幻街
今は亡き親友『ゴメンナサイスト綾重十一』著者 エザキカズヒトに捧ぐ
今朝もまた満員電車に押し込まれると汗ばんだ肉団子の一部となり、いつもの駅に到着した途端、異物となってホームへと吐き出され、また直ぐ奇怪な軟体動物のように大きくうねる人波に身を投げ入れる。
生暖かい呼気が詰まったバスに乗り込み、べたつく吊革にぶら下がってわずか数十センチ四方の空間に閉じこもりじっと息をひそめる。
都市という無機質な鉱物に組み込まれた哀れな有機体である男は、いつもの癖で次々に通り過ぎてゆく街角の道を、その小さな路地に至るまで何かを探すようにじっと目を凝らして覗き込んでいた。
彼がこの路線バスに乗るのは初めてではない。昨日の朝もその前も十年前から毎日同じ景色の中を通勤している。
しかし今日もまた瞳を凝らし、真剣に小さな商店から電柱の看板に至るまでまるで何かを探り出すように一つ一つ目で追ってゆく。そして駅から数えてちょうど五つ目のバス停で軋みを立て停車したバスの乗降口から男はどことなく疲れた面もちで歩道に降りる。
この毎朝の儀式、彼にとってはもうそう呼んでもおかしくない行動をとるのは何も通勤のバスの中だけではない、郊外の自宅から駅までの間も、そして電車の中でも同じようにじっと車窓から目に写る全ての景色を眺めている。
絶えず町並みに何かを探し求め、そしていつも落胆のため息を付くのだ。
分かり切ったことなのだ、どんなに思い詰めて視線を彷徨わせたところで見つかるはずもないことは彼自身十分承知していた。
男はワイシャツの襟に手を伸ばし、少し緩んだネクタイを整えると鏡面ガラスが初夏の日差しを跳ね返すオフィスビルへと入っていった。
全ての世界から隔離され、その吸い込む空気すら空調システムによって生み出されるコンクリートと鉄とガラスの箱の中。
また今日も男はうつろな瞳で液晶モニターの中に虚構の街を幻視する。
彼の仕事は都市設計だった。
まるで子供の遊びの積み木のように街を仮想空間に描いてゆく・・・いや彼にはいつもそう思えた。
データの中を道が走る、それも広い緑地帯を持つ大通りだ。
その道を挟んでオフィスビルや、市民ホール、テナントビルが斬新と思われるラインを身に纏って立ち並ぶ。一見整然とした美しさを見せる町並みだが、それも虚構の世界に存在しているからにすぎない。現実にこの街が実際に完成すればどこにでもある再開発地区が出来上がるだろう。
男はそんなことは百も承知で線を引く、別に素晴らしい街を造るためではない、開発に金を出す人間達を満足させるためだ。
素晴らしい町を作り出すことが彼の仕事ではない、会社のためにそして自分のために金を稼ぎ出すことが仕事なのだ。そして彼にとっては無為の時間が滔々と流れ去り、また今日も人生に空白の虫食い穴が増えてゆく。
仕事というものはそんなものだ。男もそれなりに自分の現状には満足して生きている。
人生なんて誰しもそう違ったものではない。
薄黄色かった陽光が次第に輝きを増し、正午を告げるチャイムがどこからともなく流れてくる。
一瞬で辺りの停滞が弾け人々が動き出す。
男は社員食堂でそうそうに昼食を済ませオフィスに戻ると、何故か楽しげにいそいそと自分のコンピュータを立ち上げモニターを白く光らせた。
そこには今までとはまったく違う虚構の街が姿を現した。
細くごちゃごちゃした道や路地が入り組み、ちっぽけな商店街には八百屋、魚屋、雑貨店、洋品店、パン屋、床屋、おもちゃ屋、ペットショップ、書店、文房具屋、といった小さな店が車がやっとすれ違えるほどの狭い道に軒を並べている。
さらには煙突をビルの無い空に高く伸ばした銭湯があり、遊具の置かれた児童公園があり、小さな神社もある。
一歩路地に入り込むと、二階建てや平屋の古くさい家が身を寄せ合い、今では見かけない長屋風の共同住宅がマッチ箱を並べたように建っている。
それは見る者に淡い郷愁を感じさせる、ほんのつい三十年程前にはどこにでもあったなんの変哲のない下町の風景だった。
しかしこの街は虚構ではない。
画面に映し出されるその姿は幻であっても、男には記憶の中に鮮明に残る実在したはずの街だった。だが、この街がいったいどこの街なのかが彼には分からなかった。
男は4才の時両親とは死に別れ、子供の無かった叔父叔母夫婦に育てられた。
そんな彼の唯一と言っていい幼い頃の記憶が母や父に手を引かれ歩いたこの下町だったのだ。
だが男が何度訊ねても叔父叔母はその街がどこなのか答えてくれなかった。
その叔父叔母も今はもうこの世にはいない。不慮の事故で亡くなってもう三年になる。
彼は今でもこの街を探し続けている。
どこかにあるはずだと信じて。
男がこの街探しを本格的に始めたのは今からちょうど十五年前、大学の工学部に入ったばかりの頃だった。そして、アーキテクチャーへの進路を選んだ。
全ては記憶の中のあの街を探し出す為だった。
もちろんそれ以前の中学や高校の頃も自分が住む都市部近郊の市や町は暇を見ては歩き回っていたが、それを日本中に広げることはとても出来なかった。
しかし時間的に余裕が作れる大学生という立場になると、男はただひたすらにアルバイトで金を作っては旅に出るようになった。
初めは軽い気持ちで始めた街探しだったが、それが次第に熱を帯び、何かに取り付かれたように追憶の中の風景を求め、日本中の町を、それこそ路地裏までくまなく歩いて回るまでにエスカレートするには大して時間は掛からなかった。
人からは変わった旅をする奴だと言われたが、彼はただ砂漠で道に迷い乾きに苦しめられた遭難者がたった一杯の水を求め砂丘を這いずり回るように、自らの存在を確かめようとあの町を探し続けていた。
そして、未だにその街を見つけだすことが出来ぬまま時間だけが過ぎ去ってしまった。
もうすでに三十年近く昔の記憶である。街の姿もすっかり変わってしまったのだろう。
あの銭湯も、商店も、長屋も何もかも今では消えてしまったのかも知れない。
それでも街のどこかにほんの少しでも何か面影が残っているはずだ。
そう信じて男は今も記憶の破片を探し続けている。
何故こんなに鮮明に覚えているのだろうか。自分でもそう不思議に思うほど男はその街を克明に再現することが出来た。
今では両親の顔ですらおぼろげにも思い出せないのに、店の名前、屋根の色、果ては電柱の看板さえ仮想空間で描き出せるのだ。
男はモニターを覗き込む内にふと自分が懐かしいあの風景に取り囲まれる幻視を感じた。 買い物をする主婦の話し声、威勢のいい魚屋の売り声、笑い声を上げて路地に飛び込んで行く子供達、遠くから響く犬の鳴き声、総菜屋から流れ出る煮豆の香り、そしてそっと頬をかすめる緩やかな風と茜色に光る夕暮れの空。
その全てが一瞬の空気の揺らぎでさっと消え去る。
はっと我に返った男が辺りを見回すと、いつの間にか昼休みも終わり同僚達がオフィスに戻ってくるところだった。
また同じ時間が繰り返す。
昨日もそしてきっと明日も続く空虚な時が・・・その中に彼は埋没してゆく。
まるでなま暖かい泥の中に潜り込むように・・・。
男が疲れ切った目をしばたいて首をもたげると窓ガラスに遮られた外の世界はもう薄暗く濁っていた。
彼はほっと息を付いて席を立つ。
オフィスにはもう半分ほどしか同僚は残っていなかった。
冷たい光に白々と照らされたオフィスを出ると、男は街の明かりが暗闇を空高くに押し上げられた都会の夜へ歩き出した。
そして朝よりはほんの少しましな、乗り込む客にもしかしたらシートに座れるかも知れないと淡い期待を抱かせる程度の隙間の出来たバスに乗り込む。
バスは低い唸りを立て鉄とコンクリートで固められた都市胎内を潜り排出口のステーションへと向かう。
男はバスが走り出した途端またいつもの様に、光が束になって流れる車窓から食い入るように外の町並みを眺める。
薄闇に包まれた都市の街角にはきらびやかな衣装を身に纏い颯爽と現れた者達がまるで常夜灯に集まる蛾の如くちらちらと光に瞬いて舞い踊り、その姿と対照的に疲れ切った人々が灰色のカーテンに包まれて家路を急ぐ。
ブレーキを低く軋ませ、重々しくその車体を震わせたバスが夜空の書き割りに白々と張り付けられた二次元の駅に身をすり寄せる。
バスはため息をついてドアを開き乗客を吐き出すと、鼻の奥に突き刺さる排気ガスの刺激臭を残して、再び交差する光の渦に飛び込んでいく。
駅は殺伐として鋭角的な朝の気配とは異なり、どんよりと濁った空気に包まれ、人々がその中を足を引きずるようにして歩いていく。
生暖かい外気を押しのけ、男は足早に雑踏へ混ざり込んでゆく。
そしてまるで卵の選別器のような鈍く光る自動改札を潜り抜け、白く乾いた構内に吸い込まれていった。
皆俯いて昇るコンクリート階段の踊り場で彼がホームを見上げると、蛍光灯の瞬きと共にライトブルーの・・・いや、それが薄汚れて灰色に変わった旧車両が囂々と響きを立てて滑り込んできた。
一瞬淀んだ世界が揺らぎ、少しだけ息が軽くなる。
慌てて階段を駆け昇った男は、溜息を一度ついて開いた乗車口から車内に飛び込み少し上がった息を整えた。
自分の姿が映る車窓の向こうで、列車から切り離されたホームが後ろに向かって引き消され、変わってけばけばしいネオンの瞬きが光の筋になってガラスに張り付いた水滴のように流れてゆく。
朝のラッシュに揉み込まれた電車は咳き一つしないがどこか騒々しくせわしない。
しかし夕刻の車内は、学生達の甲高い話し声が響いているにもかかわらずどこか静かに落ち着いている。
耳に響くレールの音も男には柔らかく感じた。
そして吊革にぶら下がり前屈みになって外の景色を眺める。
がらがらと幾つかの鉄橋を渡ると彼の目には車内灯に照らされて列車の振動で左右に揺れる自分の姿しか見えなくなっていた。
外では白い明かりが幾何学模様を描きまるで安っぽい星空のようにちかちかと瞬いて過ぎて行く。
作り物の星空が低くなり、徐々に地平に広がると、ようやくそこには本物の夜が姿を現せ始めた。
インターホンが乾いたチャイム音を響かせると低いノイズ音と共に聞き慣れた妻の声が答えた。
「どなた?」
「僕だよ。」
「あら!今日は早かったのね。」
少し弾んだ声と共に焦げ茶色のスチールドアの向こうで人の動く気配がした。
都心まではバスと電車で一時間、昨年購入した十階建て分譲五階3LDKの我が家はまだ二十五年のローンが残っている。
それでも男はこのドアの前に立つとほっとする。
少なくとのそこには彼の帰る場所と自分を待つ人がいるのだから。
それにここは僅かとは言え夜空に星がある。
都心の夜は作り物なのかも知れない。男は時々そう思うことがある。
カタンとロックを解く音が洒落た赤タイル貼りの通路に鳴ると、オレンジ色の光が大きく広がった。
一生懸命背伸びして、ドアノブにぶら下がるようにドアを開いた小さな影が嬉しそうに甲高い声を上げる。
「お帰りなさい!パパ。」
可愛らしいたどたどしい言葉で娘が彼を迎えてくれた。
男は後ろ手にドアを閉め、自然に顔が綻ぶのを感じながらかがみ込んで恥ずかしそうにはにかんでみせる娘の柔らかで小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
その時嬉しそうにしがみつく娘のお下げ髪からふっと明るい初夏の太陽の匂いがした。
それは彼が今日初めて感じた陽の光だった。
「お帰りなさい、あなた。」
ようやく立ち上がった彼に妻が柔らかい笑みを浮かべて見せる。
「ああ、ただいま。」
彼女とは学生時代に旅行好きが縁でつき合い始め、結婚してからもう七年になる。
今では彼の奇妙な街探しの旅には呆れて何も言わないが、昔は良く二人で街を回った。
愛する娘と妻が待つ所、それがこのちっぽけなマンションの一室だった。
しかしそれが彼にとってはこの上もなく大切なものなのだ。
「夕食はもう済んだのか。何も食べてこなかったから腹ぺこなんだよ」
「まだよ。よかったわ、今日は久しぶりに一緒に食事できるわね。」
「そうか・・・今週はずっと残業続きだったからなあ。」
思い出したように男が一人呟くと妻は小さく頷いた。
「ほら真理ちゃん。早く手を洗ってらっしゃい。パパと一緒に晩御飯よ。」
「はーい。」
可愛らしい声を上げて娘がキッチンへ走り込んでゆく。
その後ろ姿を眺めながらようやく男は靴を脱いだ。
「ねえ・・・あなた。今度の週末時間とれるかしら。」
「なんだい?今度の週末に何かあるのか。」
久しぶりの家族揃っての夕食後、妻の言葉に男は読みかけの夕刊からつと目を上げた。
「別に用事があるわけじゃないけど・・・。あなたこのところずっと残業続きで忙しそうだったでしょ。でも今日は早く帰ってきてくれたから・・・。」
すっと急須を持ち上げて彼の前に置いた湯飲みにお茶をつぎ足すと、くるくると良く動く黒目勝ちの瞳を大きく開いた。
それは彼女が昔から何かお願い事をするときの癖だった。
妻のそんな表情が男は好きだった。
「まあ・・・ようやく今の仕事もだいたいの目星はついたから時間はとれると思うけど。ただ明日の会議でどうなるか・・・。」
考え込むように少し首を傾けると男は新聞を畳んで煙草にゆっくりと火を付けた。
「そう・・・、出来れば時間を作って欲しいわ。しばらく家族揃ってどこかに行ってないからたまには真理を遊園地にでも連れていってあげたいと思って・・・。」
そう言って彼女は食卓から離れると流しに立って食器を洗い始めた。
「この前みんなでディズニーランドへ行ったじゃないか・・・。」
「あれは冬の話よ。もう半年以上前のことよ。」
水の流れる音に混じって少し非難めいた響きの声が返ってくる。
「そうか・・・あれからもうそんなになるのか・・・。」
ふと男はあの時楽しげに遊園地を走り回る真理の首には真っ赤な可愛らしいマフラーが巻かれていたことを思い出した。
それを嫌がってすぐに外してしまう娘のあどけない仕草と困ったように何度も巻き直す妻の姿に「子供の時は僕も嫌だったよ」と男は何度も笑った。
「そうよ。だから今度の週末なんとかならないかしら。きっとあの子も喜ぶわ。」
男がそっと居間に目を向けると、お気に入りの小さなクッションにかじりついた娘がテレビの子供向け番組を妻に似た大きな瞳で見つめている。
それでも時折画面から目を離し彼の方をちらちらと眺めるのは、たぶん久しぶりに早く帰ってきた父の存在が嬉しいのだろう。
後十年もすれば振り向きもしなくなるだろうが、やはり男にはそんな娘が愛おしかった。
「そうだな・・・なんとか時間がとれるよう都合を付けてみるよ。今の内に思い出を作っておかないと、すぐに父親なんかとは一緒に行きたくないなんて言い出すだろうからな。」
「ふっふ、そうよ、女の子はすぐおませになるわよ。」
妻の男には分かりませんよといった優越感を微妙に含んだ笑い声に合わせ、男は小さく笑みを浮かべるとゆっくりと湯飲みを持ち上げて一口お茶を飲み込んだ。
そのお茶は少しぬるかった。
居間からはアニメのテーマソングに声を合わせて無邪気に歌う娘の少し甲高い声がキッチンに流れ込んできた。
平凡だがそのありきたりの世界に男はいつも安らぎを感じるのだった。
また今日もサラリーマン達を、いや都会で働くありとあらゆる人を乗せ、鋼鉄の箱は鈍く陽光を跳ね返す軌道を走る。
そしてまたゆっくりとではあるが確実に止まることを知らぬ都会の鼓動が空に響き、血流と化した人間が循環器を規則正しく流れ出す。
まるで都市のために人が存在するかのように・・・。
初夏の日差しに包まれ、薄く白いベールをかぶったように見える町並みを男は今日もじっと目を凝らして眺めている。
規則正しくリズムを刻む電車の中でも、スイングジャズのように不思議な間隔でロールを繰り返すバスの中でも彼は車窓から目を離さない。
今日も男は日本でもっとも巨大な無機質集合体の中に、自分の求めるあの町並みを見つけだすことは出来ない事実を再確認して肩を落とす。
これはもう彼にとっては日課の一つだった。
ぞろぞろと同じ方向に向かって進む背広姿の人並みに混じって男もガラスとコンクリートの箱の中に吸い込まれ、ふと気が付けばいつの間にか自分のデスクについている。
そして、パソコンを立ち上げいつもと変わらない空白の時間が流れていく。
「今週末は休みがとれたよ。」
「良かったわ。もう真理に今度の土曜にみんなでどこかに行きましょうってお話ししちゃったのよ。」
男を見つめた妻はほっとしたように口元を綻ばした。
「おいおい、ずいぶんと気が早いな。」
結局、今日は残業で帰宅したのは午後十時過ぎだった。
「でもあの子嬉しそうだったわよ。はしゃいじゃってもうこれ持ってくあれ持ってくって大変だったのよ。」
「そうか・・・そんなに喜んだか・・・それで真理はもう寝たのか。」
「ええ、とっくよ。あなたが誕生日に買ってあげたテディベアを抱えてもうぐっすり。」
「ちょっと見てくるよ。寝顔だけでも毎日見ておかないと忘れられそうな気がしてね。」
「ばかねえ。あの子はパパが一番好きなのよ。ママより好きって言ったりするから少し焼けちゃうわ。ねえ・・・ところで週末はどこに行こうかしら。」
妻の言葉に思わず男は頬を緩ませた。
「そうだね。ちょっと僕の方で行きたいところがあるが・・・。」
珍しく行き先をはっきり決めていた彼の言葉に妻は少し驚いたような顔をしたが、
「でもちゃんと真理が喜ぶような所じゃなきゃだめよ。」
と釘を刺すのは忘れなかった。
「大丈夫だよ。」
「本当?」
それでも妻は少し疑いの目をしている。
「ちゃんとしたテーマパークだよ。ほら・・・二年くらい前に出来た高層ビルの何階かと地下の部分を使った奴があっただろう。完成した時はずいぶんマスコミにも取り上げられたやつ。」
「ああ・・・あれね。なんだ、それなら良かったわ。またあなたの趣味でどこかの聞いたこともないような街に連れて行かれるのかって心配しちゃったわよ。」
「おいおい、真理がもう少し大きくなったら連れて行くつもりだったのに、それはずいぶんな言い方だなあ。」
「だってあなたの思い出の街探しって旅行って言うより、興信所か何かの仕事みたいよ。一緒に行ってもいつも私の事なんて全然目に入らないみたいで、怖いくらいに真剣に辺りを見回しながらに街を歩くばかり。私は嫌よ。」
「そうかなあ・・・。」
妻の言葉に少しドキリとした男は言葉に詰まった。
確かに街探しをしているときは妻どころか自分自身さえも意識から消え去ってしまうほど真剣に、いや何かに憑かれているように。
一風変わった旅だがそれでもそれなりに楽しんだなどという記憶は彼の中には一片たりとも残っていない。
その様が異常なのは男自身もそれとなく感じていた。
「でもあなたがそんなところに興味を持って自分から行こうって言い出すのは変ね。何かあるの。」
女のカンはなかなかに鋭い。
「う、うん・・・。まあ・・・ちょっと今日の会議でそこの話が出てね。」
口ごもりつつ曖昧に言葉を濁した彼の返事に、彼女は眉間に皺を寄せちょっと嫌そうな顔をした。
昔は男もそんな妻の表情が可愛らしく思えたが、今は少し怖い。
「せっかくのお休みに真理を連れてみんなで遊びに行くのに、その行き先が仕事の関係なんて・・・。」
しばらく続きそうな妻の非難を遮るように男は慌てて口を開いた。
「いやいや、本当にたいしたことじゃないよ。ほら前にも話したと思うけど今僕が担当している第三副都心計画のビル、そこにテーマパークみたいなのを作ったらどうかって話が偶然今日の会議で出ただけ。それもあくまでも提案としてね・・・それに今でも結構人気があって・・・。」
「あんまり大きな声を出さないでちょうだい。真理が起きるわ。」
「ごめん・・・本当に仕事は抜きだよ。」
声のトーンを落とした男は奥の電気の消えた子供部屋を覗くように首を傾けた。
「分かったわ。でもそのテーマパークに遊びに行っても絶対にメモとか取らないでちょうだい。普通に楽しむのよ。」
しきりに頷く夫の姿を見ながらそれでも何故か彼女は気が乗らなかった。
土曜日は朝から強い陽光が照りつけ、夏の気配を感じさせる熱気が都市全体を包んでいた。
時折吹き抜ける乾いた風だけが、汗を流して道を行く人々にまだ五月の半ば過ぎであることを思い出させた。
ゴールデンウイーク後とはいえ、久しぶりに休日が快晴だったこともあってか電車の中は行楽の家族連れで混んでいた。
ただいつもの濁った色合いの通勤電車とは違い、華やいだ明るい色彩を感じさせるのは乗客の服の色ばかりではなく、時折上がる子供の楽しげな声や少し和らいで見える大人達の表情のせいもあるのだろう。
そんな中で娘を運良く席に座らせることが出来た男は、いつの間にか真剣な眼差しで軌道の波に合わせ流れ去ってゆく町並みを魅入るようにじっと見つめていた。
「パパ・・・パパ、ねえパパ・・・。」
何度も必死に話しかける声に気付かず、悲しそうな顔でズボンを引っ張る娘の姿に気がついてようやく我に返った男は慌ててぎこちない笑みを浮かべた。
横では妻が少し怒った顔で非難の視線を自分に投げかけているに違いない、そう思って彼が首を捻るとまったく思った通りだった。
妻は何か言いかけるように口を少し開くと思い直したように呆れた表情を浮かべた。
「なんだい。」
そう言って誤魔化すように娘の柔らかい栗色の髪を撫でながら、男はいつの間にか習慣になってしまったその行動を苦々しく思っていた。
電車は灰色に煌めく摩天楼の都心を抜け、無理矢理に詰め込まれたジグソーパズルのような住宅街を走り抜けて行く。
低い唸りと共に減速を始めた電車はキリキリとブレーキの軋みを立て駅のホームへ滑り込んだ。
まだかすかに動く車体に反発するようにドアが引き開くとそれまでそこここで佇んでいた家族連れがどっと外へ流れ出した。
その人波の中に男と彼の家族も混じり込んでいた。
目指すは駅舎のすぐ目の前にそびえ立つ巨大な高層ビル。
とにかく駅の自動改札を潜る人々のほとんどがそのコンクリートと鋼鉄の固まりに吸い込まれてゆく。
男の前を背中に背負った小さなリュックを弾ませて跳ねるように歩く娘が驚いたように立ち止まると、天に向かってそそり立つその巨大なビルを大きな瞳を輝かせて嬉しそうに見上げた。
そんな楽しそうな娘の姿を目にすると男は自然に口元が綻んでくる。
駅からダイレクトにつなげられ鮮やかにデコレーションされた地下通路を通ってテーマパークへ向かう。
まだ時間も早かったせいか息詰まるほどの人混みも無く、家族連れの人波に混じって男も巨大なビルの中に吸い込まれてゆく。
メモリアルパークは室内テーマパークとはいえ総床面積が東京ドームの2倍という謳い文句通り各種アトラクション、ゲームコーナー、そしてミニコースターからゴーカートまで全てが揃った訪れる誰もが驚く室内遊園地だった。
ついつい仕事の癖でビルの造りを細部まで観察してしまう自分に男は苦笑しつつ、乗り物の上から笑顔で手を振ってみせる娘に手を振り返したりした。
「もう昼ね。どこで食事をとろうかしら。」
「それじゃあ。メモリーパークの方で昼食にしないか。」
「あら、メモリーパークで食事できるの。」
「もちろん出来るさ。それがここの売りの一つなんだ。」
メモリーパークとはこのビルの地下四階全てを使った仮想都市空間のことである。
それは江戸時代から始まって現代に至るまでの町並みを再現した歴史テーマパークだった。
しかも再現された街をただ見るのではなく、その中に入り込み当時の食べ物や買い物までが体験出来るというなかなか凝った代物だった。
男が会社の会議で聞いたのもその話だった。
「おもしろそうね。それじゃあそこで食事にしましょう。ねえ真理ちゃんお昼は何が食べたい。」
男がゲームで取ってあげたテレビ番組のキャラクターのぬいぐるみを大事そうに抱え込んだ娘は彼の手を握ったまま、
「ハンバーグ。」
と甘えるような声を上げた。
「ハンバーグなんてあるかしら。」
「大丈夫。明治大正ゾーンに行けば昔懐かしい洋食屋がちゃんとあるよ。」
そう妻に答えた男は真理の手を引いて巨大なエスカレーターに乗り込むと真っ直ぐに地下へ向かって吸い込まれていった。
「江戸ゾーン」とシンプルに書かれたゲートを潜るとそこはまさしく二百年前の首府の姿が見事なまでの精巧さを持って作り上げられていた。
映画のセットなど子供だましに思えるほどリアリズム十分な町並みは、わざわざ二百年以上前の家屋を移築して作られている。
しかも寛永期、元禄期、天保期と初期中期後期に分けて再現された様は見る者を感嘆させるすばらしさだった。
所詮テーマパークなどたかが知れていると思っていた男は、その出来の良さにただただ圧倒された。
娘の真理も子供ながら本物の持つ魅力を感じてか、面白そうに格子窓を覗き込んだり、障子戸を開けて家の中に入り込んだりして楽しんでいる。
道の脇にはそば屋が店を出し、江戸時代そのままの格好をした団扇売りや外郎売り地紙売りが声を上げて道を通り過ぎる。
しかも驚いたことに路地裏に並ぶ長屋には玉川上水の導管までが再現してあるのだ。
まるで自分が時間の隙間からこぼれ落ちてしまったような思いを誰にも感じさせる良くできた世界だった。
ただその町並みを楽しんでいる人々の現代的な服装だけが唯一現実世界とのへその緒になっている。
「凄いわね。周りに誰もいなかったらタイムスリップしたって思うわよ。」
「ああ、まったく凄いよ。」
妻の感嘆に相槌を打ちながら男も高層ビルの地下という限られた条件で良くここまで空間の広がりを持たせ、しかも見る人々に違和感を生じさせないものだと設計屋の視点から感心していた。
もちろんその驚くほど忠実に再現された町並みにもだが・・・・・。
「でも真理が江戸時代の街なんかをこんなに楽しそうに見て回るなんて意外だわ。もしかしてあなたの血かしら。」
「まさか、まだ五才そこそこで町並みの良さなんてわからんよ。まあ見たこともない世界に物珍しさがあるだろ。」
「でもさっきから見ていると真理の動きとあなたの動きがまったく一緒よ。のれんを何度も潜ってみたり、目に付くお店にみんな入ったりして。」
悪戯っぽい目をした妻は男を見つめるとくすりと含み笑いをした。
「いや、僕はだね・・・。」
ちょっとむくれて言いよどむ彼の姿に妻はますますおかしそうに口を綻ばし、そんな両親の様を娘の真理は不思議そうに、それでも嬉しそうに見上げていた。
「江戸ゾーン」を娘や妻と十分に満喫した男はもう一階地下に作られた「明治、大正ゾーン」へ向い再び巨大なエスカレーターに乗り込んだ。
長く地の底までゆくのではないかと乗る者に不安を抱かせるほどに長大なエスカレーターを下り、ようやく辿り着いた地下三階のモダンな赤煉瓦作りのゲートを潜ると途端に目の前に広がる風景はまさに「明治、大正」の素晴らしい出来映えで、それぞれの時代に合わせて微妙に異なる風合いの建物が独特の空間を作りだし見る者を魅了していた。
そこで小さな洋食屋に入って昔懐かしい味わいを見事に再現したカツレツとハンバーグを食べた男達は、大正情緒たっぷりのカフェに入りお茶を楽しんでいた。
「ここは家族連れが入るところじゃないんだけどなあ。」
「あらそうなの。」
男のつぶやきを耳にして妻が不思議そうな顔をした。
「そうさ、ここは今で言うとクラブみたいなもんだよ。」
「これが・・・。」
「そう、あのウエイトレスみたいな格好をした女給さんだって本来はホステスも兼ねているんだから。当時の人間が見たらきっとこんな所に子供を連れ込んじゃダメだって怒られちゃうだろうなあ。」
「変なこと知っているわね・・・あなた・・・。まさか・・・。」
「ば、馬鹿言うなよ、本で読んだことがあるだけだ。」
「本当かしら。」
「本当だって。一度磯口にそう言うレトロ調の面白い所があるからって誘われたことはあるけど・・・。」
ちょっとばかりどぎまぎしながら答える彼の言葉に「ふーん」と頷いた妻だったが内心はどうも信じていないらしい。
「もう一個アイスが食べたいなあ。」
その時夢中でアイスクリンと格闘していた娘の真理がどうやら第一ラウンドが終了したらしく、無邪気に声を張り上げた。
「駄目よ。二個も食べたらすぐにぽんぽんが痛くなっちゃうんだから。」
どうやら妻の意識は娘のクリームに汚れた襟元に移ったらしく「めっ」と軽く叱りつけるとハンカチでその口元と服を拭い始めた。
妙なところで始まった思い掛けない追求から運良く逃れた男は頃合いを見計らって立ち上がり、
「よしっ、それじゃあ最後の昭和ゾーンへ行くぞ。」
と妻と娘をせき立てるようにして店から外に出た。
「江戸」「明治、大正」を経てようやく辿り着いた「昭和ゾーン」は高層ビルの最下層地下四階フロア全てを使って作られた広大なエリアだった。
そこも当然時代ごと世界が微妙に区切られ、昭和初期のモダンでお洒落な町並みからもちろんあの戦中の姿までがそこにはしっかりと再現されていた。
特に戦中ゾーンの見る者をぞくりとさせる風景はすさましく、妙に生々しい一種のすごみのような雰囲気をを醸し出している。
燃え尽き奇妙にねじ曲がった骨のような立木、崩れ落ち錆び付いた鉄骨を内蔵のように剥き出しにしたコンクリートの瓦礫の山、そして消し炭になった家屋の残骸、足下には半ば溶け崩れたセルロイドの人形が転がり、気味が悪くなるほどリアリティを見る者に感じさせた。
しかもここにはきな臭いと油脂が燃えたような匂いまでが鼻を突くのだ。
当然戦争のことなど知識として知らないはずの真理ですら怯えたようにぎゅっと強く男の手を握りしめている。
あの戦争のことは学校の歴史の授業で得た知識しか無い男と妻も、その世界に得も言われぬ恐怖を感じていた。
その反面、男がその空間演出や室内設計などを無意識の内に事細かに観察していたのは彼の性としか言い様がない。
しかしその戦中ゾーンも意外と小さなエリアで終わり、いつの間にか辺りは活気溢れる戦後の闇市に変わっていた。
銀しゃりと書かれた張り紙のついた飯屋ではいかにも怪しげな肉の煮込みやスープが鍋の中で湯気を立て、もちろん入場客がそれを買って食べることもできる。
少し暗がりの路地を入った小屋にはそれらしくバクダンと小さく書かれた瓶が並べられ、流石にエチルは入っていないがそれでも一口で頭がくらくらするほど強烈なアルコールを好奇心旺盛な人々が楽しむこともできた。
男はそこでわざわざPXと印刷された両切りのラッキーストライクを買い、喫煙エリアになっている一角で時代の雰囲気を楽しみながら一口吹かしてみたりもした。
時代はさらに進み特需景気に湧くが50年代の街、そしてオリンピックに胸躍らせる60年代の街に移ってゆく。
その頃の時代になると当時のものがまだたくさん手に入るせいか何もかもがよりリアルに再現され、より生々しい生活感を見る者に感じさせた。
そんな中を真理が跳ねるように走り回り、真新しい三種の神器が並べられた電気屋のショーウインドウを覗き込みビックリした顔で白黒テレビに映し出される若々しい植木均の姿を見つめたり、おもちゃのように小さいスバル360に乗り込んでみたりと大忙しの有様だった。
駄菓子屋でせがまれた買った渡辺のジュースの元を粉のまま飲み込んでしまった娘を見て夫婦揃って笑い声をあげたりもした。
そして楽しげな雰囲気を身に纏ったまま何気なく次のエリアに入った男は、その途端何故かその世界に奇妙な違和感を覚えた。
どこかおかしい。
そう、今までのエリアとさして代わり映えはないのだが何かが違うのだ。
そして遂にその原因に気付いた男はその瞬間はっと息をのんだ。
そうだ、そうなのだ、この町並みにはどこかで見たような既視感があるのだ。
細く入り組んだ路地、小さな商店の家並み、そよ風に揺らめく銭湯の暖簾、遠くから聞こえてくる豆腐屋のラッパの音、その全てがまざまざと自分の心の内にあるあの街と重なってゆく恐怖と快感に男はいつしかその身を震わせていた。
小さな神社もまったく彼が二十数年前に見たままに、その隣にある児童公園も寸分違わず彼の記憶通りだった。
ふと耳を澄ませばいつの間に現れたのだろう、公園で遊ぶ子供達の楽しげな声が届いてくる。
男はまるでその中に自分がいるような思いがして目を凝らした。
遂に・・・、そう遂に彼は探し求め続けていたあの街を見つけだすことが出来たのだ。
そして男はいつの間にかその世界にゆっくりと溶け込んでゆく自分の意識を呆然と眺めつつ、奇妙にもどこかごく自然なことのように感じていた。
「パパ、ねえパパ、パパ。」
と言う寂しげな叫び声が男の頭に片隅に鋭い痛みを残し、そして消えていった。
そして・・・。
「今日はずいぶんな騒ぎだったなあ。」
少し疲れたような顔つきの紺色の作業服に身を包んだ中年男が傍らの若い男に話しかけた。
そこはライトアップ用の照明も落とされ昼の間とはまったく違ってガランとした灰色の空間を思わせるメモリアルパークの中だった。
「でも、いい大人がこんな所で迷子になりますかね。」
若い方の男が、手に持ったどこかの鍵束を指でクルクル回しながらつまらなさそうに答えた。
「そうは言ってもあの奥さんは真剣だったからなあ。夫が消えた夫が消えたって騒いで子供は泣き出すし・・・。」
「おかげで閉館した後もみんなで探し回って大変でしたね。迷惑な話ですよ。どうせ何かの勘違いですって。」
そう言って若い男は小さく鼻を鳴らした。
「まあ、そんなことだろうなあ。後は警察に任せておけばいいさ、俺達が気にする事じゃない。だいぶん遅くなっちまったがここで終わりだ。早く帰ろう。」
さも疲れたように首筋を揉みながら、中年男は何かの操作盤を開きチェックを始めていた。
「あれおかしいな。」
その時、若い男が少し驚いたような声を上げた。
「おいどうした。」
「いや、ほら、そこの公園に子供がいるじゃないですか。」
「えっ、子供だって。」
若い男の言葉に振り向いた中年男は薄闇に目を凝らしてその指さす先をまじまじと見つめ、そしてすぐに安心したように首を振った。
「あれは人形だよ。」
「だけど、ここに人形なんて置いてありましたかね。」
「ああ、そうかお前は知らないんだな。置いてあったんだ、前はね。ここが開館した初めの頃だけだけどな。だけどおかしいな、誰がまたあんな所に置いたんだろう・・・まあいいか、面倒だが後で倉庫の方に戻しとけ。」
「俺がですか。」
「他に誰がいる。」
「でもなんだか気味が悪いなあ・・・。」
「人形なんて誰でもそう思うさ。いいからちゃんと片づけろよ。」
「はいはい・・・。」
そう言って若い男に抱え上げられたその子供の人形はどこかあの男の面影を残していた。
そして、その人形は喜んでいるような、悲しんでいるような不思議な表情をその光沢のある顔に浮かべていた。