猫のなる木
作者は猫派です。
「ねえねえ見て! これめっちゃかわいい!」
とある休日の昼下がり、ホームセンターの園芸コーナーとは思えないほどの黄色い声が響き渡る。まるで棚の隙間に子猫でも見つけたかのような反応に、私を含め、その場にいた数人は半ば無意識に声の方へ顔を向けた。
一組の若い男女が壁際の棚の前に並んでいる。特設コーナーが設けられているらしく、手作り感満載な折り紙の装飾と共に『今人気のツリーペット特集!』と看板が掲げられていた。
「猫のなる木?」
「かわいくなぁい?」
女が猫撫で声で彼氏の腕を引き、彼氏は彼氏で下品なニヤけ面を晒していた。一秒も早く爆破されてほしい不快感満載の光景だが、『猫』という単語を耳にした今、この場を立ち去ることなどできない。私は無類の猫好きなのだ。
私の左手にはビニール袋。インテリアを新調するため、新しく買ったカーテンや日用雑貨が入っている。買い物も済み、さっさと帰ろうというところだったが、猫に対する好奇心には抗えず、体の向きを変えて例の特設コーナーへ。カップルの斜め後ろに立ち、覗き込むように目を凝らすと、十五センチ程度の小さな木の苗が棚に並んでいるのが見えた。どれも見た目は同じだがいくつか種類があるようで、彼女たちの前には『猫のなる木』と書かれた札が下がっていた。
「この前イ〇スタで見たんだぁ、いろいろ種類があって~、めっちゃ人気なんだよ?」
「へぇ、こっちはカエルだって」
「や~ん、キショ~い」
女がまた媚び媚びの悲鳴を上げ、男にべたべたとひっついている。私はついつい右拳を固めてしまったが、しばらくすると二人は腕を組んでこの場を去っていった。きっと店内のペットコーナーにでも行くつもりなんだろう。残った私は一歩、深呼吸と共に前へ踏み出す。
『若い方へ大人気の猫のなる木! 朝夕二回の水やりだけですくすく育つ! 手間がかからず、一人暮らしにオススメ!』
紹介ポップには、笑顔の女性とともに背丈程度の木が収められた写真が貼られている。成長した猫のなる木だろうか、枝先についた花びらのように広がる毛に囲まれ、茶トラの猫が可愛らしい顔を覗かせていた。体は無く、顔だけが花の如く咲くらしい。他の写真も見てみると、大きくあくびをしていたり、目を細めて顎を撫でられていたり。本物さながらの豊かな表情を見せていた。
「かわいぃ……」
ぽつりと零れたその言葉は、私の中で抑えられていた猫愛を一瞬のうちに呼び覚ました。
猫の、その柔らかな毛並みを思い出す。さらりとした肌触り。ふにふにとしたお腹。横腹に顔を埋めれば、あぁ、なんと香しい。
実家を離れて早五年、可愛がっていたペットのコタロウとはずっと離れ離れの状態に。おまけに今住んでいる家はペット不可の集合住宅なので、私はすっかり猫欠乏症に陥っていた。偶に利用するネコカフェもふれあい方法に制限が多く、ごっそりと抉れたこの心が真に満たされることはないのである。
猫を愛でたい、猫に愛されたい。仕事に追われるばかりの私を日常的に癒してほしい。せめてもう一度だけでも、あの感覚を味わいたい。
例えば穏やかに晴れた日のお昼過ぎ、柔らかなソファに腰を沈め、胸に猫を抱くことができたなら。猫は喉を鳴らし、窓から射す光に目を細めるだろう。無抵抗な喉を優しくさすりながら、私もまた微笑みを零すのだ。
そんな幸せな時間が永遠に続くことを夢見ながら現実に戻る。現実はなんとも色味が少なく、どうしようもなく溜め息をつきたくなる。早く帰らないと、と足を踏み出せば、ふと右手が重いことに気が付いた。視線を下ろすと、覚えのないビニール袋を提げている。首を傾げつつ中を覗いてみれば、ついさっき見たような木の苗が入っていた。
「恐るべし、私の猫愛……」
猫のなる木 4280円(税込)。猫愛の赴くまま、無意識のうちにもう一つ買い物をしてしまったらしい。
***
買ってしまったものは仕方ないので、帰宅した私は一先ず鉢を窓際へ置き、一緒についてきたお世話の仕方を読むことにする。
最低限必要なのは朝夕二回の水やりだけ。晴れた日には出来るだけ日光に当てたほうが良いらしいが、特に肥料などは必要ないようだ。木自体が人の背丈程度までしか大きくならないため、室内でも十分育てられそうということも分かった。そして重要事項として、猫は百日前後でなるらしい。桃栗三年と昔からよく言うが、猫は三か月かぁ、と近い未来を想像して思わずにやけてしまう。
説明書きの最後へ目を移すと、注意書きがいくつか箇条書きになっていた。その中でも目を引くのが一行目。ご丁寧にも目立つように太字で書かれていた。
《ペットフードを与えないでください》
それは一見矛盾しているようで、少し考えれば当然な気もしてくる。これはあくまでも植物で、水やりだけで十分育つ。そのためごはんやトイレの世話が必要なくて、一人暮らしでも安心して育てられる。そこがこの商品の一番の魅力のはずなのだ。むしろ普通のごはんは植物にとって毒になりかねない。
他の注意事項も、普通にお世話していれば問題なさそうなものばかり。植物の世話は初めてだし、勢いで買ったものだけれど、案外何とかなりそうだ。
説明書を机に置き、ぐっと伸びをしてみれば、既に日が落ちかけていた。記念すべき一回目の水やりの時間である。
このくらいかな、とコップ一杯に水を注ぎ、土全体を濡らすように注ぐ。
「沢山飲んで、沢山日に当たって、元気に育ってね」
まだ細くて短い枝をつつけば、頷くように小さい葉を揺らした。
***
変化の乏しい時間というのは知らぬ間に過ぎてしまうもので、いつしか一つ季節が巡っていた。
この日も普段通りの平日。乱暴に目覚ましに起こされ、重い目蓋を擦りながらコーヒーを淹れ、あくびを噛み殺しつつ水やりをしようと木に近寄れば。
「……なんぞこれ?」
伸びた枝先に小さな蕾のようなものが付いていた。もしやと思いカレンダーを確認すれば、これを買ったあの日から二か月と三週間が経っていた。つまり、猫が咲くまで残り二週間余り。この蕾こそが、もうすぐ猫をモフれる兆しということだ。それに気付いた瞬間、眠気が嘘のように吹っ飛んだ。
「はぁぁ、もうすぐなんだぁ、楽しみだなぁ。どんな子が産まれるのかなぁ」
水をやりながら蕾に触れる。まだ植物感全開で猫成分の欠片もないが、猫の一部と思えば、この不愛想な硬さすらも可愛らしく思えた。
次の日から、普段の水やりの度に胸が躍った。日を追うごとに少しずつ膨らんでいく蕾。今はまだ一つだけだけれど、いつか枝一杯に咲くことを思うと楽しみで仕方ない。自分一人なのをいいことに、緩んだにやけ面のまま水をやる。
楽しみを待つ時間というのは非常に長く感じるもので、ついつい時計やカレンダーをしきりに確認してしまう。あと一週間、あと五日、明日かな? 明後日かな? と猫の誕生を待ち望み、遂にその時がやってくる。
「おはよぉ~、朝ごはんの時間だよぉ~ぉおえええ!?」
普段通りの朝、水やりをしようとした私は、驚きのあまり右手のコップを落としかけた。
「ミー、ミー」
花が、咲いていた。昨晩まで閉じていた蕾が開き、毛の花びらに囲まれて、小さな小さな白猫が私をじっと見つめて鳴いていた。
「ね、ねこ……」
「ミー、ミー」
「ほほ、ほんとにねこちゃんだ!」
瞬間的にテンションが限界値を超え、歓声を上げて身を乗り出す。今すぐにでもすりすりしたい欲望に駆られ腕を伸ばしかけるが、そこはなんとか抑え込む。この子はまだ産まれたばかり。急にベタベタしたら嫌がられるかもしれないからね。まずは水やりをしながら挨拶しなきゃ。
「おはよぉ、はじめましてだね。私があなたのママよ~。小さくてかわいいねぇ。これからよろしくね~」
人差し指を近づけると、ねこちゃんは鼻先を上げてくんくんと匂いを嗅いでくる。花から出ているのは首までで、あまり自分で動くことはできないらしい。そのまま頬へと指を移動させ、こしょこしょと撫でてみると、ねこちゃんは目を閉じて心地よさそうにしていた。
これよこれ! 私が求めていたのは! 内心弾けそうになりながらも、ねこちゃんの手前平静を装う。
「さ、朝ごはんだよ。ちゃんと飲んで元気に育ってね」
水を土に染みこませると、ねこちゃんが嬉しそうにミーミーと鳴いた。水やりで喜ぶあたりはいかにも植物らしい。
水をやり終わったところで、コップを机に置き、私は居住まいを正す。新たな命を迎えた今必要な儀式、命名式を執り行う必要があるのである。
折角うちの子になったんだから、愛着を持って可愛がるには名前を付けないとね。改めて子猫を覗き込んでみると、白い毛並みに一切の濁りはなく、その瞳は吸い込まれそうなほどに澄んだ青色をしている。
あらかじめ名前の候補はいくつか考えていた。その中で、この子の清白さを表す意味も込めて、こう名付けよう。
「ベル、これがあなたの名前よ」
よろしくね~ベル、ともう一度撫でると、返事をするようにミーと鳴いた。
***
猫のいる生活ってなんて素敵だろう!
まず可愛い。何よりも可愛い。どこまでも可愛い。鳴き声も、まんまるな瞳も、つややかな毛並みも全て。ベルは頭だけなのでお腹に顔を埋めたりはできないけれど、その愛らしさは十分すぎるほどの癒しをもたらしてくれる。家に帰った瞬間にベルの声が私を出迎えてくれて、顎をよしよしすれば甘えるように喉を鳴らす。その様子を見ると、どんなに仕事で疲れていても、苦しくても、私はこの子のために頑張ってるんだって思えて、いくらでも力が湧いてくる気がするのだ。
一人暮らしを始めてからの約五年間。猫のなる木に出会えなかったことを本当に悔しく思えるほど、ベルの存在は私に活力を与えてくれる。こんな日がずっと続くと思うと、毎日の生活に色が付き、眩しく見えてくるのだ。過去の灰色の日々とは大違いである。
そして今日もまた、辛く苦しい仕事を乗り切った。ちょっとだけミスしちゃって、上司からネチネチ小言を言われまくったけれど、今の私はびくともしない。だって、家に帰ればベルがいるんだもの。
軽い足取りのまま家路を急ぎ、鍵を開けてドアを開く。
「ただいま~!」
真っ暗な家の中。でも、私の帰りに気付いたベルが可愛らしく鳴いて……。
「ベル? ただいま~」
鳴き声がしない。普段だったら毎回おかえりを言ってくれるのに。心配になり、ベルのところへ急ぐ。
「ベル? 大丈夫?」
リビングの電気を付け、窓際へ視線を向ける。ベルは大きくあくびをすると、今気づいたように私を見つめ、いつものように可愛らしい鳴き声を上げた。
「なんだぁ、寝てただけか~。もぉ、びっくりさせないでよね~、うりうり」
腹いせに頭を撫でてやると、ベルはされるがままにゴロゴロと喉を鳴らしていた。
それから水をやって、夜ご飯とお風呂を済ませて、ベルにおやすみを言ってベッドに潜り、やがて朝が来る。
普段通りの目覚ましに起こされた私は、朝一の日課であるベルへの水やりのため、コップ一杯の水を汲む。
「ベル~、朝ごはんだよ~」
しかし返事がない。いつもなら待ってましたと言わんばかりにミーミー鳴くのに。昨日も眠そうだったし、ベルも最近疲れ気味なのかな? 少し心配になりながら窓際に行くと、ベルは目を瞑ったまま俯いていた。
「ベル? 朝だよ?」
やはり返事がない。流石に何かおかしいと思い、ベルの頭へ手を伸ばそうとすると。
……ボトッ。
落ちた。土の上に、ベルの頭が花ごと落ちた。
時間の流れがぴたりと止まる。もう一度名前を呼んでも、ベルは全く口を開かない。ベルが付いていた枝先の断面を見ると、赤みを帯びた液体が滴っている。
これは一体何の冗談なの? この前産まれたばかりなのに、これじゃまるで――。
一つの概念が脳裏を過った瞬間、心臓が脈打ち、肺が酸素を求め始めた。
「……はぁ、はあ、ああっ、ああああ! ああああああああ! ベルゥ!!」
コップを投げ出して急いでベルを拾い上げる。冷たくて息も無い。嘘だ、一昨日まで元気そのものだったのに!
死んだ? ベルが? どうして? 世話の仕方が悪かったの? いやそれよりまずは病院! だめ、明らかに手遅れだし、この子を見てくれる病院がそもそも無い。何がいけなかったの? 水のやりすぎ? もっと日に当てるべきだった? 分からない。あぁ、ベル。死なせちゃってごめん。出来の悪い飼い主でごめんなさい……。
言葉の嵐が脳内を掻き乱し、涙が溢れて止まらなかった。ベルとの生活が始まってから、たったの二週間後の出来事だった。あまりにも短すぎた時間の中で、この子を笑顔で送ってあげられるほどの気持ちなんて作れるはずがなかった。堪えるように目蓋を閉じると、目の前に浮かぶのは元気なベルの姿。もう二度と見ることは叶わない。でも、受け入れざるを得ない。
心の隅に僅かに残った冷静な自分が呟く。
「ぅぐ、ひっく……埋めて、あげないと」
早朝、朝ごはんも食べず、碌に着替えもせずに家を出る。向かった先は近所の小さな公園。砂場と滑り台しかなく、あまり子供も遊ばないが、丁度良い気がした。公園の隅の、一番大きな木の根元に埋めることにする。
持ってきたシャベルで土を掘り起こし、ベルをやさしく寝かせ、土を被せる前にもう一度ベルの顔を見る。安らかな顔。眠ってると言われても疑わない。
もっと長く、普通の猫と同じくらいは生きると、当然のように思ってた。ベルだって長生きしたかったはずなのに。
「ごめんね……」
決して帰ってこない返事を期待しながらそっと土を被せ、しばらくお墓の前で呆然としていた。
それからどれくらい時間が経ったか、気付けば日が高く昇っており、家に帰るとスマホが鳴っていた。上司からだった。
今だに涙が引かないためそのまま出ると、いの一番に怒号が飛んできた。理由は勿論、どうして会社に来ないのか、だ。
怒りに任せて罵倒する上司の声を聞くと、ベルのことをより思い出す。仕事でいくら辛いことがあってもベルがいたから耐えられた、乗り越えられた。でも、もう二度と帰ってこない。その事実を眼前に突き付けられているようで、上司に聞かれるのも構わず声を上げて泣いた。
「おい! 泣いたってどうにもならんぞ! 早く会社来い!」
「死んじゃったんですぅ……」
「はぁ?」
「死んじゃったんです! ベルが! ああああぁ!」
そのまま電話を切り、スマホを放り出す。また着信が鳴り出したけれど一切構うことなく、ベッドに顔を埋めて泣き続けた。
それから何時間経っただろう。知らぬ間に眠り、起きた頃には日が大分傾いていた。もうすっかり夕方だ。今日はあんな感じで仕事すっぽかしちゃったけれど、明日はそうもいかない。生きていくためには仕方のないことだから。
後ろを振り向くと、ベルのいなくなった猫のなる木。名残を惜しむように、かつてベルのいた場所を撫でる。花の部分だけ綺麗に落ちていて、まるで初めからベルなんていなかったかのよう。そのすぐ隣には小さな膨らみが見えた。
「……え?」
蕾だ。まったく気づかなかった。今までベルの陰に隠れて見えなかったんだ。
ベルは確かに死んじゃったけど、木はまだ生きてる。これは新たな命の兆し。まだやり直せるんだ。
「こうしちゃいられない」
朝に割ってしまったコップを急いで片付け、いそいそと新たに水を汲む。
***
ネットなどで調べてる限り、この木に咲く猫の寿命は二週間前後らしく、ベルは寿命で亡くなったらしい。かと言って、ベルの死を当然のものと割り切ることはできなかった。どの道短い命なら、もっと可愛がってあげていれば、もっといい思いをさせてあげていればと、後悔の念が晴れることはない。それを唯一紛らわせる方法は一つだけ。
「ハルタ、ごはんだよ~」
「ミー、ミー」
二つ目の命、キジトラのハルタに精一杯の愛情を注ぐこと。ベルよりも沢山話しかけ、沢山ナデナデし、長い時間を一緒に過ごした。それでも足りないと感じた私は、テレビのCMを見て雷に打たれた。
「そっか! やっぱり猫の大好物と言えばチュールだよね!」
この時、既にハルタの寿命は残り一週間程度。説明書にはペットフード禁止と書かれていたけれど、少しぐらいならきっと大丈夫。もし嫌いなら食べないだけ。逆に喜んで食べてくれるなら、それはハルタにとって幸せということだから。
「ほぉら、ハルタ、おいしいおいしいチュールだよ~」
私が傍に寄ると、ハルタは甘えるようにミーミーと鳴く。その口元にチュールを出した小皿を近づけると、興味津々に匂いを嗅ぎ、ぺろりとひと舐め。どうやら気に入ったようで、その後は凄い勢いで皿を舐め始めた。
「ふふ、おいしい?」
チュール一本分とは言え、ハルタの大きさからしたら量が少し多かったはず。なのに瞬く間に皿が綺麗になり、気付けば完食していた。満足そうに口周りをペロペロ舐めるハルタを見て、私もまた胸の奥が満たされていく。
普通の猫と同じく、この木に咲く猫もチュールが好き。それを知った私は、一日に一本おやつとしてあげることにした。普通の猫ならあげ過ぎと怒られるところだけど、この子は寿命が短い。少し甘やかすくらいは許してもらえるだろう。
次の日、その次の日もチュールをあげて、ハルタは毎回幸せそうに完食する。食べ終わった後の口周りのペロペロを眺めながら、ふと違和感を覚えた。
「ハルタ、ちょっと首長くなった?」
毛でできた花びらに囲まれ、頭だけが顔を出す状態だったハルタ。前は耳のすぐ後ろまでしか出てなかったはずなのに、その後ろに空間ができて少し余裕がある。ベルのときは気付かなかったけれど、そういうものなのか、あるいは個体差なのかもしれない。
まあいっか、と特段気にすることもなくその日は終わり、次の日。
「やっぱり伸びてる」
明らかに首が伸びていた。昨日は少し首があるかな~程度だったが、今は胸の上あたりまで出ていた。加えて花の根元の部分も、少し膨らんで見える。流石に少し不安だけれど、当の本人であるハルタはむしろ以前より元気な様子。きっとチュールのお陰で成長しただけだろう。そう思えばむしろこの変化は喜ばしいものだ。
次の日は胴体が更に伸び、次の日には前足が露わになった。ベルと違い元気の衰えは全く見せず、やがてハルタが産まれてから二週間後のこと。
「ミー!」
「……うそ」
朝起きると、私の胸の上にハルタが乗っていた。手の平に乗るほどの小さい体だけど、ちゃんと立派に足と尻尾もある。普通の猫をミニチュアにしたような生き物がそこにいた。
木のほうへ顔を向けると、ベルのときと同じように花びらが土の上に落ちているが、ハルタの顔はそこにはない。ハルタは今、五体満足な体を持って私の前に立っている。
「ミー!」
その声もハルタそのもの。ごはんの時間に鳴く声だ。
ハルタは生きてる、寿命を迎えたはずなのに。
カーテンの隙間から射す光が強くなり、ハルタの姿が光をまとって鮮明に映る。疑いようがない。目の前の光景は、紛れもなく現実なのだ。
いつも通りのごはんの時間にハルタが元気に鳴いている。きっとお腹を空かせている。ふとベルのことを思い出し、ハルタが急に愛おしくなった。
「おはよう、ハルタ。ごはんにしよっか」
「ミー!」
今はまだチュールしかない。今日、仕事帰りにキャットフード買わないと。
ゆっくりと体を起こし、微笑みかけながらハルタの頭を優しく撫でた。
***
産まれたばかりのハルタは、よく食べ、よく遊び、よく眠る、まさに普通の子猫だった。私のことを母親と思っているのか、これでもかと甘えてくる様は私の心を奪って離さない。可愛い可愛い猫との生活、夢にまで見た光景が、まさに目の前で実現しているのだから。
けれど偶に、ほんの少しだけ、幸せな夢から醒めそうになる。例えばそれは平日の早朝、仕事の為に家から一歩外へ出たとき。扉の閉まる音とともに、私の中の冷静さが首をもたげる。
ハルタはいつまで猫なのだろうか。
よく食べ、よく遊び、よく眠る普通の子猫に見えても、あれは植物から産まれた生き物だ。あの子は初め、小さな蕾の中にいて、それが花開き、やがて猫として産み落とされた。それなら今元気に駆け回っているあの子は、植物で言う果実、もしくは種にあたるのではないだろうか。
種はやがて芽を出し、日の光を求めて空を目指し、やがて多くの命を育むだろう。そのサイクルに、きっと終わりは来ない。
「君はいつまで猫なんだろうねぇ」
僅かに残る冷静な私が呟く。ハルタは意に介さず、膝の上でのんきにあくびをするばかり。その愛らしさが再び私を夢へと誘うのだ。
とある休日の昼下がり。数か月前に新調したカーテンは、この子のいたずらですっかりボロボロになっていた。
過去を懐かしむように窓際へ目を向けると、開いたカーテンの隙間から射し込む光に照らされ、縁取られたように木が光っている。その枝先には、新たな蕾がいくつもなっていた。