プライド
家に帰ると、家族はいない。
いつものことだ。お母さんもお父さんも仕事で外に出ていて、平日の夕方などはほとんど家にいない。お姉ちゃんもお姉ちゃんで、何をしているのか帰ってくるのはほとんど夜遅くが多い。
だから、わたしが平日に帰宅すると、そこに待っているのは家族の一人もいない九々葉家で、仲のいい友達と遊ぶわけでもなく、家に人を呼ぶことがあるわけでもなかった中学生までのわたしはいつも一人で放課後の時間を過ごしていた。
「ただいま」
鍵を開けて、家の中に小さく声をかける。返事はない。誰もいないから、当たり前だけど。
靴を脱いで揃えて並べ、洗面所に行って手を洗い、うがいをして、自分の部屋に上がる。
部屋着に着替えるべく、制服を脱いだ。
上を脱ぐとともに、最近伸ばしている髪が広がる感覚があって、乱れた前髪が目にかかる。
また、美容院に行かなきゃ、かな。
考えながらも、涼と喧嘩のようなものをした今はあまりそういう気分になれそうもなかった。
スカートのチャックを外し、脱いでハンガーにかけ、下着姿になったところで、クローゼットから取り出した部屋着に手を伸ばす。
そこでふと思い出した。
ももちゃんは嫌なことがあった日などはよく一日中裸で過ごして、ストレスを発散しているらしい。
家の中とはいえ、服を着ないで過ごすなんて信じられないと思っていたわたしだったけれど、彼女がそんな風にしようとする気持ちが今日だけはわかった気がした。
と言っても別に真似する気はないのだけど。変態チックだし。
ただちょっとだけ、ほんとうにちょっとだけ、そういうことをしてみると、どんな気持ちになるのか試してみたくなった。
普段のわたしにはない心象ではあったけど、なぜかそういう気分になってしまった。
今日はちょっと嫌なことがあったせいで、ストレスに心を圧迫されていたからかもしれない。
「……ん」
ブラのホックを外し、取り払ってベッドに投げ出す。
誰も見ているわけではないのにどこか落ち着かない気分になって、胸の先端を隠すように両手を置いた。
「……あ」
そこで気づく。
部屋の遮光カーテンは開いていて、光を通すような薄いレースのカーテンだけがかかっていることに。
部屋は二階だから、見えにくい位置にはあるとは思うけど、このままだと外の通りからも自分の姿が見えるかもしれないということに。
「……っ」
慌てて布団を被った。
胸がドキドキしている。
わたしは何をやっているんだろう、と冷静に自分を見つめる目もあったけど、自分の部屋で裸になるくらい普通じゃないかと思う自分もいた。
改めて部屋の中で裸体を晒すということを意識すると、それがなんだか違う意味を持つように感じられて、変な気持ちになってくる。
って、何を考えているんだろう、わたしは。
布団の中でぱんぱんと頬を叩いた。
開きっぱなしの遮光カーテンを閉めるため、手を伸ばす。
ベッドは窓際にあるので、布団の中からでも十分カーテンには届く。
朝から誰の温度も感じていないせいで少し冷えている布団から手を出そうとしたところで、なぜかわたしの手は止まった。
「………………」
誰かに見られるかもしれない。
そう考えると、なんだか少し……。
って、ほ、ほんとに何考えてるんだ、わたし!
しっかりしなきゃ。
頭の中で自分を叱咤する。
けれどそんな思考とは裏腹に、そのまま部屋着を着る気分にはどうしてもなれなくて。
「……うにゃああ」
変な掛け声とともに布団から出た。
窓際のベッドから移動して、一見して外からは見えなさそうな位置に移動する。でも、どうにかすれば見えるかもしれない位置に。
それから。
それから――ばくばくと脈打つ胸を押さえ、ショーツに指をかけ、ゆっくりと下ろしていく。
布地で包まれていた部分が露わになり、外気に触れ、少し冷たく感じる。
そのまま、ショーツをずり下ろし――
「――~~っ」
――太ももまでを下ろしたところで限界が来た。
「だ、だめ!」
自分で自分にやっていて何がだめなのか意味不明だったけれど、とにかくだめだと思ったわたしはすぐさまショーツを引き上げて、それからブラは邪魔くさいのでつけずに部屋着のTシャツを頭から被る。
そのままもう一度ベッドに寝転んだ。
「はあ……」
枕にうつぶせに顔を埋めていると、自分で自分に呆れるような、そんな深い溜息が漏れた。
いくら涼に冷たくされたからと言って、憂さ晴らしに何を馬鹿なことをやっているんだろう、わたしは。
部屋の中で下着を脱ぎかけてドキドキするとか、ほんと、へんたいみたい。
「……裸は涼にだけ見せるの」
ぽつりとつぶやいて、あまり考えずに口にした内容にまたちょっと恥ずかしくなる。
変な方向にばかり進んでいく気分を変えたくて、窓に手を伸ばして外の空気を入れた。
秋らしい少し冷たいぐらいの風が吹き込んでくる。頬を撫でる空気は乾燥しているようで、また湿ってもいるようで、どっちつかずでわからない。
部屋の中の空気がかき混ぜられるような感じに、清涼感を覚え、ようやく一息ついた。
「……でも、ちょっとストレスは発散できたかも……」
認めたくないことだけど、どうにもそれは確からしかった。
胸の重さが少しだけ減少している。
彼氏に冷たくされたストレスを、露出癖で発散するだなんて、自分に嫌気が差す思いだった。
わたしの感じたのとはまた違うのだろうけど、裸で常に過ごそうというももちゃんの気持ちもわからないでもない気はする。
けど、もう二度とやらない。自分が情けなくて仕方がなくなるから。
裸で過ごしてストレス発散するとか、ほんとにへんたいだし。ももちゃんのことを悪く言うつもりはないけど、わたしはもうやらない。絶対に。それはももちゃんだから普通に思えるのであって、わたしがやったら絶対に頭がおかしくなってしまったとしか思われない。
手元に小さなクマのぬいぐるみを抱き寄せながら、決意する。
自分のややアブノーマルな性癖に辟易したわたしは、それからベッドを出て、机に向かい、今日出ていた宿題を片付けた。
時計を見ると、午後六時。
そろそろ夕飯の支度を始めてもいい頃合いかもしれない。
以前までは九々葉家で家事と言えば、たまにわたしやお姉ちゃんがお風呂を沸かすことがあっても、ほとんどはお母さんがこなしていたが、近頃はわたしがその手伝いをすることも多くなっている。
わたしの料理の腕が向上したというのもその理由ではあるし、お母さんの仕事が少し忙しくなってきたというの理由ではある。
いつにもまして帰りが遅くなることが多い。
わたしは台所に立つ。
食材自体はお昼にお母さんが買ってきてくれているので、買い物に出る必要はない。
さあ、何を作ろうかな、と冷蔵庫を開くと、冷蔵室最下段の一番目立つ位置に、これ見よがしにシチューのルーが置いてあった。
ああ、今日はシチューを作れということ。
お母さんの婉曲な伝達手段に、ちょっと心がささくれだった。
作ってほしい献立があるのなら、そうメモ用紙にでも書いていてほしかった。
リビング含めて周りを見渡しても、どこにもそれらしいものはない。スマホはさっき確認したけれど、そこにも何のメッセージも来ていなかった。
食材を買ってくるのはお母さんだから、ある程度献立が決まってくるのは仕方ないとしても、その中で自由に作れるものを作りたいという気持ちがないではない。
けれど、どう考えてもこれはシチューを作れということなのだろうから、それに逆らってまで自分のわがままを通そうという気はわたしにはない。
ちょっと腹に据えかねる思いはあるのだけど。
野菜室から食材を取り出して、わたしは調理を始めた。
今日、最初に帰って来たのはお姉ちゃんだった。
時間は午後六時半。
ちょうど、シチューを煮込んで、ポテトサラダを作り始めた頃。料理にじゃがいもが多いのは気のせいだ。
「お、藍ちゃん、ただいま」
「おかえり、お姉ちゃん」
長袖の灰色ワンピースに身を包んだお姉ちゃんが、シチューの匂いにつられてか、台所に顔を出した。腰のところにベルトのついたワンピースはワンピースというよりかはどちらかというとコートに近い。それを背の高くてスタイルのいいお姉ちゃんが着こなすととても大人っぽくてかっこよく見える。足下の黒タイツも大人びたお姉ちゃんの印象をより強める助けになっていた。
「今日は藍ちゃんの手料理かー。いいねー、最近ますます上達してきちゃって、相田君も喜んでるんじゃないの」
「う、うん。そうだね」
心から嬉しそうに笑顔で言うお姉ちゃんに、涼の名前を出されて、ちょっとたじろいだ。
すると、そのわたしの反応から何かを感じ取ったように、お姉ちゃんが急に表情を変える。
「……また、何かあったの?」
わたしの表情の変化を見逃さないようにだろうか、目を細めた彼女に告げられる。
また、と言われることに対して、ちょっと思うところがある。確かに涼との間にこれまでもいろいろな出来事があったのは確かだけど、その言い方だと、今朝芦原さんに言われたように、まるで本当にわたしと涼の相性が悪くていつも喧嘩ばかりしているみたいじゃないかと。
「何か、というか。少し涼に問い詰められただけ、というか」
サラダの具材にマヨネーズを絡ませながらぼそりと言うと、お姉ちゃんが近づいてきて、わたしの肩に手を置いた。
「詳しく聞かせて」
そんな風にお姉ちゃんに涼とのことを根掘り葉掘り尋ねられることは初めてではなかったので、すでにそうされることに慣れているわたしは諦めて、簡単に事情を説明する。
様子の変に思えた涼に事情を尋ねて、何も答えてくれなかったことを。
涼にお母さんとのことを訊かれて、答えられなかったことを。
涼に、いつもわたしは何も話そうとしない、と言われたことを。
わたしの話に耳を傾けていたお姉ちゃんはしばらくして、組んでいた腕を解いて顔を上げた。
「それはたぶん、あんたが悪い」
「……え?」
予想していなかった言葉を告げられて、サラダを混ぜる手が止まった。
「いや、まあ、相田君の言い方も悪いというか、聞いた限りじゃ、どっかあいつも様子はおかしい気がするけど、八割方悪いのはあんただよ、藍」
「な、なんで!? わたし、そんなひどいことなんて……」
「ひどいかどうかは知らないけどさあ。にしたって、それは彼氏を信用してるとは言えないでしょ。信用してるって口では言いつつも、実際のところは何も説明しようとしない? ふざけるなって話だよ。信用は言葉じゃねえんだよ。行動なんだよ。信用を示すのはいつだって行動だよ。誰もが口では何とでも言えるんだよ」
「……か、隠し事くらい誰にでもあるって、涼も……」
「そんな言い訳を真に受けたわけ?あんた。そう言ったときのあいつの顔でも思い出してみたら? 大概、まともな表情してないと思うけどね、あたしは」
言われて、涼の表情を思い出そうと努める。
……無表情に、目の前にいるわたしではない何かを見て言っていた気がした。
「……」
「あたしのせいでも一部、あるのかもしれないから、まあ、一つ、助言というか、あんたに言っておいてあげるわ」
お姉ちゃんは俯くわたしの顎を持って、上向かせた。
「男はプライドの生き物だよ。女にプライドを傷つけられて、それで平気な顔をしていられる男はいない。少なくとも内面ではね。外面はどうだか知らないけど。相田君だって、そうなんじゃない?」
「ぷら、いど?」
「そ。誇り。矜持。信念……はちょっと違うか。ま、とにかくそれがあるのが男だよ。なければただのたね……ま、これ以上藍ちゃんに言うのはやめとくか。仲良しこよしもいいけれど、仲睦まじいだけじゃあ、解決しない問題もあるということさ。特に心の問題はね」
言うや否や、お姉ちゃんは話は終わりとばかりに、わたしが混ぜていたボールの中のキュウリを一つ取って口に入れ、台所を去っていった。
「……ぷらいど」
残されたわたしはもう一度、その言葉を口にしてみた。
それがどういう意味の言葉なのか、言葉そのものの意味としてはわかっているつもりだ。
けれど、その言葉がいつもわたしに優しかったあの涼とどういう風に結びつくのか、そのことが今のわたしにはよくわからなかった。




