第一章「どこにでもある異世界転移」
第一幕
万里小路次郎三郎景実が闘技場でミノタウロスを打ち倒すより18時間前、景実は泥の様なまどろみの中にいた。
(…れ…? …きないわよ……ちゃんと……)
(……丈夫です……を……けば)
グリっ! 鉄の火箸をねじ込まれた様に凄まじい痛みが、胯座から発し背骨を貫いて脳を突き抜ける。
「い……っ…ぎあぁああああ!!」
目を見開いてエビの様に跳ね上がった景実の視界に、己の股間を踏みにじる足が見えた。
「ほら、起きましたよお嬢様。やはりこの手に限りますね」
「ち、ちょっとエンニ! そ、それはあんまりじゃない、そこってその……超イタいっていうか、見てるこっちが……」
銀髪の少女が、もじもじと己の股間を押さえながら、辛そうな表情で身を捩る。
「大丈夫です、ただの突発性おキャン魂痛い痛い症候群ですので、数分もすれば何事もなかった様に回復しますので」
そう言いながら、景実の股間を踏みにじっていたメイド服の女性が足を外した。
「……はっ…はぁ…… な、なに?」
胃が裏返る様な激痛の後に続く嘔吐感さえ漂う継続的な鈍痛。女性に決しては分からないその痛み、突発性おキャン魂痛い痛い症候群により強制的に覚醒させられた景実はあたりを見回す。
状況が掴めない。自分は眠っていたのか、あるいは気を失っていたのだろうか?
目の前には二人の女性、自分の股間を踏みつけた女は二十台半ばに見えた。やや冷たい眼差しと、黒髪のボブヘアの落ち着いた雰囲気の女性。それだけみれば美人秘書か、出来る管理職の女性と言えなくもない。
片眼鏡にメイド服という秋葉スタイルでなければ、の話だが。
「えっと……大丈夫かしら貴方? 生きてる? っていうか、ちゃんと生き返ってるわよね?」
心配そうな表情でこちらを覗き込む顔に、美しい銀髪が流れる。年の頃は15~16か、翡翠色の大きな瞳が目と鼻の先に迫り、ドクンと心臓が大きく跳ねる。
芸能人かなにかと思うほど整った顔立ちの美少女が眼前に迫り、鼻にかかる吐息が花の様に香った。
思わずゴクリと喉が鳴る。
「お嬢様、そんなばっちい存在に不用意に近づいてはなりません。変な病気にかかったら、この私、エンニは旦那様と奥様に顔向けできません」
「――あぎゃっ!」
メイドは丁寧な言葉とは裏腹に、奇妙な形に結い上げられたお嬢様のサイドテールを無造作に引っ張り、俺と少女の距離を離す。
「い、痛いわねエンニ、急に何するのよ! ヘアスタイルが乱れたら直すの大変なのよ!」
「お嬢様の髪を結い上げるのは私ですので、大変なのは私ですが?」
「そういう事言ってるんじゃないの! そもそも病気になんかなるわけないでしょ、有機生命体のウイルスが、私たちに影響を及ぼすとか有り得ないから!」
有機生命体……生物って事だよなと、俺は茫然としながらやりとりを見つめる。
「それはそうですが、お嬢様の可愛らしいお顔が、その様な下等生物の眼前に迫るという事自体、由々しき問題かと思われますので」
「あ、あらそう……?」
可愛らしいと言われ素直に照れてはにかむ少女は、確かに可愛らしかった。
「それはもう。あまりに可愛らしくて、今後一生お嬢様の飲食は、この私が口移しで給仕させて頂こうと今決定したくらいです」
「しないわよっ!」
「な、なんなんだよお前ら! その唐突なゆり展開は何のサービスだよ! 確かに嫌いじゃない、嫌いじゃないけどおかしーだろ! そもそも、ここは一体どこだ? 何で俺はこんなとこに居るんだよ!」
目の前で謎の小芝居が繰り広げられている間に、朦朧としていた意識が落ち着きを取り戻し、俺は自分の置かれた状況に対する疑問を口にしながら辺りを見回す。
二十畳以上はある広大なリビング。見た事のない内装や調度品は華美が過ぎず落ち着きを伴っており、素人目にもセレブリティ指数が限界突破しているのが明らかであった。
16年生きてきて初めて目にする上流階級の世界が垣間見え、ますます状況が分からなくなる。
「下等な有機生命体の分際で、誰を相手にお前などという口を聞いているのですか?」
メイドの目が針の様な鋭さで景実を射抜く。美人メイドの冷えた眼差しといえば、界隈でいえばご褒美でしかないが、実際射抜かれればどうであろうか?
ピチュンと軽い音を立てて、頬の側を何かか通り抜け、髪の焦げた匂いが立ち込める。
「……え?」
「ちょ、ちょっと止めなさいエンニ、勝手にビーム撃たないでよ! せっかく回したガチャの景品なのよ! コレが何者か分かるまで、勝手に処分しようとしないでよね!」
ガチャとかビームとか処分とか、色々と理解しがたい言葉が飛び交うが、今メイドが向けた殺気は間違いなく本物だった。
恐る恐る肩越しに視線で振り返ると、大理石の床の上に十円玉サイズの焦げ跡があり、うっすらと白い煙が立ち上っていた。
こいつはヤバい。前にヒグマから逃げ回った時と同じ……それ以上にヤバい量の冷や汗が流れ、警鐘を鳴らす。それなりに心得のある俺は、このメイドが危険極まりない暴力の権化の畜生メイドだと理解してしまった。
「ほら、貴方もビビってないでリラックス、リラックス。私の言葉分かってるでしょ? さっき貴方の口にした言葉って私たちと同じだったし、地球人なんでしょ?」
まるで要領を得ないお嬢様の言葉だったが、言語自体は理解できる。出来るというか普通に日本語であり、どう考えてもネイティブの発音としか思ない。
「に、日本人……なのか? 何か外人っぽいけど……ハーフとか?」
「ニホンジン……何かどっかで聞いた響きね、何だっけ?」
「地球人の種族の一つです。まぁ、種族と言う程の個体差はないですが、地域によって言語や習慣に多少の差異が認められるとデータにあります。おそらくはこの個体の使用言語と我々の言語が同等、あるいは酷似しているのでしょう」
「じゃあやっぱり地球人なのね! やったわよエンニ、当たりも当たり、大当たりよ!」
完全に日本語を喋っておきながら、何を言っているのだろうか? 先日アメリカか何かに移住してきた金持ちか何かなのか?
「だから何なんだよ! さっきから訳の分からない事ばっか……」
起き上がろうと体勢を変えた俺の視界にあり得ないものが映る。今のいままで俺は自分がどんな格好をしているか認識していなかった、色々ありすぎて気にかけてなかったのだが、俺は普通に考えればあり得ない格好をしていた。
「す――スク水じゃねぇかっ!!!」
そう、白いスクール水着だ。いや、正確には限りなく旧型のスクール水着に酷似した、白い衣装というべきであろうが。
正直着心地は悪くない。特に股間なんかはジャストフィットしすぎで圧迫されているにも関わらず、何も身に着けていない様に軽く優しい肌触り。まるで素肌の様な着心地は新感覚としか言えなかった。
「な……何よいきなり? スクミズ……何の水なの?」
「……その言葉はデータにありません」
「いやいやいやいや、スクール水着だろコレ! しかも女物の、な、な、何なんだよホント! 何が悲しくて男の俺が、白スクなんか着てんだよ! しかもアニメかコスプレでしか見ないような昭和のやつじゃねーか!」
きょとんとした顔でお嬢様が俺を見つめる。正直悪くない、悪くない感覚だが、これはこれでマズい、主に股間方面が色々とマズくなってしまう可能性があり、俺は一気呵成にまくしたてる。
「確かにある種の憧れがないわけでもないけど、俺は男の娘が務まる様なナリはしてねーし、憧れは憧れのままで終わらせる方がいいって事もあるって学べよ、学んでくれよ!」
自分でも何を言っているか分からない事をわめきながら、お嬢様へと視線を向ける。そして気づく。
軍服とも学生服ともいえる黒いロングコートの前を全開にして羽織ったお嬢様は、その下に自分と同様の白スクを身に着けていた。
いや、そこまでならまだいい、美少女が白の旧スクを身に着けるなどという事は、通常なら料金が発生してしかるべき状況であり、それだけならご褒美中のご褒美に過ぎないのだから。
―――お嬢様の股間に見慣れたふくらみが、なければ。
「お、おま、おま……おと……こ? いや……娘……三次元男の娘かよっ!?」
「ちょっと、いきなり大きな声ださないでよ、さっきから貴方情緒不安定すぎない? 蘇生がうまくいかなかったのかな?」
「いえ、お嬢様、おそらく現状認識が出来ていない事による混乱かと思われます。話を円滑に進める為、現状をストレートに伝えるのが吉かと思われます」
「そ、そう? そういえば確かにそうね。私とした事が嬉しさのあまり、コイツに現状説明するのを忘れてたわ」
オッホンと胸を張るお嬢様。胸は薄いが……確かにある。女性ホルモンってやつか、相当気合の入った男の娘だが分からいでもない。
ここまで可愛ければ普通に男をやっているのは人類にとっての損失かも知れないから、もはやナニがあるとかないとかは些末な問題だとすら思えてきた。
「いや違う、しっかりしろ俺! そんな事より俺の服は!? っつーか脱ぐぞこんなもん!」
ピチュン!
服を脱ぎ捨て様と肩に手を掛けた瞬間、メイドのモノクルが光を放ち俺の股間の2センチ前に穴が開く。
「ちょっとエンニ、ソファ焦げちゃうじゃない!」
「今のは水圧式だから問題ありません」
「あ、あらそう。なら安全ね」
いや安全じゃないだろ! って言うか、ソファに穴は開いてるんだが大丈夫かこのお嬢様と叫びたい気持ちをぐっと堪え、こわごわと何かまずい事をしましたかと、視線で狂気のメイドにお伺いを立てる。
「お嬢様の前に汚らわしい下等有機生命体のク租チンを晒そうとは、家畜の分際で随分と思い上がった行動ですね」
正直何も理解できないが、とりあえずスク水を脱ぐのは止めておこう。滅多に着れる物でもないし着心地いいしな、何事も経験だ。
「って言うか、ビーム撃っちゃダメって言ったでしょ!」
「ウォータージェットはビームではありません、お嬢様」
「そういう屁理屈言ってるんじゃないの、バカ!」
ポカポカとメイドを殴るお嬢様は可愛らしいが、羨ましかろうという表情でこちらを見るメイドの様子から、その抗議は多分ご褒美にしかなっていないと思う。
気を取り直す為、オホンと仰々しく咳ばらいをして、お嬢様は男とは思えない可愛らしい声で俺に告げた。
「とにかく貴方は死んだの! ……多分。ポータルが開いて貴方が出てきたって事はそういう事だからね」
ある種よく聞く展開だ、主に漫画やアニメやラノベの話だが。
だが、実際に口にされると間の抜けた声で、間の抜けた返事しかできないものだった。
「……しん…だ? 俺が? 何で?」
「何でって私に言われても…… そ、そうよ、何か思い出さない? って言うか、死ぬ直前の事覚えてないの?」
お嬢様の言葉を反芻する、そして徐々に思い出す。自分が確かに死んだのかも知れないという事を、少なくとも死の間際にあった事を。
「き…のこ」
そう、俺は山での修行中……第八回夏休み忍びサバイバル訓練の途中、空腹に耐えかねてキノコを口にした。口にしたものはシメジに似たキノコであり、ホンシメジかウラベニホテイシメジか何かだと思い口に入れたのだ。
最悪間違っても多分クサウラベニタケだろうし、酷い症状にはなるが死ぬ様なものではない。よほど運が悪ければ死に至る事もあるが、そんなに運の悪い奴なら道を歩いてても車に轢かれて死ぬだろうし、何も食わなければ今すぐ餓死する。
仮に毒に中って死んだとしても『齢十六ともなれば、戦国の世なら元服して当然の年齢。今回からの山籠もりはお前一人で成し遂げてみせよ!』なんて言い出した親父が悪い。そう思って、やけくそになって口にしてしまったのだ。
結果二時間ほど経った頃には激しい発汗と嘔吐に襲われ、下痢便を撒き散らし悶え苦しみながら意識を失ったのだった。
最後に見た星空は綺麗だった。
「……そうか、アレやっぱり毒キノコだったんだ」
「なるほど。毒物による中毒死だとは思いましたが、キノコでしたか。食用に値するかどうかも分からず口に入れるとは、生物としての危機感地能力がよほど低いと言わざるを得ません」
「う、うるせーよ! クサウラベニタケは名人泣かせって言うくらい判別が難しいキノコで、プロだって間違う事が多いんだ!」
「プロなのに間違ったの?」
きょとんとした顔で見つめるお嬢様と目が合い、反射的に視線を逸らす。
「……いや、俺は素人だけど」
「呆れ返りますね。素人なのにプロでも誤認しやすいキノコを口にして死亡するとは。そんな事だから下痢便まみれになりながら、脱水症状を起こして無様に死に晒す事になるのです」
「――っな」
「あとゲロまみれでもありました。何やら衣服に思うところがあるようですが、吐瀉物と汚物塗れのス〇トロ雑巾にくるまれた豚を、お嬢様の部屋に運び入れる事は差し支えましたので、こちらで相応の衣服に変えさせて頂いたのですよ」
「それで着せるのが白スクかよ、俺は男だぞ!」
って言うか、スカ〇ロ雑巾って女が口にしていい言葉じゃないだろう。そう思いながらお嬢様に視線を送ると、真っ赤な顔であらぬ方向を見つめていた。
なるほど……少なくとも耳年増ではありそうだ。
「……男ってアレよね、雄って事よね?」
「他にどう見えるんだよ、どうみても男だろ……俺をひん剥いて、ちんこついてんの見たんじゃないのか?」
気を取り直して話しかけるお嬢様に対し、つい口がすべる。
相手が男の娘だと分かっていても、このお嬢様のリアクションを見ると、つい余計な一言を追加してしまうのは仕方ないと思う。現に畜生メイドが『やりますね』と言わんばかりの微笑みを浮かべてセクハラ発言をスルーしてくれている事からも、俺は、俺たちは正しいといえた。
「わ、私は見てないわよ! っていうかちんちんくらい私にだってついてるからっ!」
ちんちんくらいわたしにだってついてるから。
わずかに頬を染め、バカにしないでよと言わんばかりに少し薄い胸を張りながら、お嬢様はそう言った。
それは開いてはいけない扉を開きそうになるには十分な破壊力をもっていて、俺を新たな世界に導こうとギュンギュン扉をこじ開けようとしていた。
駄目だ景実落ち着け次郎三郎。そういうのは酸いも甘いも噛分けたどうしようもない連中が辿り着く境地のはずだ。グルメが行き過ぎて猫のうんちから取り出したコーヒー豆に2万とか払う連中が行き着く果てだ。
俺はまだ童貞なんだぞ? 女も知らない俺が参入していい世界じゃないんだ、落ち着くんだ万里小路次郎三郎景実!
「というか、マ〇コももってますよ」
必死で心を落ち着ける俺に、メイドが更なる爆弾を投下した。
「――はぁぁぁあああああ!?」
禁断の扉を開くか否か、そういえば胸あんじゃん、つまり敢えて残しての手術か……いやいや、豊胸手術では声までは誤魔化せない。つまり幼少期からの過剰な女性ホルモンの摂取によって培われたエリート級男の娘としか思えないという事は、実質女じゃないのだろうかとかそういうアレコレを考えている俺に対し、畜生メイドは破砕槌で俺の理性の扉をぶち壊しにかかったのだ。
「あ、ありえねぇだろそんなの! 今時薄い本でもそんなには流行らねーぞ、マニアックすぎんだろっていうかフィクションすぎだろ、夢いっぱいすぎだろぉが!」
「な、なんなのコイツ、さっきから会話出来てそうで会話になってないっていうか、率直にいうと気持ち悪い!」
すみませんお嬢様。いまやそれも若干ご褒美です。
「しょせん雌雄異体の有機生命体に過ぎませんから」
あなたの罵倒には愛を感じませんのでやめて欲しいです。
「って言うか、その有機生命体ってやめろよ、お前らだってそうだろうが」
「ふぇ?」
お嬢様が素っ頓狂な声を上げる。不意を衝かれた声まで可愛いとは、やはり本当に男ではなく……ふたなりっ娘なのか?
「一般的な有機生命体の反応です、お嬢様。知能の低い生命は自身の認識を唯一無二の常識として捉えがちなのです」
「そ、そーなんだっ! じゃあ教えてあげるわ、私たちアウェモキロン人は……何ていえばいいんだろ?」
お嬢様はそう言葉を濁すと、あわあわと視線を泳がせて、縋り付くように畜生メイドを見つめる。
「ヒューマノイド、あるいはアンドロイドといえば伝わるかと」
「そう、アンドロイド的なものなのよ!」
そう自慢げに言い放ちながら、薄い胸を張るお嬢様。どうみても可愛い。さりげにプルンと揺れた胸ではない部分に目が行くが仕方ない。いや、仕方なくはない、アレは俺にもついているおぞましい物だ。落ち着け景実、まだ俺は正気のはずだ。
冷静にお嬢様の可愛さを堪能し、同時にメイドはともかくお嬢様は実はポンコツなのではなかろうかと思い始めるが、今はそれどころではない。現状に理解が追い付いていない。
確かに自分は死んだのだと思う。
ところが何故か生き返ったらしく、気が付いたら目の前にツンしかない見た目だけは美人な畜生メイドと、美少女としか言い様のない可愛いお嬢様が居て、ありえない事にフタナリだとかいい出した挙句、実はアンドロイドだとのたまう始末。
常識的に考えれば夢なのであろうが、とても夢とは思えない。
夢にしては生々しすぎるし、すでに頬をつねる以上の痛みを叩き起こされた時に感じている。実際子種が危急存亡の秋にあったといっても差し支えなかったはず。
となれば答えは一つ。実にバカバカしく、夢よりもっとあり得ない話ではあるが……
「俺は……異世界転移ってやつをしたのか?」