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あいだけに  作者: huyukyu
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好きという隙

『ねえ、お母さん。お母さんはどうしてわたしにだけ――するの?』


 いつどこでどんなときにした質問だったか覚えていない。

 お母さんは台所で料理でも作っていたのかもしれないし、ベランダで洗濯物を干していたのかもしれない。あるいはそれはわたしがお母さんの買い物についていったときだったのかもしれない。


 とにかく何か別のことに注意を向けていた彼女は、わたしの質問に向き直って、何とはなしに言ったのだ。


『藍。私はね。お父さんのこともお姉ちゃんのことも――だけど、あなただけは――なのよ。だから、あなたには特別――するの』


 わたしはお母さんの言っていることが何一つとして理解できなかった。




 薄っすらと目を開けると、自室の天井が歪んで見えた。

 あれ?どうしてだろうと目をこすると、指先が濡れた。


 ああ、わたしは泣いていたのか。


 泣くような夢だったわけじゃないのに。

 自然と悲しくなってしまうような、そんな出来事ではなかったはずなのに。

 なのに、わたしの瞳から一滴の雫が頬を流れた。


 布団から出ると、十月の朝は肌寒かった。ぶるっと肩の辺りに震えが来る。

 目覚まし時計を見ると、時刻は午前六時。


 いつもより少し早い。


 お弁当を作っていくような日でも、わたしの家は学校にとても近いので、そう早くに起きる必要はないから、こんな時間に目を覚ますことは珍しい。

 

 階下では、もうすでに起きているお母さんが朝の分の食事とお父さんのお弁当を作っているような気配がする。


 今見た夢のこともあって、リビングで顔を合わせるのが、ちょっと嫌だった。


 どうせお父さんもお母さんも七時半には家を出て行く。

 それからわたしが準備をしても八時半の始業には十分間に合う。だから、わたしはそれまでここで寝ていようと思った。


「……」


 はだけた布団にもう一度包まる。

 ずっと眠っていた自分の体温であったかくて、身体がぽかぽかとして心地いい。


 けど、反面、心の方は。

 ざわざわと落ち着かなく、ひとところに定まることなく揺らいでいた。


「涼……」


 なぜだか、たまらなく彼の感触を感じたくて仕方がなかった。


 ぎゅって力強く抱きしめてもらいたい。

 そして、そのままキスをして、それから――。


「……っ」


 熱暴走してしまいそうになった頭を振ってごまかす。

 

 べ、別にわたしはそんなこと求めてない。

 ただちょっと頭の中に浮かんできちゃっただけだから。

 わたしはそんなえっちな子じゃないから。


「……呼んだら来てくれるかな」


 昨日、わたしがしてしまった質問を思い出す。


『わたしの、一番嫌いなところは……どういうところ?』


 訊いたわたしに、涼は表情を固めて、それからごまかすように食堂を出て行った。


 だから、きっと思い当たるところはあったのだと思う。

 嫌いなところがきっと、あったのだと思う。


 ……当たり前のことだもんね。

 誰にだって長所と短所があって、仲が良くなればなるほど、相手のことが見えるようになって、そうして嫌いなところもできてしまう。

 それはきっと当たり前のことで、普通にどこにでもあることだ。


 それだけで、涼がわたしそのものを嫌いなわけじゃない。

 事実、その質問の前にはきちんとわたしのことを大好きだと言ってくれた。

 とても嬉しくて、幸せな気分だった。


 けれど、同時に不安になる。


 プライド。


 お姉ちゃんから聞いたその言葉。

 わたしの態度は、わたしの言動は、もしかして涼のプライドを刺激するようなものだったのだろうか。

 彼を刺激して、彼を煽って、苛立たせてしまうようなものだったのだろうか。


 だとしたら、まだ怒っているのかもしれない。

 まだわたしにむかついて、いるかもしれない。


「……嫌」


 涼にそんな風に思われていたくない。

 彼から少しでも負の感情を向けられたくない。


 ずっとずっと彼にはわたしを好いていてほしい。


 だから、わたしはすがるように、涼にメッセージを送った。


『学校に行く前にうちに寄ってもらってもいい?』


 早い時間だし、まだ起きていないかもしれないと思っていたけれど、すぐに返信が来た。


『了解』


 端的に一言。

 でも、それはいつも通りの涼だったので、わたしは安心したように気を抜いて、いつの間にかまた眠ってしまった。




 ぴんぽーん。ぴんぽーん。ぴんぽーん。

 遠いところで何度か音がして、意識が段々と浮上していく。

 次に、手元の携帯がぶるぶると震えた。


「っ――!」


 慌てて跳ね起きると、涼からの電話だった。

 時間は七時五十分。

 

 自分で呼んでおいて寝坊って……ひどすぎる。


 罪悪感からもはや寝ぼける余裕すら失ったわたしは慌てたまま、パジャマ姿で玄関に向かう。

 扉を開けると、涼は少し驚いた顔をしていた。


「藍、まだパジャマ?」

「あ、うん。えっと、ご、ごめんね。わたしが呼んだのにこんな……」

 俯くわたしに、涼は何でもないというように首を振った。


「いや、どうせ寝てるんだろうな、とは思ってたし」


「……」


 み、見透かされてた。

 恥ずかしい……。


「ちなみに、お母さんお父さんは?」

「……もう出て行っちゃってると思う。車もないし。お姉ちゃんは昨日から帰ってない」

「そっか。じゃあ、藍も着替えなきゃだろうし、上がってもいい?」

「あ、それは、うん」


 おじゃまします、と小さく言って涼は靴を脱いだ。




 わたしの密かな計画だと、やって来た涼と一緒にしばらく布団の中でイチャイチャしているはずだったのに、この時間ではそれも難しい。いくら学校に近いと言ってもさすがに四十分で始業となると準備を急がないといけない。


 しょんぼりしたわたしはいそいそと自室でパジャマを脱ぐ。


 涼もいるけど、そこはかとなく目を逸らしてくれているので、恥ずかしくはない。


 ……別に見てくれててもいいんだけど。

 

 などと思ったところで、まるでそれじゃあわたしが見られたいみたいじゃないかと思い至る。


 どうにもやっぱり今日の……ううん、最近のわたしは変だ。


「……何か用事があったわけじゃないんだ?」

「え、あ、うん、そう。ちょっと、わたしが……その、寂しくなっちゃって」


 わたしが肩を縮めながらそう言うと、涼はぽつりと「……そっか」とつぶやいた。


 ……わたしは何か、まずいことをしただろうか。

 いや、呼び出して寝坊というのものまずいんだけど、それ以外にまだ何か。


 けど、あまり考えている時間もない。早く学校に行かないと。

 とにかく今は着替えるのが先決。


 身だしなみを整えるのもそこそこに、家を出たのは八時十五分。

 けっこう、ぎりぎりと言えばぎりぎりだ。


 入学してから涼と話すようになるまでしばらくはこれくらいの時間にも登校していたのだけど、最近は大分早起きの習慣がついてきていた。

 今日は例外的な日だ。


「藍、後ろ乗る?」

「あ、ありがと」


 涼が乗って来ていた自転車の後ろに乗せてもらう。

 そのまま学校に向かった。


 それなりのスピードで自転車を漕ぐ涼の背中は大きく、そっとその背に抱きつく。

 とくんとくんという彼の鼓動が伝わってきて、わたしはとても落ち着いた気持ちになった。


「藍さ……」

「うん?」


 そんなわたしに何を思ったのか。

 涼が少し横目で後ろを振り返るように何かを言いかけて、それから。


「……やっぱり何でもない」

「そう?」


 結局は何も言わずに、彼はそれから無言で自転車を漕ぎ続けた。




 何とか始業時間には間に合って、午前中の授業をしっかりと受けて、それからお昼。


「涼、一緒にお昼……」

「ごめん、ちょっと今日は一人で考えたいことがあるから」

「そ、そうなんだ……」


 昨日変なことを言ってしまったのもあって、今日は特に何も考えずに、涼と二人で普通に楽しくごはんを食べようと思っていたのだけど、皆まで言うこともできずに断られてしまった。


 肩を落とすわたしにもう一度、「ごめん」と言って、涼は教室を出て行く。

 その後ろ姿には迷いがなく足早に彼は遠ざかっていった。


「九々葉さん、今日は相田君と食べないの?」


 自分の席にしょんぼりと座っていると、寄ってきた芦原さんが声をかけてくれる。


「うん。ちょっとね」

「そっか。じゃあ、一緒に購買まで行かない? 今日、うちのお母さん寝坊しちゃってさ。お弁当作ってもらってないんだよね」

「あ、うん。わたしも今日はお弁当じゃないから」


 彼女と連れ立って階下に向かう。

 人でごった返す購買部の中で、どうにかパンを購入し、また教室まで戻ってくる。


 わたしの机と隣の涼の机を向かい合うようにしてくっつけて、芦原さんは涼の席に腰を下ろした。

 対面にわたしも座る。


 買ってきたクリームパンを頬張る。

 とても甘い味が口の中に広がった。


「そう言えば、もうすぐ文化祭だね」

 同じように買ってきたメロンパンを一口一口、生地をちぎるようにして食べている芦原さんがそう言った。


「もう、そんな時期なんだね。いつだっけ? 文化祭」

「この学校は毎年十一月の一日と二日にやってるんだって。土日でも振替休日になるだけで、普通にやるらしいよ」

「そうなんだ。……楽しみだね。文化祭」

「そだね。うちのクラス何やるんだろ」


 中学校を進学校に通っていたわたしは、文化祭に対してそれほど楽しかったという思い出はない。

 進学校だから、と一概に言うことはできないけれど、わたしのいたところでは、生徒自らが率先して何かをやるというよりも、学校行事をやらされているという感覚が強かった。

 だから、こう言うとちょっとあれだけど、そう偏差値が高いわけではないこの高校で、文化祭がどういうものになるのか少し楽しみだった。


「九々葉さんは実行委員に立候補したりしないの?」


 早くもメロンパン一つを平らげてしまった芦原さんがフルーツ牛乳を一口飲んで言う。


「……えっと、どうしてわたしが?」

「ん。何となく。そういうの好きなのかなあって」

「わたしは、しないよ。そういうのはしない」


 彼女の中でわたしがどういう人間に見えているのか謎だったけど、すぐにそう答える。

 そう。わたしは目立つのはあまり好きじゃない。ましてや人前に出てみんなをまとめたりとか、そういうことはわたしには向いていない。


 そういうのはきっと、るりとか、ももちゃんとかなら上手くやれるのだろうと思う。やりたがるかどうかは別として、一度任されたら、たぶん、きっと上手くやる。

 でも、わたしには無理だ。


 入学当初、クラスのみんなとの接触をずっと拒んでいたわたしのような人間には。


 未だに、時折そのことを陰で言われているのを耳にする。


 るりとももちゃんのいないとき、そして、涼もいないようなときに、わたしにだけ聞こえるようにささやかれる言葉がある。


 普段は包み隠されて、時折突き刺す悪意がある。


 例えば今のように、るりも、ももちゃんも涼もいない、そんな時間に。


 少し不安になって、周囲を窺う。


 だけど、ふと周りを見回してみても、みんなそれぞれに集まって楽しく食事を取っているだけ。

 わたしに向ける悪意のある視線などありはしない。


 それはそうか。いつもいつもわたしにばかりかまうような人がいるわけもない。

 そんな人がいるとしたら、涼くらいの変わり者だ。


 それに、悪いのは最初に他人を拒絶するような態度を取ってしまったわたしであって、そんな言葉をささやかれることもある程度は享受しなければならない。


 変わったことを周囲に示すにはたぶんすごく時間がかかるから。


 だから、そんなクラスをまとめるだなんて、今のわたしには無理だ。


「そっかあ。九々葉さんけっこう、向いてると思うんだけどなあ」

「……そんなことないよ」


 無邪気な顔でそう言う彼女に苦笑しながら、わたしはもう一度否定した。

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