第2話 待っててね!天使さん!
「そうだね、帰りたいよね!
でも大丈夫だよ!天使さんがお手伝いするからね!」
天使さんは目を細めて、やわらかく微笑んだ。
「いや、一人で帰れますので……」
スゴミは引き気味に言ったが、天使さんは止まらなかった。
「天使さんはね!君の……’’玉’’を見てみたいな!」
「…………は?」
スゴミの顔が真っ赤になる。
「あ、あの! 聞きのがしました……なんて?」
天使さんは首をかしげながら、きょとんとした目でこちらを見つめてくる。
「ふふ、スゴミ君、かわいいね。
いきなりで聞き取れなかったんだね!
天使さんはね、君の玉を出して、見せて欲しいんだよ!」
「そ、それは……その……初対面ですし
まだ早いというか……!」
必死に言葉を探すが、頭は真っ白。
事を急いて出た言葉で、爆死モード突入。
天使さんは小首を傾けて、くすっと笑った。
「あれ?アルハちゃんに聞いてないのかな?
私は君に呼ばれたから、来たんだよ?」
……アルハ!? 誰、日本人? 企業?
「呼ばれるって……イメージ何とか的なアレっすか!?
確かにマジカルエンジェルは好きですけど! 呼んでないっす!」
再びにっこり笑いながら、口元に手を添える天使さん。
「そうだよ!イメージ!イマジンドグマだ!
あー、天使さん、早く見たいのになぁ!」
「そうだよ…って、いや!
マジで呼んでないですからね!?」
「うーん……、スゴミ君はなんか
……特別な、不思議な人だね!」
不思議なのはお前だろおおおお!!!
心の中で全力絶叫した。
「やっぱ人違いですよ、僕、帰りますので…」
必死に逃げ腰のスゴミに、天使さんの清純な瞳が迫る。
「間違えてないよ!天使さんはは、スゴミ君に会いに来たからね!」
「いやーほんとに、玉もアルハも
何のことだかサッパリで…」
「なんでだろうね、不思議だね!
そんな君に、天使さんはとっても興味深々だよ!
二人でゆっくり調べて見よっか!」
――手を、握られた。
白く細い指、美しく整った爪。
シルクのように滑らかで、ほんのり冷たい。
その感触が、指先からスゴミの体を這いのぼる。
「待ってくださいって! これドッキリとかっすか!?」
全力で後ずさり、カメラを探す。
ヤバい、これ後で怖いお兄さん出てくるやつ!!
だが天使さんは、まったく悪意のない笑顔で言った。
「ついてきて! いい所があるんだよ! ちょっと暗くて、特別な場所!」
ピンク色の妄想が脳内で暴発する。
いい所!? まさか……むふふな……!?
冷静に見ると、天使さんはめちゃくちゃ可愛い...
足が自然と、一歩、前に出る。
しかし――踏みとどまる。
違う、違うだろ!!!
「っていうか、そもそも、あなたどこから来たんすか!?
かなり突然、出てきましたよね……」
スゴミが問いかけると、天使さんはぱちくりとまばたきをして、顔を近づけてくる。
「どこって……」
そのとき、ふたりの頭上に影が落ちた。
「あそこだけど?」
彼女が指さす先。
スゴミは、ゆっくりと視線を上げた。
圧倒的な非現実的が目に飛び込んだ。
空に、黒いピラミッドが浮かんでいた。
巨大すぎる。雲を突き抜ける高さ。
視界に収まらない広さ。
表面には緑色の亀裂が走り、まるで心臓のように脈打っている。
宇宙人侵略映画のクライマックスさながらの、圧倒的な“異物”。
視界が揺れる。
現実感が、崩れていく。
ようやく、スゴミは理解した。
――なにかが、起きている。
もう、あの蒸し暑くて、だるくて
なにも起きなかった日常は――
完全に、終わった。
天を覆う黒い影の下で、天使さんがこちらを見つめていた。
空気はひんやりと冷たい。
けれど、彼女に握られた手のひらだけが、ほんのり温かかった。
――「ある日、空から可愛い天使が降ってきて、世界が滅べばいいのに。」
冗談半分、逃避半分。
でも本音だったのかもしれない。
この「地獄」から、ずっと逃げたかった。
何が起こるかは、わからない。
このまま、帰れなくなるかもしれない。
それでも――
逃げ出せる、未来があるなら…
スゴミの口元が、ふっとゆるんだ。
「あの……僕はどうなるんですか...」
言いかけたその瞬間――
「待ちなさい。」
冷たい声が、空気を切り裂いた。
スゴミが振り返ると――
黒髪ショートの少女が、無表情で立っていた。
黒のスカート、白シャツに赤いリボン。
見覚えのある制服。スゴミと同じ高校のもの。
その瞳は、氷のように冷たく、鋭かった。
「もうっ! 今度はなんですかーーー!!」
顔を引きつらせながら、スゴミは心の中で叫んだ。
スゴミが振り返り、黒髪の少女に目を奪われていると――
手の中の感触、天使さんの手が、ふっと消えた。
「あれ……?」
驚いて振り向けば、天使さんはすでに数歩後ろに下がっていた。
胸の前で腕を組み、にっこりと微笑んでいる。
「アルハちゃん、こんにちは! !」
まるで、人を待っていたかのような声だった。
スゴミは視線を天使と少女のあいだで往復させながら呟く。
「アルハ……この人がアルハ?
知り合い同士の人……?」
黒髪の少女は、あからさまに呆れた顔でスゴミを睨んだ。
「あんた、今、天使について行きそうだったわよね?
アホなの? さっさとこっちに来なさい」
あまりに直球な言葉に、スゴミの中で何かがぷつんと切れた。
「いや! なんなんすか!!
アホもなにも、僕…どっちも知らないんすけど!?
あなたがどこの誰なんすか!? 先に教えてくださいよ!!」
アルハと呼ばれた少女の解答は一言だった。
「アルハ」
「……はい。」
「わかった? 来なさい。」
「いや、名前だけじゃないっすか!!僕の何なのか聞いてるんすよ!?」
アルハは面倒くさそうに吐き捨てる。
「天使は敵。アルハは味方。分かったら来なさい。」
「初対面ですよ!敵も味方も無いでしょ!?」
そう思ったとき、天使さんがふっと目を細めて微笑んだ。
「スゴミ君。天使さんはね
もう少し、二人でゆっくりしたかったな~!
でも、アルハちゃん来てくれたから……やるね?」
「やるって……何を……」
その言葉が終わる前に――
天使さんの背後で、風が爆ぜた。
熱でも風でもない、“圧”のような空気。
世界が、何かを受け入れた音がした。
天使さんは襟元から、小さなメスを取り出す。
両手でそっとすくい上げるように掲げる。
その刃はふわりと宙に浮き、白銀の光を帯び始めた。
まるで、意志を持ったかのように。
そして――彼女は詠唱する。
紅に染みて堕ちたる羽よ、
砕けし夢に錆びたる盾よ。
今、重なりし愛の咎、
誓いの標となりたまえ――
その余韻を断ち切るように。
メスは天使さんの心臓に振り返った。
そして、一直線にその胸元へ――突き刺さった。
「ええーー!! 何やってんすかーー!!」
紅い飛沫が舞う。
だが血は地に落ちず、空中に浮かび、震え、螺旋を描く。
粒子が集まり、収束し、ひとつの光になる。
――剣。
透明な深紅の刃。
中心には銀色の筋が脈動し、その芯に十字の傷が刻まれていた。
それは明確な殺意の結晶。
天使さんは、それを軽やかに振るうと
ブォン、という空を裂く音と共に風が吹き抜けた。
「さあ、スゴミ君!天使さんとの聖戦の、始まりだよ!」
剣の軌道、空気が歪んでいる。
その軌道に触れるだけで、体に重篤な何が起きそうなほどの圧力。
スゴミは動けなかった。
なにが起きてるのか、分からないと言うより、理解を拒んでいた。
足がアスファルトに溶けて埋まったように動かない。
胃のあたりが沈む。血が引く。
喉が焼け、頭が冷える。
この異常すべてを、ひとことで表すなら――
『ヤバい』
それしかなかった。
「なにやってんのスゴミ! 早く下がりなさい!!」
アルハの声が鋭く響いた。
しかしそれすら、遠くで誰かが叫んでいるようにしか聞こえない。
天使さんは、穏やかな笑みを浮かべていた。
まるで聖母のように。
その手には、血の剣。
両腕を開き、柔らかく尋ねる。
「準備はいい?」
「……良くないです」
スゴミの目はうつろだった。
「スゴミ君…」
彼女は一歩、また一歩と近づいてくる。
ゆっくり、けれど確かに。
「私は、君のすべてを受け止めてあげるよ」
もう、なにを言ってるのか分からなかった。
現実と妄想の境界が、剥がれ落ちていく。
天使さんは慈愛に満ちた笑顔のまま、剣を構えた。
「だからね――」
剣先がスゴミを捉える。
「君の信念で――貫いて」
スゴミが彼女を見つめ返す。
その瞳の中で、天使だけが眩しく輝いていた。
「なにを…………!?」
理解の器が崩れる。
世界が形を失っていく。
――そして。
天使さんは、地を蹴った。
風のように、光のように、疾く。
スゴミに向かって、一直線の赤い閃光が走った。
アルハが素早く迫る。
「ボサっとしてるな!!」
鋭い声とともに、スゴミは背中を引っ張られ、地面に投げ飛ばされた。
アルハの手には、どこからか彫刻ナイフを取り出し
天使さんの迫る剣先に合わせ、刃を構える。
火花が、爆ぜるように散る。
衝突の衝撃を受け流すことには成功した。
だが、ただの突きの威力が高すぎた。
突き出した剣、一帯のアスファルトがめくれている。
衝撃は受け流した。
しかし、アルハの制服が裂け
皮膚が割れ、血が噴き出す。
「くっ……!」
スゴミは地に尻をつきながら、情けなく叫んだ。
「もうやだ!!なんで戦いになるんすか!?
知り合い同士なら、二人でやっててくださいっすよー!!」
「何言ってるの! だって…
あなたが天使を殺すのよ…!
そうしなくちゃいけない!!」
「殺す!?無理っすよ!なに!?
僕に殺人をしろって事っすか!?」
天使さんは時間を与えてくれない。
無邪気に笑いながら、じわじわと歩を進めてくる。
「頑張って!スゴミ君!天使さんはね…
スゴミ君だけの味方だからね!!」
刃が縦に空を裂く、早すぎて見えない。
アスファルトが弾けた直後
ゆがんだ空気と…
インパクト後の天使の影が揺れるだけ。
アルハの胸元を横切る一撃が、シャツを切り裂き、血の放物線をえがく。
「ちっ……!」
天使さんは驚いた顔をした。
「もしかして……アルハちゃんも、スゴミ君の玉を見てないの?」
「見てないわよ! 初対面だし!!だるいわね…
スゴミ!! もういいから、さっさと出して渡しなさい!」
アルハが手を差し出した。
「なんで僕の玉なんて巡って争ってるんすか!?
いきなり出て来て刃物出して暴れまわって…
二人とも頭おかしいんすか!!
帰ります! 本当に!! 勝手にやっててください!!」
アルハの声が裏返る。
「はあ!?」
「 不思議だね! 面白いね!それはユニークな感じだ!!」
天使さんは気が緩んだように、剣を一瞬下ろした――
その隙を突いて、アルハが振り向き、彫刻ナイフを振るう。
だが。
紅の剣が下から跳ね上がり、彫刻刀を粉砕。
返す一撃――
天使さんの剣がアルハの肩にめり込み、深く斬り裂いた。
「ぐっ……!」
アルハは弾き飛ばされ、アスファルトの上を転がる。
「分かったよ! スゴミ君はイマジンドクマを持ってない!
そうして、始まったんだ! そうでしょ!」
「ありえない、持ってなくちゃ始まらないでしょ
……うぐ……スゴミ……はやく……」
だが、その姿は――もう、なかった。
スゴミは、走っていた。
逃げていた。
全力で。
必死で。
距離にして、既に20メートル以上。
「……は?」
置いていかれたアルハは、絶句した。
なまじ、あるべきでない行動、しかしスゴミは…
一般人だった。
「冗談じゃないっすよ!! 警察呼びますからね!!」
天使さんが口に手を当てて大声をだした。
「どうしてー!? スゴミ君は、不思議だね!
女の子置いて逃げるなんて、きっと本当に怖かったんだよ!」
アルハがうめくように目を細め、声を振り絞る――
「…ここで逃げるなんて…普通、あるわけ!?
おかしいわ!異常だわ、あなた!!」
「逃げて当たり前じゃないっすか!天使を殺せだ!?
常識無いんすか!人殺しは犯罪です!
自分は正常!正常ですから!!」
スゴミの遠吠えが、アスファルトに響き渡った。
「そっか!スゴミ君は帰りたいんだったね!
それなら、物語を進めないとね!天使さん、頑張るね!!」
天使さんは嬉しそうに笑った。
アヒルのようにピンと手を伸ばすと、スタスタと歩き出す。
停まっていた白い2トントラックの前に立ち――
「えいっ!」
ヅガーン!!!
耳をつんざく轟音。
車体が、ありえない角度で浮き上がる。
もう一撃。下から突き上げる。
ヅガーン!!!
まるでリフティング。軽やかで無駄のない動き。
天使さんは脚だけでトラックを数回持ち上げ
そして――
ふわりと飛翔。
空中で一回転。
踊るような回し蹴りを放つ。
バゴーン!!!
2トントラックが、まるで砲弾のように、音速でスゴミに向かってぶっ飛んでいく。
「スゴミ!! ダメ!! 逃げてはダ……」
...ザクッ!!
アルハのセリフも途中に
――その背後に、無慈悲な白い影。
天使さんは、うつ伏せで手を伸ばすアルハの背中に
...血の剣を突き立てていた。
……ボゴォン!!
一帯のアスファルトが沈み込み、土煙と、校庭からのざわめきが沸き上がって来る。
「お待たせ、アルハちゃん!
これでスゴミ君は旅立てるからね!
やっぱり天使さんが一番だね!!」
アルハの目から、光が消えていく...
「ヒサヅカ スゴミ… 飛んだハズレくじだわ…」
スゴミは、振り返る。
そして、見た。
上下逆さまの2トントラックが飛んでくる。
フロントガラスには、顎が外れた自分の顔が映っていた。
「ああああー!?」
――どしゃーん!!!
スゴミは、頭からトラックのフロントガラスに突っ込んだ。
弾け飛ぶガラス片、薄暗くも煌めく世界……
「なんで、僕はこんな目に……
…僕が、一体何をしたって言うんすか……」
世界が、真っ白に――弾け飛んだ。
真っ白な視界の中、天使さんが微笑む。
血に濡れた神聖な白いコート
それに似合わないくらい優しい微笑みが映った。」
「……スゴミ君。
私は、君が帰ってくるの、待ってるからね。」
聞こえないはずの音が、意識に届いた。
『 帰ってくる 』……?
……違う。
それは『 戻される 』だろう。
僕は、帰る。
自分の意思で。
自分の脚で。
お前みたいな偽天使じゃない、
本当の天使が僕を見守るあの世界へ…
好き勝手に妄想を語り、笑っても良い
僕が居てもいいって、全ての赦しが証明される
あの場所へ――
僕は必ず帰る……。
そう...僕は『帰りたい』と
そう、願っているんですよ。
……てんしさん。
―――こうして、僕の物語は、始まりに向けて始まった。
…つづく。