彼女の暗躍
「手紙を書くことにした?」
「……そう」
九月十日。水曜日。
まるで朝の決まりごとのように百日の奴に挨拶をし、昨日の純情さはどこへやら、「朝っぱらから君の冴えない顔なんて見たくない」などと軽い憎まれ口を叩かれた後、そんなことを言われた。
「手紙って、斎藤にお前が好きだって?」
「……君はもう少し迂遠な言い方ってものを知らないの? そんなんじゃ、藍ちゃんにすぐに嫌われると思うけど」
百日が僕を嘲るようにしてそう言った。その発言に多少の毒はあれど、以前ほどの辛辣さは感じられない。
彼女はそれでも、やはり変わったのだろう。
ちなみに藍はまだ学校に来ていない。やるべきことがあるとかで今日は始業ぎりぎりになるとか言っていた。
「……残念だったな。藍はそんな僕が好きなんだよ」
まじめな声音で言ってから、口にしたことを少し悔やんだ。あまり普段言わないようなことを言っていると思う。
案の定、百日がぽつりと「……きも」などとつぶやいたのが聞こえて、その彼女らしくない普通の罵倒に少々心に傷がついた。
「……でも、お前はあいつに自分の気持ちを知られるのが嫌だったんじゃなかったのか?」
少し泣きそうになるのを堪えて、強引に話題を元に戻す。
プライドの高い百日は見下しているはずの斎藤に対して、あいつを好きな気持ちを本人に知られるのが嫌だったから、一昨日あれだけ取り乱して教室を出て行ったはずなのに。
「……そう。嫌だよ、決まっているじゃない。だから、差出人の名前は書かないつもり。ボクからだってわからないようにして、ただその気持ちだけを伝えるの」
「それで、お前は満足なのか?」
「満足なのか満足じゃないのかで言えば、きっと満足なんかしていないだろうね、ボクの心は。だって、大嫌いな異性に好きだという自分の気持ちを伝えるだなんて、そんな不本意なこと、やりたいはずがないもの、このボクが」
「一文の中で完全に矛盾したことを言ってのけて、なおかつそれがめちゃくちゃに聞こえないというのも、ある意味でお前はすごい性格をしているよな」
「君に言われたくはないけど」
言って、百日は鼻を鳴らした。
そんな態度ではあるが、彼女の様子は決して僕と話していて不快そうな感じではない。ところどころに棘はあって、さまざまにツンツンしているけれど、決してこうして本音で僕と話すことに嫌な感情を抱いている感じはしない。
以前までの狂人のような百日の態度。あれにはひどく異様なものがあった。
彼女自身、外面を取り繕うことは容易であるようなことを言っていたが、にしたってあの狂人の演技はやりすぎだろう。僕を排除すべき敵とみなし、そのために僕を威圧していたとしても、あれをやっていて疲れるのは彼女自身なのではないか、と思う。無駄に笑い、無駄に泣き、無駄に人を煽って楽しげに振舞う。それで傷つけるのは他人でもあって、自分でもある。
リスクは高くて、リターンはない。
あれはそういう類の言動だった。あんなもので、一体何ができたんだ、と疑問に思う。
僕を傷つけるという目的は達成できたかもしれないが、だとしても、それだけのためにああした自分の振舞いを許容するのは到底考えられないことだ。
その意味で、百日の価値観には計り知れないものがある。
人間、狂気じみた考えが頭をよぎることもあるだろう。けれど、それを実際に実行に移そうとする人間はそういない。僕はそう思う。
だから未だ思うのは、昨日のような無垢な少女のような彼女と、初対面のときのような狂った演技の彼女、果たしてその二人の彼女は彼女自身の中でどのように受け止められているのだろうか、と。
「でも、あれだけ頑なに見えたお前がこうもすぐに心変わりすると、実は何かの謀略なんじゃないかと疑いたくなるな」
そんなことを考えていたからだろうか。軽口にもならないやや性質のよくない冗談を僕は口にしていた。
「……君はボクを改心させたいのか、それとも完全に悪に堕としてしまいたいのか、どっちなの」
幸い、百日はそれを冗談と取ったようで、少しむっとした顔をしただけだった。
「別に、藍に対していい友達でいてくれるのなら、それ以上を求めていないけど」
「つまり、善悪なんてどっちでもいいと?」
「そうは言ってない。僕はただ、藍の心根に沿うお前でいてほしいだけだ」
「全部が藍ちゃん基準かよ。この藍ちゃんキチめ」
「それはお前もだろ」
言ってしばらく、僕と百日は睨み合う。けれど、そのうちどちらからともなく苦笑を漏らした。
とても真顔で言い合うことじゃない。
お互い藍が大好きなのはたしかかもしれないが、それにしたってこうも真正面からそれを明らかにした言動をするのはどうも恥ずかしい感じがする。
やがて、居心地の悪さを包み隠すように、ためらいがちに彼女が言った。
「……ここ二、三日、君含めて栗原るりと藍ちゃんと三人で、いろいろとお節介を焼こうとしてくれたみたいだけど、ボクは感謝しないからね。助けてくれだなんて、ボクは一切頼んでいないんだから」
「……じゃあ、お礼代わりに一つ、お願いを訊いてくれるか?」
「待って。ボクは今感謝しないって言ったよね? 何で当然のように見返りを求めてくるわけ?」
「究極に甘えた声で、『好ぅ~き♡』って言ってくれ」
「……せめて、そこは君がここのところボクに押し付けようとしてるキャラ設定のツンデレがどうとかじゃないの。一体全体、君はボクのキャラをどうしたいのさ」
「べつに、ただ言ってみただけだ。あわよくばそのセリフを言った後に後悔して激しく悶えるお前の姿を目に焼き付けておきたかったけど」
「……そんなことでボクは悶えたりしないから」
ぷいっと顔を逸らして、百日はつぶやいた。
昼休み。
昨日と同じように百日を誘い、一緒に食事を取ることにした。
ただし今日は弁当ではない。毎回、藍と栗原にお昼を作ってきてもらうのも悪いと思ったのだ。
藍と栗原と百日と四人で、食堂の席についた。
食事を取るのもそこそこに、百日が斎藤に手紙を書くことにしたという話が伝達され、藍も栗原も喜ばし気な顔をした。しかし、話が差出人は書かないというところに至ると、双方とも微妙な表情をしたが、結局は百日の意思を尊重して、納得したようだった。
雑談を交えてゆっくりと昼食を取った後、友達と遊びに行く約束をしてて相談することがあるという栗原と、他に用事があるという百日が足早に食堂を後にする。
僕と藍は二人で教室に戻った。
お互い隣り合った席に着き、おもむろに鞄から文庫本を取り出して読書に励もうとする藍に僕は話しかけた。
「それで、今日の朝言っていたやることがあるっていうのは、百日の斎藤に対する気持ちに関係したことか?」
挟んでいたしおりを机に置いて本を読み進めようとしていた彼女が、またそのしおりを同じページに挟み込み、こちらに顔を上げる。
「……ううん。今日の朝のことはそういうのじゃないんだけど……」
「違うのか……。僕はてっきり藍が何か百日に対して行動を起こそうとしていたのかと……」
「それは違うよ。……でも、そうだね……。ももちゃんに対してちょっと思うところがあるっていうのはそう、かな……?」
藍は整った毛先を少し指でいじって、机の上の文庫本に手を置いた。
「あいつについて、何か問題でもある?」
「ううん。ほんとにその、大したことじゃないんだけど……」
「だけど?」
「……昨日のももちゃんの態度が気になって」
言って、藍は顔を伏せた。
僕はその態度に少し妙なものを感じ取る。
「昨日の態度っていうと、百日の奴が斎藤の顔を見て泣いたことか?」
「うん。そう。……あれがその……ね」
彼女はそこで口ごもる。
何だろうか。百日があそこで涙を流したのは、単に斎藤への気持ちから感情を堪えきれずに、といったところが理由だと思ったのだが。
藍的には違うと感じたのだろうか。
でなければ、そんな風に深く気にするようなことでもない気がするのだが。
「……口にするのをためらうようなこと?」
「正直、ね」
「じゃあ、藍が今日の朝、何をしていたのかっていうことについては?」
「それはその、それとは別……だから……、それにその、恋人だからって、わたしがどこで何をしていたのかって、全部報告しないといけないわけでもないでしょう?」
「それはそう、だけど……」
藍は少し頬を染めてそう言った。彼女には珍しくそういう詭弁を使うということは、僕には本当に知られたくない何かをしていたということなのだろうか。
まあ、聞かれたくないことにこれ以上突っ込むのも野暮ではある。後で言う必要のあることなら、彼女もちゃんと伝えてくれることだろうし。
百日の問題についても、今のところ、目立った問題があるわけでもなし、藍が口にしないというのなら、それにはそれだけの理由があるのだろうと納得しておくことにする。
僕はそれ以上、深く追及することをやめた。ちょっとの間僕の顔色を窺っていたような藍は、そのままもう一度手元の本に向かった。
その日の最後の時間、六時限目にロングホームルームがあった。
授業開始の鐘が鳴ると同時に、教室に入ってきた担任教師が教壇に立つ。
以前、斎藤の件があった折、最近の教師にしては珍しく単に仕事をやる以上の熱意を持った先生だと僕は感じたが、その印象を裏付けるように、彼はクラスの面々の顔をひとしきり眺めた後、開口一番こう言った。
「いじめは人として最低の行いだ」
ただならぬ彼の気配に一定の静けさを保っていたクラス内の空気が、一瞬にしてさらに静まり返る。
彼はその生徒たちの様子に表情を険しくし、続ける。
「もちろん、君たちがそのような幼稚な行いをしているとは万が一にも私は思っていない。入学から五か月ほど、君たちを見てきた私としては、君たちの中に未だ中学生気分を引きずってそのような幼稚な行いに及ぶ者がいるとは思えない。だが、君たちの担任教師として、それについては明確に言葉にしておく必要性があると認識した。ゆえに、改めて言っておきたいと思う」
先生はすぅと息を吸って、それから言った。
「いじめは最低の行いだ。人として、やってはならない」
心なしか、彼の目が僕を体育倉庫に閉じ込めたあの男子生徒の方を見つめている気がした。
その男子生徒は先生の言葉に、どこか鼻白むような態度を取っていた。
「今日のホームルームは元々、予定していた文化祭についての話し合いではなく、急きょ予定を変更して、いじめについて皆に考えてもらいたいと思う。不満を覚える者もいるだろうし、退屈に思える者もいるだろう。だが、許してほしい。最近、先生が読んだ本で、いじめについても熱く語った教育論があってな。それに感化されてしまったんだ。まあ、その分、今日は少し早めに授業を終えるつもりだ。皆にはできる限り真面目に考えてほしい。まずこのプリントを――」
担任教師がいじめについてのいくつかの事例が載せられたプリントを配り、それについて別紙に感想や意見を書いてほしいと説明した。
「忌憚なき皆の意見を聞かせてくれ。まかり間違ってもいじめを肯定するような意見があるとも思えないが、本当に自分でそう思うのなら、そんな主張を書いてもかまわんぞ。もっとも、そんな意見を書いた者には後で個人的に議論したいと考えるが。……もう一度、言っておくが、私は決してこのクラスの中でそのようないじめが起きているとは思っていない。今を生きる高校生として、そういった問題について皆に自分なりの意見を持っていてほしいと思っているだけだ。だから、今日このような場を設けさせてもらった。自分の意見を述べることが大事であって、人と意見を示し合わせることは推奨しない。ただし、議論を行う上での相談はしてくれてかまわない」
先生がそう言って、それから「では、始めてくれ」の合図に、クラスメイトたちがプリントに向かう。
なんとなく、急な流れに困惑しているのが雰囲気で感じ取れたが、一応、皆まじめにやる気はあるようで、カリカリとシャープペンの芯が紙にこすれる音がする。
僕も一応、その起こっているはずがないいじめの被害者として、「気に入らない相手がいるならまず口で言えよ」と書いておくことにした。
ペンを持ったところで、なんとなく視線を感じて前を見る。
百日が首だけで振り返って僕を見ていて、僕と目が合うと、薄く口元で笑みを浮かべて、また前に向き直った。
その行為に込められた意味を僕は一瞬理解できなかったが、唐突に感じた先生の行動と照らし合わせて、僕はその意味を理解した。
たぶん、百日が僕への嫌がらせについて、担任教師に口添えしたのだろう。
自分が扇動した嫌がらせがその手を離れてもまだ続いていたことに彼女なりに思うところがあったのかもしれない。
せめてものも僕への罪滅ぼしとして、そうした行動に出たのだろう。
昼休みに言っていた用事があるとは、このことだったのだ。
嫌がらせ、もとい、いじめへの対策として生徒側から教師に相談するというのが明確な解決策になるかというのは、場合によりけりだとは思うが、今回の場合、たぶん、正解なのだろう。
このクラスの担任教師はそれなりに熱意を持った先生で、その上で生徒から報告があったということを匂わせずに自分の暑苦しさを理由にいじめについて考える機会を与える狡猾さを持った先生だ。そんな先生にひそかにいじめがあったことを知らせるというのは悪くない判断だろう。
転校してきて日が浅い百日が早くも担任教師の性格を見抜いていたことに賞賛を覚える一方、扇動した本人が手柄を誇るようにドヤ顔をしてきたことに若干むかつきもした。
なので、僕はちょっと考えた後。
手にしたシャープペンで紙に意見を書くでもなく、鋭くない方のペンの先で以って、肘を机の上に置いてカリカリと紙に意見を書きつけている百日の脇の下をゆっくりとなぞってやった。
「ぅひゃうっ!?」
静けさの教室の中に彼女の甲高い悲鳴がこだまして、クラス中の注目が僕の目の前の金髪に集まる。
「……どうした? 百日」
「な、なんでもないです……」
訝しげな顔をした先生が言って、百日が恥ずかしげに俯く。
少しの妙な空気感の後に、皆が再び机に向かう。
しばらく俯き加減だった百日がくるりと振り返って、そのやや赤い顔に手をやり、僕に向かってあっかんべーをした。
「……へんたい」
それからぽつりとつぶやいた。
僕は彼女のその悔しがる声音を聞いて心地よい気分でいたが、ふと急に怖気を感じた。
その感覚に従って、ゆっくりと右を見る。
「……あ」
何の表情も浮かんでいない完璧な無表情で僕を見る藍がそこにいて、次の瞬間、伸ばされた彼女の手に耳を引っ張られた。
「……っ!」
それなりに強い力だったのにも関わらず、耳にそれほどの痛みはない。
しかし、無表情であっても圧倒的威圧感を感じさせる彼女の面がそこにある。
耳元に唇が寄せられた。
「……今度、ももちゃんにセクハラしたら……わかってる?」
本当にこれは藍の声かと思うほどに冷たい声音が頭に響いて、彼女から漂うミントのような清涼な香りにも癒されるどころか恐怖を覚える。
「……わ、わかってます」
「なら、いいけど……二度目はないよ?」
「こ、心します」
答えると、耳が離された。
呆然としたまま藍を見返すと、彼女はもう僕に頓着していないように、目の前の用紙に目を向けている。
……果たして、彼女は一体全体、いつのまにこんな属性を獲得したのだろう。
背筋を冷たい汗が流れるとともに、僕は思わずにはいられない。
けれど……。
「……涼がセクハラしていいのはわたしだけなんだから……」
紙をペンが走る音と共に聞こえてきたその小さなつぶやきが、結局僕の心を最高に癒してくれるのだった。




