あいのままに
お風呂から上がって、服を着る。学校から制服のまま九々葉家に寄ったので着るのは制服。肌着すら一度脱いだものなのでやや気持ちが悪いが、まさか今日新婚さんごっこで風呂に入ることになるなんて考えもしていなかったので他にしようがない。
藍と一緒にお風呂に入りはしたが、着替えとかは別にしたし、浴室から出るときも藍に先に水着から着替えてもらって、その後に僕が着替えた。僕があまり変な気を起こさよう気を遣ってくれている藍のために、僕も変な願望は押し付けない。本来、自分の身を案じてそういう配慮をするところを、僕が罪悪感を感じずに済むために水着を着たりするところが藍の変わったところであると言えるだろう。彼女はそういう意味で僕のことを考えすぎるほどに考えてくれていると思う。
それが藍自身にとっていいことなのか悪いことなのか、微妙なところかもしれないが、まあ、その辺の配慮をやりすぎないように僕も補いたいとは思う。僕やほかの誰かのために彼女の心が磨り減るようなことは僕の本意じゃない。やはり、彼女自身の心の安寧あってこそ、誰かを慮る心も意味があるというものだろう。
お風呂から上がった彼女は、二の腕の半分ほどの長さのフレアスリーブの付いたトップスにベージュのキュロットスカートを穿いていた。割合にゆったりとしたファッションだが、惜しげもなく晒される二の腕と太ももの白さに思わず目が行く。
「じゃあ、今度はどっちにする? ご飯にする? ……それとも……」
浴室から出て、リビングに通される。そして、僕の様子を窺うような上目遣いで彼女が訊いてきた。
「え? 今の一緒にお風呂に入ったのでごっこ遊びは終了じゃなかったの?」
「残念でした。まだ続くのです。新婚さんごっこはまだ続きます。それで……どっち?」
「いや、どっち、って……」
まさかあの三択はどれかを選べば終了というわけじゃなくて、ただ単に順番を尋ねたものだったとでもいうのか。どれがしたいかではなくて、どれを先にしたいかを尋ねる選択肢だったとでもいうのか。
まあ、普通に考えれば、ご飯とお風呂は確かにどっちかしか選ばないというのもおかしな話だけれども。
最後の一つはそうではないと思うのだが……。
「どっち?」
僕がまたぞろ黙ってしまったのを見て、頬をわずかに膨らませた彼女が詰め寄ってくる。軽く汗を流しただけとはいえ、一応少し髪を洗うなどしたシャンプーの残り香が僕の鼻腔を震わせる。
「そ、それはその……」
「それはその?」
「ご、ご飯」
「……わかった」
妙に残念そうな顔をして藍が答える。そのままぷいとそっぽを向いて、台所に消えていく。
何なのだろう。藍は。
もしかして、そういうことがしたいと言外に主張しているのだろうか。
だとすれば、この前のこともあってややその手のことに抵抗感を持っている僕はそんな彼女に対してどう応えればいいのか。
あのとき藍に言われたことは、未だ胸の深いところでわずかに燻っている。自分の気持ちを確かめることはできたとはいえ、それでもふとした瞬間に沸き起こってくる虚無感はあり、それが完全に消えるということはない。
何より、別に彼氏彼女の関係だとして、そういうことにこだわることはなくてもいいんじゃないかと思う自分もいる。別にそれだけが関係を確かめる、気持ちを確かめる行いでもあるまい、と。
「ご飯を食べるような時間でもないし、涼も家に帰って夕ご飯があるだろうから、ここはご飯じゃなくて便宜的にお菓子にしておくね」
そう言って藍が台所からクッキーの乗せた皿を運んでくる。確かに今は五時半くらいだから、夕ご飯を食べるにしても、間食をするにしても、少し微妙な時間帯ではある。
「そのクッキーは藍が作ったの?」
「そうだよ。今朝さっきのシュークリームと一緒に作っておいたの」
そう胸を張る藍は誇らしげだ。
そうか。今日の朝彼女が学校に来るのが遅かったのは、てっきりぎりぎりまで寝ているものだとばかり思っていたのだが、そういった下準備をしていたらしい。もはや彼女はただのお寝坊さんではなくなったということか。
藍がテーブルに着いている僕の隣に腰を下ろし、クッキーの皿を置く。
それから、マーブル模様のそのクッキーを一枚手に持ち、「はい、あなた。あーん」と言いながらこちらに差し出してくる。
「あ、あーん」
「……ぱく」
「……藍?」
「ふふっ」
僕の目の前に差し出されたクッキーは、僕が口を開いた直後に引っ込められ、代わりに藍の小さなお口の中に吸い込まれていった。
「こういうの、やってみたかった」
「そ、それはよかったね」
笑顔でそう言う藍は満足気だ。そんな彼女もかわいいのだが、少しそのペースに着いていけない感じはある。僕が新婚さんごっこにのめり込めていないというのがその理由としてはあるかもしれない。
「……はい、今度はちゃんと。あーん」
「あーん」
二度目は彼女の細い指でつままれたクッキーはきちんと僕の口の中に収まった。彼女が指を引っ込める際にその指が僕の唇に淡く触れて、少しだけドキッとした。
甘さ控えめなココアとバニラの味が口中に広がり、その味の洗練さに驚く。
さっき誕生日プレゼントを渡したときにシュークリームもご馳走になっているのだが、彼女の料理スキルの向上には驚くばかりだ。料理をしたり、お菓子を作ったりするのがよっぽど好きなのだろう。まあ、元々の素材からは想像がつかない完成品の姿を見たりすると、料理というのは一種の錬金術みたいなものなんじゃないかと思う僕としてもその面白さは多少は理解できる。自分でやってみようとはあまり思わないのだが。
「おいしい?」
「おいしいよ」
「そう。よかった……」
噛みしめるようにそう言う藍に、僕は笑いかけた。
「もはや、おいしいのは当たり前っていうレベルにまで藍のお菓子作りの技術は高められていると思うけどね」
「それでも、やっぱり誰かに食べてもらって、おいしいと言ってもらえるのはうれしいよ」
「そっか」
「うん。そう」
彼女は頷いた。
「さて……」
「……わたし?」
「まだ何も言ってないよね僕」
出されたクッキーを食べ終え、お茶を啜り、人心地ついたところで、藍から食い気味に次の行動指針を提案される。
「だ、だいたいさ……。藍はもう少し自分を大切にすることを考えた方がいいと思うんだよ」
「どうして?」
「どうして、って、それは……、いくら恋人同士だからって、その辺の倫理観が緩いとこの前みたいに行き違いが起こることだって……」
「あ、それは大丈夫だよ」
「え?」
「涼が今考えているようなことじゃないの。今日のは」
「えっと……?」
「だからその……この前みたいにはならないし、いやらしいことなんて何もないんだよ」
「……え……」
「……もしかして涼、期待しちゃってた?」
「…………」
からかうように微笑む藍に、僕は閉口せざるを得ない。
……たしかに、藍は「わたし?」としか訊いていない。「いやらしいこと?」とも、「わたしとする?」とも言ってない。慣習的になんとなくそういう意味なんじゃないかと僕が勝手に判断していただけで、藍が口にしたワードには直接的にそういう行為を想起させる言葉は含まれていない。
ゆえに、そういうことをするのだと勝手に勘違いしていた僕は完全に先走っていて、罪悪感云々とかとても言えた口ではなかった。
「……それで、『わたし』ってじゃあ、何なの?」
「……そ、それはその……」
直前にいやらしいことではないと前置きしたはずの藍は、なぜか恥ずかしがる素振りを見せて、もじもじと両腕を太ももの間に挟み、テーブルの上に視線を落とした。
「……そんなに恥ずかしいこと?」
「うん……。とても」
平然とした顔で新婚さんごっこなんていう悶絶物の所業をやってのける藍をして、そこまで羞恥を感じさせる行為とはなんなのだろう。
戦慄を覚えるとともに、少々の興味も湧く。
「……『わたし』にする?」
それでも、羞恥に頬を染めたまま、藍は顔を上げ、かわいらしく小首を傾げた。
その所作に含まれる魔力に、思わず僕は頷いて、
「……じゃあ、わたしの部屋行こ」
そう言う藍に連れられて九々葉家の階段を上った。
「好き……」
「涼、好き……」
「だいすき……」
「涼のこと、愛してる……」
「涼になら、何をされてもいい……」
「好き……っ!」
「……ちゅ」
僕が何をされているのか。
僕が何をしているのか。
それを言うのは簡単だ。
だがあえて、ここは僕が何をされているのかではなく、僕が何を感じているかをまず先に主張しておきたい。
……正直、今すぐにでも押し倒したい。
短慮な自分の過ちを反省したはずの今の僕をして、そう感じさせるに足る、それはまさしく愛の拷問だった。
僕は今、藍のベッドの上でうつぶせに寝転がっている。
顔を見られるのはとても恥ずかしいと藍が言うので、半ば彼女の枕に顔を埋める形で彼女のベッドに体を置いている。顔面全体で、心の支柱を容易くへし折るようなとろける甘い匂いを感じ、脳みそが溶解しそうだ。
僕の背中には覆い被さるように藍の身体があり、伝わる彼女の体温で今は少し温い。
彼女の両腕は僕の首元に回されていて、その腕にはぎゅっと抱きしめるように力が込められている。
そして、藍の口元は僕の耳元すぐそばにあって、その小さな唇からは先ほどからずっと愛の囁きが紡がれている。
ちょっと舌っ足らずで少し高いその声は、僕の鼓膜を震わせるだけでなく、頭も胸も心も僕の中のありとあらゆる情動的部分を根こそぎ揺さぶっているようにさえ感じた。
なるほど。これは確かに『わたし』だと思う。
九々葉藍という女の子の存在すべてをこの身この体のあらゆる部分をもって味わっている感じだ。
彼女のささやきは続いている。時折、愛おしさを込めて耳にキスをしながら。
「ぎゅって、したい」
「ぎゅって、されたい」
「涼にいろんなところを触ってもらって」
「涼にいろんなわたしを知ってほしい」
「好きだよって言いたい」
「好きだよって言われたい」
「愛してるって言いたい」
「愛してるって言われたい」
「わたしの全部、あげたい」
「涼の全部、受け入れたい」
「抱きしめたい」
「抱きしめられたい」
「好き……」
「大好き……」
「涼のこと、もっと好きになりたい」
「どうしようもなく好きになって、どうしようもなく好きって気持ちで満たされたい」
「涼のためになんでもしてあげたい」
「りょう、すき」
「涼の声が好き」
「涼の腕が好き」
「涼の心が好き」
「涼の全部、好き」
「涼」
「好き」
愛おしさを確かめるように、藍は僕を抱きしめた。
「……うああああ! 無理!」
僕はそして、勢いよく体を起こした。
その動きに驚いたように藍は体をびくつかせて、ベッドの上に転がる。
胸元で両手を握るようにした藍に、今度は僕の方が覆い被さった。
「……りょ、涼?」
僕の血走っているであろう様子に目を見開いた藍が声を震わせる。
その唇を唇で塞いだ。
「……んぅ」
甘美な嬌声が漏れて、藍が悶えるように身をよじる。
しばらくして唇を離すと、涙目になってとろけるようなまなざしをした藍と目が合った。
「……涼、好き」
「あー、もう、かわいいなあ」
僕はやけくそ気味にそう言って、彼女を包み込むようにぎゅっと抱きしめる。
「ぎゅってされるさ。いくらでも。ぎゅってするさ。いくらでも。いろんなところを触ってあげるよ。藍がそう望むのなら。どこだって。いろんな藍?もちろん知りたい。いくつでも。好きだよって言われるさ。好きだよって言うさ。愛してるって言われるさ。愛してるって言うさ。藍の全部、当然もらうよ。僕の全部、当然あげる。抱きしめられるよ。抱きしめてあげる。僕も好きだよ。藍のこと。大好きだ。僕だって、藍のことをもっと好きになりたい。どうしようもなく好きでいたいし、どうしようもなく藍のことだけを考えていたい。藍のためならなんだってしてあげたい。藍の声も、藍の髪も、藍の顔も、藍の胸も、藍のお腹も、藍の背中も、藍のお尻も、藍の太ももも、藍の脚も、藍の心も、藍の全部、僕だって好きだ」
「藍、好きだああああああああ!!!!」
衝動のままに、愛のままに、藍のままに、僕は叫んだ。どこまでも。
僕の剣幕に目を見開いていた藍も、次の瞬間には僕の一番好きな彼女の表情へと変わる。
つまり、微笑みへと。
「ありがと、涼。涼のそういうところ、好き」
言って、彼女は笑うのだ。花が綻ぶような微笑みから、花が咲き誇るような満開の笑顔に。
僕の一番大好きな表情へ。
僕はそのまま彼女に心を寄せて、そして、もう一度口づけを交わした。
触れ合うだけの淡いキスを。
「藍……」
「うん……」
名前を呼ぶだけで何もかもを理解したように彼女が頷いて。
僕はそれから、彼女に没入していった。
そういうアレから行き違いが始まったのなら、そういうアレで落ち着けるべきだという考え。
夏休みの話で大分、イチャイチャのネタを使い尽くした感もありますが、それでも食傷気味になるくらいの、見ていて恥ずかしくなるくらいのイチャイチャを全力で展開していこうと思います。




