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朝食後に現れた不審な人影は……

 もう少し遠回しな表現というものがなかったのかという僕自身の後悔はひとまず置いておこう。


 僕の言葉を聞いた姉は二度まばたきをしてから、不意に崩れ落ちた。僕が慌てずに済んだのは気を失った姉がちょうどソファに横になる形で倒れ込んでくれたおかげだ。

 幸い、何度か呼びかけると姉は目を覚ました。僕は小テーブルの上にあった水差しからグラスに水を注ぎ、手を添えながらゆっくりと姉に飲ませた。


「どうして……わかったの……」


 震え声ではあるが、泣くことも怒ることもなく姉は穏やかに言った。僕は姉が楽な姿勢がとれるように手を貸し、それから手近な椅子を引き寄せてきてそばに座った。


「姉上の様子を見ていて何となく。間違いでしたら申し訳ありません」

「いえ、間違いではないわ。そうなの、私はヴィトス殿下のことを……」

「でしたら何故……、いや……ヴィトス殿下を諦めてしまうのかといったような話をしたいわけではないんです。ただ、姉上がエラト殿下の愛人になるということはヴィトス殿下にお会いする機会も自然と増えてしまうんですよ」


 まさかヴィトス殿下にお目にかかる機会を増やして、エラト殿下からヴィトス殿下に乗り換える機会をうかがうつもりなのだろうか。姉にそんな真似ができると信じるぐらいなら太陽が西から上ることを信じた方がましだという気もするが、恋心というものは時として人を狂わせる、らしい。

 いやいや、だいたいそのようなはかりごとをたくらむ女性が、ヴィトス殿下への恋心を僕に指摘されたぐらいで気絶していたのでは元から話にならないだろう。悪女の素質が姉にあるとはやはり到底思えない。


「それは、耐えるしかないと思うわ。辛いことだけれど」

「耐えるって、つまりエラト殿下はそこまで姉上にご執心ということなんですか? 姉上に断る余地を与えないほどに」


 エラト殿下が本気で、正式に、結婚の申し込みをされるということであればアストラフトの貴族として謹んでお受けせざるをえない。だが待て、姉は先ほど愛人になるかもしれないと言っていた。それならば家族が揃って反対しているといえば何とかなるか。僕は官僚ではなく神官を目指すことになるかもしれないが。


「お断りすることは……できるんじゃないかしら。エラト殿下は決して強引な方ではないから」

「では、なぜ姉上は辛い思いを耐えてまで……」

「耐えるだけの暮らしにはならないと思うの。私は華やかなことが好きだし、エラト殿下とダンスをするのが楽しいのは本当よ」


 ダンスをする以外のことはどうなんですかと問いただしたくなる気持ちを僕はぐっと抑えた。それはあまりにも慎みがなさすぎるし、姉をそこまで追い詰めたくもない。


「私ももうすぐ二十一歳になるし、そろそろお父様やお母様を安心させてあげたいと思っているの。できればしかるべき方と正式な結婚をと考えていたのだけれど、エラト殿下の愛人という立場ならばそう悪くもないでしょう?」


 悪くない、どころか願ってもない良縁かもしれない。エルナンに頼み込んで愛人ではなく正式な結婚相手として話を進めてもらえる可能性だって残っている。

 姉が現実的な判断を優先させることに寂しさは感じるが、それは僕自身の勝手な思いにすぎないのだろう。


「わかりました。ですが、まだエラト殿下から具体的なお話があったわけではないんですよね」

「ええ。『遠くないうちに次の機会を』とおっしゃっていただけ」

「では、父上や母上に話すのは今の段階ではやめておきましょう。手放しで喜べる話というわけではないかもしれませんから、上手に話を持っていく必要がありますし」

「それはあなたに任せることにするわ。私は筋道だった話をするのがあまり得意ではないもの」


 あなたがいてくれてよかったと姉は言い、安堵したように微笑んだ。

 休暇が終わるまでにこの一件が進展することが望ましいのかどうか、僕にはまったく判断がつかなかったのだが。


◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


「これだけの料理を朝から誰が食べるというんですか……」


 姉の好物ばかりが並んだ昨夜の夕食は和やかに終わった。姉がそれなりの食欲を見せたため、母はさらに気合が入ったのだろう、今日の朝食のテーブルの上に並んだ料理の品数と量はすさまじいものになっていた。


「ちょっと作りすぎたかしら? でも、どれも美味しいはずよ。そうでしょう? あなた」

「ああ、君の作る料理はどれもすばらしいよ」


 父はいかにも幸せそうに言い、蜂蜜のたっぷりかかったパンケーキの一切れを口に運んだ。そのパンケーキが何枚目のものであるのかは、父の体型から推測するだけにしておこう。


「僕はビスケットとスープだけでいいよ」


 母が料理上手であるのは確かだが、勧められるままに食べていたら将来後悔することになるかもしれない。それに寮生活では適量にやや足りないぐらいの質素な食事が当たり前だから、美味い食事に舌が慣れてしまうと後々辛そうだ。というわけでオルジェにそう言ったのだが、それを聞いた母がひどく悲しそうな顔をした。仕方なくオムレツとハムもよそってもらうことにする。

 

「トゥーラも、もっと食べなさいな」


 木苺のジャムがたっぷりかかったスコーンが載った皿を母は姉の方に押しやっていた。姉の前には大量ではあるものの野菜と果物を中心としたメニューがすでに並んでいる。姉はもっとも小さな一つだけを取り、皿を母の方に押し返した。


「もっと食べたいのはやまやまなのですけれど、新しいドレスが着られなくなると困りますもの。流行のデザインということでウエストをぎりぎりまで細く作ってしまいましたから」

「あら、でも少しぐらいなら、直しに出せば」

「直すのもただではありませんし、せっかくのデザインを崩してしまうことにもなりますわ。そんなもったいないことはできません」

「そう、それなら仕方がないわね……」


 見事な対処能力だと僕は感心した。すべての面においてこの能力が発揮できていれば外交官になれそうな気も……しないか。

 どうやら僕も疲れがたまっているようだ。思えば休暇を満喫することなどほとんどできていない。

 母の無言の圧力に負け、回って来た皿からスコーンを二つ取った僕だったが、今日こそは絶対にのんびりと過ごしてやろうと心に決めた。


◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


 のんびりと過ごす目的で朝食後の僕は裏庭へと向かった。キャスリーンの洗濯を手伝うことは僕にとって別段苦ではない。手際のよくない僕の手伝いを彼女がどう思っているのかについては……この際深く考えないでおくことにする。


「あ、坊ちゃま。じゃない、アトレ様、助けてください」


 僕が裏庭に足を踏み入れると同時に洗濯場の方からキャスリーンが駆けてきた。顔面蒼白で怯えたように僕の上着の裾をつかむ。僕はそうっと彼女の肩に手を置き、ゆっくりと尋ねた。


「どうした、蛇でも出たか?」

「いいえ、蛇じゃありません。ていうか、蛇なんて田舎で見慣れてるんで一人で退治できます。そうじゃなくって……茂みの中に人が、それに私の見間違いじゃなければ刃物か何か持ってるみたいで……」


 武器をもった何者かが裏庭に潜んでいるとは穏やかではなかった。逃亡中の犯罪者か何かだろうか。王都エレシスの治安は決して悪くないから日中に押し入り強盗を働く輩がいるとは思えないのだが。


 何かあればすぐに大声を出すようにと言い含めてキャスリーンをその場に残すと、僕は洗濯場に向かった。奥にある常緑樹の茂みの中で何かがギラリと光る。

 武器になる物を探したが目についたのは物干し竿を上げ下ろしするための棒ぐらいだった。無いよりましとその棒を構えてじりじりと茂みに近づく。


「何者だ。ここをブルハト子爵家と知って入り込んだのか」


 鋭い声で不審者を恫喝したつもりだったが、実際にはどうだったのだろう。僕の剣の腕はダンスよりさらに劣る。武官を目指すわけではないからよいのだ、というのは言い訳で、僕はどうも相手を倒すことに情熱を燃やす性質ではないらしい。

 が、屋敷への侵入者を放置するわけにはいかなかった。自力で捕らえた上で衛兵隊に引き渡すのが筋というものだ。

 とまあ貴族の嫡男としての責任感に震えていた僕だったが、返って来たのは緊張感の欠片もない能天気な声だった。


「ああ助かった。どうも服が枝に引っかかってしまったみたいなんだ。服か枝かどっちかを切るしかないかと思ったんだが、よかったら外すのを手伝ってもらえないかな?」


 その声と同時に茂みの中から短剣が放り出される。

 僕は慎重に歩み寄り、それを拾い上げた。短剣の柄には紋章が刻まれていた。

 アストラフト王家の紋章入りの短剣を持つ、僕と同じほどの年ごろと思われる男性。それにあてはまる名は僕には一つしか思いつかない。


「あ、あなた様は……まさか、エラト殿下?」

「うん。あ、君はアトレかな? トゥーラ嬢から話は聞いてるよ」


 親し気に笑いかけられたものの、茂みの中でなんとも窮屈そうな姿勢をとる殿下にどのような態度で接するべきか、僕は大いに悩んだのだった。


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