母親
家に帰ると、珍しく早く帰っていた母が出迎えてくれた。僕の母、相田静音。
「あ、おかえり。凛」
そして、靴を脱ぐ暇もなくとんでもない出迎えの言葉を投げかけられる。
「……母さん。僕はどう見ても凛じゃないだろ……、性別からして完全に別物じゃないか」
「ああ、お父さんだったの? おかえり。今日は帰ってくるの早いのね」
「おい。さすがにわざとやってるんじゃないかって疑いたくなるんだが。ていうか、父さんもう家の中にいるだろ。車あったぞ」
「冗談よ。ちゃんとわかってるわ。おかえり。……涼子」
「誰だよ」
あんたは自分が生んだ子どもの性別さえあやふやなのか。
帰宅してすぐのとぼけた母親とのやり取りにうんざりとしながら僕は家の中に上がる。
そのまま階段を上って自分の部屋に戻ろうとしたところで、母に声をかけられた。
「あ、待ちなさい、涼子」
「……母さん、もし僕がほんとに女に見えるのだとしたらまじめに眼科に行った方がいいと思うけど」
「今日ケーキ買って来てあるから、食べる?」
僕の反論に聞く耳を持つこともなく、母は淡々と訊き返す。
その完全に僕の言葉を無視した対応には慣れているので、今更むきになって怒ったりはしない。
「ケーキ? 今日なんかあったっけ?」
「ほら、今日って十月三日じゃない?」
「そうだけど、それが?」
「とうさんの日、でしょう?」
「……ああ、父さんに日ごろの感謝を込めて、ってことか」
「昔から大嫌いだった涼子の夫の会社が倒産したらしいから、そのお祝い」
「涼子ってそういうことかい! っていうかそれ十月三日関係ないし!」
そもそも、この母親は何で大嫌いな女の名前で自分の息子を呼ぶんだよ。そんなに僕が嫌いか。
「あなたの好きなモンブランも買ってきておいたわ。あとで部屋で一人で食べなさい。わたしたちは凛が帰ってきたら三人で食べるから」
「待って! どうして僕だけが部屋で一人寂しく食べることになってるんだよ! そもそも僕の好きなのは普通のショートケーキだし!」
「声が大きいわね。元気がいいのはいいことだわ。昔のお父さんを思い出す。虫唾が奔るわね」
「……あんたはどうして父さんと結婚したんだ……」
もはや母の言動のおかしさには慣れているとはいえ、親子なのにほとんど会話が成り立たないのは本当にストレスが溜まる。
……ただでさえ、今日は他にもストレスが溜まっているというのに。
「ところで、涼」
「ああ、名前思い出してくれたんだ、助かるよ」
「藍ちゃんとはうまくやっているの?」
そして、不意にそのときの僕の心の弱点を突くようなことを言ってくるのはやめてほしい。心臓に悪い。
「……ああ、まあ、可もなく不可も……」
「ああ、喧嘩したの。それはけっこうなことね」
「……僕、まだ何も言い切ってないよね」
「喧嘩じゃない? なるほど、いつもみたいにお互いを想い合うがゆえの行き違いってところ? あなたってほんとに愚図ね」
「ねえ。いつも人の話をまともに聞いてないのに真実をばしばし言い当ててくるのは何なの? 母さんはエスパーなの?」
「すべての母はあまねくエスパーなのよ」
「こんなときだけまじめに返答するのかよ」
僕は小さくため息を吐く。
この母親に自分のペースを乱されるのもいつものことだが、それでも、今回のことに関しては母さんにもあまり踏み込んでほしくない。
「解決方法はひどく簡単よ」
「え? ほんとに?」
何気なく告げられたその言葉に驚いて母を見る。
母さんは感情の窺い知れない無表情と淡々とした声音で言った。
「押し倒して一発ヤれば万事解決……」
「却下!」
叫ぶと同時に、母はもう相手にせず、さっさと階段を上る。
まともに取り合った僕が馬鹿だった。
母さんが僕のことを本気で心配して、まじめなアドバイスなどくれるわけがないのだ。
昔から何を考えているのかがまるでわからないあの人は、ただ自由気ままに生きているだけ。
自分のやりたいように生きているだけ。
僕のことをちゃんと見ているのかどうかでさえ、定かでない。
自分の部屋に入ると、鞄を勉強机に投げ出し、ベッドに寝転がる。
天井を眺めて、昼寝でもしようかと目を閉じると、皿洗いに使う洗剤のような匂いが鼻にかすり耳元で声が聞こえた。
「女なんて押し倒して抱きしめて、耳元で愛を囁き、快楽漬けにしてやればすべてがうまくいくものよ」
目を開けてベッドのそばを見ると、エプロン姿の母さんが僕の耳元に口を寄せるようにしてしゃがみこんでいた。
「いや、何でついてきたんだよ」
僕がそう言うと、母さんはちょっと首を傾げて、それからエプロンのポケットから飴ちゃんを取り出し、包みを開けてすぐそばの僕の口の中に突っ込んできた。
「なんだよ」
「いつ入れたのかも覚えていない飴よ。舐めなさい」
「誰が舐めるか!」
吐き出そうとしたが、母に両のほっぺたを挟まれて口を無理やり閉ざされる。
抵抗しても無駄なことは経験上知っていたので仕方なく、僕はその飴を舐めることにした。
まあ、飴に賞味期限もあるまい。たぶん。
母は飴を無言で舐める僕を見て、満足そうに頷いた。
何がしたいのかまるでわからない。
というか、さっきの発言は。
「母さん、今さっき言ったの本気で……」
「というのはまあ、完全に冗談ね。頭がスポンジの尻軽女ならそんなものでしょうけど、あの藍ちゃんはそんな感じじゃないものね」
「いや、冗談かよ」
冗談なら冗談らしく、もっとわかりやすく言ってくれ。
危うく母親の性根を見損ないかけたぞ。
無表情で淡々と冗談を言われても、絶対言われた方は本気に取るから。
「じゃあ、本当はなんなんだよ」
「さあ。そんなのわたしが知るわけないわ。子どもの気持ちなんて母親にわかるわけがないもの」
「さっきすべての母親はエスパーだって言ってなかったか?」
「エスパーよ。でも、母親は神様じゃないわ。わかることとわからないことがある。エスパーではあっても全知全能ではないのよ」
「……母さん、あんたが何を考えているのか、僕はさっぱりわからない」
「奇遇ね。わたしはあなたが何を考えているのか、まるで何もわからないわ」
そうまるで、と母は口元を歪めた。
「そうまるで………………………………。ところで、さっきの話に戻るけど」
「何も思いつかなかったのかよ!」
意味深に微笑んで何の比喩もないのか。なんだそれは。出来損ないのミステリー小説か。
「藍ちゃんと行き違ったのは本当なのでしょう?」
「それは……」
「残念ながら、わたしは母親ではあっても、あなたの友人でもなければあなたの先生でもない。助言できることなんて何もないわね」
「……」
「でも、そうね。目標地点くらいは設定できるかもしれないわ」
「目標地点?」
「そう。なんやかんやあって、あなたが目指すべき目標地点。藍ちゃんと紆余曲折あった後に辿り着くべきゴール地点。愛すべき彼女とのお互いを想った衝突の果てに辿り着く妥協地点。大切な人とのいつもの日常を取り戻すための新たなる始発点。これまでの関係が終わりを迎え、新たな関係がスタート、再出発……」
「地点はもういいから、続きを言ってくれ」
「ヤるのよ」
「は?」
やはり淡々とした口調で返された言葉に僕は目の前の母親の顔をまじまじと見る。
「自然な流れで一発ヤれるところまでいければ、それは元通りないしはお互いにとって適切な関係になっていると言えるでしょう?」
「いや、まあ、そうかもしれないけどさ」
実の母親の口から「ヤる」という言葉を何度も聞きたくないのだが。それも自分の彼女とのっていう話だし。
「大体、母さんはいいの? そういうの。藍のお母さんなんて、大分、そういうのに抵抗ある感じだったけど」
「はあ? それはずいぶんなカマトトって奴ね。でも、そうね。子どもができたら母親としては困るわ」
「だったら……」
「別にヤれだなんて言ってないのよ。ヤれるところまでいったらそれはまあ、関係は回復したんじゃないってことね」
「はあ……」
言っていることはわからないでもないが、極端に過ぎる考え方のような気がしてならない。
けれど、まあ、母の言うことはわかった。
僕が帰って来てからこっち、やたらといつもより多めに言動が不審だったのも、母なりに僕を励まそうとしてくれたということなのだろう。余計、疲れたけど。
そして、僕は今のやり取りの中で、自分の母親について少々、思うところがないではなかったので、気を遣うでもなくそれを素直に尋ねておくことにした。
「ねえ。母さん」
「何?」
「母さんってもしかして、いつものとぼけた様子はわざとやってるの?」
僕の母親は日常的におかしな言動を取ることが多い。
僕も大概おかしいのかもしれないが、母はもっとだ。
まずほとんど会話が成り立たないし、成り立ってもどこかかみ合っていない。
料理を作れば、焼きそばとナポリタンを同時に出すとかわけのわからないことをしたりもする。どっちもおいしいのだけれど。
渡される小遣いは月によってまちまちで、五百円のときもあれば一万円のときもある。
父とは毎日のようにかみ合わない会話を繰り返し、凛とは「出かけてくる」「おみやげはたこ焼きね」「うん。わかった」と二人の間でしか成り立たない情報の少ない会話を繰り返し、僕とは延々とボケと突っ込みを繰り返す。
そんな母であったはずが、今このときにはまともも言える会話が成り立った。
だから、僕は思ったのだ。
母のいつもの言動、行動というものはいつもわざとやっているのではないかと。
すると、母さんはうーんと腕を組んで、首を傾げ、それから、
「わざとのときもあれば、素のときもあるわねえ」
と言った。
僕はその返答にやっぱりかと思い、しかし、じゃあ、素のときは果たしてどれなのか、と疑問を覚える。
そんな僕の様子をじっと見つめていた母が唐突に手を伸ばして僕の頭を撫でた。
髪を通して柔らかな感覚が伝達される。
それから母もう片方の手の人差し指を唇に当て、ウィンクした。
「お父さんには内緒よ」
僕は口元に苦笑を浮かべる。
年を弁えないようなその仕草にその息子として忸怩たる思いはあって、頭を撫でられていることもあって、妙に小恥ずかしい思いに駆られるわけだが。
それでも。
それでも、母親にときめきなんてしないけれど、父が母をかわいいなどという気持ちもわからないでもない気がした。




