家族構成
楓さんからの頼みを引き受けた後、飄々と手を振って自分の部屋に戻る彼女を尻目に、僕はリビングに戻った。
口喧嘩に勤しんでいたはずの藍と睡蓮さんは双方とも押し黙り、むすっとした顔で相手から顔を背けるようにそっぽを向いている。
なんというか、親子というよりは姉妹に近いような二人の様子だった。
僕の姿を認めると、藍は表情を和らげ、席を立った。
「もう挨拶は済んだんだし、行こ。涼」
「行くってどこへ?」
「わたしの部屋。それとももう帰る?」
「……いや、居てもいいのならもう少し居させてもらうけど」
「じゃあ、居て」
引っ張られるようにして藍に連れられる。
リビングを出る際に振り返ると、睡蓮さんが軽く僕に会釈をしていた。慌てて僕もそれに頭を下げる。
そのまま階段を上って、藍の部屋に入った。
絨毯の上のテーブルを挟んで、藍が二つのクッションを置き、奥のベッド側に近い方に自分で腰かける。
僕は彼女の正面に膝を折った。
「……ふぅ」
しょぼくれてそうな顔文字の書かれた真っ白なクッションを抱きしめた藍がため息を吐く。
力なく、肩を落とした。
「えっと……大丈夫?」
「大丈夫じゃない。とっても疲れた」
「それはお母さんと喧嘩をしたから?」
「……お母さんと喧嘩しているときに涼がどこかに行っちゃってたから」
そう言った藍は頬を膨らませる。
「長いよ、トイレ」
「ああ、いや、まあ、ごめん」
適当に言葉を濁すしかない。
ここで、楓さんから頼まれたことを包み隠さず言うわけにもいかないのだ。
あの犬猿の仲のような様子から見て、僕が彼女と睡蓮さんの仲を取り持ってほしいなどと頼まれたことを彼女が知ったら、藍はより頑なになってしまうに違いないのだから。
「なので、埋め合わせを要求します」
頬を膨らませ、しかし、微妙に口元を綻ばせた藍がさっと立ち上がって僕の方に寄り、そのまま僕の膝の上に腰を下ろす。
ぷにっとした感触が胡坐をかく僕の膝から下に乗った。
「……藍?」
「……埋め合わせ」
僕が怪訝な声で問うと、それだけ言って藍がぴとっと背中を僕の胸にくっつけてくる。
とても柔らかい。
そして、あたたかい。
「そんなにお母さんのことが嫌い?」
間近の藍の肩に手を置き、ほぐしながら尋ねる。
藍は僕のマッサージに身をよじりながらも、
「……嫌いとかじゃなくて……、苦手」
とやや拗ねたようにつぶやく。
僕はその様子に微笑ましさを感じずにはいられない。
最近、やたらと人格的に成長してきていた風な彼女の子どもっぽい部分を見られて、ちょっと得した気分になる。
……子どもっぽい甘え方は例えば昨日の深夜などにもあったかもしれないが、あれは別。
「まあ、高校生ともなれば、みんなそんなもんだとは思うけどさ。あんなに激しく喧嘩しなくてもいいと思うんだよね。考え方が合わないのかもしれないけど、もう少し理性的に、というか」
僕がそう言うと、藍は申し訳なさそうに肩を縮めた。
その動きにつられて、肩を揉んでいる僕の指先が彼女の細い首に触れる。
「わかってはいるんだけど……」
「けど?」
「……どうしても、受け入れられなくて……」
それはどうして?」
「自分でもわからない……んだけど、子どものころに、ちょっと……」
そう言うと、藍は言葉を濁した。
「言いたくないようなこと?」
「……涼になら、言ってもいい、けど……、記憶がちょっと曖昧で、正直、あんまり上手く説明できなくて」
「ふぅん」
子どものころ、特に幼いころの思い出なんて、成長に従ってどんどん記憶が薄れてきて、自分にとって都合のいい記憶になったり、悪い記憶になったり、または完全に忘れてしまったりもするものだ。それは仕方のないことかもしれない。
僕だって、幼少のころ、特に小学校未満の思い出なんて一つくらいしか覚えていない。父に連れられて行ったスキー場で、山頂に近い傾斜の急なコースで僕と凛を置いてきぼりにして、一人でさっさと滑り降りて行った父。取り残された二人で頑張ってコースを降りようとしたけれど、怖くて少しも滑れず、リフトの傍にいたスタッフの人にお願いして、どうにか平地まで送ってもらった思い出。
思い出すだけで、父親への行き場のない怒りが湧いてくる。奴の性格についてはもうとっくの昔に諦めているのだが、幼少の頃の思い出については別だ。
「……ま、思い出したらでいいよ」
「うん。ありがと」
言って藍はふっとまた力を抜いて、僕の方に寄りかかってくる。
肩を揉む力を強めると、「ん……」と彼女が声を漏らして、体全体を少し震わせた。
楓さんから頼まれたことではあるが、何年も引きずっている親子の問題が部外者の僕にそうそう簡単に解決できるとは思えない。今日すぐに、明日すぐに、というのはもっと無理だ。
できるところからやっていくしかない。今すぐ事情を訊き出す必要もない。
そう思っての言葉だった。
とりあえず、この場はこれ以上、彼女にとって重い問題を持ち出すのもはばかられたので、何か話題を変えたいところでもある。
だが、差し迫って何も言うことが思いつかなかったので、仕方なく、僕は彼女の気分を変えるために行動を以って行うことにした。
具体的には、肩に置いた手をそっと動かし、彼女の脇の下に突っ込んだ。
「――ひゃっ……、ちょ、っと……くすぐっ……~~~っ!」
藍の脇が弱いことはすでに以前、風呂場で確認済み。
声にならない悲鳴を漏らして、藍が悶絶する。
「……こちょこちょ」
「あはははっ……。涼……そこ、だめぇ……くすぐったいよぉ……」
身をよじる藍にさらに追撃を行うべく、耳に息を吹きかける。
びくっと、肩が跳ねた。
んぅ、と喉の奥から漏れ出るようなかわいい声を漏らす藍。
「りょ、りょうぅ……!」
くすぐる手を止めると、首だけで振り返って、藍が非難するような目を向けてくる。
全然、怖くない視線で、むしろそのじとりとこちらをねめつけるような表情が見ていて心地いい。
「……んむぅ。最近、涼、わたしにいじわるばっかりするんだから……っ」
またもや頬を膨らませた藍が拗ねるようにつぶやく。
僕はそんな藍の耳元に近すぎるほどに唇を近づけてささやいた。
「ごめんごめん。藍があんまりかわいくて」
「っ……、だ、だから、そういうのが……」
顔を真っ赤にした藍が僕の口元から逃げるようにちょっと体を逸らす。
耳が弱いのも、すでにプロファイル済みだ。
「でも、昨日の態度とか見る限り、藍はそういうの嫌いじゃないんじゃないの?」
「……そ、そういうのって、なに?」
「つまりは、まあ、いじめられるのが好きなんじゃないかって」
「……っ!? ……ち、ちがう! そ、そんなことないもん!」
「え~? でも、昨日の夜はあんなによろこんでたし」
「き、昨日のことは忘れてっ! というか、寝起きのわたしは全部忘れて!」
「あんなにかわいいのに?」
「っ……、そ、そういう問題じゃないの!」
「じゃあ、どういう問題?」
「だ、だからっ!」
必死に言い募ろうとする藍はかわいく、そして、数分前の親子喧嘩に披露したような様子は完全に消え去っていた。
それからしばらくして、楓さんが藍の部屋の扉をノックするとともに現れ、「お昼ごはんできたみたいだけど、相田君も食べていく? ていうか、その分もう作っちゃったみたいだけど」と言ってくる。
藍のお母さんやお父さんまでいる中で、お昼ごはんまでご相伴に預かるのは精神的にはばかられた僕だったが、さきほどから僕の背中にのしかかるようにして引っ付いてきていた藍が、僕の頭を両手で挟んで強制的に頷かせた。
それを見た楓さんが楽しそうに笑い、「おっけい。食べていくのね」と僕の返事を聞くでもなくさっさと部屋を出て行った。
僕は後ろの藍を振り向く。
「……あのさ」
「なーに?」
僕が呆れた表情で言うと、にこにことした笑顔の彼女がそれを迎える。
「いや、まあ、いいんだけど、僕の意思はどこに行ったんだろうね」
「……嫌だった?」
その藍の質問に僕が答える前に、彼女が今度は正面から僕の頭を両手で挟み、左右に振った。
「……うふふっ」
楽しそうに笑う藍。
いや、まあ、嫌じゃないんだけどね。
藍と二人で階下に降り、もう一度リビングにお邪魔する。
「すみません。お昼ごはんまで……」
「気にしなくていいわよ。藍がお世話になっているんだもの。これくらいはね」
「ありがとうございます」
睡蓮さんにお礼を言って、僕は席に着く。
僕の席は四人掛けのテーブルに椅子を一つ追加した誕生日席みたいな位置取り。藍と彼女に向き合う睡蓮さんに挟まれるようにして少し窮屈に腰かける。
藍の隣には楓さん。その正面には少し彫りの深い顔の男性。年齢は四十代半ばほどに見える。
おそらく、というか間違いなく藍のお父さんなのだろうから、僕は彼を見て、頭を下げた。
「えっと、初めまして。藍さんとお付き合いをさせていただいています。相田涼です」
「……」
だが、彼からの反応はない。
ただ薄く、本当に薄くちょっと顎を引いただけだった。
「……?」
首を傾げる僕に、すぐそばの藍が顔をしかめる。
「お父さん。挨拶くらいしてよ」
「……九々葉硯」
それまで僕と一切目を合わせていなかった硯さんは思い出したようにそこではじめて僕の方を見て、それからぼそりとそうつぶやいた。すぐに目を逸らし、それっきり黙りこくってしまう。
「……ごめんなさいね。昔っからこんな人なのよ。悪気はまったくないから、あまり気にしないでもらえるとありがたいわ」
睡蓮さんが諦めたように口にする。
僕はややよくわからない気持ちながらも、それに頷いた。
事情は知れないが、悪意がないのはなんとなくわかる。僕もそんなに口上手な方ではないから。
「さ、挨拶も済んだことだし、早く食べましょう」
少し重苦しくなった空気を変えるように、楓さんが殊更に明るい口調で言い、自ら率先して手を合わせた。
藍と睡蓮さんがそれにつられるようにして同じようにする。
硯さんは一拍遅れて合掌した。
同じように手を合わせつつ、僕は思った。
きっと、この家族はずっとこんな感じだったんだろうな、と。
藍と睡蓮さんは似た者同士にいがみ合い、硯さんは無口に干渉せず、楓さんが空気を変える。
それが悪いとは言わないが、なかなか興味深い家族構成だと思った。
酸味の鋭い冷やし中華はタイミング的には皮肉気に感じないでもない。
ちょうど何とも言えない酸っぱい気持ちになったばかりだ。
味の濃いタレとコシの効いた麺を、渋い顔をして味わう。
それでも料理自体はおいしく、きっちり残さず全部いただいた。
食事後落ち着く間もなく、僕はすぐに帰宅することにした。
もう少し居残ってほしそうな藍の頭を撫で、お誕生日席から立ち上がる。
帰り際、楓さんからは「できる範囲でいいから、お願い」ともう一度念押しの耳打ちを受けた。
僕はそれに頷く。
藍と楓さんと睡蓮さんは見送りに出てくれたが、硯さんはさっさと自分の部屋に戻っていった。
そのなんとも淡泊な感じはまあ、正直いい気分はしないけれど、そういうもんだと納得しておくことにする。
それから僕は藍に手を振って九々葉家を後にした。




