狂言
藍から状況を頼まれた僕は、何となく教室中に異様な空気が流れている中、努めて何気ない風を装って黒板に隙間なく書かれた恋文を消しにかかった。
最初は理解できなかった状況も、黒板を埋める数々の熱い告白と斎藤の態度、クラスの雰囲気を窺えば、自ずと察せられる。
要は、斎藤が小学校の頃に受けた回し読みの規模の大きいバージョンだ。
今回はそれをやった当人が何の因果か今度はやり返されるという憂き目にあったわけだ。
その件の斎藤は未だ呆然としていて、クラス内の様子さえ目に入っていないように見えた。
だが、奴は後だ。今は黒板を消すのが優先される。
書きつけられたチョークの量が多すぎるために、黒板消しが真っ白になるまで消し尽くしたとしても、黒板すべてを消すには足りなかった。
クリーナーを起動し、黒板消しの清浄化に努める。小うるさい起動音がして、閾値を超えないがゆえに耳障りだったクラスメイトたちの声がかき消えた。
そんなクリーナーの音をうるさく思いながら、余計な雑音が消えることに爽快感も覚えつつ、もう一度黒板に向き直ると、僕以外にもう一つの黒板消しを使って黒板の常態復帰に尽力している者がいた。
栗原だった。
「状況は理解してるか?」
真剣なまなざしのその横顔に声をかける。
ようやく三分の二ほどを消し終えた黒板から顔を横向け、栗原が僕を見る。
「大体は……。百日さんの手紙が……クラスみんなの前で晒されちゃった……ってことだよね」
「ああ、そうだ」
そう言う彼女の表情は暗い。それも当然か。小学生の頃に僕と彼女も似たようなことで孤立する結果に陥っている。
「百日さん、どんな様子だった?」
多少チョークの粉を被ってしまうことも気にせず、制服の襟元の当たりをわずかに白く染めながら、彼女は訊く。
「僕はその場にいなかったから知らないけど、泣いて教室を出て行ったっていうことだったな」
「そっか……。そうだよね」
僕だって、今現在でも、例えば藍に書いた手紙などをクラス内で晒されれば少なからず心に傷を負うだろう。他人への好意を土足の悪意で踏みにじられることは、何よりもつらい。
ましてや百日の気持ちは十年来のものと言えるほどに昔からのものだ。
今の彼女の心情は推して知るべし、といったところだろう。
「……許せないよね。こんなことした人。せっかく百日さん、わたしたちにも心を開いて、それなりに楽しそうにしていられるようになってたのに……」
一転して、今度は栗原の声に義憤がこもる。
「それは僕も同感だな。やった奴には相応の報いを受けさせるべき……だと思う」
「……でも、誰なんだろうね。ほんとに。こんなことするような人、このクラスにいたかなぁ」
言って、それとなく、周囲を窺う様子を見せる。
しかし、気になる人間は誰も目に留まらなかったようで、彼女は黒板に目を戻した。
釣られて、僕もクラスメイトに目をやるが、みんな遠巻きにこっちを見ていたり、自分らの世界に浸っていたりで、何かこの状況に満足感を覚えていたりとか、そういった様子の人間は見受けられない。
「さあな。わからん。百日は確かにクラス内で目立っていたけど、こんな最悪な嫌がらせを受けるほど誰かに嫌われていたようには思えなかったし、そもそもこれをやった奴は何であいつの気持ちを知っていたのかって話だ」
チョークの白い粉が舞い、若干咳き込みながら僕は言う。
「……それはまあ、でも、百日さんの持ち物を探っていたら、偶然見つけちゃったってこともあるかもだし」
「……うーん。……ていうか、そもそも、なんで百日の奴は好きな人への自分の手紙みたいな、そんな大事なものを盗まれたりしてるんだ? まさか机の中にそのまま突っ込んでおいたとかじゃないだろうな」
「……さあね。それは本人に訊いてみないとわからないけど、彼女、意外と抜けたところがあったのかも」
「それは萌えポイントかもしれないが、発揮するタイミングが最悪すぎるだろ」
まあ、とにかく、実際にこうなってしまったことにはどうしようもない。今更過ぎたことを悔やんでも仕方がないのだ。
こうして彼女の手紙が晒されてしまった以上、一早くこれを消すことを考え、そして、彼女の心の傷をどうにかすることを考えるべきだ。
「藍が百日のフォローに行っているはずだけど、これが片付いたら、僕たちも向かうぞ」
「……それはいいんだけど……。彼はどうするの?」
言って、栗原が顎で指し示したのは教室前方付近で立ち尽くす斎藤努。
状況に振り回されてばかりのあいつを不憫に思う感性は僕にもある。
けれど、それと同時にそれであいつを気遣うような理性は僕には存在しない。
「無理やりにでも引っ張っていくさ。あいつに遠慮なんかしないって、僕はずっと前に決めてるからな」
「そう……。じゃあ、早く消しちゃおう」
「ああ」
答えて、しばしチョークの粉に向き合う。
数分の後に消し終えて、すっかり粉っぽくなった両手をぱんぱんと叩いてはらう。
事後処理を終え、斎藤に目をやる。
もはや呆然とするのが仕事みたいになっている男は、それでも、ようやっと自分を取り戻したようだった。
「……なあ、相田は知ってたんだよな?あいつの、その……気持ちを」
斎藤は何かを迷うような表情で問い、僕はそれに答える。
「知ってたよ。藍と話して、気づいたのさ。百日ダリアっていう人間は、どうしようもなくめんどくさくて、どうしようもなく回りくどくて、どうしようもなく本心を隠すのが上手い奴だったからな。気づいたのはついこの前だよ」
「……じゃあさ。何であいつは好きなはずの俺にあんなひどい仕打ちをしたんだ?」
「ひどい仕打ちって……小学校の頃にいじめられたとか、その話?」
「ああ」
「それはまあ……一部分百日と似ているらしい僕から言わせれれば、好きだから、いじめたかったんだじゃないか?」
「……小学生男子かよ」
「男子はともかく、実際、小学生だったのはたしかだろう。そんな行動に出てもおかしくはないとは思うが」
「……だとしたら、俺の少年時代はあいつの照れ隠しだかなんだかのために完全に潰されたっていうことかよ……」
「まあ、そうなるな」
「――」
その事実を受け止めきれないでいるのか、斎藤は絶句している。
「……俺なんかのどこが好きなんだよ、あいつは……」
そして、ぽつりとつぶやいた。
「それは僕も知らん。知らないけど、聞いた限りじゃ、理由なんかなくってことじゃなかったかな」
「なんだよ、それ……」
苛立ち混じりの斎藤の声。
「……一目惚れとかってことなんじゃないのか?」
「……」
言うと、斎藤は黙ってしまった。自分の身にまさかそんなことが起こるとは想定できなかったのかもしれない。ま、一目惚れなんて、それこそ恋に恋する乙女の気の迷いなんじゃないかと僕は思ったりもするわけわけだが、それでもやはり、そういうものもあるのだろう。感情は言葉じゃないからな。理屈でもない。上手く言葉で説明することなんてできるわけがない。言葉は気持ちを伝える一手段であって、気持ちそのものではないのだから。
「……とにかく行くぞ」
これ以上、こいつをここにうじうじさせておいたところで、何の利点もない。
ただただこの根性の腐った男がさらに腐っていくだけだろう。
発酵熟成するならまだしも、こんな醜い男が腐乱したら目も当てられない。
「行くって……どこにだよ?」
「まだわからないのかよ。百日のところだよ」
「……どうして、俺が?」
「……はあ?」
何をこいつは至極当たり前のことを尋ねてきているんだ。
腐るだけでなく、頭に苔でも生えたんじゃないか、まじで。
「――お前が男だからに決まってるだろ!」
男なら、泣いた女を放っておくなってんだよ。
たとえそれが、自分にとって恨みがましい相手だったとしても。
それでも、だ。
「……わかった」
まだ食い下がるのかと思ったが、意外にも斎藤はもうそれ以上、何も言うことなく僕に従った。
教室を出て行く道すがら、これまで黙って僕らのやり取りを見ていた栗原が、耳元でささやいた。
「かっこいいよ。相田君」
驚いてふいに目を向けると、栗原の慈しむような微笑みがそこにある。
「……不意打ちやめろ」
「……え~? 何が~?」
「危うく惚れかけただろ」
「……ふふふっ。それなら大成功だね。完全に惚れてくれてもいいんだよ。そしたら、惚れた相田君を振ってあげるから」
「……お前……」
笑顔でそう言う栗原が、僕の顔を見て、くすっと笑み崩れる。
「冗談だよ。……でも、かっこよかったのは本当、だから」
「……」
反応に困るな。これは。
やや動揺を抱えながらも、僕はさっき藍からのメッセージで知らされた場所へと足を向けた。
やって来たのは科学の実験室等がある特別校舎。その最上階。通常ほとんど利用されることのない地学実験室だった。
斎藤と栗原と三人で部屋の中に足を踏み入れ、室内に百日と、そして藍の姿を探す。
彼女たちは実験室後方の様々な器具が並べられている棚に背を預け、床に腰を下ろして身を寄せ合っていた。
「……」
「……」
未だ瞳を赤くしたままの百日と、ひどく思い詰めた顔をした斎藤とが無言で見つめ合う。
それまでどうにかして百日に慰めの言葉をかけ続けていたのだろう藍も、そして、確かな目的意識を持ってここにやって来たはずの僕も、こういう状況に心からの優しさを発揮できるはずの栗原も、誰も何も言わなかった。
重たくはない、けれど、軽くもない、そんな中途半端な息苦しさを感じさせる沈黙が満ちて、それが五人のいるこの場を席巻する。
ならば、ここで一番に口を開くべきなのは誰なのか。
その最適解が何なのかはわからない。
迂闊に口を開けば、予想もしなかった方向へと話の展開が進んでいく予感がある。
それくらい、百日と斎藤の間に落ちる沈黙は異様なもので、微妙なものだ。
空気の読める人間ならば、こんな場で一言たりとも余計な言葉をかけようとはしないだろう。
それは至極当然の判断で、至極真っ当な人間としての在り方だ。
だからこそ、僕は言った。
「……やるべきことははっきりしていると思うんだが、どうだろう?」
沈黙を意図して破った僕に、四人の注目が集まる。
皆、どこか驚いたような顔をしているが、藍だけは少し嬉しそうに微笑んでいた。
「……やるべきこと?」
この中で一番状況に関与していない客観的視点を持っているだろう栗原が、僕に訊き返してくる。
「そう。それは確認だ」
「確認って、何の?」
「そんなもの、決まっているだろう? 斎藤が百日をどう思っているかの確認だよ」
「……っ!?」
話題を振られ、ことさらに狼狽して見せる斎藤。明らかにその表情は動揺に彩られている。
「当然だろう? あんな形とは言え、お前は百日の気持ちを知ったわけだから、遅かれ早かれ何らかの答えを示してあげなくちゃいけない。なら、より早い方がいいだろう」
相手への気持ちをしたためた手紙を渡すというプロセスは省略されてしまったが、それでも、百日が斎藤を好いているという気持ちは今の斎藤に十分に伝わったはずだ。本当なら、百日自身の口からきっちりと言葉にしてもらうのがいいとは思うが、元々伝える意思のなかった内容だ。傷心の彼女に無理強いするのも本意ではない。
だから、ここで心を言葉にすべきなのは斎藤努である。
「お、俺は……」
たじろぐように一歩後退し、見つめていた百日への視線を外す。
そのまま彼はもう一歩下がりかけて、けれど、その後ろにいた栗原に背を止められる。
「……逃げちゃ、だめ」
声音に険はなく、鋭さもない。けれど、どうしても逆らえないほどの圧力を彼女の言葉は持っていた。
斎藤が立ち止まる。
もう一度百日の目を見た。
百日の方は泣きはらした顔ながら、笑っているとも泣いているとも取れない表情の薄い顔で彼を見ている。
「……俺は、俺は……こいつのことが……」
「――もういいっっ!!!」
何かを口にしようとした斎藤を遮って、彼と向き合う百日ダリアが痛々しい大声を上げた。
「……もう、いいから……。ボクは別にお前みたいな男とどうにかなりたかったわけじゃない。お前みたいなクズと恋人になんてなりたかったわけじゃない。胸の内にある気持ちをただ言葉にしただけだ。お前からの答えなんて、いらないんだよ。ボクはお前なんか、大っ嫌いなんだから」
歯を食いしばり、それでも敵意をむき出しにして見せる百日に、斎藤の眉間に深々としわが寄ったのを僕は目にした。
「はあっ!? 一体全体、なんだってんだよ、お前は。こんだけ人を騒がせて、人をかき回して、人の心を取り乱させて、それで言う言葉がそれかよ! 何様のつもりだよ! 俺はなあ、お前のせいで人生めちゃくちゃにされたんだぞ。そんな相手に好きとか言われて、わけわかんないんだよ。頭の中ぐちゃぐちゃなんだよ。少しくらいお前は俺を気遣えよ!」
「何をふざけたこと言っているわけ? ボクが君を気遣う? なんでそんなことしなくちゃいけないんだよ。ボクを振ったのは君だろう? なんでそんな相手をこのボクが気遣わなくちゃいけないのさ。君があのとき藍に未練たらたらじゃなくて、きちんとボクのことを見てくれてさえいれば、君もボクもこうはならなかったろうに」
「ふざけんなよ! 俺は九々葉が好きだったんだよ。お前のことなんか眼中になかったんだ。それなのに、お前は俺の気持ちをわかっていて俺の告白を遮った。お前のことなんか好きじゃない俺を無理やり彼氏に仕立て上げさせた」
「意味わかんないこと言わないでくれない? ボクはただボクに告白してきた男を、受け入れただけだよ。それで文句を言われる筋合いもないと思うんだけど」
「俺がお前に告白した? それこそ意味わかんないってんだよ。俺が誰を見て、誰を好きで、誰に何を言いたかったのか。お前ならそれくらい簡単にわかったはずだろうが!!」
「人のことをそんな過大評価されても困るっていうものだよ。大体、あのときなんで君は自分の間違いを正さなかったのさ。一言言えばよかっただけだろう。『俺は九々葉が好きだ』って。なのに、君は言わなかった。そうしなかった君に、そんな押しつけがましいことを言われるのは腹立たしくてならないんだよ」
完全なる罵り合いと化した二人の言い争いに、そのあまりの剣幕に、初めに話を振ったはずの僕も口を差し挟むことができなかった。
一体、どんな言葉のドッジボールだという話だ。
「……大体、なんでお前は俺なんかのこと好きになるんだよ!? おかしいだろ!? 俺がお前に何かしたか? お前から惚れられるようなこと、俺は何かしたか? なんだってお前は俺をそんな風に思ってるんだよ」
「うるさいなあ! そんなことどうだっていいでしょ! ボクだって、君みたいな大嫌いな人間を好きでなんていたくないんだよ! でも、仕方ないだろ! 人の気持ちは、自分でもどうにもできないんだから! 好きになっちゃったんだよ! 君が最低のクズ野郎でも、好きになっちゃったんだから、仕方ないだろ!」
「それが意味わかんねえっつってんだよ!! 人を好きになるのにはなあ、もっと確かな理由があるべきなんだ。お前みたいなふわっとした理由で好きになられてたまるものかよ」
「あはははっ。笑えてくることを……。何? 高校生にもなって、まだそんな夢見がちな恋愛観持ってるわけ? 笑えてくるね。世の中のカップルがみんなそんな確かなイベントや確かな根拠があって付き合うようになったとでも思ってるの? そんなのあるわけないでしょ!? どいつもこいつも、みんなくだらないどうでもいい理由で付き合いやってるに決まってんのよ! どいつもこいつもいやらしいことがしたくて、ただそれだけのために付き合ってるに過ぎないのにさあ!」
「うるせえ! 小学校のころからずっと俺のこと好きとかいう乙女みたいな思考回路した奴に言われたくねえ! 俺はお前のことなんか大嫌いなんだ。お前みたいな奴に告白なんかされても、付き合えるわけねえだろうが!」
「ああ、そうかい! そんなのボクからだって、願い下げだよ。君みたいな最低の男となんて、ボクは恋人になんてなりたくないさ!君のことなんて……君の……ことなんて……」
言い合いの最中交わされる互いを傷つけるだけの本音の応酬に、先に音を上げたのは百日の方だった。
斎藤の付き合えるわけがないという言葉にショックを受けたように表情を歪ませ、そのままじわりじわりと感情の波が溢れていく。
彼女は再び、泣き出してしまった。
「――っ!」
斎藤はその百日の姿を見ていられないというように目を逸らす。
「……斎藤」
「なんだよ……」
「お前、それでいいのか?」
「何が?」
「自分を好きな女子をそんな手痛く振っていいのかって訊いてるんだ」
「……うるせえよ。俺の気も知らねえで」
「そんなもの知るかよ。お前の気持ちなんてお前にしかわからないんだから。百日の気持ちが百日にしかわからないようにな。だから、僕は自分の気持ちをお前に押し付けるだけなんだよ」
「……なんだよそれ」
斎藤が苛立ちを滲ませる声音でそう言って、さらに反論を言い連ねようとした――その瞬間。
「あははははははははははははははははははははははっ――!!!!」
場を凍り付かせるような狂気を孕んだ笑い声が実験室の中に反響した。
その狂気の笑いにそこにいた誰も反射的に首をすくめた。
百日ダリアが笑っていた。
それこそ、僕との初対面時を彷彿とさせる、あるいはそれ以上に狂気に満ちた在り様で、ただ笑っていた。
冷たくも熱に満ち、怖気が奔って、背筋が凍る、気味が悪くて、心が揺れて、見目は醜く、聞こえは悪い。
そんな笑い声がただただ耳に聞こえた。
「……もう、いいや」
そして、笑い声の後に残るのは、まるでその笑いにすべての人間としての心根を消費し尽くしたような諦観のつぶやき。
ふらりと、彼女が立ち上がった。
「……ももちゃん?」
そばで百日ダリアを支えていたはずの藍が、怪訝な声を上げる。
彼女は呆然と立ち尽くした姿勢からそのまま何の予備動作もなくいきなり走り出す。
静止状態から即座に疾走するその異様な動きにそこにいた全員が目を見張った。
彼女はそのまま全力で走って、窓際の、災害時に緊急避難用として用いられるはずの非常階段の方へと近づいていき、鍵を開けてガラス戸を開き、そしてそのまま胸程度の高さのつっかえを乗り越えて空中へ飛び出そうと――。
「待っ……!」
とっさの動きに反応できなかった僕はそんな情けない声を漏らすしかできず、百日の体は、そのまま投げ出されるように空中に放りだされようとして。
そして、そんな彼女の体を。
そんな百日ダリアの体を。
僕ら四人の中で誰よりも早く駆け出していた――
百日が窓へ向かうのを見て、僕よりも、藍よりも、栗原よりも早く。
ただ反射的に駆け出していた――
――斎藤努が、後ろから抱きしめていた。
そのまま彼は思いっきり百日を後ろに引き倒す。
彼と彼女の立ち位置が逆転し、斎藤は窓際を背にして立ち、百日は地べたにお尻をついた。
「……はあ……はあ」
心底疲れたようなため息が漏れ、次の瞬間に、窓の外の太陽を背にした彼の面に激情が宿る。
「ふざけんなあああ!」
その声は、いっそ校舎内全体に響き渡るのではないかというほどに、暴力的なまでに大きく、すべてを焼き焦がすほどの熱に満ちていた。
その鬼気迫る様子に、助け出されたはずの百日ダリアが大きく目を見開いている。
彼は彼女を見据えて、その湧き上がる熱を抑えようとするでもなく放出して、言葉を、心を、魂を、一心にぶつけた。
「ふざけてんじゃねえぞ。何勝手にお前は死のうとしてやがる! 何勝手に楽になろうとしてやがる! 俺はお前を許してねえ。俺はお前を許してねえんだ。もう、いいや、だあ? 何もいいことなんかねえんだよ! 俺がよくねえ! お前がよくても俺がよくねえ! お前にとって、俺に振られるってことがどれだけの大きさを持つことなのか知らねえよ。知らねえけどなあ、それでも俺はお前にあえて言ってやる!
何そんなくだらないことで死のうとしてやがるんだ。
ふざけてんじゃねえぞ。ふざけてんじゃねえ。
俺に謝れ! 謝れよ! 俺がてめえのことでどれだけ苦しんだかわかってんのか。どれだけつらかったかわかってんのか。九々葉への気持ちを踏みにじられてどんだけつらかったか。お前にそれがわかるか?わかってんのかよ。
それでもなあ! それでも俺は!!!
俺はっっっっっ・・・!!!
――俺は死ななかったんだっ!!!
死ななかったんだよ!
それでも生きたんだ!
てめえだけが地獄の中にいるとでも思ってんのか。
てめえだけがどうしようもない絶望の中に囚われてるとでも思ってんのか。
ああ?
俺だってそうだった。そうだったよ。
でも、俺は・・・許せたんだ。
俺は九々葉を許せたんだよ。許せたし、許してもらえたんだ。だから、俺は、それでも前に進めたんだよ。
それをてめえはなんだ? それをてめえはなんだ?
九々葉に恋人ができた? ラブレターをクラス中に晒された? 好きだった俺に振られた?
はっ!! そんなもん、ほとんど俺が全部経験済みじゃねえか!
言っとくがな。俺の罪はさらに重いぞ。
俺はなあ、九々葉を脅迫したんだ。脅迫して、意思に沿わないまま九々葉を付き合わせて、あまつさえ無理やりにキスを迫ろうとした。
最低最悪の、史上最悪の、どう考えたって、クズの、ゴミの、人間として最低の、最低最悪の害虫野郎じゃねえか!
そんな俺が。そんな最低さを! そんな最悪さを! 自覚した俺が生きてんだよ! てめだって生きろよ! 何もなくても! 何もないからこそ生きて、生きる意味を探せよ!
俺は――。
俺は――。
俺は――大嫌いなお前でも、だからこそ、生きてほしい!!
ふざけてんじゃねえぞ」
繰り返すように最後にそう言った斎藤は百日を睨みつけるように見据えた。
陰になった彼の顔は、確かに見た目悪く、どうしようもなく恐ろしいものに見えるけれど、でも、そう悪くない心象に彩られているのではないかと僕には感じられた。
百日ダリアはそんな斎藤努を見つめていて、ややあってから言った。
「手、貸して」
「あ?」
「起きるから、手」
「……あ、ああ」
彼が口にしたことの内容と百日の態度との差に、少し困惑した様子の斎藤が素直に百日に手を伸ばし、そして、思いっきり腕を引っ張った百日に引き倒されて、もう一度彼女と立ち位置を入れ替わるようにして、床に倒れ伏した。
その上に百日がマウントを取るように覆い被さった。
彼女の左拳が彼の顔面に振り下ろされる。
「ぶべらっ……!」
ひどく鈍い音がして、斎藤がその拳をもろに食らったのがわかった。
そして、もう一発。
「げほっ……!」
一発目は頬を。今度は喉を殴られる。
さらに、もう一発。打とうとしたところを、さすがに見かねた僕が百日を羽交い締めにした。
激しく抵抗するかと思われた彼女は、意外にも一切力を込めることなく、僕に逆らわなかった。
「……言っとくが、俺はお前を打たねえぞ。俺はぜってえ、やり返さねえ。俺は加害者じゃねえ。お前に関して言うなら、俺は完全に被害者だ。完全百パーセント被害者なんだよ。お前の暴虐に振り回され続けた俺がいる限り、お前の罪悪感は消えねえ。俺が許さねえ限り、お前の罪悪感は消えねえ。俺はお前の被害者で居続けてやる! お前がてめえの罪を自覚させるために。そしてそれでもお前を生かし続けるために、お前の被害者で居続けてやるよ!」
唇を切ったのか、口の端に血の雫を一滴垂らした斎藤が半ば吠えるようにして百日に向かう。
それを聞いた彼女が「ふふっ」と、今度は狂気ではなく純粋な女の子らしい小さな笑い声を上げたのが聞こえた。
「……それは、つまり、永遠にボクのそばに居続けると、そういうこと?」
「……は?」
からかうような声音で百日が言い、それに斎藤が虚を突かれたような顔をする。
「だって、そうでしょう? 今の言い方だと、一生ボクのそばにいるって……そう聞こえたような気もするけど……」
「……は? いやお前……それは言葉の綾……」
「確かに、そう聞こえたな」
斎藤が何か反論しようとする前に、百日の羽交い締めを解いた僕が何気ない口調で言い連ねる。
彼女は別にそれ以上彼を殴ろうとするでもなく、きちんと自分の足で立っていた。
「え、おい、相田」
「うん。わたしも聞いたよ」
それに藍が加わる。
彼女の唇の端には心底嬉しそうな微笑が刻まれていて、百日と斎藤のことを包み込むような温かい視線で見つめている。
「おい待て。九々葉まで……」
「うんうん。さすが斎藤君。立派だね。自分を傷つけた百日さんを一生背負う覚悟なんだね。さすがは男の子」
満面の笑みで、栗原も続いた。
彼女は二人を慈しむように優しく笑んでいて、声音には悪戯っぽさが乗っていた。
「……え? ……」
斎藤だけが状況を理解できないというように全員の顔を見比べている。
僕はその間抜けさに笑いを堪えきれず、半笑いになりながら言う。
「いや、だからさ、お前自分で言っただろ? 百日の被害者で居続けるって。それはつまり、遠回しにずっと一緒にいるって言ってるってことだよな」
「うんうん」
「そうだね」
「あはははっ」
「いや、おかしくねえ?」
僕の言に女性陣三人が同意し、斎藤が異議を申し立てる。
だが、当然、その言葉は聞き届けられない。
男に二言は聞き届けられない。
「……一生ボクの被害者で居続けるんでしょう? 君」
とどめを刺すように、百日がそう言った。
百日が加害者にして、斎藤が被害者。それはある意味では夫婦のような関係だと言えないこともない。
そういうニュアンスが百日の言葉にはこもっている気がした。
「……え、いや、あの……まじで?」
さきほどまでの熱弁ぶりはどこへやら……本気で焦った表情をした彼がつぶやいて、けれど、それに誰も反応を返さなかった。
そして、ふと思いついたという顔をして百日が頬に手をやり、
「……ああ、そうそう。ボクの気持ちが冷めたら、容赦なく君なんて捨てるからよろしく」
と幸せそうに笑って言った。
「…………おかしくねえ?」
もう一度斎藤努がつぶやいた。
その声は軽い絶望に満ちていたけれど、不思議と聞いていて自然と笑みこぼれるようなそんな滑稽さに満ちた声音だった。




