深夜の談話
脱衣所から出てきた二人は心なしかほかほかしていた。入浴を終えた後なのだから、ほかほかしていて当たり前かもしれないが、身体だけでなく、表情もほかほかしているように見受けられた。
そんな二人の様子を見た百日が己の手柄を誇るように親指を立ててくる。
「ね? 上手くいくって言ったでしょ?」
「……何についての、上手くいく、なのか知らないけど、まあ、とにかく藍と栗原の間で何かが上手くいったのならよかったよ」
「ボクの親友二人だからね」
百日が胸を張るように、えっへんと腰に手を当ててみせた。
「藍はわかるけど、栗原の親友にお前はいつなったんだ?」
「ついさっき」
「そうか」
疑問を覚えないでもない返答だったけれど、この百日ダリアが迷いなくそう言えるということは、間違い様もなくそうなるべき出来事があったということだろう。
ならば、僕が口を挟むことなど何もない。
「さ、二人が仲良く入浴を果たしてきたことだし、ボクらも仲良く一緒にお風呂に入ろっか」
「……は?」
見上げるようにこちらを見つめる百日に、僕は怪訝な声を返す。
また、彼女のその言葉に、バスタオルを頬に当てていた藍も眉をぴくりと動かした。
「……冗談だよ? もしかして本気にした? 本気にしちゃった?」
僕の反応を窺うようにする百日に冷たい声を返す。
「いや、しないから」
「なーんだ。つまんないの」
「お前な」
「でも、本気で相田が一緒に入りたいっていうのなら……、別にボクも拒んだり、しないよ? ボクへの恩を笠に着て、そういう要求をしちゃったりなんかしても、いいんだよ?」
上目遣いで、僕の方にしなだれかかってくるようにして、シャツの襟元を引っ張って首筋をわざと見せつけるようにしてくる百日。
僕はそのちょっと色っぽい態度に狼狽するとともに、目線が自然とその首筋の白さに持っていかれる。
「お、おい……?」
狼狽した僕が慌てて否定の言葉を述べようとしたところで、腰に熱っぽい温度とやわらかい感触を覚える。
首を動かして後ろを窺うと、濡れた髪を揺らめかせて、背中に藍が抱き着いているのが見えた。身に着けているのは桃色上下のオーソドックスなパジャマ。
「だ、だめ! 涼はわたしのなの! ももちゃんと一緒にお風呂なんて、絶対にだめ!」
そう言って、若干の非難を込めた目で藍は百日を見つめた。
それに彼女が肩をすくめて見せる。
「じょーだんだって、言ったよ? 藍ちゃん。だーいじょうぶ。君の相田を取ったりなんかしないって。一緒にお風呂にも入りません。藍ちゃん、マジすぎ」
「……だ、だって……」
「ま、そういう態度になるのわかってて言ったボクもボクだけど。でも、相田的にはこうして藍ちゃんに独占されるのもうれしいんじゃない?」
百日が口元に苦笑いを浮かべて僕に目線をやる。
「え、まあ、たしかにそうだけど」
「でしょ? ま、些細なことだけど、これも君への恩返しっちゃあ、恩返しってことで。藍ちゃんには仇かもだけど。それもまあ、二人でこの後いくらでも乳繰り合えるでしょう。ってことで、ボクはお風呂入ってくるから。相田はボクが先で構わない?」
「あ、ああ、別にいいけど」
「そ、じゃあ、ちょっと、待っててね」
そう言って百日がリビングを出て行った。
「……あいつ、ほんと、めちゃくちゃだよな」
「それがダリアのいいところ、なんだと思うよ」
これまで沈黙の下に事態を見守っていた栗原が答えを求めるでもなくつぶやかれた僕のつぶやきに応答した。
その後、百日に続いて僕も入浴し、それから、尽きることのない女子トークが再開され、僕はそれに交じるでもなく交じったり、百日から貸してもらったゲーム機で一人用のゲームなどに励んでいたりしていた。
時間はいつの間にやら午後十二時を回り、深夜へと近づいていく。
「明日は日曜日だから、もう少し夜更かしもできるとは思うけど、もう寝る?」
藍と栗原と三人でリビングのテーブルについていた百日が、一人フローリングに座り込みテレビに向かう僕にも聞こえるようなよく通る声で言った。
「……正直、わたしはもう眠い……」
半開きの瞼をこすりながら藍が言う。
「わたしは別に大丈夫だけど……。藍が眠いって言うのなら、わたしも寝よっかな?」
藍の様子を慮るように視線を送った栗原が、以前よりも親しみを込めた言い方で藍を呼ぶ。
僕はそんな栗原の態度に、藍の恋人として内心嬉しい気持ちを抱えながら、百日に返答した。
「僕は元からけっこう手持ぶさただったし、寝るっていうなら否やはないな」
「そう……。じゃあ、もう消灯ね。……あと、言ってなかったけど、ボクは最近引っ越してきたばかりだから、ここにはお布団って二セットしかないんだよね。ボク用のと、父が来日したとき、ここに泊まるときのために買ってあってまだ一度も使ってないのとの二つ。だから、普通に考えて、ボクとるり、藍ちゃんと相田が一緒に寝るのがいいと思うんだけど、それでいい?」
立ち上がった百日が僕らを見渡すように言う。
もはや半分寝てしまっているような藍は舟を漕ぎながら頷き、栗原は「大丈夫!」とやけに声高に主張し、僕もまあ、藍となら別に慣れているとは言えないまでも何度か経験した同衾だったので、問題ないと首肯した。
「そ。じゃ、るりはボクの部屋に。藍ちゃんと相田はその隣の部屋ね」
百日が栗原を引き連れて、リビングを出て行く。
「Good night」
「おやすみー」
「……こくん」
「……おやすみ」
去り際に今更のハーフらしさを発揮した百日が流暢な発音でおやすみを言い、栗原が手を振った。
藍はもう完全に眠ったように首を前に落とした。
二人が去って、静かになったリビングで僕は藍に歩み寄る。
彼女は完全にテーブルに突っ伏していた。
「……藍。なんかもう、完全に寝落ち一歩手前って感じだけど、歩ける?」
「……むりー。抱っこしてー」
眠気のためか、ちょっといつもより子供っぽさが増した藍が、甘えるように両手を僕の方に伸ばしてくる。
僕は喜んで、その藍を正面から抱きかかえた。
小柄とはいえ、女子高生一人を抱えて運ぶのは腕への負担が半端なかったが、それでも、何とか彼女を抱えて、百日の寝室の隣の部屋までたどり着く。
扉を開くと、だだっ広い空間の中に、段ボールがいくつかと、ぽつんと一脚ハンガーラックが置いてあった。
フローリングの上に申し訳程度の絨毯が敷いてあり、その上に新品同然の布団が敷いてある。枕は二つ。
きちんとベッドメイク、というか布団メイクがなされたその掛け布団を藍を抱えたまま苦労してめくり、彼女をそっと横たえる。
幸せそうな表情で目を閉じた藍はすでに「すー……すー……」と寝息を立てていた。
僕はそんな彼女の枕元に座り込む。
改めて彼女の寝顔を見つめると、長い睫毛ときれいな肌、小ぶりでつやつやとした唇が目に付いた。
指の第二関節を曲げて、その甲で頬に触れる。
「……うー」
猫がじゃれ合うような声を出して、藍が指に頬をすり寄せてきた。
起きているのかと一瞬思ったが、指を離すとしばらくして寝息を立て始めるので、やはり眠っているのだろうと思う。
頭を撫でると、心地よさそうに目元を緩めた。
唇に指の先を触れさせると、少しの弾力があって、ぷるぷるとしている。
新鮮な感覚にふにふにと突っつき続けていると、いきなり彼女が口を小さく開いて、その指を口に含んだ。
人差し指が体温の熱で包まれる。
「……ぅにゅ」
わずかに吸われるような感覚があり、唾液がねっとりと絡みつくのがわかった。
指の腹を使って、彼女の舌先を軽く刺激してみる。
「……んぅ」
喉の奥から漏れ出るような声がして、僕はちょっとやりすぎたかと指を引っ込めた。
そうして、藍の寝顔プラスアルファを思う存分満喫した僕は、そのまま彼女と同じ布団に入る。
リモコン式らしい部屋の照明を消そうとしたところで、部屋のドアが開く音がした。
「一応、言っておくけど、人んちで変なこととかしないでねー」
藍が眠っているのを気遣ってだろう、百日が口に両手を当てて、小声で言ってくる。
僕はその言に少々呆れ、そして、半身を起こして藍に身を寄せている体勢のまま、彼女を指さした。
「もう、寝てるから、したくてもできない」
「つまり、起きてたら、するつもりだったと?」
「まさか。僕がそんな盛っている男に見えるのか?」
「……見えないこともないけど。ま、いいや。じゃ、今度こそ、良い夜を、ね」
「ああ、お前もな」
百日が微笑んで、ドアを閉めた。
今度こそ本当に電気を消し、部屋の中が真っ暗になる。
何も見えない暗闇の中で、僕は彼女の身体の温かさを全身で、彼女の吐息の熱っぽさを耳元で感じる。
以前、同じように藍と床を共にしたとき、起こったことを思い出す。
自分がしてしまったことを思い出す。
そして、ほとんど同じに類する行為であっても、そのときとは全く違う意味合いを持つ昨日の行為を。
僕は自分が信じられなくなっていた。
薄々気づいていたはずのことを、藍から改めて指摘され、拒絶されたわけではないのに、彼女のそばにいてはいけない気になって、遠ざかった。
けれど、結局、他でもない彼女の途方もない勇気によって、僕の腑抜けた気持ちはすべて一転させられた。自分を信じられない僕の代わりに、僕を信じることを決めた彼女の勇気に。
本当は僕自身が解決すべきだった僕の気持ちを、情けないほどに彼女に肩代わりしてもらい、あまつさえ、その後寝込んだ僕の看病までを彼女にしてもらった。
ありがたいな、と思う。
本当に、僕にはもったいない彼女だ。
九々葉藍は本当に僕にはもったいないくらいの女の子だけれど。
だからこそ、僕は彼女のためになんでもしてあげたい、という気になる。彼女のために、自分のできることをしてあげたいという気になる。
感謝と、尊敬と、情愛と、鍾愛と、親愛と、恋愛と。
僕が彼女に抱く想いはもはや留まるところを知らない。好きすぎてよくわからなくなる。好きすぎて逆に一緒にいるだけで満足してしまう気がする。
……いや、それは嘘だった。間違いなく嘘だった。今日、折に触れて、彼女に触ったりなんかしていたのは、その抑えきれないくらいの気持ちがあったからだし、そんな行動を取る以上、そばにいるだけで満足しているというのは嘘っぱちだ。
寝返りを打って、天井を見ていた視線を隣の彼女に向ける。
閉じられた瞳は同じように僕の方を向いていた。
僕は彼女に唇を寄せる。もう、何度となくしている行為。けれど、何度してもし足りないという気さえする。
口に出すのも恥ずかしいそんな気持ちは、どの程度藍に伝わっているものだろうか。
彼女をぎゅっと抱きしめる。
感じる確かな熱と、返ってくる命の鼓動と、息遣いが、僕の腕の中にある存在の大きさを教えてくれる。
僕は彼女を間近に感じたまま、意識を手放していった。
深海の中で喘いでいる夢を見た。
息がしたくともできなくて、どれだけもがいて水上に出ようとしても、手を動かしてもちっとも上には浮かばない。胸が苦しくて、喉が詰まって、水をたくさん飲んで、いつの間にか意識を失う。
そして、目が覚めた。
目が覚めて、また、息の苦しさを感じる。
鼻を塞ぐようにして、顔の下半分をやわらかい膨らみに埋めていた。
顔を上げると、目の慣れた暗闇の中でも白く映える肌が見える。
藍の腕だった。二の腕。
その奥にわずかに藍の唇が覗く。
彼女の下腹部に思いっきり顔を押し付けて寝ていたのだと気づいた。
彼女の太ももをよっこらせと押しのけて、布団から抜け出す。
藍の体勢が寝る前と変わっていないところを見ると、どうやら僕の方の寝相が相当に悪かったらしい。
本能的に頭を彼女の下半身へと向かわせてしまったとでも言うのだろうか。どんな変態だ。
頭を振って、ちょっと自己嫌悪しかけたのを振り払った。
「……トイレでも行ってこよう」
藍が目を覚ます気配はない。相変わらず、一定間隔で深い寝息を立てている。
僕は扉を開けた。
用を足し、もう一度与えられた部屋に戻ろうとしたところで、リビングの戸が開いているのが目に付いた。
最後にあの部屋を出たのは僕で、そのとき電気も消したし、戸も閉めた。
なら、誰かが水を飲みにでも来たのか。
そう思い、きちんと戸を閉めておこうと、リビングの前に寄る。
戸を閉めようとして、しかし、中に人の気配を感じた。
開けると、月明りを受けて、百日がソファに腰を下ろしているのが見えた。
「……なんだ、相田か」
振り向いた顔がそう言って、ちょっと首を傾げる。
僕はおうむ返しに答えた。
「なんだ、百日か」
ソファに近づいていきつつ、彼女が目をやっている外の景色に目をやる。
ちょうど月に崩れた形の雲がかかっていこうとしているところで、その明かりが徐々に陰ってきていた。
僕は百日の隣にでも腰を下ろそうとして、なんとはなしに目にした彼女の全身に目を見張る。
「……お前、何で服着てないの?」
「……あ」
素で忘れていたとでもいうように彼女が言った。
もっとも、服を着ていないと言っても、上下ともに純白の下着だけは身に着けていたので、僕がそれほど取り乱すことはなかった。
これでほんとに全裸だったりしたら、慌てるほどに動揺していたと思う。何よりその事実を藍に知られたときのことを想像して。
しかし、そうはならなかった。
百日は下着をつけていたし、僕はそれくらいではこの女の言動に動揺したりしない。
僕は少し距離を取って、座り心地のいいソファの上に腰を下ろす。
彼女が言った。
「……普段は一切何も身に着けずに寝ることが多いから、下着だけだと寝にくくてね。目が冴えててさ」
淡々と口にする百日には、僕同様、下着姿を見られて動揺した気配はない。
「じゃあ、脱げばいいじゃん」
「……まあ、そうかもしれないけど。さすがに同性相手でも一緒にお布団に入っている人が裸だったら、相田も嫌でしょう?」
「そもそも、男は同性同士で同衾なんてしないから、前提から理解できない」
「そう。ま、そっか」
百日は手にグラスを持っていて、その中の紫色の液体を一口に飲み干した。
「それ、なんだ?」
「ワイン」
「……お前、未成年だろ」
「冗談だって。グレープジュース」
「さっきもそうだけど。お前、どれだけ冗談を言えば気が済むんだ」
「気が済むなんてことはないね。ボクは存在自体が冗談みたいなものだから、本気か嘘かもわからないような冗談をいくらでも口にするのさ。そんな風に非難めいた言い方をされても、これがボクだから変える気はないよ」
そう言って、百日はテーブルの上に置いてあった、紙パックのグレープジュースを取りに行った。
振り返って、「君も飲む?」と問うてくる。
僕は頷いた。
時計を見ると、午前三時半という表示が目に留まった。
もう一つ、グラスを取って来た彼女が注いだ紫の液体を渡してくれる。
僕は礼を言って受け取り、二口ほど喉を通してみた。
少し酸味のある味が広がり、喉が渇いていたのもあって、とても美味かった。
下着姿の百日が、先ほどよりは若干近づいた距離に座り、その長い足を組む。隠すもののない細身な太ももとふくらはぎから足首にかけてが、月の光に晒される。
僕はそれを見ないようにしながら、口を開いた。
「恥ずかしくないのか?」
「ん? 何が?」
「その……僕の前でそんな状態なわけだけど」
言って、僕は惜しげもなく晒される太ももを指さす。
「恥ずかしいか恥ずかしくないかで言えば……実はものすごく恥ずかしいよ」
一方の腕でもう片方の二の腕を掴むようにして、百日が俯く。
「じゃあ、もうちょっと恥ずかしがったら?」
「恥ずかしいことを恥ずかしがったら、余計にもっと恥ずかしくなるでしょ」
「そもそも恥ずかしいのなら、僕を追い出すか、お前が出て行くかすればいいんじゃないのか?」
「ま、まあ、そうなんだけど。平然としたふりをした手前、すぐにそう言うのもなんだか、恥ずかしいじゃない」
「恥ずかしいことばっかりだな、お前」
「……そういうところがかわいいとか言ったら許さないからね」
「そういうところがかわいい」
「っ……」
憮然とした表情になった彼女がぷいと顔を逸らした。
「……それで、相田はこんな夜更けに下着姿のボクと二人っきりでいたりなんかしてもいいわけ? 藍ちゃん、怒るよ」
「藍は僕がお前の下着姿を見たくらいじゃ、何とも言わないと思う」
「なんでそう言えるわけ?」
「なんというか、藍の琴線って、主に僕の気持ちがどこに向かっているかに反応してる気がするからさ。僕がこう平然としていれば、怒られはしない気がするんだ」
「……へえ。よくわかっているんだね。彼女の気持ち」
「まあ、これでも彼氏だからな」
と言いつつも、やっていることが下着姿の女の子との深夜の逢瀬なのだから、やっぱりどこかまずいのかもしれないとは思った。
だが、まあ、同時に、二人で話したいと思っていた友達との逢瀬でもあるのだから、藍はきっと許してくれるだろう。
僕はそう楽観的になっておくことにした。
「お前は以前、言ったよな? 僕とお前が似ているって」
「言ったね。それが?」
「改めて、似た者同士、ちょっと腹を割って話したいとは思っていたんだよ。だから、ちょうどいい機会だと思って」
「……ふーん。なら、そう。ちょっと話そうか」
「何か上に羽織りたいって言うのなら、待つけど」
「別にいいよ。このままで」
言って、百日は見せつけるように両手を開いてみせた。
「恥ずかしいんじゃなかったのか?」
「たった今、恥ずかしくなくなったから、全然おっけー」
「……よくわからない奴だな、お前も」
「そう言う君も大概、よくわからないとは思うけれど」
言い合って、それから示し合わせたように、前を向く。
ちょうど、月を隠していた形の醜い雲がその陰をどかしたところだった。
百日がつぶやいた。
「腹を割って話す、か。……なら、ちょうどよく全部ぶちまけてしまうのも面白いかもね」
僕が彼女に目をやると、目だけで百日は小さく笑う。
相変わらず、笑い方だけは不気味な女だと思った。




