思い思いの重い想い
十月の寒いんだか暑いんだかわからないような気温の中、額に汗し、背中に汗し、腰に汗しながら学校へと自転車を漕ぐ。
入学から早や半年、ライフワークではないが、片道一時間のこの登校サイクリングにも完全に慣れ切ってしまっている。
通る道は毎日同じ。目に入る景色も毎日同じ。その辺を歩いている人の顔も大体同じで、それを適当に流し見する僕の態度も同じ。
ただの移動に飽きるも何もないのかもしれないが、一時間という何か考え事をするのにも少し長すぎるくらいの時間をただ一人自転車移動に費やしていると、さすがにちょっとうんざりする。半年間続けてきて、毎日のように繰り返してきた日常に嫌気が差すのは、今の僕には学校に行くのをためらうだけの明確な理由があるからかもしれない。
決定的な決別と言える何かがあったわけでもなければ、派手な喧嘩をしたわけでもない。
おそらく、お互いの感情に、心に傷をつけるだけの強い衝動は生まれていない。
衝突はしていない。拒絶をしていないし、されていない。理解できないことがあったわけでもなければ、相手に対して失望を覚えたわけでもない。
明確に言葉にできるような出来事は何もなかった。
だから、まあ、あったと言えるのは行き違いだけ。
何が行き違っているのかもわからないままに、たしかに何かを行き違った。
行き違った後、すれ違った後、見えるのはお互いの後ろ姿だけ。
相手の表情も、顔色も、何を考えているのかも、何も見えはしない。
あるのは行き違ったというその結果のみ。
藍が本当のところ、何を想っているのかは僕には完全にはわかり切らない。
それは当たり前のことだけど、当たり前かもしれないことだけど、今はその当たり前が何よりももどかしい。
目標地点は設定されたかもしれない。どこを目指し、どこを目的とし、何が決着なのかは判明したかもしれない。
しかし、そこへ至る順路は見えない。どこを通り、どこを経由し、何を見て、何を考え、どうやって辿り着けばいいのかはわからない。
毎日のように繰り返す学校への自転車登校。
何度となく繰り返したすれ違い。
ゴールが明確なのは同じでも、毎回同じ順路を通っていけるわけではないことが、この停滞した日常の中でひどく苛立たしい。
人の心がルーチンワークでは解決できないのは当然か。
気分転換に、いつもとは違う経路を通ることにした。
大幅の遠回り。
毎日通っていた道ではなく、いつもは通らない道を通り、いつもは通らない場所を経由する。
やがて辿り着いてしまったのは。
「こんな朝早くから、藍ちゃんじゃなく一番にボクの顔を見に来るなんて、相田はよっぽどボクのことが好きなんだね」
百日のマンション。
なんとなく来てしまった。
「それで、また何かやらかしでもしたの?」
学校への道を百日と二人で並んで歩く。僕は自転車を押して。百日は普通に歩いて。
自転車を一時間近く漕いできた僕はそれほどでもないが、朝は少々肌寒いからか、百日は制服の上に肌色のカーディガンを羽織っている。スカートの下にはタイツも穿いているし、存外彼女は寒がりなのかもしれない。
「やらかしたっていうか……」
「何?」
「……すれ違ったというか」
「へえ」
少し意外そうに目を瞬かせ、両手を口元にやった百日は息を吐いた。
十月なので、息は白くならない。でも、やっぱりその仕草はどこか寒そうだった。
「君たちは、そんなに頻繁にすれ違っているわけ? 夏休みからこっち、まあ、一か月とそこらは経っているわけだけど、思ったよりも君と藍ちゃんのかみ合わせは悪いんだね」
「かみ合わせって……、歯形かよ」
「言い方が気に入らなければ、相性と言い換えてもいいけど」
相性。
父親にもそんなことを言われたな。
「僕と藍のどこかがだよ」
「さあ? ここしばらく近くで見てきた人間からすれば、むしろ相性はいい方だと思うんだけどね。それでも、そんなに衝突やすれ違いが多いっていうのなら、何か根本のところで合わない部分でもあるんじゃないかと思っただけ。何が合わないとか訊かないでね。そんなのボクわかんないから」
そう言って肩をすくめてみせる百日。
吹き込んできた少し冷たい風に彼女の金髪がなびく。
髪の一房が僕の方にも少し近づいて、ミントのような清涼な香りがした。
その風に、百日がやはり寒そうに肩を抱く。
「……そんなに寒いか? まだ十月だろ」
「欧州のぬるま湯、もとい温暖な気候に浸かってきたボクを舐めないでもらえないかな? 日本は気候の変化が激しすぎるんだよ。おちおち裸で寝てもいられない」
「いや、普通裸で寝ないから。それは気候とかじゃなく、お前の側の問題だろう」
「そう? 意外といると思うけど、部屋裸族」
「部屋裸族ってなんだ」
カーディガンの袖を引っ張って指先までを覆った百日はそれを顔まで持ってきて頬をぐにぐにとさする。
それから、僕の方を見上げるようにして言った。
「もしかしたら、そういう本質的な問題じゃあないのかもね」
「……本質って、何の話だ?」
「だから、君と藍ちゃんの相性の話。物事を深刻に捉えようとする人間ほど、この罠に引っかかりやすいとボクなんかは思うんだけど。抱えている当人にとっては大きく見えるような問題であっても、まったく無関係の他人から見てみれば、実にくだらない原因によって引き起こされているものだったりとか」
「……どういうことだ?」
「とってもわかりやすい例を示してあげよっか」
言って、百日は大儀そうに肩に下げていた鞄を胸の前に持ってきて、その中から空色で縁取られたメガネを取り出してみせる。
「それは?」
「伊達メガネ。だけど、今はボクは弱視とかで、眼鏡がないと何も見えない人だと思ってね」
それから、百日はその伊達メガネを目ではなく、額の上辺りに引っかけた。
「……さて、メガネはどこでしょう?」
肩透かしを食らわされた気分になる。
「いや、そこにあるじゃん」
「そう。すぐそこにある」
百日は額のメガネを取って今度こそ目にかける。
蒼色の瞳に空色の伊達メガネはよく似合っていると思われた。
「傍から見れば、昭和のボケかってくらいにこの上なくばかばかしい問題だけど、本当にどこにあるかわからない当人にとってみれば、死活問題。弱視の設定だって言ったでしょ? 何も見えなければ、生活に支障をきたすわけだからね」
「それが僕と藍の相性の話と関係があるのか?」
「相性が悪いと思っていたとしても、実は本当にくだらない表面上の問題だけでそう思っているだけかもしれない。あるいは、そんなに軽い問題ではなくとも、君が思っているほどその問題は重いものじゃないかもしれない。ボクが言いたいのはそういうことだよ」
「つまり、相性が原因じゃないとするなら、他に原因があると?」
「もしかしたらそうかもね、ってこと。本当に相性かもしれないよ? でも、そうじゃないかもしれない」
「……結局、どっちかわからないってことか」
なんだろう。言っていることは納得するんだけど、結局、納得したところで何も変わっていない気がする。
すると、僕のそんな思いに気づいたのか、首を傾げた彼女がさらに付け加える。
「うん。何も変わらないっていうのは、そだけどさ。でも、変に重く考えるのはよくないと思うってこと。特に君みたいな、ボクみたいな、一人で考えて一人で行動しちゃうような人間はね。一人の人間はどう頑張っても一人の人間でしかないんだから、自分一人の視点で物事を見てすべて判断するのは偏りの元だよ。思考を偏らせ、判断を偏らせた結果、得られるのはまた、偏った結果でしかない」
以前のボクみたいにね、と百日は言う。
「君と藍ちゃんがすれ違う理由は、きっと何かあるんだと思う。けど、それをあまり重く捉えないでね。それを重く捉えすぎると、本来その原因がもたらす影響以上の影響を受けてしまうことになるよ。思い込みってのは凄まじいからね。一度思い込むと、どつぼにはまりかねない」
「……お前のように?」
「うん。そう」
よくわかってるね、と彼女は笑った。
教室に入ると、藍がいた。
一緒に来た百日とともに、席に着く。
「……おはよう、涼」
「おはよう、藍」
挨拶を交わし、そして、それっきり。
藍はいつもの如く、手元の文庫本に目を落とす。
僕は手持ちぶさたに、ぼーっとする。
この手の沈黙は珍しいことではない。
藍がしゃべらず、僕も取り繕うことをせずにしゃべらないのは、僕と藍の間柄では珍しくもなんともないことだ。
いつものような沈黙、それ自体が何か変化したというわけじゃない。
沈黙は変わらない。状況は変わらない。環境は変わらない。
変わっているのは人の心。
それを受け取る僕の心が変化している。
だから、この沈黙をそんなに重く感じるのだろう。
百日は気遣わし気に僕らを見た。
けれど、慰めの言葉や取り繕いの言葉や場を繋ぐ言葉を口にすることもなく、他のクラスメイトの方へと向かっていく。
彼女はわかっているのだろう。ここで彼女が何を言ったところで、僕と藍の間に生まれている確執未満のすれ違いに変化など訪れはしないということを。
取り繕うことの意味のなさを、彼女は知っている。
それが何も変えないことを知っている。
変わった結果の僕の心と藍の心。いつもの朝をいつもたらしめない変わったばかりのその心は、けれど、まったく変化しない。
変わったばかりなのにも関わらず、変わる前より頑なで、変わる前より偏っている。
重く考えるべきではないと、百日は言った。
けれど、じゃあ、この胸にのしかかるような辛く重苦しい感覚はどのように処理すればいいのだろう。
藍が隣に座っているのに、とてもその距離は近いのに、癒されるよりかはむしろ息が詰まるのはどうしてなのだろう。
少し前までは居心地がよかった藍との時間が今はとても息苦しい。
目標へ至る道筋は未だ見えない。




