野菜畑にて、新入りメイドとの出会い
僕の実家の裏手にはそれなりの規模の畑が作られている。
王都エレシスにはもちろん常設の市場はあるし、郊外の農家からやって来る野菜売りも頻繁に近所を通りかかる。だから新鮮な野菜を手に入れるのにそれほど苦労するというわけではない。
だが、何度も言うようだが我が家は貴族の中ではかなり困窮している部類に属する。節約できる部分はするに越したことはない。
季節ごとに色とりどりの花が咲き乱れていたかつての庭園があちこち掘り返され、隅には堆肥の山が積まれている様子を現在より多少は羽振りが良かった頃の先祖が見れば嘆き悲しむではあろうが、背に腹は代えられない。これまでのところ恨みつらみを述べるために先祖の誰だかが化けて出たという話もないから良しとしておこう。
さて僕が遅めの朝食を済ませた後でここに来た理由だが、さすがに畑仕事を手伝おうと思ったわけではない。いや、どうしてもと言われればやっても構いはしないが、僕は今休暇中だ。窮屈な寮生活と厳しい授業からようやく解放されたのだからできることなら二週間の休暇を存分に満喫したい。
「姉上も、元気になったようだし……」
僕は大きく伸びをして呟いた。
そうそう、昨夜僕が姉の愚痴を聞いたのはほんの小1時間ほどだった。僕が奨学金の残りを使って買い求めた王都で評判の林檎パイのおかげも多少はあるだろうが、姉自身も立ち直るきっかけを探していたところだったのに違いない。
元気になった姉は朝食をしっかりと食べ終えると、新しいドレスをあつらえるのだと張り切って仕立て屋に出かけて行った。その様子を見たオルジェやパメラをはじめとする使用人たちは安心し、ようやく自分たちの務めを果たすことに力を注ぎだしたようだ。
「それはいいんだが、何もいきなり館中の大掃除を始めなくてもなあ」
見上げれば窓という窓が大きく開け放たれ、そこかしこで敷物や家具の覆いがふるわれている。確かに昨日自分の部屋に戻った際、どことなくほこりっぽい気はしていたから有り難いことではあるのだが、そもそも休暇になったら僕が帰って来ることは予定の内だっただろうに……いや、きっとこの一週間ほど姉のことが心配で皆心ここにあらずだったのだ。決して僕の部屋の掃除が半年間忘れられていたわけでは、多分ない。
かくして館内に居場所のない僕は適当な本を一冊だけ持って、一応は裏庭ということになっている、おそらくまだ畑にされていないというだけの場所にやってきていた。古ぼけた木の椅子が置かれていたので、壊れていないことを確認した後でそれに腰かける。
クシュン
近くでくしゃみの音が聞こえたのは栞を挟んでいたページを開いて三行ほど読み終えた時だった。ふと見ると若いメイドが洗濯物の山を抱えてくしゃみを繰り返している。見覚えのない顔だ。
そもそも我が家に若いと言える使用人はほとんどいない。うちに住み込んでいるのは祖父母の代から務めている執事のオルジェとメイド長のパメラ、母が嫁いでくる時に実家から連れてきた料理番と庭師の四人だけ。通いでやって来る数名のメイドは近所に住む主婦や未亡人だ。
ようやくくしゃみのおさまったメイドが僕を見つけ、慌てて頭を下げた。
「ぼっちゃま、ここにいらっしゃったんですか。すみません、あたし全然気が付かなくって……」
言葉遣いと態度からすると田舎から出てきたばかりの新入りか。これまでの例からすれば他に良い働き口が見つかったら早々に辞めてしまうのだろうな。我が家の出せる給料では故郷にろくに仕送りもできないだろうからどうしようもないが。
「中はほこりがすごいだろう。逃げ出せて良かったな」
言いながら僕はあらためて彼女の顔を見た。切れ長の目と形の良い額をした、いかにもしっかり者といった顔立ちだ。きつい印象に偏らないのは頬のそばかすとゆるく波打った茶色の髪のせいだろうか。
「こっちはこっちで大変ですけどね。水は冷たいし手は荒れるし。でも村にいるころより楽しいかも。ぼろぼろで継ぎはぎだらけの服じゃあちょっとぐらい汚れを落としたところで、って感じですけど、このお屋敷のは洗いがいがあるっていうか、すっごく綺麗なものばっかりじゃないですか。だから、きちんと洗ってお手入れしておこうってやる気が出ます」
「そういうものか……」
僕はなんとなく口ごもった。洗濯物の中には当然僕の下着類も混ざっているはずだ。
洗濯物の山を半ば強引に奪い取って、僕は彼女とともに物置小屋の傍の洗濯場に向かった。
彼女は驚いて、ひょっとすると呆れてもいたかもしれないが、『学院の寮では自分の身の回りの世話は自分で済ますよう指導されるんだ』という僕の説明で一応は納得してくれたようだ。
(ちなみに寮生活で行う自分の身の回りの世話とは着替えやせいぜい部屋の掃除ぐらいのことだ。それでも側仕えの者なしに生活したことのない高位貴族の子弟は当初なかなか苦労するらしい)
「お掃除だって、村のあたしん家じゃあちょっとばかり埃にまみれてようが誰も気にしやしませんけど、ここは毎日オルジェさんが隅々まで目を光らせてますからねえ。あ、確かにこのところは皆さん仕事どころじゃないって感じでしたけど、そりゃあ仕方ありませんよ。だって何しろ……」
洗濯物の仕分けを手伝うふりをしながら、僕はさりげなく自分の衣類を自分の方に引き寄せていた。若いメイドはおしゃべりに夢中かと思いきや、僕の手元を見て鋭く指摘する。
「駄目ですよ。それは一緒に洗うと色落ちしてしまうんです。こっちに寄越してくださいな」
「ああ、すまない。えっと、そういえば君の名前は?」
彼女の名前をまだ聞いていなかった。残念ながら彼女の方から気を利かせて名乗ってくれるようなこともなかったし。
「あ、あたしはキャスリーンです。エルダおばさんが腰を悪くしちゃって、看病するためにあたしがブルハトのご領主様のお屋敷に呼ばれて、おばさんはわりとすぐに良くなったんですけどあたしが働き口を探してるって言ったら王都のお屋敷の方で人手が必要になるだろうからってこっちに来ることになって」
ブルハトのご領主様というのが要するに僕の父だ。ご領主様というとたいそうなようだが、ブルハト子爵家の領地は隣り合う公爵家の別荘の敷地と面積において大差ない。土地の収益に関しては確実にあちらの方が優っているだろう。
まあ彼女にとっては立派なご領主様なのだろうし、実際僕の父は政治や金勘定は苦手だが、まったく無能というわけでもない。悪辣に税を取り立てるような真似はしないというかできないから領民には好かれているし。
「エルダの姪か」
「ほんとのところ大おばだかなんだか、よくわかんないんですけど。とにかく親戚です」
エルダはかつて母の乳母を務めていた女性だ。母とともに我が家の領地であるブルハトに移り、あちらの屋敷を切り盛りしてくれている。
「王都に来てどれぐらいになる?」
「半月とちょっとですね。ようやく仕事の段取りがわかってきたかなって思ったところにこの騒ぎで……」
エルダの親戚というなら身元は確かだろう。ということはキャスリーンは姉が男爵家に嫁ぐ際にともなうために雇われたに違いない。エンシハール男爵家の奥方付きのメイドともなればきっと高給が保証されていただろうに。
「悪かったな、当てがはずれてしまって」
軽く頭を下げて謝る僕をキャスリーンは不思議そうに眺めている。
「どうして坊ちゃまが謝るんですか?」
「いや、姉上の縁談がなくなったから……その、お前の働き口がさ」
僕がそう言ったところで、キャスリーンは初めて暗い表情になった。
「もしかして、あたし村に帰らないといけませんか?」
「あ、いや。そんなことはない、多分。そうじゃなくて、我が家は男爵家みたいに高い給料は払えないから。ほら、家族に仕送りとか」
「仕送りは出来るに越したことはないですけどね。とりあえずあたし一人食べる分が減るだけでもうちは助かるんで。どうかもうしばらくは置いていただけないでしょうか?」
じっと見つめられ真剣な表情で懇願されてはとても否とは言えない。
「そういうことなら、僕からもオルジェに話をしておくよ。我が家は貧乏貴族だが、さすがにお前一人を食べさせるのに難儀することはないからな」
「ありがとうございます。オルジェさんにもパメラさんにもよくしていただいてるし、他の皆さんもいい人ばかりだし、ここで働けて本当に良かったってあたし思ってるんですよ」
キャスリーンは明るい笑顔になり、てきぱきと洗濯物を仕分け終えた。取水口から流れ出す冷たい水をものともせず、おそらく姉の物であろう繊細なレースの付いた何かを一枚ずつ丁寧な手つきで洗っていく。
僕は彼女の方をちらちらと眺めながら自分の下着を手早く洗い、目立たない場所にこっそりと干した。
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洗濯を終えたキャスリーンは昼食の支度を手伝うために台所に向かい、僕は掃除の済んだ自室へと戻っていた。
読みかけの本を再び開いたものの、興味が続かずすぐに閉じてしまった。なんとなく手持ぶさたで学院から持ち帰った荷物の整理を始めてみる。寄せ木細工の小箱に入った雑多な道具を一つ一つ取り出し、窓辺の小机に並べながら、僕はなんとなく考えた。
(卒業して官僚にでもなれたら、それなりの俸給をもらえるようになるだろう。そうなったら館の傷んだところを修復もできるだろうし、ここに住むのもそう悪くはないかもしれない)
僕の甘い考えをまたもや神々が戒めているのだろうか、しばらくして玄関の方で騒ぎが起こった。どうやら姉が帰宅したらしいが、どうも様子がおかしい。
急いで階段を下りた僕の目に、顔面蒼白になって執事のオルジェに支えられている姉の姿が飛び込んできた。メイド長のパメラが気付け薬を手にこちらへとやって来る。
「トゥーラ様、お嬢様。どうかお気を確かに」
気付け薬を嗅がされた姉は、大きく息をつくと、今度はわっと泣き出してしまう。まさか街でエンシハール男爵とでも出くわしたかと危ぶんで、僕は姉の傍に駆け寄った。
「大丈夫ですか、姉上。何があったんですか?」
「アトレ……私、本当に馬鹿な真似を。お父様や、何よりあなたに申し訳がなくて……」
泣き崩れる姉をオルジェと二人で支え、どうにか居間のソファのところまで運んでいった。正午をかなり過ぎ、そろそろ空腹を覚え始めていた僕だったが食事は後回しにするしかなさそうだった。