やってみよう
「……ただいま」
「お、おじゃまします」
少しテンションの低い様子で帰宅を告げる藍に、僕は恐縮した風に小声で言う。
「おかえりなさい、藍。あら?」
リビングから少し背の高いショートカットの女性が現れ、藍を出迎える。
そして、その隣に所在なさげに立つ僕を見て、怪訝そうに眉をひそめた。
「はじめまして。こんにちは。藍さんとお付き合いをさせていただいています、相田涼です」
僕は藍のお母さんに挨拶をした。
リビングのテーブルに着き、僕の隣に藍、僕の正面に藍のお母さんという位置取りで向かい合う。
「はじめまして。九々葉睡蓮です。藍がお世話になってるそうね。楓からは話を聞いているわよ。相田君」
切れ長な瞳をした彼女が目を細めて僕を見つめ、ややたじろぐ。
藍からではなく楓さんからという点に違和感を覚えて藍を見ると、彼女は何か訴えかけるような目線で僕を見ていた。
……うん。今は何も余計なことは訊かないでおこう。
「その……、昨日から藍さんと二人で友達の家に泊まりに行っていまして、その帰りに藍さんをお家まで送らせていただいたんですが、彼女にちょうどいい機会だから、挨拶していかないかと言われまして……」
半ば言い訳のように、非常にへりくだるような口調で、事情を説明する。
しかし、睡蓮さんはそんな僕の態度にこだわらず、僕の口にしたとある一点に反応した。
「二人で、泊まりに?」
「あ……、はい、まあ、そうです」
自分で言ってしまって、失言だったかと思い至った。昨日、藍は家に帰っていないわけだから、言い訳のしようもないとはいえ、年若い自分の娘がよく知らない男と外泊とは母親としてはやはり看過できないものがあるのではないだろうか。
以前にも似たようなことが二度ほどあるとはいえ。
「ちなみに、そのお友達というのは女の子?」
「……はい、そうです」
「三人でお泊りを?」
「あ、いえ、その、もう一人、藍さんと僕との共通の友達が一人……」
「その子も女の子?」
「は、はい」
「へえ、そう」
なんでもないことのように頷いて、睡蓮さんは頬に手をやった。
「……私、最近の若い子の事情っていうものがよくわからないんだけれど。まだあなたたちは高校一年生なわけでしょう? そんな風に平然と男女が合わさって外泊ってするものなのかしら?」
「……いえ、どうでしょう。僕もその最近がどうだっていうのはわかりませんが。ただその、決していかがわしい目的があるわけでは」
「それはわかってるわ。ある程度、あなたが信頼できる人物だっていうのは、楓の話を聞いたり、藍の態度を見ていたりすればわかるもの。でも、だからと言って、あなたが子どもの範疇を出ない年齢なのは確かな事実よ。成人した大人ならともかくとして、間違いを犯した結果、あなたにその責任が取れるのかしら」
「……それは……、はい、すみません」
睡蓮さんは肩を縮める僕の態度に、気持ちの読み取れないような曖昧な笑みを浮かべた。
「……ごめんなさいね。こんなこと、今日初めて会って言うことではないとわかってはいるんだけど。でも、藍の様子を見ている限り、今まで何もなかったっていうわけじゃあ、ないんでしょう?」
「……あ、いえ、その」
こういうとき、果たして、何と答えるのが正解なのだろうか。正直に答えても、ごまかして答えても、結局は不誠実な態度を取ってしまう気がする。もっとも、後ろ暗いところがないわけではない僕に問題があるわけだが。
「……お母さん、もういいでしょ。そんなこと、涼にばっかり言わないで。わたしにだって、問題があるんだから」
これまで黙っていた藍が狼狽える僕に我慢できなくなったように口を開いた。
睡蓮さんの視線が藍に映る。
その色にとても激しい感情が浮かんだように感じた。
「それはそうね。あなたはもっと、間違いだらけよ。藍。私はあなたにきちんと忠告したわよね? 節度を守った交際を、って。なのに、あなたは私の言うことも聞かず、自分の思うがままに行動している。成年と未成年ならともかく、未成年同士ならどちらにも責任はあるわ。親としてあなたの手綱を取り切れなかった私にも原因はあるけれど、でも、何かにつけて私に反抗ばかりしているあなたにも問題はある」
藍を相手にした途端、睡蓮さんの舌鋒が鋭くなったような気がした。
藍はひどくむくれた顔つきをしている。
「……嘘つかないで。お母さんはわたしの手綱を取ろうだなんて思ってない。ずっと放任して、ずっと置き去りにしてばかりいたのに。わたしが最初に涼の家に泊まったときだって、何にも心配なんてしてなかったくせに」
「あれはあなたがそうしてほしくないかと思ったからよ。それに向こうの親御さんもいるのよ。そうそう大変なことになるとも思えなかったわ」
「……嘘ばっかり」
ほとんどにらみ合うような感じで藍と睡蓮さんは相対している。
しかし意外なのは藍の頑なさ加減だ。
今の藍は誰に対しても、もちろん家族に対しても、いつも温和な態度を取っているものだとばかり思っていた。以前までの頑なだった彼女はもはや完全に鳴りを潜めてしまっているものだと。
しかし、お母さんの言動に真っ向から反抗している彼女はとても穏やかとは言い難い。
先ほども藍は親と仲が悪いみたいなことは言っていたが、ここまで頑なになるほど仲が良くないとは思わなかった。
「えっと、その、すみません。僕の軽率な行動で、ご迷惑をおかけしてしまって」
だから、僕はこれ以上、藍に実の母親と喧嘩などしてほしくないと思ったので、そう口にした。
実際、八割方、悪いのは僕だと思うし。
「ごめんなさい。今は藍と話しているの。相田君は少し待っていてくれるかしら」
「涼、大丈夫だよ。涼は絶対悪くなんかないから」
対照的な態度を取っているように見えて、実は僕の言っていることをまるで耳に入れていないのは同じというところを見ると、やはりこの二人は親子なのだと思わせられる。
藍、僕は悪くないって、じゃあ、一体誰が悪いというのか。
「……大体、お母さんはお姉ちゃんのことは放っておくくせに、どうしてわたしのことにはいつも口出しをしてくるの?」
「楓はふざけているようでいて、あれでけっこう強かだもの。弁えるべきところはきちんと弁えているわ。でも、あなたは違う。あなたはいつも危ういのよ。後先考えず行動するから、いっつも誰かに尻ぬぐいを強いている。相田君にだって、そうじゃないの?」
「わかったようなこと言わないで。わたしは、そんなんじゃない」
「……いい加減、周りをきちんと見たらどうなの? あなたはそのままじゃ、無自覚に人を傷つけるだけよ」
「……っ」
二人の言い合いは止まらない。
正直、どっちが正しいとか以前に、関係はあるものの部外者である第三者の僕からすれば、ただの親子喧嘩をしているようにしか見えない。
「……?」
僕がまたどうやったら、この喧嘩を止められるのかと思案していると、後頭部に何やら小さな衝撃を受けた。
後ろを見ると、リビングに入るドアのところで、その隙間から楓さんが僕に手招きをしている。
足下を見ると、小さな紙くずが転がっていた。大方、彼女が僕に振り向かせるために投げたのだろう。
「……トイレ、借ります」
そう告げて、言い合いをする二人から離れ、リビングを出る。
楓さんの姿を探すと、彼女は廊下の壁に寄りかかって腕を組み、僕と目が合うと、表情に苦笑を滲ませた。
「ごめん。相田君に醜いものを見せて」
「いえ、別に醜いとまでは……」
「つまり、それより軽い程度のことは思ったわけね」
図星ではあったので、黙って頷いた。
楓さんはさらに口元を歪める。
「むかしっから、ああなのよね。あの二人。藍ちゃんはお母さんに向かうときはなぜか執拗に頑なになるし、お母さんはお母さんで藍ちゃんと接するときはやけに感情的になる。あたしにはとっても淡泊なのにね」
言って、楓さんは自嘲気味に笑った。
「過去に何かあったんですか?」
「さあね。少なくとも、あたしは知らないわ。藍ちゃんに関して言えば、中学を無理やり進学校に入れられたとかいう事情はあるみたいだけど、それだけでああも頑なになるものかね。単に徹底的に考えが合わないだけかもしれないわ。元々の個性自体が、ね」
「それにしては、ちょっと似たところもある気がするんですけど」
僕がそう言うと、楓さんはおかしそうに笑った。
「わかる? なかなかよく見てるね。あたしもお母さんと藍ちゃん、かなーりの似た者同士だと思うんだけど、なぜかいっつも喧嘩してるのよね。同族嫌悪って奴かしら」
「仲裁とかしないんですか?」
「してもむだ。あたしが何回あの二人の仲を取り持とうとしたと思ってるの? 軽く三桁はいくんじゃないかな? そのたびに、藍ちゃんはふてくされた顔になるし、お母さんはだんだん不機嫌そうに眉間に皺を寄せるしで、こっちのストレスが半端じゃないのよ。だから、やめた」
「……その、藍のお父さんは?」
「あの人はとてもとても無関心な人だから。目の前でお母さんと藍ちゃんが喧嘩してても何も言わないわ。あの人がそんななのも昔から。あの人に期待するよりは、それこそ自分で止めた方がまだましってくらい」
「なんていうか、複雑ですね」
「そう? どこの家庭も似たようなもんじゃないの? 程度の違いはあるにしろ」
楓さんはそう言って、肩をすくめた。
まあ、僕もお世辞にも親と仲がいいとは言えないが。特に父親とは。
しかし、だとしても、そうそういつも喧嘩ばかりしているというわけでもない。
僕の父親は暑苦しい熱血漢な上に、自分で言ったことを自分の行動で覆すような矛盾に満ちた存在だが、それでも、自分の父親としてそれなりに敬ってはいるつもりだし。
母親は……、まあ、いいや。
「相田くーん」
僕が自分の親のことなどに考え耽っていると、急に楓さんが甘えたような声を出した。
びっくりして彼女を見ると、やけににやついた顔をしている。
とっても、嫌な予感がした。
「あの二人の仲を……」
「嫌です」
そう言われるだろうとは思っていたので、先手を打って断っておく。
すると、楓さんの表情があからさまに色を変えた。
「へえ? そんなこと言っちゃう? 言っちゃうんだー? あたしのかわいい妹といやらしいことをした挙句に、危うくやり捨てて逃げようとした最低男のくせしてー」
「……ぐっ」
持って回った変化球もなく、いきなりど真ん中ストレートを投げ込まれて、大いに動揺する。
それについては彼女から何も言ってこないから、てっきり藍から何も聞いていないのかと思っていたのに。
「……ねえ、相田君?」
目つきを鋭くした楓さんが、威嚇するように僕の顔に自分の顔を近づけてきて、ささやくように口にする。
藍に似た造作の整った美女と数センチの距離で向かい合っているのに、緊張してどきどきするどころか、恐怖で心臓が縮み上がる思いがした。
「あたしさあ、実はすっげえお前にむかついてるんだよね。別に、藍ちゃんも了承したことだっていうのなら、お母さんと違ってあたしは行為自体には何も言わないよ。何も言わねえよ? けどさあ、その後はひどいよな? あんたにもそれなりの事情や気持ちや悩みや不安や心配事やらよしなし事やらいろいろあったのはわかるよ? わかってるけど、どうでもいい。藍ちゃんの百パーセントの味方であるあたしからすれば、心底どうでもいい。世界の裏側でどんな凶悪犯罪が起きてようが、他人事みたいにエンターテインメントとして消費できる人間と同じように、あんたの裏側にどんな事情が存在していようとも、あたしは一切関知しない。ただ、あたしはうちの藍ちゃんに心の底からの勇気を出させたはずのあんたが、そんな情けないだけの男に堕しているのが許せない。最初に会ったとき言ったよな? 本気で向き合え、って。中途半端はやめろって。なのに、お前は何やってたんだっつー話しなわけよ。ほんとに本気で向き合ったか? ほんとにまじめに向き合ったか? 心の底から考えて、死に物狂いで求めたか? そうでなけりゃあ、本気とは言わないからな?」
楓さんは唇も触れかねないような至近距離で僕の瞳の奥を覗き込むように見つめ、言葉を投げかけ続ける。容赦もなく、情けもなく、ただ暴力的に激情の下に統制された言葉を投げかける。
僕はそれを黙って聞いていた。
少し怖くて恐ろしくて、自分の以前の情けなさに身が染みる想いだけれど、黙って聞いている。
「……あたしは相田君がそんなに嫌いじゃないよ。藍ちゃんが好きになる気持ちも少しはわからんでもない。性格的に、少しは。だけどまあ、今のお前が気に入らないのは、確かだ。何が気に入らないって、お前、自分に自信がなさすぎだ。大したことねえ奴が自分に自信を持ちすぎるのも大概ひどいと思うけど、ほんとはもっとできるのに自分に自信を無くして自分の殻に閉じこもってる奴があたしは一番許せない。今のお前はそれだよ。相田君。あんた、もっとできるよ。やればできる。なのに、やってない。そんな印象しかあんたには受けない。少し、藍ちゃんに甘やかされすぎたんじゃないの? もう少し自分でなんでもやってやろうっていう気概を持った方がいいと思うよ」
「……はい」
「……って、あたしは何を言ってるんだ。今気づいたけど。ちょっとしゃべりすぎたね。ごめん」
小さく謝って、楓さんは僕から距離を取った。
それからえほん、と一つ、咳払いをする。
「とにかく、あたしが言いたいのは、あんたはもっとできる奴だってこと。だから、何でもやってみろってこと。それで言うなら、そんなできる奴を見込んで、うちのお母さんと藍ちゃんの仲を取り持ってくれないかってこと」
「……はあ」
「気のない返事だねえ。まあ、いいけど。でも、正直、もっと藍ちゃんにいいところを見せてもいいと思うよ。相田君」
「いいところ、ですか?」
「最近、藍ちゃんに助けられてばっかりとか、いろいろしてもらってばかりとか、そんなんばっかなんじゃないの? 相田君。だったら、ここらで一発大きいのをかましておこうよ」
「……」
「それに、これはあたしの予想なんだけど、お母さんとの仲を取り持ってくれたら、藍ちゃん相田君にメロメロになるんじゃないかな」
「……メロメロ?」
「今でも十分そんな感じなのかもしれないけど、もっとメロメロになった藍ちゃん、見たくない?」
「見たいです」
「なら、やってくれる? 二人の仲直り、もとい、関係改善。できる範囲でいいからさ」
「……わかりました」
僕がそう頷くと、楓さんは笑った。
「いいよ。男の子はそうでなきゃ。できるできないじゃない。やってみればいいよ」




