?」
「スゴミ、別れるわよ」
――ハッキリと告げられた。
氷の刃が、胸に突き刺さるようだった。