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第1話 こんにちは!天使さん!


 僕の部屋に女子が上がるのは、初めてだった。




 彼女がシャツのボタンを弾いて、白い肌を広げて見せつける。


 山茶花の花弁のような赤い亀裂が、胸の中央に咲いていた。




『 最低… 』




 呪いの様に鼓膜に焼き付いたその言葉が、再び僕の心を貫いた。


 彼女は扉の前を塞ぐように立っている。


 


―――この戦いに出口は無い。




 赤い瞳に射抜かれて、黒い痛みを絞り出すようにして


 ゆっくりと僕の心臓は握り潰されていく。




 ある日、僕の部屋に『 天使 』がやって来て、僕の物語は始まった。




  僕は帰りたい。それだけ。




 僕はただ、帰りたいと願っているんですよ。




 ―――てんしさん









【30分前】




 *7月頭、午後5時。




 アスファルトを焼く熱と湿気。


 ジジジ…ジ……。セミの声が空気を叩く。




 右には擁壁と金網フェンスが続いている。


 その上、無機質の要塞みたいな校舎がそびえ立つ。




 僕はスゴミ。今年の春、高校生になった。


 姿はプリントTシャツにハーフパンツ。


 髪が汗で額に張りついて、気持ち悪い。




「暑い……早く、部屋に帰りたい……」




 前かがみで肩は脱力。足取りは引きずるように重い。


 それでも、左手の紙袋だけはしっかり握っていた。




 右のフェンスが賑やかだ。


 放課後の校庭からは女子たちの声。


 明るい笑い声が響いていた。




 フェンスの向こうは、光の世界。


 僕には無縁の、遠くて眩しい場所。




 そのとき、一人の女子が、スゴミの方を振り返った。




 陽射しにきらめく長い髪。


 ウェーブがかかりほんのり明るい。


 白くて柔らかそうな肌。


 大きくてぱっちりした瞳。




 一瞬、目が合った気がした。




 ドクン。心臓が跳ねた。




「……いいな……」




 慌てて下を向く。




「あーもう、違う違う!僕には関係ない世界!」




 左手の紙袋をごそごそと漁る。


 中身はフィギュアだ、それを取り出す。




 優しい瞳にツインテール。


 黒インナーに、神聖な白のロングコート、


 そこに入ったスリットからのぞく太もも。


 大きく広がる天使の羽。




 光の中に生まれた"理想の存在"。


『マジカルエンジェル・セイントハート・現地販売、限定版』




 この暑さの中で外に出た、今日の唯一の戦果だ。




「これだよ…僕には、これだけあれば良い…」




 必死で現実から目を背けていると、校内からは声が聞こえてくる。




「ほらー!行くよ行くよー!」


「ちょ!やめて!濡れるじゃーん!!」




 やかましいくらいに、楽しそうな声。




「あーあ、くだらない」




 耳に入る音をかき消すように、学校の反対の空を見てつぶやいた。




「ある日、空から可愛い天使が降ってきて、世界が滅んだらいいのに……」




 そんな妄言を叩き落とすように、鬱陶しいまでの日差しが肌を焼く。




 顔を覆うように太陽に右手をかざした。




「ってか、太陽ギラつきすぎなんだよ……」




「この光……掴めたら、握り潰して投げ返してやるのに…」




 そのとき、視界の端に視線だけを感じた。


 フェンスの中から見下ろす様に、まっすぐ僕に。




 背筋が凍った。確認しようと、視線をずらそうとした。


 その、ほんの一瞬だけ、確かに『 瞳 』を見た。




 白く縁どられた逆光の影の中


 血のように赤い、丸く透き通った瞳




 皮膚の内側を虫が這いずり回るような痒さが走った。


 その色は、僕の心を永遠に束縛する呪詛の様であり


 それでいて、魅力的で引き付けられ、鼓動が高鳴る。




 そんな瞳だと思い、しっかりと振り返ろうと思った瞬間…




 今度は太陽に向かって伸ばした指の隙間で、七色の光が激しく閃いた。




「なっ、まぶし…」




 手のひらが、熱い……




 気づけば手のひらに——何かがあった。


 それは、拳ほどの白い球体。




「……なんだ、これ……?」




 無機質だけど生きてる様でもあり、乳白色の白骨の様でもある。


 しかし重さは一切感じず、手に吸い付いて存在する感じがした。




 まるで自分の体の一部、そこにあるのが当たり前と思う程に……




 ガキィン!!




 直後、金属バットの打撃音が、校庭の奥から響き、頭を上げる。




 気付けば、視線を感じたフェンスには、瞳も影も、誰もいなかった。




「なんだったの… 気のせい……?」




 ふと、腕に重みを感じる。


 手元を見直すと、手の中には野球ボールがあった。


 赤い線の入った、普通の野球ボール。




「あれ?……野球ボール?さっきの見間違え?


 偶然……飛んできて、たまたま掴んでた……?」




 違和感だけが胸に残る。




 フェンスの向こうを見ると、さっきのウェーブ髪の女子が球拾いをしていた。




 野球ボールを見る。球拾いの女子を見る。




 もし自分に野球の才能があったなら…


 4番エースで、部活の英雄になったりして。


 あんな女子が寄ってきてくれるんだろうか。




 得意技の妄想が瞬時に駆け巡る。


 自分で笑うくらいの、浅ましい欲望。




 思わず叫んだ。




「あのー!ボール落ちてましたー!」




 黙ってても投げれば済む話。


 だけど、ただ誰かに気づいてほしかった。




 そんな無意識の呼びかけだった。




 すると、水を撒いたグラウンドを軽やかに駆ける足音。


 駆けてくるのは、球拾いの女子だった。




 ふわふわのウェーブ髪が陽光に揺れ


 ぱっちりした大きな瞳が僕をまっすぐに捉える。




「ありがとうございますー!」




 笑顔が、陽だまりみたいに広がった。




 ボールを拾った報告、呼びかけに応じてやってきた女子生徒…。




 口が小さく開いたキョトン顔。


 体操服の上着は限界の張りに耐えながらも


 動くたびにやわらかく弾んでいる。


 視線は、自然と吸い寄せられていた。




 ボールを投げようとした手は、手渡す形に変わっていた。


 2mの擁壁の上の金網。


 手を伸ばせば、ぎりぎり届く距離。




「すみません、今取りますね!」




 女子は腰を落とし、金網に手を突っ込みはじめる。




 その献身的な姿勢に、心が痛くなる……が


 目の前に差し出された、白く細い手に対して


 引き下がる選択肢などなかった。




 ボールを手渡す瞬間、指先が彼女の手にふれる。


 たった1メートルの距離、僕にとってはあまりに近い距離だった。




 心臓がバクバクと暴れ、顔がにやけそうになるのを全力で抑え込む。




「あれ? もしかして……くづか君?」




 スゴミの思考が、一瞬で真っ白になる。




 ……誰? この子。




「やっぱそうだよ! 中学の……姫神だよ!


 覚えてる? くづか君だよね!?」




 姫神。




 名前を聞いても、記憶はまったく出てこない。


 そもそも中学の卒業式すら出てない。




「あ、まあ……『久』しいに『塚』なんで


 クヅカって読めますけど……ひさづか、です」




「あ、そっか! ごめんねー! 学校……」




 一瞬だけ、姫神の笑顔が曇る。




 そう、僕は学校に通ってない、小学2年から9年間…。




 それを気遣った、その小さな変化が


 スゴミの胸にちくりと刺さった。




 彼女の目が、気まずそうに揺れていた。




 一歩だけ歩み寄る。


 汗まみれの顔で、にやけて見せた。




「大丈夫っすよ…」




「そう!? 学校、来てなかったもんね!」




「……あ、まあ、それは、はい」




「君さ、卒業写真の、右上の丸の中の人だもん!


 ちょっとした有名人だったよ!」




 無邪気に笑う姫神。




 確かに『学校来て無いもんね』を止めた彼女を許した。


 気まずい発現を『大丈夫っすよ』と言葉で許した。


 でも、その瞬間にくる、容赦ない正直のラッシュ。




 卒業写真の右上の丸——


 欠席者用の、あの小さな枠。


 それで"有名"って、笑えない。




「ははは…ミイラ取りがミイラどころか


 ミンチにされた気分っすよ」




「ミイラ……肝試しの話?」




「あ、いや……はい、覚えてくれてて、どうも…」




 それなりにユニークに返したつもりが、何も伝わらなかった。


 それはそうだ、僕は人との関わりなんて、ネトゲの中でしかない。




 声が震え、左手の紙袋をぎゅっと握る。


 だめだ、早く帰りたい。


 マジカルエンジェル…君と二人きりの、僕だけの部屋に。




「ヒサヅカ君は高校どこ行ったの?」




 その声に、顔を上げる。


 姫神は、眩しすぎるくらい、笑っていた。


 まるで天から凡人を見守る女神のようにさえ思えた。




「あー、多分ここっす」




 スゴミは、頭上のコンクリート校舎を指さす。


 学校に通う気は毛頭なかったが、席だけは入れてあった。


 青空を切り裂くように、無機質にそびえ立つ要塞。




「ええー! 同じ学校じゃん!


 学校来なよ! もったいないよ!」




 姫神が身を乗り出す。風に揺れる髪が、フェンス越しに舞う。


 スゴミの胸が高鳴る。




 まさかこんな子が、自分を覚えてて、声をかけてくれるなんて。




 ……けれど。




 胸の奥で、何かが引っかかっていた。


 その世界は、やっぱり眩しすぎる。




「まあ、善処します…」




「ぜんしょ? よいしょみたいな?」




 姫神がくすっと笑う。




 その無邪気さと話の通じなさに、ほんの少しだけ、緊張がほぐれた。




「はあ……そんな感じかも」




 胸の鼓動がうるさくなってきた。もう限界だ。話題を変えよう。




「てか、その……ボール、金網、通らないっすよね」




「あれ? そう?」




 わかってた。学校のフェンス。


 それは野球ボールが外に飛び出さないための、学校バリア。




 それなのに、自分で女子を呼び寄せた。


 近くで見たくて、出来心で手渡しにした。


 結果、自爆。恥の上塗り。




 姫神がボールを見つめる。




「でもこれ、ウチのボールじゃないかも!


 ウチのボール、赤い線入ってないからね!」




「そうなんすね……」




「でも…いいや! 投げといてくれる? じゃ、戻るね!」




 姫神はパッと笑顔に戻り、立ち上がり、背中を向けた。




 体操服に包まれたお尻と、生の膝の裏に目を奪われる。




 すると、姫神がフッと上だけ振り返る。




「あんまりジロジロ見ると、女の子は気づいてるからね〜!」




 スゴミの動きが、ピタリと止まり、汗が吹き出す。




「うわ…バレてた…どこからどこまで……」




 それでも姫神は笑顔だった。




「またね! 学校おいでよー!」




 手を振って去るその後ろ姿が、フェンスの向こう——


 あの光の世界に溶け込んでいく。




 紙袋を握りながら、ぽつりとつぶやいた。


 中のマジカルエンジェルは静かに手を広げ、受け入れるポーズをとっている。




「姫神さんか…


 女神様って、天使より格上なんだっけ?」




 自分で言って、口角が不器用に上がる。


 しかし、ボールを構える腕が、ほんの少しだけ軽くなっていた。


 後は迷いも無く、ボールを投げた。




 ——それが、始まりだった。




 放り投げた赤線入りの野球ボール。


 ボールは校庭の奥へと飛んでいく。


 それを目で追っていた視界が、眩暈のように急にぼやける。




 セミの声も、生徒たちの声も、ピタリと止んだ。




 太陽の光が7色に分光して揺らぎ始め、気色の悪い感覚が目の奥で渦を巻く。


 そして、皮膚を搔きむしるように、空気がザワついて動いた。




「もしかして、熱中症……!?」




 しかしすぐに元に戻る。


 視界の揺れが収まると、やかましいセミの声と、グラウンド生徒の掛け声。


 全ての音が元通りに騒ぎ始めた。




 ふと、視界の右上が白く隠れ、自然と視線が右上へと引っ張られる。




 擁壁の上——


 そのさらに上、金網フェンスの支柱の上。




 そこに、彼女がいた。




 腰まで届く白いツインテール。


 それを黒いリボンでまとめ上げ、頭には黒茨の冠。




 白いまつげに、透き通る赤い瞳が、遥かな空を眺めていた。




 黒インナーに、白いロングコート、深く入ったスリット。


 そして、背には6枚の巨大な羽。




 教会のステンドグラスを砕いたような、極彩色の天使の羽だった。


 太陽光を乱反射し、7色に光をまき散らしながら


 空間そのものを切り裂いているようだった。




 圧倒的に……




「綺麗だ……」




 それは紙袋の中のフィギュア——


『マジカルエンジェル・セイントハート』の戦闘形態。




 それがそのまま立っているようだった。




 その姿を見た時に、なにかとても大切なものを


 無くしたような悪寒がした。




 一瞬、紙袋の中に視線を落とす。




 全く同じ衣装のフィギュアが


 暗い紙袋の中で、動かない微笑みを続けている。




 改めてフェンスの上の輝く彼女を見る。




 「天使…さん?」




 見たままを呟けば、天使。


 それ以上に説明のしようがない存在。


 ただ、現実にそれが立っているというだけで、心だけを震わせていた。




 しかし、すぐに理性が現実の枠を引き戻す。




 ここは学校であり、あれはフェンスの上。


 人が立つような場所じゃない。




「えーっと……フェンスの上でなにやってんすかね、この人……」




 半ば異常事態を認めない為の、保身的な解釈だった。




 数秒の沈黙。




 天使は僕をまっすぐ見つめた。


 そして、太陽よりまぶしい笑顔で言い放つ。




「こんにちは! 君の天使さんの登場だよ!!」




「やっぱマジカルエンジェル……! コスプレにしては造形すげぇ……!」




 どこからどう見ても、人間の領域ではなかった。




 次の瞬間、彼女はふわりと宙を舞う。


 フェンス支柱から飛び、2メートル下のアスファルトへ、音もなく着地。




「あれ、ビックリしちゃったかな?」




 明るくて、親しげで、無邪気な声。




 手を後ろに組み、体を斜めにして前かがみになる。


 可愛すぎて、目のやりどころがない。




「あ、ども……その、撮影中とかなら……


 どきますんで、すみません……」




 頭を下げながら、一歩後ずさる。


 でも、視線だけはどうしても彼女の、抜群のスタイルへ吸い寄せられていた。




 この衣装、マジでマジカルエンジェル……


 白髪赤目は知らないキャラだけど!?


 実写映画だったら秒で推す……!




「その、衣装すごいっすね。作り込み……。


 実は自分もマジカルエンジェルのファンで……」




 間が悪いと感じて、必死に言葉を探す。




 だが彼女は、突然、僕の名を呼んだ。




「スゴミ君!」




「……え?」




 背筋が凍る。




 なんで、僕の名前……?




 初対面だよな?


 こんな完璧すぎる白髪美少女、会ったら忘れるわけがない。


 なのに、あまりにも自然に、『 スゴミ君 』と言った。


 僕の心臓は跳ねあがり、体が半歩、勝手に後退する。




「スゴミ君っ! 天使さんがね!君の物語を始めに来たんだよ!!」




 その瞬間、周囲が光を帯びた。




 空中に、光の粒が舞う。


 彼女以外の音が消滅した。


 鬱陶しい暑さも無くなり。


 重かった足もフワッとやわらぐ。




 一瞬で世界がきらめいた。


 


 白い風が、僕の身体を駆け抜けていく。




 頭がついていかない。脳が処理を拒否してる。




 こんな時どうすれば、なんて言えばいい?


 知らない天使、僕を知ってる天使、物語が始まる…?


 分からない、何も分からないけど―――




 でも…言うべきことを、言うべきだ。


 


 僕は、正直に思ったことを天使さんに伝えた。






「……あの、もう、かえっていいっすか?」




 へなへなとした声。頭を掻き、曲がる膝と背中。




 あまりにも情けない返事。




 それは自分でもわかってる。




 でも、これが今の僕の精一杯。


 言えることは、それしかなかった。




 天使さんはニコニコと微笑み、次の言葉を紡ごうとしていた。

遠慮なく☆付けや感想、ご指導など頂けると幸いです。

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