夏休みのこと
少し前の話をしよう。
一か月ほどの前の話を。
涼とわたしが旅館の一室で男女の交わりを持って少し後。
その日、わたしは旧友の訪問を受けた。
「……こんにちは。久しぶりだね。九々葉藍」
そう言って微笑んだのは、わたしがもう二度と会うことはないと思っていた女の子だった。
百日ダリア。
小学校のときに不幸な行き違いがあって、仲たがいをしてしまった、わたしの親友だった女の子。
癖一つなくまっすぐに伸びる金色の髪がきれいで、澄み渡る蒼い瞳が魅力的だった彼女は、数年の後、以前よりもずっときれいになって、わたしの前にその姿を現した。
母と父のいない平日の昼頃、インターホンが鳴らされた。お姉ちゃんも家の中にいたけれど、そういうとき大抵お姉ちゃんはわたしに来客の出迎えを任せるので、言われるまでもなくわたしが出た。
すると、そこにいたのはわたしのよく知っていた彼女の成長した姿で、わたしはひどく驚いた。
「もも……ちゃん?」
「うん。そうだよ。ボクの名前は百日ダリア。君の知ってる『ももちゃん』できっと間違いない」
「……どうして?」
「それはどうして、今頃、ボクが君の前に姿を現したのか、ということ?」
「……ううん。ももちゃんはきっとわたしのことなんか嫌いになったんだって、ずっと思っていたのに、どうしてそんな風に……」
「平然としていられるのか?」
わたしの言葉の先を読むようにしてそう言った彼女は、それからわたしの瞳をその深海のようにきれいな瞳でしばらく見つめ、紡ぎ出すように言葉を重ねた。
「……嫌いになんて、なってない。ボクが君を嫌うはずなんて、あるわけがない。ただ、ボクはボクのせいで、君に起こってしまったことの責任を取り切れなかっただけだ。それを背負うことができなくて、逃げただけだ。……だから、嫌っていたわけじゃあ、絶対にない」
「そう、なんだ……」
彼女の口にしたその言葉を、失礼だけれど、わたしはあまり信じることができなかった。
わたしのせいで日比原くん、今の斎藤くんがみんなにいじめられるようになって、それから彼がいなくなった後はその代わりのようにわたしにその矛先が向けられた。
クラスメイトのみんなが敵のようになって、わたしがその標的みたいにされる。
確かに、彼女自身がわたしに何かをしたことはなかった。彼女から何かの嫌がらせを受けたことはなかった。
けれど、わたしがみんなからひどいことをされて、孤独感と拒絶感に喘いでいるとき、彼女はただわたしを見ているだけだった。
無表情にわたしを見て、わたしを助けることもなく、ただずっと見ているだけだった。
「……今の君の気持ち、なんとなくわかるよ。ボクだって、数年前自分をいじめたような奴が今更のように目の前に現れて、実は君を嫌ってなかったなんて言ってもきっと信用しないだろう。だから、今はそれでいい。どの道、今日は挨拶をしておきたかっただけだから。ただの顔見せだ」
「顔見せ?」
「君に信じてもらうために、ボクはこれからちょくちょく君のことを訪ねて、そして、こんな風に他愛なく少し話でもしていこうかと思ってる。ボクは昔のボクのことをとても後悔しているから、だから、君に謝りたかったんだ。……ごめんなさいって」
そう言って、彼女は腰を折って、頭を下げた。
「そして、心からの謝罪であることを君に信じてもらうために、何度も君の家へ訪問しようって、思った。それぐらいしかできないかなって。まあ、君がそれを許してくれるのなら、だけど……」
彼女は窺うようにわたしを見る。
玄関先に立つ彼女の首筋には幾筋かの汗が滲んでいて、真夏の強い日差しを受けても、顔色一つ変えることなく、百日ダリアは立っていた。
それを見て、わたしは決断した。
「うん。わかった。ももちゃんがそうしたいのなら、そうしてくれても大丈夫、だよ。わたしは構わない」
「……ありがとう」
心なしか、彼女の表情に安堵の色が濃く表れたように見えた。
「それじゃあ、またね。今度来たときもよろしく」
「うん。じゃあね。ももちゃん」
手を振って、彼女が遠ざかっていく。
その折、彼女がどこか遠くを見据えるような目つきをした。わたしから見て、向かって右側。その視線の先は遠く、人通りの多い大通り。雑踏に紛れ、何を見つめているのかは判別できない。ただ、目を細める彼女の横顔だけが認識できる。
その口元に薄く、とても薄い笑みが刻まれたのをわたしは目にした。
その笑みがわたしの頭になぜか焼きついた。
ももちゃんが初めてわたしを訪ねてから一週間。宣言通り、彼女はわたしの下に通い続けた。用事で不在にしているときも、訪れたことを示すように、ポストに書き置きが入れてあった。
来るたびに、彼女は外国であった他愛のない笑い話をして、帰っていく。
判を押したように、いつも同じ玄関先での立ち話。
何度か中に入るように誘ったけれど、彼女は頑として譲らず、わたしはその度に不思議に思った。
どうしてそんなにも彼女は一生懸命なのだろうか、と。
彼女にとって一体、わたしはどんな存在なのだろう、と。
その日、いつものように昼過ぎに彼女の訪問を受けたわたしは十分ほどの雑談の後、外に出た。
涼との連絡は相変わらずつかず、家の中にこもっているだけでは気が滅入るばかりだと思ったので、外に出ることにしたのだ。
駅近くにある大きめの本屋さんに行こうと思っていて、ももちゃんも誘ってみたが、例のごとく断られてしまった。彼女は彼女自身を自分で許せるようになるまで、わたしと密にかかわろうという気はないらしい。わたしはもう、昔のことなんて気にならなくなっていたのだけど。
駅までバスで移動して、そこで本屋さんに入った。
少女漫画を流し見して、文庫本コーナーに至る。
角を曲がったところで、お腹の辺りに衝撃が来た。
見ると、目の前に小さな女の子が尻餅をついていて、角でぶつかってしまったのだと気づいた。
「だ、大丈夫!? 怪我しなかった?」
慌てて問いかけ、手を伸ばすと、幸いなことに、彼女はどこも怪我をしなかったらしく、「うん!」と元気よく頷いてわたしの手を取った。
引き起こして、彼女と向かい合う。
すると、その女の子は「あ!」とわたしの顔を指さして、短く大きな声を上げた。
何事かと思ったけれど、、次の彼女の言葉にその理由も知れる。
「お祭りのときのお姉ちゃん!」
彼女はそう言った。
その言葉にわたしも思い出す。
そういえば、涼と二人で夏祭りに行った折、一人、迷子の女の子をそのお母さんと引き合わせたりしたことを。
「もしかして、鬼灯愛乃ちゃん?」
「うん! そうだよ!」
元気よく、愛乃ちゃんは返事をした。
記憶力は良い方なわたしなので、彼女の名前はフルネームで覚えていた。少し印象深い出来事でもあったし。
「愛乃ちゃんは本屋さんで何をしていたの?」
「うん! お母さんと一緒にお洋服を見に来たの!」
「え? ここ、本屋だよね?」
「うん! そしたら、お母さんいなくなって、気づいたらここにいたの!」
元気いっぱいでそう言う彼女に、わたしは脱力する思いだった。
つまり、また迷子なんだ……この子……。
どうやって、彼女をまたお母さんと引き合わせようかと考えていると、その思考を先回りしたように彼女が言った。
「でも、大丈夫! これ持ってるから!」
取り出したのは、子ども用らしいシンプルで小さな形の携帯電話だった。
「お母さんが持っててって」
そう言う彼女にわたしは納得する。前回の迷子で懲りて、彼女のお母さんは彼女に子ども用の携帯を持たせることにしたのだと。
「そっかー、じゃあ、大丈夫そうだね」
「うん。大丈夫だよ」
愛乃ちゃんはそう言って笑った。
小さな子どもの笑顔は見ていてすごく癒される。交じり気がなくて、とても純粋な気がするから。
わたしはきっともう、こんな風には笑えない。
それが成長するってことでもあるのだろうけど、少し寂しくもある。
人の悪意も敵意も知ってなお、こんな風に笑えたら、どんなにいいだろうかと。
「……お姉ちゃん、大丈夫?」
「え? あ、ごめんごめん。大丈夫だよ」
物思いに耽るわたしの姿が彼女にはどう見えたのだろう。心配そうな顔で覗き込まれてしまった。
「あの怖い顔のお兄ちゃんはいないの?」
「……うん。今日はいないよ」
「どうして?」
「どうしてって、それは……」
一瞬迷う。喧嘩……みたいなことをした。それをこの子に正直に言っていいものかどうか。
「お兄ちゃんは忙しいから、なかなかわたしとばかりもいられないんだよ」
そう言って、ごまかす。実際、きっと、今の彼が何かで忙しいことは事実だろうと思う。予定がどうとかじゃなくて、きっと、精神的に。
愛乃ちゃんはわたしの言葉に反応することもなく、じっとわたしの目を見上げている。
その視線に少したじろいで、わたしは目を逸らした。
「お姉ちゃん、知ってる?」
そして、そんなわたしにこだわるでもなく、彼女は言った。
「何を?」
「いっつも怖い顔ばかりしてる人は、心で泣いてるんだって。だから、誰かが助けてあげないと、その人、いつか壊れちゃうんだって」
「……」
「お母さんが言ってたよ。お父さんもそうだから、だから、わたしがいつも助けてあげてるんだって」
「……愛乃ちゃんのお母さん、とってもいい人だね」
「うん! そうだよ! お母さん、とっても優しいし、とってもきれいだし、好き!」
「そっか……」
愛乃ちゃんは変わらず、元気いっぱいにそう言った。
それからも、少し彼女と話をした。
小さな子どもと遊ぶのは体力がいることだとは思うけれど、その実、たまにとても元気をもらうことがある。
わたしは今日愛乃ちゃんと話して、彼女と遊ぶというよりはむしろ元気をもらった気持ちになった。
しばらくして、携帯の位置情報から愛乃ちゃんの居場所を検索したのだろう。彼女のお母さんがその場にやって来た。
わたしとの偶然の再開に、彼女も驚いていた。
「愛乃と遊んでくれてありがとう」
なんて言われてしまったけれど、むしろわたしの方が感謝したい気持ちだったので、「いえいえ、こちらこそありがとうございました」と頭を下げた。
彼女は恐縮していた。
それからしばらく、本屋の中を見て回り、聞いたこともない作家の作品を二冊買って家に帰った。
シャワーを浴びて部屋着に着替え、自室のベッドに寝転がる。
豚のぬいぐるみを一つ、抱いた。
もふもふとした感触が肌に心地いい。夏はちょっと暑いけど、エアコンをつけていればプラスマイナスゼロ。
抱き心地のいいぬいぐるみを抱いて、わたしは癒される。
だから、そんな風に、わたしが涼にとって一緒にいて癒される存在になれればいいな、と思った。




