興じる
「おかえりなさい。あなた」
「た、ただいま……」
「――お風呂にする? ご飯にする? それとも、わ・た・し?」
九々葉家の戸を開くと、紺色のセーラー服の上に黄色のエプロンを羽織り、最近伸ばしているという肩先に触れるくらいの長さの髪を後ろで一つに束ねた藍が、輝くような笑顔で僕を出迎えた。
百点満点の笑顔に心安らぐとともに、今やっていることがやっていることなので、藍のかわいらしい態度とかそういうことを度外視して、苦笑いが顔に出ざるを得ない。
「……ねえ、あなた。どれにするの?」
藍がそれでも、笑顔で尋ね、それに僕は黙って苦笑。
そんな態度を見とがめて、彼女がむすりと膨れた顔をした。
「もう。ちゃんとやってよ、涼。せっかくの新婚さんごっこなんだから……」
高校生にもなって何でこんなことやっているのだろう、と心底疑問にも思うが、藍がやりたいと言っているのだから否やもない。
なお、今日は未だ藍の誕生日当日である。
僕からの頭をひねった誕生日プレゼントを受け取ってしばらくして落ち着いた藍は、それからまるでそれが当然の世界の理であるかのように言ったのだ。
新婚さんごっこしよう、って。
彼女が二日前の朝にやることがあると言っていたのは、これのことだったらしい。新婚さんごっこで何をやろうかを考えて、藍は平日の朝の時間を費やしていた、ということだった。なんていう無駄な時間の使い方だろう。
「……まじめにやらないと、ほんとに怒るよ」
ぼんやりと現実逃避気味に遠くを見つめている僕を見て、藍がとがめるようにそう言ってくる。
「……本当にやらないとだめ?」
「だめ」
「どうしても?」
「どうしても」
「他に何を置いても?」
「他に何を置いても」
藍の意思は固く、到底ゆらぐ隙を見せなかった。本当の本気らしい。
先ほどまで僕のプレゼントを見て感極まっていた藍がいれば、このように新婚さんごっこに並々ならぬ熱意を燃やす藍もいる。
感受性豊かで、子どもっぽいことでも全力でやろうとする。それも藍のいいところか。
巻き込まれる僕としては、まあ、藍に巻き込まれるのなら、別に嫌じゃないんだけれど。それでもやはり、羞恥心は別物だった。
「……はいはい、わかりました。やります。やらせていただきます」
「……よろしく」
仕切り直すように藍が咳払いをする。
僕はにわかに表情を整え、新婚ほやほやの夫が我が家に帰宅して妻に迎えられ、相好を崩している感じをどうにか出そうと試みる。
藍はそれに満足したように頷いて、もう一度同じ問いを繰り返した。
「……お風呂にする? ご飯にする? それとも……わ、た、し?」
わたしの前に嫌に空白というか、妙な間があったのは何かの意図なのだろうか。
勘繰るとともに、どう答えたところだろうかと思い悩む。
……ここで、お前、とかって答えたら、どうなるのだろう。
非常に気になるところではあったが、まだ夕方時分の頃合いにそういうことを口にするのもはばかられて、
「じゃあ、お風呂で」
と言う。
「うん。わかった。じゃあ、一緒に入ろっか?」
「……は?」
「一緒に入ろっか?」
「……いや、確かに一度入ったこともありますけれども、でも、あのせいで僕いろいろと自分を抑えきれなくなったという前科が」
「一緒に入ろっか」
もはや尋ねるような口調ではなく、行動を断定する口調になって、藍が言う。
ただひたすらにその笑顔は満点で固定されている。それがまた、なんかちょっと怖い。
「一緒に……入ろっか」
「う、うん……」
もう一度藍が言って、僕はそれに肯定を返す。
有無を言わせぬ彼女の様子に若干のたじろぎを感じつつも、彼女の背に従い、僕は玄関を跨いだ。
ちなみに、夫が帰宅するというシチュエーションを再現するために、家の中にいたところをもう一度外に出て十分近く待ったりしている。
なお、このひどく筆舌し難いプレイに興じているさまを見る藍の家族は今は家にいない。彼女の母は今はパートに出ていて、父は仕事、姉はどっか遊びに出かけているということだった。
・・・さすがに家族がいる中でこんなことをしようとは藍も思わないはずだけれど。
果たして、彼女の家族がいないことを僕は喜ぶべきなのか残念がるべきなのかよくわからないところだ。
浴室の湯はすでに沸かしてあった。このごっこ遊びのためにわざわざ沸かしたというわけではもちろんなく、単純に夕方で沸かすような時間帯でもあったというだけの話だ。
脱衣所で僕は服を脱ぎ、浴室に足を踏み入れる。
泊めてもらうわけでもないのに、何で彼女の家で風呂に入ってるんだろう、僕。
などと考え出すと、またぞろ苦笑が漏れ出てきそうになるので、できるだけ頭をぼーっとさせることを心がけつつ、体をシャワーで軽く洗い流して湯舟に浸かった。
藍は少し準備をするということで、先に入っているように言われていた。
やがて、少々の間があり、浴室の扉がガラリと開かれて、藍が姿を見せる。
――なぜかスクール水着を着て。
「……藍?」
「えっと……、涼がさっき前科、みたいな話をしていたから、わたしも裸で入っちゃうと困るかな、って思って、水着にしてみました」
「……それはわかるんだけど、なんでそんな水着?」
「んーとね……。それは涼が喜ぶかと思って」
「……どうしてスクール水着を着たら僕が喜ぶことになるのか、その理由を教えてもらえる?」
「こないだ、涼が風邪を引いて、わたしが看病をしに行ったことがあったでしょう?」
「う、うん。なんかちょっと嫌な予感がしてるんだけど……続けて」
「それでそのとき、凛ちゃんからあらかじめ教えてもらっていたパスワードを使って涼のパソコンを覗いたんだけど……」
「はい、待って!! 今明らかにおかしい言葉がいくつも聞こえたよね!? 『凛ちゃんから』? 『あらかじめ教えてもらっていたパスワード』? 『涼のパソコンを覗いた』? 藍、お前は一体、何を……」
「えっと……、涼の趣味が知りたくて……」
「……」
語気も荒く言い募ろうとした僕も、眉根を寄せた困り顔で彼女にそんなことを言われてしまうと、怒るに怒れない。
その代わり、妹には本当にきつくお叱りを与えておこうと心底思いました。
「ま、まあ、い、い、いいや。あ、あ、藍が相手なら見られたところで何も問題はないぃ……」
「ものすごく声が震えているけど……。えっと、ごめんね。黙って見たりして……」
「いや、いいんだよ。もう過ぎたことだ。僕は気にしない」
「お詫びと言ってはなんだけど、何かリクエストがあれば応える、から」
「リクエスト?」
「うん。その、このまま肩を揉んでほしいとか、頭を撫でてほしいとか」
「ああ……」
確かにそれは魅力的な提案だ。
今の彼女の姿は、僕の趣味に合わせたというだけあって、自然と目が吸い寄せられるほどに蠱惑的だ。
幼さは残りつつも女性らしい凹凸をしっかりと主張している藍の肌に、ぴっちりと張り付く紺色のスクール水着。胸元は少し膨らみ、腰元は淡く引き絞られ、お尻はゆるやかに存在を主張している。そこから伸びる白磁色をしたやわらかく曲線を描く太もも。白さをたたえた彼女の肌の色と水着の紺とのコントラストが目に眩しい。
視線を上に上げれば、そこには舐めるような僕の視線に恥じらう藍の朱に染まる頬がある。一つにまとめられた髪の下で、普段あまり意識をしない彼女の白い首筋が艶やかさを見せつけ、水着の肩紐に押し付けられた彼女の鎖骨が、彼女の美しさにまとまりをもたせるように細やかな陰影を描いている。
そんな彼女に例えば背中を流してもらったり、例えば肩を揉んでもらったりなどすれば、それはそれは癒し効果抜群である。
「……ええっと、涼、もういい?」
「え?」
「その、もうそっちに行ってもいいのかな、って」
「……ああ」
気づけば、藍は浴室の入り口で所在なさげに立ち尽くしていて、僕の視線に抗うこともなく、後ろ手に腕を組んで恥ずかしそうにしていた。
僕は半ば反射的に返事をして、藍がその言葉にようやくその足を動かす。
僕と同じように、シャワーで軽く体を流した藍が、そっと湯舟に脚を差し入れてくる。
「……そんなに見つめていて面白いものじゃないと思うんだけど……」
「いや、そんなことはない。むしろずっと眺めていても飽きることなんてないと思うね」
「……そ、そうなんだ」
若干引いたように彼女が言った。
以前入ったお風呂のように、この湯舟の広さは広くない。
それは家庭用の浴室なので、至極当然の話。
せいぜい大人一人が入るのが精一杯で、それ以上の空間の余地となると、幼い子供が一人入れるくらいとなる。
高校生男子ともなれば、発育が遅い人間でもなければ大人とそんなに体格は変わらない。僕はそれなりに背も高い方なので、それはなおさらだ。そして、藍は同世代の女子に比べれば幾分か小柄だとは言え、それでも年齢の幼い子供とは体格的に比べるべくもない。
当然、その二人が同じ湯舟に浸かることになれば、余分なスペースなどほとんどなく体が密に接触することになる。
お互いの体が触れ合い、いろいろなところがくんずほぐれつした後に、最終的に僕が体育座りに近い形で足を開いて座り、その間に藍が収まる形で決着がついた。
「……ふぅ」
藍が吐息して、僕に体を持たせかけてくる。
眼下にすぐに藍のうなじが見えて、彼女の髪の甘い香りが鼻にかすった。
「……これだと、涼は変な気になったりしない?」
見上げるように後ろを振り向いた藍が僕の様子を窺うように訊いてくる。
そんな彼女の瞳に少々、視線を逸らしながら、
「ま、まあ、そりゃあ、ね。み、水着くらいで、どうこうなるほど、僕も中学生気分を引きずっていないってもんだよ」
と、答える。
「……その割には、涼……」
藍が何かを言いたげにちょっと小首を傾げてみせた。
彼女の言いたいことが僕にはよーくわかった。
藍の体の後面は少しのスペースもなく、僕の体の前面に密着している。
彼女の後頭部は僕の目の前にあり、彼女の体温は間近に感じられ、肌の滑らかさなど、わざわざ手で確かめるまでもなくわかってしまう。
その状況に対して、男の子的反応、特に体の方の反応がどうなるのかは自明の理と言えるだろう。
「また、おっきくなってる……?」
まあ、そうなるよね。
「……いや、気のせいだよ、気のせい」
「そう、かなあ?」
「きっと、水着の着慣れない質感のせいだよ」
「……うーん?」
彼女はまたぞろ首を傾けていたが、それ以上追及したいことでもないのだろう。深くは訊いてこない。
その代わり、体を僕の方に預けたまま、別のことを訊いてきた。
「ももちゃんと斎藤君、今頃どうしてるかな? 上手くいってるといいんだけど」
「何か、進展があったって話でも聞いたのか?」
「ううん。ただ、今日の放課後に一緒に遊びに行くって話は聞いたよ。そこで彼に本当に結論を出してもらうんだって」
「ふぅん。百日の奴もずいぶんと積極的になったもんだな」
「一度決めたことはとことんまで貫くのがももちゃんだから。決めちゃったらどこまでも突き進むの。いい意味でも。悪い意味でも」
まさしくその結果として、僕はひどい目に遭わされたというわけだ。
それでも、まあ、こうして藍と一緒にまた風呂に入れるようにもなったわけだから、不満に思うことなど何もないのだが。
今が満たされているのに、恵まれない過去を恨むのもおかしな話だろう。
「ところで、リクエスト、ある?」
「……あー、さっきの話?」
「そう」
「……ないこともないんだけど」
「……何でも言って」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「あ……」
言うが早いか、僕は両手を藍の体に回して、彼女を抱きしめるようにする。顎を彼女の肩に乗せて、頬と頬をくっつけた。
わずかに身じろぎした彼女もまた、僕の頬に寄り添うように首を傾ける。
それから僕の抱擁を受け入れるように、彼女はそっと僕の腕に手のひらを添えた。
「……涼、今、どんな気持ち?」
「幸せすぎてもはや僕は次の瞬間にはこの地上からちりも残さず消え去っているんじゃないかって思う気持ち」
「……そういうときはただ単に幸せだよ、っていうだけでいいんだよ?」
「ま、そうかもね」
「そうだよ」
妙にひねくれているところのある僕なので、幸せな気持ちをただ幸せとすることに抵抗があったりもするのだが、彼女の言にはそんな僕であっても素直に頷いてしまう不思議な力がある気がする。
「……ん」
もぞもぞと体を動かした藍が体を半分ほど回転させてこちらを向き、唇を突き出すようにして目を閉じる。
整った鼻梁。長い睫毛。艶やかな唇。
穏やかに目を閉じる彼女の面は、作り物のように美しかった。
「……んん」
思わず彼女の表情に見惚れてしまって、不満を訴えかけるようなその声に、すぐに我を取り戻す。
さすがにその意図がわからないほどには僕は鈍感ではなく、だから迷わず唇を寄せる。
「……んぅ」
心地よさを主張する吐息が彼女の喉の奥から漏れ聞こえて、水音だけがわずかに聞こえる室内にこだましていく。
それが彼女自身でも少しびっくりするくらいに確かな反応だったからだろう。その声を恥ずかしがるように身悶えした藍が、わずかに唇を強張らせた。
僕はそんな彼女を抱きしめる力を強くして、唇の端に舌を寄せる。
滑らかな唇を舌先でなぞるようにした。藍が驚いたように目を見開く。
その際に少し開いた口の隙間に舌を滑りこませた。
「……あぅ」
舌っ足らずな声音とともに、藍がびくりと体全体を震わせた。
けれど、彼女の反応に目立った抵抗があるわけでもなく、僕のなすことを受け入れてくれているのがわかった。
そのまま気持ちの赴くがままお互いを求めていく。
藍は恥じらいながらも、素直に受け入れるように、時に強く求めるようにその行為に浸っていた。
やがて、少々、名残り惜しさを感じながら、唇を離す。
熱っぽい視線が絡み合った。
藍の顔は真っ赤だ。おそらく、僕もそうだろう。
「……の、のぼせちゃいそう」
「それは、確かに……」
などと言いつつ、軽く汗を流す程度に入浴を終え、僕ら二人は浴室を出た。




