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あいだけに  作者: huyukyu
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感情

 十月になる。

 夏の残滓はほとんど消えた。たまに少し暑い日はあるものの、(くすぶ)っていた熱量は初めからそんなものは存在していなかったかのように落ち着き、勢いを失くしたように沈滞し、熱くあり続けることに飽きたかのように消失する。

 平均気温は過ごしやすいくらいの温度帯に安定し、毎朝のように学校へ自転車通学を行う僕の額に滲む汗がその量をいくらか減らした。


 そんな秋の訪れを明確に感じ得る時節。

 その日、僕は珍しく、自身の体を実際に動かして学校に向かうのではなく、自動車という人間の自立運動の代替装置によって学校へと登校した。


 運転しているのは僕の父親、相田猛。

 名前の通り、どこまでも猛り狂う猪のように暑苦しい男だ。

 そうそう仕事を休みなどしない僕の父親は、会社の方からたまには有休を取るように命令されたらしく、その日は朝から暇だったようだ。

 たまには学校まで送ってやろうと僕に提案してきた。

 いつもなら、雨が降っていようと雨合羽を着てでも自分の体を動かせと言う人間が、どういう風の吹き回しか、そんなことを言ったのだ。外の天気はいっそ清々しくて逆に気分が陰鬱になるくらに晴れ渡っていた。僕は首を傾げたが、朝の面倒な日課を払うことができるのなら、むしろ幸運だと思い、その提案を受け入れた。


「最近、どうだ? 九々葉藍と言ったか、あの小柄な女の子とは上手くやっているのか?」

 信号で車が止まった折、ハンドルを握る父親が前を見つめ、振り返ることなく、後部座席に座っている僕に問うてくる。


 窓の外をぼーっと見つめていた僕は言葉を返す。


「別に。いつも通りだけど。可もなく不可もなく」


 楓さんから頼まれた、藍と睡蓮さんとの親子関係を改善してほしいという頼みの件もまるで進展していない。

 何をどうすればいいかわからない上に、藍自身、あれから僕が彼女の母親について触れようとするたびに、それとなく話を逸らしてくるのだ。小さいころに母親との間に何があったのか、思い出したら事情を教えてほしい。僕は彼女にそう言って、藍もそれを受け入れたのだと思っていたが、それは僕だけの一方的な思い込みだったらしい。藍は徹底的に何も話す気がなさそうに見える。

 せっかく二人でいるときに、そんな重苦しい話題を持ち出したくない。そんな考えの下の態度なのかもしれなかったが、それでは結局、僕が藍のためにできることなど何もない、ということになってしまう。

 何より、そんな風に僕が本気で話を聞こうとしているのに対して、話をはぐらかそうという藍の態度は、なんだか少し彼女らしくない態度のようにも思われた。


「そうか。大過なく済んでいるのなら何よりだ。男女関係ってのは単純に性格の良し悪しだけで語れないものがあるからなあ。目に見えない相性ってのがある」

 父親は何もかもわかっているような口調でそう言い、がりがりと髭の剃り跡をかく。

 信号が青に変わり、車が再度発進する。

 急な発進の仕方にシートに体を押し付けられた僕はうんざりとした声音で問い返した。


「……父さんって母さんとどうやって出会ったんだっけ?」

「お見合いだな。二十五のときに親戚のおばさんに薦められて、だったか」

「ちなみにそれ以前の男女付き合いは?」

「ない!」

 軽快なハンドルさばきを見せる父親から、いっそ清々しいほどの即答が返ってきた。

 

「……よくわかったよ」


 あんたが完全に口から出まかせの知ったかぶりをしたがる性格だってのはよーく、わかった。

 母親とはお見合いで、しかも、それ以前に誰とも関係を持ったことがないという前提条件で、一体全体どうやって目に見えない相性など計れるというのだろう。人伝に聞いた話とかか? だとしても、それは自分の意見じゃなくないか?


「あのときの母さんは驚くほどかわいかったんだぞ?私が『ご趣味は?』って尋ねると、『あなたの顔、とっても面白いですね』って満面の笑顔で言ってきたんだ! あの笑顔に私は惚れた」


 ……そして、至極どうでもいい情報を追加しないでほしい。父親と母親の出会いのエピソードなど、毛ほども興味がない。

 というか、何でそれで結婚できるんだよ。おかしいだろ。

 目に見えない相性、完全に最悪じゃないか。会話にすらなってない。


「最初のデートでは、母さんはなんと浴衣を着てきてくれてな! その艶やかな姿に私は見惚れたものだったよ! 結局、行く予定だった海から切り替えて、近くの家電量販店に二人で白物家電を見に行ったんだったなあ、懐かしい!」


 ああ、僕の母親完全に頭おかしいんだよなあ。海行くのに何で浴衣着てくるんだよ。そして、何でその後家電を見に行ったんだ。家電製品欲しかっただけだろ。


「お前を授かったときも、それはもう二人で喜んだものさ。『名前は何にしようか?』と気の逸る私に対して、『マタニティドレスって意外とかわいいのね』と答えたときの母さんの笑顔は見惚れるほど美しかった」


 答えてないだろ。せめて会話を成り立たせろ。あんた笑ってりゃなんでもいいのかよ。


「……はあ」


 ため息しか出てこない。必死こいて自転車を漕がなくていい分、身体的にはかなり楽だが、精神的にはかなりきつい。

 突っ込みどころが多すぎて、もはや何から言ったものかわからない。

 そして、何を言ったところで、『母さんはかわいいなあ』という結論にしかこの父親が至らないのは目に見えているので、その労力がまず無駄でしかない。


 ニ十分ほどの後、学校近辺に辿り着く。近くのコンビニで車を降ろしてもらい、やっと父親ののろけ話から解放されるのかと僕が一つ伸びをすると、後ろから声がかけられた。


 「お前もあの子と上手くやれよ」


 二ッと子どものように歯を見せて笑って親指を立ててみせる父親に、僕は苦笑しながらもひらひらと手を振った。




 常よりも早く教室に入ったのにもかかわらず、その日、藍は僕よりも早くに学校に来ていた。


「早いね。今日何かあった?」

 挨拶もそこそこに問う僕に、藍が首を振る。

「ううん。別に。ただちょっといつもより早い時間に目が覚めただけ」

 そう言う彼女には眠そうな様子もなく、表情もさっぱりとしている。


 まあ、朝はぎりぎりまで寝ているという印象の強い藍であっても、そういう日もあるか。

 そう納得して彼女の隣の自分の席に腰を下ろす。


「この前の日曜日ね。芦原さんたちと遊びに行ってきたよ」


 暇だから今日の一時限目までが期限の宿題でもこなそうかと思っていると、いつもの朝のごとく読んでいた文庫本を閉じてこちらに身を寄せた藍が嬉しそうに話しかけてくる。

 僕は鞄にやった手を戻し、藍の顔を見た。


「ああ、なんか最近、交友関係広がったよね。藍」

「うん。ももちゃんもるりも友達多いから、なんだか必然的に」

「……そういうの、嫌じゃない? 大丈夫?」

「……そういうのって?」

「なんかこう、浅く広くというか、いろいろな人との人間関係が広がっていくのが」


 百日との問題が解決した頃合いからだろうか。

 藍がクラスメイトと日常的に関わりを持つことが増えてきた。

 百日は改心してもしなくても見た目的にも性格的にも目立つ存在であり、いろいろな場面でよくわからない発言力を持っていることが多い。栗原も栗原で、その人当たりの良さから友人関係は豊か。

 その二人の親友ともなれば、藍自身も言っているように、彼女らの友達その他と関わる機会は必然的に増えてくる。


 以前までの藍ならば、その新しくできた関係というものに深入りしようとせず、一定の距離を保った付き合いをしたかもしれなかったが、今の彼女はそうしなかった。

 僕に対してそうであるように、誰に対しても比較的穏やかな言動を保ち、結果、彼女の交友関係は広がった。

 休日に友達と一緒に遊びに行く、というところまでいくほどに。


 最初に話すようになったとき、彼女はそういった多くの人間との関係を忌避しているように見えた。

 いくら変わったといっても、そういう根っこの部分までは変化していないのではないか。

 そう思っての問いだった。


「……誰かの悪口を聞いたときとか、少し、変な気持ちになっちゃうときもあるけど、基本的には平気だよ。わたしも成長したみたい。いろんな人と関わっていくうちに、みんな根本的にはいい人だなって思うようになったから」


 少し言い淀んだところはあったものの、彼女はその僕の問いにためらうことなくそう答える。

 それから僕と目を合わせ、柔らかく微笑んだ。


「それもこれも、全部、涼のおかげ。ありがとう」


 感謝の言葉が投げかけられる。

 自分の好きな女の子から。

 心の底からとわかるだけの十分な熱量を持った感謝の言葉が投げかけられる。


 あたたかい想いのこもったその言葉に、僕は――。


「おはよう。九々葉さん」

「……あ、おはよう。芦原さん」


 僕が彼女に何か言葉を返す前に、ショートカットで黒縁の眼鏡をかけた大人しめな外見の少女が藍に声をかけた。

 芦原真優(あしはらまゆ)。ここのところ、藍とよく話しているところを見かける少女。親友とは呼べなくとも、仲の良い友達と呼ぶにふさわしい関係性であることがその様子からは見て取れた。

 先日彼女と出かけたという話を今、聞いたばかりだ。


「この間は楽しかったね」

「ほんとにね。唯ちゃんがさ――」


 藍が彼女と楽しそうにおしゃべりを始める。


 手持ちぶさたになった僕は、鞄から宿題を取り出して取り組み始めた。


 始業時間が近づくにつれ、続々とクラスメイトたちが教室に入ってくる。

 その中には藍と芦原さんが話す姿を見て、その輪に加わっていく女子の姿も見られた。

 比較的大人しめな印象の女子が多く、そういう集団なのだと思わせられる。


 藍の席の周りに女子が増え、隣の席にいる僕の領域にまでその女子たちは迫ってくる。


 いくらその中心に藍がいるとはいえ、この場に居座り続けることは僕にとっても難しい。

 適当に校舎内でもぶらぶらしようかと教室を出ると、ちょうど今登校してきたらしい百日と栗原の姿が目に入った。


「あ、相田おはよう」

「おはよう。相田君」


「ああ」


 気のない返事をして、適当に手をあげてその場を去る。


「どうしたんだろうね、相田君」

「……さあ」


 背中に僕を慮るような栗原の声とそれに答える百日の声が聞こえて、僕は足を早めた。




 人気の少ない階段の踊り場に座り込み、時間を潰す。


 ぼーっと冷たい床に腰を落ち着けていると、体の末端が徐々に冷たくなっていく感覚がする。

 冷え冷えとした隙間風が差し込んできて、廊下の小さな埃をころころと転がしていった。


 「……さぶっ」


 小さくつぶやいた。

 十月の朝はこんなに寒かっただろうか。

 今年はやけに冷える気がする。


 そのままじっと身動き一つせず、虚空に目を留めていると、先ほど聞いた藍の声が耳によみがえってきた。


 『ありがとう』


 これまで何度も聞いた響きだったはずなのに、あのときの響きは何であんなにも――。


 思い、考え、胸を動かされる。

 残響し、心揺さぶるその声に、僕は頭を抱えた。


 始業開始五分前の予鈴が鳴るまでの間ずっと、その声は頭の中でさざなみのように響き続けていた。




 授業が始まる三分前になってようやく、教室に戻る。

 当然ながら、すでに藍の友人たちは彼女の席からはいなくなっていて、安堵した僕はゆっくりと自分の席に着いた。


 机の上にはやりかけの宿題が置かれている。


 結局、これをこなす暇もなかったな。そんな余裕もなかったし、仕方ない。


 思いつつ隣を見ると、彼女の机の上には同じ内容の宿題がいつでも提出できるようにしっかりと準備された状態で置かれ、担当教諭がやってくるのを今か今かと待っていた。


 僕は藍を見る。


 いつ見ても澄んでいてきれいだと感じさせられる彼女の瞳は、一心に前を向いていた。

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