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美しさと完璧さは相いれないものか、それとも

 「え、それは……今ですか」


 僕はダンスはどうにか人並み程度であるが、楽器全般はそれなりに得意な方だ。姉のダンスの練習のためにリュートを弾くのも普段なら喜んで行っていたことだろう。が、よりによって今でなくてもいいじゃないかという気分だった。

 

「アルダート公爵家のパーティーにどうしても出席しなければならないの。ぜひ私と踊りたいという高貴な方がいらっしゃるのですって。だから私、今度は絶対に失敗などしたくなくて……」

「わかりました、すぐに始めましょう」


 姉の言葉を聞いた僕が態度を豹変させたことを責めないでもらいたい。我が家にとっても姉にとっても望外の幸運がめぐってきたかもしれないのだ。

 いや、もちろん僕だって世間の常識はよく知っている。仮に、ヴィトス殿下が姉を見初めたのだとしても正妻に迎えるという話にはなりようがないことも。しかし、この間から姉の態度を見ていて感じたことだが、どうやら姉はヴィトス殿下に想いを寄せているような気がする。ならば、愛人という立場であろうとかまわないのではないだろうか。

 父や母はいずれ殿下が正妻を娶った際に姉が辛い思いをするのではと心配するかもしれないが、その時はその時だ。ヴィトス殿下は用済みの愛人を無慈悲に見捨てるような人とは思えないから、それなりに生活の保障はしてくださるであろう。姉の心の問題は……その時にこそ僕たち家族がしっかりと支えるしかない。

 未来の不安を理由にもしも両親が反対に回るようなことがあっても、僕がきちんと説得しなければ。


 申し訳ないなと思いながら僕はキャスリーンに舞踏室から出ていくように言ったが、彼女は特に気分を害した風ではなかった。それを寂しく思わないわけではなかったが、僕は姉の指示通りにリュートを奏で続けることを優先した。


 まさかそれがその日夜遅くどころか、次の日中と、さらにその次の日の朝食後までもずっと続くとは思わなかったのだけれど。


◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


 もともとダンスが好きな姉ではあるのだが、芸術の女神の加護に加え、今回は恋愛の女神の大いなる加護も受けているせいに違いない。その集中力と持久力は恐るべきものだった。僕は伴奏だけではなく、踊りのパートナーまで務めさせられ(その際は呼び寄せられたオルジェが拍子だけを取っていた)昼前にようやく解放された時には疲労困憊で頭も体もまともに働かない状態だったというのに、姉は急ぎ仕上げてもらった新しいドレスを受け取るため、昼食も食べずに出かけて行ったのだ。


 そして完璧に仕上がったドレスを受け取って帰ってきた今は、宝飾品や化粧との組み合わせによってさらに完璧さに磨きをかけるのだとか言ってキャスリーンをはじめとするメイドたちと自室にこもって忙しくしている。コックが簡単につまめる軽食を作って届けたそうだから空腹のままでいることは多分ないのだろう。そう思いたい。


「そうか。すっかり元気になったんだなあ」


 疲れ切った僕の目の前でのんきそうに笑っているのは父方のはとこであるエルナンだ。彼は由緒ある侯爵家の長男であり、いかにも育ちの良さそうな風情を漂わせた好男子である。女性にしては高めの身長を持つ姉だが、長身のエルナンと並ぶと絵に描いたようにしっくりとくる。

 何も知らない子どもの頃の僕は姉とエルナンが将来は結婚するものと決めてかかっていたが、残念ながらそのように都合のよい話はそうそう転がっているものではない。エルナンの家は由緒ある侯爵家とはいえ、財政的には決して豊かとは言い難いのだ。体面を保つ必要が多い分だけひょっとすると家計のやりくりは我が家よりもっと苦労しているかもしれない。「嫡男の義務として、莫大な持参金付きの花嫁をもらわねばならないな」とたびたび口にするのは冗談ばかりでもないような気がする。


 というわけで単なるはとこ同士でしかない、姉とエルナンの関係ではあるがそれがかえって気安いのだろう、パーティーへのエスコート役を務めてもらうことは多かった。まして今回はアルダート公爵家のパーティーで『虹の精霊の円舞』を披露せねばならないのだから、気心の知れた彼が傍にいてくれるのは非常に有り難い。


「パーティーに出るのはまだ気が進まないかと心配していたんだが、出席してもらえてよかったよ」

「アルダート公爵家からの招待では断りづらいでしょう。それにあなたにも迷惑がかかりますし」


 招待状を届け、公爵からの伝言を伝えたのがエルナンだったのだ。おそらく姉を説得するようにも言われていたに違いない。


「え、僕のためなのか? それだったら悪いことをしたな、僕の面目なんて気に掛ける必要はないのに」

「あ、いや、違いますよ。むしろあなたからの伝言のおかげで、姉は元気に……元気すぎて心配になるぐらいですから」


 疲労のせいで僕は言葉を選ぶ余裕がなくなっていた。エルナンは軽く眉をひそめ、姉の部屋のあるあたりを見上げている。室内では大騒ぎの真っ最中かもしれないが、僕たちのいる玄関ホールまで声や物音が響いてくることはなかった。

 

「気合が入るのはわからなくもないが、そこまで堅苦しく考えることもないさ。もう一度ダンスをしてみたい、できれば『虹の精霊の円舞』をというだけの申し出なんだから」

「わかってますよ。過剰な期待はしないようにしています。姉にもそう言いましたが、耳に入っていたかどうか」

「ま、僕の見るところ期待はしてよいように思うけれどね」

「そうなんですか?」

「ああ。断られるんじゃないかとかなり心配されていたからなあ。あの方の申し出を断る女性などそうそういないだろうに」

「謙虚なお人柄なんですね」


 ヴィトス殿下らしいという気がして僕はそう言ったのだが、エルナンは微妙な笑顔を浮かべた。


「謙虚、とは違うかもしれないんだが……まあ、けっこう頑固なところもあるし、とはいえ基本的には気のいい方だよ。あの方との縁ができるのはトゥーラにとってもブルハトの家にとっても悪い話ではないだろう」

「そうですね、僕としては姉の気持ちを大切に思ってくださるのであれば……」


 僕が言いかけたところで姉の部屋のドアが開く音がした。完璧に身支度を整えた姉が廊下を進んでくる。その後ろに付き従うのはこちらも完璧に仕立てられたお仕着せを身につけたキャスリーンだ。

 

「エルナン、お待たせしてごめんなさいね。さあ、まいりましょう」


 優雅な足取りで大階段を降りてきた姉はまさに銀の鈴をふるわせるような声でそう言った。

 濃い緑色の生地で作られた上品なドレスにエメラルドの首飾りがゆるぎない華やかさを与えている。姉が一目見て買わずにいられなかったというだけあって見事な細工だ。どこか古典的な意匠も今夜の装いとしてふさわしいにちがいない。

 姉の美貌を見慣れているはずのエルナンがしばらくは口もきけないほど見惚れているぐらいだ。


「……なんというか、すごいね。アストラフト中の男を虜にするつもりかい?」

「私が虜にしたいのは一人だけ、それで充分よ」


 誇りかな笑みを見せてエルナンと言葉を交わしている姉の姿を目の端に捕らえつつ、僕はキャスリーンに話しかけた。


「はじめてのお伴で緊張するだろうが、大丈夫だよ。わからないことがあったら周りの誰かに聞けばいい。新入りだと知れば皆親切にしてくれるはずだから」

「は、はい。きちんとご挨拶して言葉遣いに気をつけさえすれば大丈夫だと言われました。それから、あまり喋りすぎないようにって。私のせいでトゥーラ様にご迷惑がかかるようなことがないよう気をつけます」


 緊張して肩に力が入りすぎている気はしたが、その点はやむをえないだろう。田舎から出てきたばかりの彼女にとって公爵家のパーティーというのは、とんでもなく大きな催しだ。

 だが、アルダート家ほどの名門であれば使用人の質もかなり高く、人数も揃っている。個人的に連れていったメイドがしなければならないことはほとんどないはずだ。パーティーが終わるまで伴待ち部屋で他家のメイドと過ごしていれば済む可能性も高い。初めての経験としてはむしろうってつけと言えそうだ。


「楽しんでくる、のは難しいかな。でも豪華なパーティーの雰囲気を遠くからでも味わってくるのはきっといい経験になる」


 勇気づけるつもりで僕は言った。キャスリーンは一分の隙も無く結い上げられた髪型が崩れるのを恐れるかのようにぎこちなく僕に一礼し、姉とエルナンの後について玄関の扉を出ていった。


 僕は自室に戻り、しばらく軽めの本を読んだ後でベッドに入った。姉の幸運を祈り、明日にはキャスリーンから詳しい話を聞こうなどと考えながら眠りにつく。

 エルナンとの会話の中で重要な一語を聞き流していた可能性など、僕の脳裏をかすめもしなかった。

 しかし、確かに彼は言っていたのだ。「もう一度ダンスを」と。

 

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