百日ダリアという人間
九月十一日。木曜日。
明日、九月十二日はわたし、九々葉藍の誕生日。
涼からはその日の放課後にわたしの家に寄ってもいいかと言われている。彼がわたしの誕生日に何をしてくれるのかということが少し楽しみ。別に何か特別なことをしてくれなくてもいいし、何ならただそばにいてくれるだけでも十分にうれしいことだけれど、涼が何をしようとするのか、ということにはとても興味がある。
涼はときどきわたしでも予想できないような行動をすることがあって、例えば良い方で言えば……、わたしが涼の気持ちを信じられるように何度も何度も……キスをしてくれたこととか、悪い方で言えば、電車の中でいきなり体を触ってきたりすることとか、ってことになる。
もちろん、その悪い方の予想を裏切るような行動というのは取ってほしくないけれど、良い方ならうれしい……と思う。
どんな風に彼がわたしの誕生日を祝ってくれるのかを考えると、二日前だというのに、楽しみで昨日は少し寝つきが悪かった。
小学生みたいだな、と思うけれど、本音を包み隠さなくなった涼との付き合いは、最近さらに楽しく感じてきたから、仕方がないのだ。
それに、わたしとしても少し前から考えていたことがあって、明日涼が家に来てくれるというのなら、それについても都合がよかった。
家を出て、学校に向かうまでの間にそんなことを考えて、それなりに幸せな気分で校門をくぐる。
だから、そんな風に明日を楽しみにする心持ち豊かなわたしの心情は、昇降口を抜け、階段を上り、自分の教室に入ってすぐに打ち砕かれた。
わたしが教室の扉をくぐると、黒板の前で数人のクラスメイトが集まっているのが目に入った。
寝つきが悪かったことから今日は珍しく目が早く覚めて、普段よりも三十分近く早く登校したので、教室内の人数は少ない。にもかかわらずこんな早くから集まって何をしているのだろうと思い、近づいてみる。
人だかりでよく見えなかった教室前方の様子がよく見えるようになる。
――黒板に白いチョークでびっしりと文字が書き連ねられていた。
「……これ、何?」
最近、少しは話すようになったクラスメイトの女の子が近くにいて――芦原さんという――、半ばつぶやくような形で彼女に尋ねた。
部活の朝練で早く学校に来ているという芦原さんは、わたしの姿を認めると、「おはよう、九々葉さん」と言って微笑む。わたしも挨拶を返した。
「……うん。今日はわたしが一番乗りだったんだけどね。わたしが来たときにはもうこれ、書かれちゃってたみたいで……」
言って、彼女は黒板に目を向ける。
あまりにもびっしりと書き詰められていて、一目見ただけでは内容が頭に入ってこなかったそれも、近くで改めて眺めると、何を書いてあるのかが読み取れる。
そうして書かれた文章の初めから少しを読んで、そして、わたしは息を呑んだ。
だって、それは、そこに書いてあったのは――。
「……斎藤君へのラブレター……だよね?」
「……」
そう。わたしとももちゃんの小学校の同級生、そして、今も昔もももちゃんの想い人であるところの斎藤努君宛のラブレターだった。
「どうして、こんな……」
思わず漏れたつぶやきに、そばの芦原さんが反応した。
「ほんとにね。こんな文章、自分で書いたりするはずがないし……。これって……やっぱり……」
彼女の言わんとするところは明らかだ。
誰かがももちゃんの斎藤君へ宛てた手紙を盗み見て、その中身を黒板に書きつけたのだ。
「……それに、ほら、見て」
言われて、さらに彼女が指先で指し示す先を見る。
「……ああ」
ため息に近い声が自然とこぼれた。
ももちゃんが書いたのであろう、A4用紙二枚分ほどの恋文の原本というか、それそのものの現物が、黒板の端に磁石で貼り付けてあった。
「……誰かが盗んだって……ことなのかな」
芦原さんが信じられないというように首を横に振った。
状況としてはそうとしか考えられない。そして、そう考えるとするならば、それをした人間というのが必ずいるということになる。それも、可能性で考えれば、どう考えてもこのクラスの人間がやったと考える方が自然だ。やったその人がももちゃんの気持ちを知らずに手紙を盗んだということは考えられないだろうから、普通に考えて、転校してきて間もない彼女の気持ちを知り得たのは同じクラスの人以外に考えられない。
けれど、これまで曲りなりにも数か月一緒に過ごしてきたこのクラスの中に、人の恋心を踏みにじるような誰かがいるだなんてわたしは思いたくなかった。
……涼をいじめる人はいても、それでも、まさかここまでひどいことをする人間がいるなんて、思いたくはない。
そばにいる芦原さんも同じ結論に至ったのだろう。小さく「そんな……」とつぶやいている。
呆然として黒板を見つめる彼女に、わたしも同じようにしてしまいそうになったけれど、彼女と立場の違うわたしとしては、そのまま自失しているわけにもいかなかった。
こんなの、早く消さないと。
ももちゃんでも、斎藤君でも、そのどちらかにでも見られたら、大変なことになる。
これを彼女たちのどちらにも見せてはいけない。
昨日、彼女が言っていたように手紙にはもちろん、黒板にも差出人の名前というか、この文章を書いた人間の名前は書いていない。
けれど、それでも、ももちゃんには当然、この光景の意味するところは伝わるだろう。斎藤君には元々この手紙を渡すつもりだったとしても、こんな形でももちゃんの気持ちを伝えてしまうのはあんまりだ。
だから、わたしは迷わず、黒板の端に留められた手紙を外して――。
――けれど、耳に聞こえてきた聞こえるはずのないごくわずかな音量のつぶやきに、ぎくりと体を硬直させた。
「……は?」
そんな言葉だった。
端的で、これ以上なく、意味が分からないとする意思を伝える言葉で、それを聞いた人が間違いようもなく口にした人間が無理解に苦しんでいることがわかる言葉だった。
だから、わたしもそのたった一文字の言葉を口にした彼の気持ちがよくわかった。
斎藤努は呆然と口を開き、黒板を見つめていた。
それからすぐに足を踏み出し、こちらに近づいてきて、白いチョークで刻まれた文章の数々を目に入れる。
彼の視線がそれらを追うように縦に揺れ動くのがわかった。
彼に対する深い気持ちの込められた、その文章を追うように。
勘違いしようもなく間違いなく渦中にいるとわかる人間の登場に、クラスのみんなが一様に静まり、彼の様子を見つめている。
わたしは、どうすればいいか、わからなくなった。
このまま、彼にこの文章を見せていていいものか、慌ててでも何でも黒板を消すべきなんじゃないのか。
でないにしても、とりあえず、どうにかして彼を教室の外に連れ出すべきではないのか。
考えが頭を巡り、結局、わたしは何もすることができなかった。
だって、もう一人、この状況の渦中にいる人間が教室に現れてしまったから。
「ももちゃん……」
百日ダリアがそこにいて、だから、わたしは本当にどうしていいのかわからなくなった。
「……あはははっ」
渇いた笑いが教室にこだまする。
こんな状況で笑い声をあげるのは一体誰だろう。
歪む彼女の表情を見ていたはずのわたしは一瞬、疑問に思い、けれど次の瞬間には理解せざるを得なかった。
笑ったのはもちろん、ももちゃん自身だと。
どうして、こんな場面で笑えるんだろう、わたしは場違いながら純粋に少し不思議に思ってしまった。
痛々しくも、聞く者の心を鋭く突き刺すような笑い声に、斎藤君が後ろを振り向く。
彼と彼女が向き合った。
ももちゃんの瞳には一昨日、彼と向き合ったときと同じように、涙が浮かんでいる。
わたしはそれを見て、すべてを理解した。
ああ、そうか。この子はやっぱり、そうなんだなって。
「……あはははっ……」
もう一度、ももちゃんは笑った。嗚咽の混じったその声で。
「……おい……お前、な、なんで……泣いて……っ?」
ももちゃんよりも、いっそ斎藤君の方が激しく動揺しているように見て取れた。
今まで何も気づいてこなかった彼も、散々思わせぶりなことを聞かされて、そして、今日こんなことになって、ももちゃんの態度を見てしまえば、嫌でも理解できてしまうだろう。
百日ダリアは斎藤努を好きだって。
「……うそ、だろ……? いや、だって、俺とお前が付き合ったのだって、お前が九々葉を……あれ? ……お、おい、ち、違うよな?お前が俺を好きだなんて……そんなこと……そんなこと……あるわけねえよ……な?」
彼はひどく狼狽し、ももちゃんをすがるように見つめる。
それを受けた彼女は弱々しく吐息して、すべてを諦めたかのように、こう言った。
「……君のご想像の通り、だよ……」
「……」
斎藤努は絶句して、百日ダリアはがくりと肩を落とした。
ことここに至って、ようやく周囲が騒ぎ始める。
のっぴきならない事情を感じさせる二人の様子に、ざわめきとともに好奇の視線が集まった。
「……っ」
「……」
彼女はそれに歯を食いしばり、彼はそんなものなど眼中にないようだった。
騒々しさには至らない、けれど、静寂にはほど遠い雑音が室内に満ちる。
それも、時間が経てば経つほどに、教室内の人間の数は増えていくのだから、その音が収まることはない。
やがて、そこでもその不躾な空気感に堪えられなくなったのは、数日前と同じように、ももちゃんだった。
手で顔を覆うようにしたももちゃんが足早に教室を飛び出していく。
斎藤君は未だ呆然としていた。
彼女がいなくなったことで、遠慮を少しも失くしたように、教室内のざわめきはさらに増す。
ざわざわざわと、無遠慮に言葉が紡がれる。声が紡がれる。
わたしの親友と、わたしが引け目を感じている人への言葉の連なりが、大した意味もなく紡がれていく。
「……なんだこれ」
そうしたころに、少し間の抜けた声を耳にした。
顔を上げると、教室の入り口に涼がいた。
涼は黒板とわたしと斎藤君を見比べると、こちらに大股で近づいてきて、もう一度「なんだこれ」と繰り返した。
わたしはその姿を見て、自分自身の不甲斐なさを感じるとともに、少しの空気の読めなさを感じてしまい、ついつい言ってしまった。
「遅い!」
「え、ご、ごめんなさい」
すぐに勢いを失くしたように謝る彼に、わたしもすぐに冷静さを取り戻した。
「……えっと、涼はとりあえず、黒板を全部、きれいに消してくれるかな」
「え、ああ、わかったけど……藍は?」
「わたしはももちゃんを追いかける」
「……事情がよく呑み込めないけど……頼んだ」
「うん。頼まれるね。……できたら涼も斎藤君のことをよろしく」
こういうとき何も余計なことを言おうとしないところは涼の美点だと思う。
こんなときでもそういうところがいい、だなんて思ってしまうわたしは少し涼に夢中すぎるだろうか。
考えながらも、わたしは急いでももちゃんの後を追った。




