林檎パイにはカスタードクリームを添えて
僕の実家は王都エレシスの中でも庶民地区と呼ばれるような場所にある。
由緒正しい大貴族の邸宅ともなれば旧市街でも王宮周辺の便利の良い場所に居を構えているし、経済的に恵まれた新興貴族や大商人であれば城壁外に広大な敷地をもつ屋敷を所有することも可能だが、貧乏子爵家の我が家としては旧市街の端っこに、どうにか貴族としての体面を保てる程度の大きさの館を維持していくのが精一杯だ。
窓を開ければ鶏や家鴨の鳴き声が当たり前のように飛び込んでくるこの一帯は上品で閑静な住宅街とはほど遠い。物売りの露店が並ぶ狭い路地に馬を乗り入れるのも憚られるので、日常の出入りは徒歩で行うことにしているぐらいだ。
とは言うもののだ。僕たちの暮らしを一般庶民同様と表現するのはやはり語弊があるだろう。僕がコルボーの学院で寮住まいをしながら法律学を学んでいられるのも貴族の身分と、ささやかではあるが田舎の領地からの収益があるおかげなのだから。
学院を卒業して首尾よく官僚にでもなれたら、王宮近くに部屋を借りられるぐらいの俸給は出るだろうし。
「っと……しまった」
甘い考えを神々が戒めてでもいるのだろうか、僕はうっかりぬかるみに足を取られてしまった。汚れたブーツと制服の裾を見下ろしてため息をつく。
落ちないしみがついていませんようにと祈りながら歩みを進めるうちに僕は実家の門前へとたどり着いていた。門をくぐって十歩もいかないうちに玄関の扉があると言えば我が家の規模がどの程度のものかおわかりいただけるだろうか。
「お坊ちゃま、アトレ様、よくぞお帰りになられました」
「長旅、お疲れでしたでしょう。どうぞこちらへ」
扉を開けた途端、執事とメイド長にそろって出迎えられて僕はかなり本気で驚いた。なにしろ彼らにとって僕は『部屋に引きこもって本ばかり読んでいる、何を考えてるのかよくわからない、おとなしいだけが取り柄の地味な弟』に過ぎないはずだからだ。
それが今二人とも僕の帰りを待ち焦がれていたとでも言わんばかりの態度をとっている。
「何か、あったのか? いや違う、一体何があったんだ?」
荷物と土産の品をパメラに渡し、学院の制服である黒の長衣を普段着に着替えてから僕は執事のオルジェに尋ねた。オルジェはここ数年減少する一方の毛髪を懸命に撫でつけ、冷静さを保とうと努めているようだった。
口をついて出たのが甲高い震え声では、せっかくの努力も台無しというものだが。
「トゥーラ様のことでございます」
「姉上がどうかしたのか? まさか、姉上の浪費が過ぎて払いきれないほどの借金を抱えてしまったなんてことはないよな?」
「そのようなこと、あるはずもございません! トゥーラ様は確かに贅沢を好まれる向きはおありですが、けっして子爵様やアトレ様にご迷惑がかかるような真似はなさいません!」
オルジェは力強く主張した。声の震えも収まり、日頃の冷静沈着な表情も戻りつつある。
わかっていたことだがこの家の者は上から下まで完全に姉の味方だ。むしろ崇拝者と言ってもいいかもしれない。
将来なんらかの理由で僕の評価が少々上がったところで、うっかり姉の悪口でも言おうものなら……夕食の内容が相当に貧相になり、服の手入れが雑に済まされる程度の扱いは覚悟せねばならない。
「……ああ、つまらない冗談を言った僕が悪かった。では、問題は何なんだ?」
「トゥーラ様のご婚約の件についてでございます」
「そういえば、姉上からの手紙に書いてあったな。エンシハール男爵家の当主と婚約したと。少々年齢はいっているが信頼できる人物との評判は聞いているし、良縁と思っていたのだが」
男爵に愛人か隠し子でも発覚したか、と口に出しかけたところで思いとどまった。オルジェが秘密裏に事を処理しようとしているのであれば、万が一にも姉に盗み聞きなどされてはならない。
だが僕の配慮はまったく不要だったようだ。オルジェは再び甲高い声を上げ、こう言ったのだ。
「婚約が破棄されたのでございます! あちら様から一方的に!」
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
その日の晩、食堂で夕食の席に着いたのは僕一人だった。両親は一昨年から主に田舎の領地で暮らしており、姉はこのところずっと自室に引きこもっているという。
「トゥーラ様のお食事はお部屋の方に運ばせておりますが、ほとんど召し上がっていらっしゃいません」
ため息とともにメイド長のパメラが言う。僕への給仕はきちんとやってくれてはいるものの、いかにも心ここにあらずといった風情だ。ぬるめのスープと味のぼやけたソースのかかった鶏肉を食べ終えた後で、僕は彼女に確認する。
「その……姉上は男爵の一方的な婚約破棄について抗議なり……しなかったんだな」
エンシハール男爵からはかなりの額の慰謝料が支払われたのだとオルジェから聞いた。弁護士の立ち合いのもと、謝罪と情理を尽くした説明が行われたことも。
とはいえ、運命の恋の相手を見つけたので婚約を解消したいという男爵の言い分を姉がすんなりと納得できるとは思い難い。
「はい。無駄だと思われたのでございましょう。あちらには侯爵家の後ろ盾もございますし……」
男爵が運命的な恋に落ちた相手というのは何と街の酒場で下働きをしていた平民の娘であるそうだ。
今回の婚約解消について法律上の手続きを取り扱ったのが某侯爵家に長年仕える弁護士であったために、その娘が侯爵の隠し子ではないかという噂が広がっているそうだが、何の確証もない。
「それでも、お嬢様の傷ついたお心を考えますと私は……アトレ様、このまま泣き寝入りするしかないのでございましょうか?」
泣き寝入りするとパメラは言うが、形の上では互いに納得した上での婚約解消だ。慰謝料も受け取っているのだから、これ以上ごね続けたりすれば非難されるのはこちら側になってしまう。
どこかの王子が身分の低い女性と結婚するために婚約者である公爵令嬢あたりを陰謀によって陥れたとでもいうのならば物珍しさから世間の耳目を集めもしようが、今回の姉のような場合であれば一時的な噂の種になる程度だろう。
下手に騒ぎ立てれば姉の心をさらに傷つける羽目になるし、我が家の使用人たちの嘆きが妙な風に世間に伝わって某侯爵家の不興を買う方が我が子爵家の今後にとっても非常にまずい。
以上のような理由を考え合わせ、僕はどうにかパメラを落ち着かせようと言葉を尽くした。が、ほとんど効果はなかったようだ。
「アトレ様のおっしゃる通りなのではございましょうが……やはり私はお嬢様が不憫で……」
パメラの愚痴は聞き流すしかないと諦め、僕は食後のデザートとして出されたパイを口に運んだ。姉が喜ぶだろうと王都で評判の店に並んで買い求めたものだから、この状況で一人で食べるとなると何とも味気ない。
半分ほど食べ終えたところで僕はふと思いついた。
「姉上にはしばらく田舎の領地でゆっくりしてもらったらどうだ。父上も母上も手紙で婚約解消を知らされただけでは得心のいかないことあるだろう。姉上から直接話をしておいた方がいい」
そうしてもらえば僕は休暇中、館で一人のんびりとできる。姉が使用人たちを引き連れていったりすれば家事は少々滞るかもしれないが、短期間であれば僕一人の暮らしぐらいどうとでもなるはずだ。
良い提案だと思ったのだが、パメラにあっさりと却下された。
「それには及びません。子爵様も奥方様もすでにこちらへ向かっておられます」
「素早いな……、ずいぶんと」
パイのかけらが危うく僕の喉につまりかけた。決断力と行動力にはいささか欠ける両親だと思っていたが自慢の娘の一大事となれば話は別らしい。
パメラの差し出した白湯で喉を潤していると、オルジェが食堂に入って来た。表情から判断するに、姉の様子は相変わらずといったところなのだろう。
「ともかくもアトレ様が戻られたことはお伝えいたしましたが……今は誰にも会いたくないとの仰せで」
パメラとオルジェは顔を見合わせて競うように大きなため息をついている。姉の欝々とした気分は館そのものにまで伝染したかのようで、僕の視界に広がる景色には汚れやほころびがやたらと目についた。
このままでは僕の休暇は台無しだ。
両親がやってくれば状況は改善すると思いたいところだが、田舎の領地から王都まではかなりの距離がある。到着したとして、あの人たちが使用人たちと一緒になって姉の心配ばかりし始めては、この家の居心地はますます悪くなるに決まっている。
といって僕に何ができるというのか……
「パメラ、とりあえずお茶の用意を頼む。それから僕の買ってきたパイにクリームを添えて持ってきてくれ」
お茶もクリームも我が家にとっては贅沢品ではあるが、今は非常事態といってよいし、エンシハール男爵からの慰謝料もあることだ。多少の散財は許されるだろう。
一見繊細そうに見えるが、意外にたくましく図太い面も持ち合わせている姉のことだ。美味しい菓子でも食べながら弟相手に愚痴をこぼせば、気持ちが上向きになるきっかけぐらいはつかめるかもしれない。
そもそも部屋に入れてもらえないという可能性も高いが、僕なりの努力をしたのだというところぐらいは見せねばオルジェもパメラも納得してくれないに決まっている。
たいして名案でもなかったが、何もしないよりはましなはずだ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
数十分後、茶器と菓子を満載した盆を持ち、僕は姉の部屋の前に立っていた。
両手がふさがっていたので不作法ではあるが足で扉をノックする。
「姉上、アトレです。お願いですから開けてください。姉上のお好きな林檎のパイをお持ちしました。わざわざ遠回りをして、行列に並んで買ってきたんですよ。紅茶もとっておきの茶葉で入れたものです。だからどうか……」
僕が言い終えるか言い終えないかのうちに扉が細く開いた。銀の鈴を震わせるようなと形容される普段の姉の声とはまるで違う、かすれきった声がする。
「林檎のパイにはちゃんとカスタードを添えてある?」
もちろんですよ。と僕が請け合うと扉は大きく開かれた。どうやら姉に対する僕の洞察力はなかなか優れたものであったようだ。
荒れ果てた部屋の中で半ば埋もれていたテーブルを発見して、その上に盆を置く。香り高いお茶をカップに注ぎ、ベットの上でぼんやりとしている姉に手渡した。
姉はカップを両手で抱え、しばらく立ちのぼる湯気を眺めるともなく眺めていた。それから、一口ずつゆっくりとお茶を飲む。半分ほど飲み終えたところで僕がパイの乗った皿を差し出すとカップをベッドの脇の棚に置き、ごく小さなパイの一かけらにほどよい量のクリームをのせて口に運んだ。
「この世の終わりみたいな気がしていたのに……美味しいものは……やっぱり、こんなにも美味しいのね……」
「今王都で大評判の店ですからね、そりゃあ美味しいですよ。僕はうっかりお茶もクリームも無しで食べてパイ皮をのどに詰まらせそうになってしまいましたが」
僕の言葉を聞いて姉は泣き笑いのような表情を見せた。目の下の隈は目立つが、やつれていても美人はやはり美人なのだなあと身内ながら感心する。
「あなたは昔から慌てんぼうさんね。美味しいお菓子はじっくりと味わって食べるものなのよ」
まだ弱々しい声ではあるものの、話しぶりはいつもの姉の調子を取り戻しかけていた。
僕は自分の紅茶をカップに注ぎ、一晩中でも姉の愚痴を聞き続ける覚悟を決めた。




