皇帝ダリアの花言葉:『乙女の真心』
その日の昼休みになる。
ボクは三日前の出来事以前と同じように、藍に声をかけていいものかどうかを迷い、少し逡巡する。
友達の彼氏をただその仲を引き裂くためだけに寝取ろうとした。
それがボクのやろうとしたことの内実だけれど、相田の態度も藍ちゃんの態度も、ボクを恨んでいるという風では全然なかった。それを考えれば、別段引け目を感じることではないし、そもそもボクはそんなことを考慮する人間じゃない。
今朝の彼らの態度に羞恥を覚えることはあっても、ここは気を引き締めてまたぞろボクはボクらしいアプローチで彼らの仲を引き裂くことを考えるべきだろう。
その思いの下にボクは後ろを振り向き、そして、気色の悪い喜色に満ちた笑顔に迎えられる。
「ももちゃん!」
「百日さん!」
「ももちゃん!」
「「「一緒にご飯食べよう!」」」
藍ちゃんも栗原るりも相田も、揃いも揃ってこのこびへつらいっぷりはなんなんのだろう。
ボクは悪役だったはずで、決して手を差し伸べられるゲストヒロイン的ポジションではなかったはずなのだが、どうしてこんなことに?
ていうか、相田はももちゃん言うな。
「……君ら、何がしたいわけ?」
結果的に、狂気を演じるボクの態度は鳴りを潜め、困惑の下の素の態度で接せざるを得ない。
ほんと、こいつら、なんなんだよ。
「いやさ、単に僕らはお前ともっと話をする必要性を感じているだけなんだよ。今まで不幸な行き違いが数多く起こったけれど、本来藍の親友であるところのお前と僕とはもっと話をするべきだったんだ」
「……君に散々ひどいことを言ったボクと何を話そうっていうわけ?」
「それは積る話も……何もないけど、まあ、いろいろあるだろ? いろいろと」
「……もう少し具体性を感じさせる言い回しを選べなかったの」
って、だめだだめだ。どうしてボクが突っ込みに回らなければいけないんだ。
ボクは人をドン引きさせることはあっても、自分が少し引いた目線から他人を見ることはなかったはずなのに。
「百日さん。そんなに意固地にならなくても、もっとみんなと仲良くしようよ」
栗原るりが慈愛に満ちた表情でボクを見つめ、ボクは居心地の悪さに視線を逸らす。
「……君も君でどうしてそんなにボクに固執するんだよ。君は相田が好きだっただけで、完全にボクとは無関係じゃないか……」
「そうだね。その通り。わたしは百日さんとは今まで縁もゆかりもありませんでした。でも、だからといって、これから先関わっていこうとしない理由もないでしょう? あなたみたいな人はきっと、わたしととても相性がいいと思うの」
「相性? 何でそんなことが言えるの?」
「あなたの言うところによれば、あなたと相田君はとても似ているんでしょう? だったら、わたしはあなたのことも好きになれると思うから」
「……」
真隣でそんな発言をされた相田が所在なさげな顔をしているが、いい気味だと思う。
お前のような人間はもっと居所を失くせ!
腹立つ顔で笑いやがって!
「……わたしがももちゃんと話をしたいっていう理由は、説明しなくてもいいよね?」
そして、最後に藍ちゃんが相変わらずかわいらしい無垢な瞳でボクを見据えてくる。
「……それは……」
「ももちゃんは大事な友達だから、たとえどんなことをされたって、ももちゃんを一人にしたくないの……だから……」
「……っ」
やめろ。やめてくれ。そんな風に包み込むような優しさでボクを絆さないでくれ。
頼むから。
そんな風に優しくされると、自分がわからなくなる。
悪役を演じる意味も。
彼と彼女らと敵対する意味がわからなくなる。
ボクは本当に藍ちゃんを独占することを考えるべきなのか。
ボクは本当に藍ちゃんに愛されてさえいれば満足なのか。
ボクは本当に藍ちゃんに友達一人もおらず、自分だけを見て笑っている状態を望んでいるのか。
それは単なるわがままじゃないのか。
いいや、それは自覚していた。ガキのわがままであることは百も承知で、それでもボクはそれを求めようと……。
でも、今この状況のように、三人の人間がボクという人間と関わることを求め、ボクがやったことさえも水に流そうとしてくれているこの状況のように、ガキのわがままではない本当の幸せが得られるとしたら……?
ボクはそれを取らなくていいのか。
ボクはそれを選ばなくていいのか。
満たされない自覚があるのなら……ボクはそれを……。
「……やめろよ。お前ら」
冷たい熱を感じさせる声音によって、ボクの思考はそこで遮られた。
「そんな最低の女にかける心なんか無駄だ。どうせ裏切られる。どうせ踏みにじられる。お前らが関わろうとするべき女じゃねえよ、こいつは」
日比原努、今は斎藤努だったか?が、ボクの目の前に立ち塞がって、胡乱な目つきをボク以外の三人に向けていた。
「……斎藤、お前……」
相田が言い募ろうとし、斎藤がそれを目で制する。
「俺は何もこの女を迫害しろだなんて言ってねえ。ただ、優しくするのはやめろって言ってるだけだ。俺も復讐なんて、馬鹿みたいなことは考えちゃいねえよ。九々葉のことでもうそれは懲りた……。ただ、だからって、この女とあんたらが仲良くしようってするのは見過ごせねえ。……それは違うだろ? この女があんたらに何をしたってんだよ。わかってんだろ? 俺は詳しくは知らねえけど、それがよっぽどひどいことだっただろうな、ってのはその元被害者の俺にはよくわかるぜ?」
斎藤努の意見はもっともで、客観的に考えたときにはボク自身も同じことを言ったであろうことがすぐに想像できる。
ボクみたいな危険人物と関わるべきではないのは明白だし、排斥するとまではいかなくとも無関心でいるのはひどく賢い選択のはずだ。
けれど、どうしてだろう。
どうして、この男に言われると、自分で納得しているはずの理屈にさえ、どうしようもなく腹が立って仕方がなくなるのだろう。
数年前、ボクを振ったこの男に言われると。
「この女は悪魔だよ。悪魔に人間は関わっちゃいけねえ。関われば関わるだけ不幸を見る。あんたらがお人よしでこんなことやってるのかは知らねえけど、俺はそんなの優しさでもなんでもないと思ってる」
「優しさでないなら、なんだよ」
思惑を外されたからだろう、少々声音に険の乗った相田が斎藤に問う。
「ただの徒労だよ。いや、それ以上か。単に疲れるだけってんじゃなくて、不幸を見ることになる。自分から崖下に飛び降りようとするようなもんだ」
「お前がそんな風に百日のことを悪く言う理由は十分理解できる。でもな」
「でもな、も何もないんだよ。人は変われるだなんて正論、俺は聞きたくねえ。確かに状況は違うさ。立場も違う。人は成長するもんだし、小学生の俺らと高校生の俺らじゃ、何もかも変わってる。けどな。変わらないものだってあるんだよ。俺はこいつが……」
言って、斎藤はボクの鼻先に指を突きつける。
その不躾な態度に、柄にもなく本気で苛立った。
「こいつみたいな性根の腐った女が数年で変われるだなんて思ってねえ。いや、こいつがこの高校にやってきて、おそらくはあんたらにひどいことをしでかしたのだろうっていう推測がなけりゃ、その認識を改めてもいい。でも、どうだ? 相田。お前、この女に心底痛めつけられたんじゃねえのか? 精神的に」
「それは……」
相田が言い淀み、それに勢いを強くしたように斎藤が冷たい表情をさらに冷たくする。
「……やっぱりすぐには擁護できねえくらいのことを何かされたんだろ? だったら、何だって、こいつのことをそうまでしてかばおうとする? 俺には理解できねえよ。何でだよ。なあ?」
斎藤の言い様が正しいことを心の片隅で認識していたボクではあったが、それでもむかつく言い方だというのも否定できない。
だが、それ以上に相田藍ちゃん栗原るりの三人がボクにそうまでして友好的に接しようという理由がわかっていなかったので、その疑問の答えはボクの求めるところでもあった。
相田は眉を寄せ、返答に窮するように下唇を噛みしめた。しかし数瞬の後、それでも彼は口を開いた。
「……斎藤、どんなに懇切丁寧に言葉を尽くしたところで、お前を納得させる理由なんかたぶん、出てこないよ。明確に言葉にできるような何かが僕の中にあるわけでもない。お前の言うように僕は一般的に十分ひどいと言ってもいいことをされたさ。僕自身の情けなさも原因としてあるとはいえ、その上でも許せないだけのことを多分にされたと思ってるさ。それでもな。それでもただ……ただ……」
「――ただももちゃんにわたしの友達でいてほしいって、そう涼は思ってくれたんだよね?」
彼が言葉にできないその先を、すくうように藍ちゃんが言葉を紡いだ。
冷酷さを表した斎藤の瞳に対して、温かさを内包した藍ちゃんの瞳が見返す。
斎藤がわずかに表情を曇らせたのがわかった。
「……本当は斎藤君には言うべきじゃないのかもしれないと思っていたけど、あなたがそこまで頑なになるのなら、言うね……」
申し訳なさそうな顔をした藍ちゃんが気遣うようにボクをちらりと流し見て、ボクは少し嫌な予感がした。
「何を……?」
藍ちゃんを相手にしては強く出られないのか、目に見えて勢いを減じた斎藤が言葉少なげに訊き返す。
「わたしが、わたしと涼が、考えてわかったこと」
「わかったこと?」
「そう」
もう一度藍ちゃんはわたしを見て、それから少し息を吸い、唇を動かした。
「わたしがももちゃんについて涼と話して気づいたのは二つのこと。一つは、小学校の四年生で、ももちゃんと同じクラスになってから、ももちゃんはずっとつかず離れずわたしと一緒にいてくれた、ということ。……わたしが日比原……斎藤君、あなたの代わりにいじめの対象となったときでさえも……」
藍ちゃんは言って、斎藤と目を合わせる。
その視線を受けて、斎藤はたじろぐように後ずさりし、表情を歪ませた。
「……ももちゃんはね。わたしに関して言えば、一度だってわたしを傷つけるようなことを口にしたことはないよ。いつも、いつだって、わたしのことだけを考えてくれていた。わたしがももちゃんを裏切ったことを理由にいじめの対象になったときも、ももちゃんはわたしに何も言わなかった。周りの子たちが許さなかったから、一緒に話すことはなくなったんだけれど、でも、いつもわたしの周りでわたしに隠れて、わたしの様子を窺っていたことを憶えてる」
……遠い過去の話だ。でも、ボクはそんなの一つとしてだって、忘れちゃいない。藍ちゃんに関することはボクにとってなんだって、どんなに心軋ませる出来事であったとしても、宝物だ。
「……たとえ、そうだったとしてそれが?」
「わたしのことを考えてくれているももちゃんがわたしのそばにいることはそんなにおかしいことだと、あなたは思うの?」
「……本当にそう言えるのかよ」
「うん?」
「その女が本当に九々葉のことを考えて、気遣ってるなんて、どうしてそう言えるんだよ。心の中じゃ、自分のことしか考えてないかもしれないだろ」
「そうだね。それはわからないね。でも、そう信じることはできるでしょう?だから……」
「だから、そうやって九々葉は傷ついたんじゃねえのかよ!」
斎藤は声を上げ、それに藍ちゃんが何か言葉を返そうとするよりも早く、相田が彼女をかばうように斎藤に向き合った。
「残念だけど、もう藍が傷つくことはない。なぜなら、僕がここにいるから。僕が彼女のそばにいる以上、本当の意味で藍が傷つくことはない。……僕が傷つけた場合を除いて、な」
「……はいはい、のろけのろけ」
呆れたような態度で栗原が言い、相田が顔をしかめた。
「……でも、斎藤くんもわかったんじゃない? 藍ちゃんにはこういう藍ちゃん馬鹿な恋人がいるから、昔みたいに傷つくこともないんだってことが」
「……」
藍ちゃんに反論され、相田に立ち塞がれ、栗原に諭された斎藤は、さすがにそれ以上食い下がることができなくなったようだ。
激していた怒気は鳴りを潜め、ボクを見る憎悪の視線も多少和らぐ。
けれど、それでも往生際悪く、口を開くことをやめない。
「……でも、でもさ……。俺はこいつに……。こいつにひどい目に遭わされて……それに、あんたらだって……」
「うん、斎藤君もわたしや涼やるりちゃんのことを気遣って、そう言ってくれているんでしょう? それはわかってるよ。ありがとね。あなたがただのいじわるで行動してるわけじゃないのはわかるよ」
藍ちゃんにそう言われ、斎藤はむすっとした顔になった。
「……で、もう一つは何だよ?」
それ以上あがくことを諦めたように項垂れて、やけになったように彼が言う。
「あ、えっと、ももちゃんについて気づいたこと?」
「……ああ」
藍ちゃんが言ったボクについて気づいたことのもう一つとは何であるのか。自分の意見は保留して、それを知ることに彼は意識を向けることにしたようだった。
「えっと、その……ね」
口にすることをためらうように藍ちゃんがボクを見て、嫌な予感がさらに増していく。
「ここまできてもうためらうこともないだろ。言ってくれ」
斎藤が言い募り、藍ちゃんが決意を固めるように拳を握りしめる。
「えっとね。その……もう一つ、はね。
今までももちゃんはそんなこと一言も匂わせたりしなかったし、あんなことになっちゃったから、本当のところは違うんだ、ってわたしが勝手に納得しちゃってたんだけどね。でも、気づいたの。あの頃のももちゃんのことを思い出して、あの頃のももちゃんが不思議と落ち込んでたことを思い出して、気づいたの。
ももちゃんはね……。この子はほんとうは……」
「やめろッッ!!!」
彼女が何を言おうとしているのか。彼女が何に気づいたのか。
藍ちゃんがそれに気づくはずがない。
人の気持ちに敏感なようでいて、実は鈍感なところもある彼女がそれに気づくはずがない。
相田と二人で何を話し合ったとしても、そんなことが本当だなんて、少なくとも、あれだけ狂人としてのボクを見せつけた相田と話し合ったとしても、そんなことが本当だと気づくはずがないことだった。
あんな狂ったような言動をするボクが小学生のころ何を感じていたかなんて、わかるはずがないだろう。
ボクがそんなまるで普通の少女のような思念に振り回されていただなんて、想像できるわけがないだろう。
でも、それでも、その先を口にされるのがひどく恐ろしくて、だから、ボクは声を荒げた。
昼休みに騒がしさを増している教室の中に、その声がそれでも響く。
ただならぬ雰囲気で話している五人を遠巻きにして、様子を今まで窺っていたクラスメイトたちが皆一様に驚いた顔をする。
ボクはその顔がなんだかとても嫌だった。
「やめろよ。いくら藍ちゃんでも、その先をこの場で口にしたら許さない。ここで言ったら許さない」
「……でも、ももちゃん」
「……ボクを慮るのなら、言わないで……頼むから、お願い……」
最後は涙の滲んだ声音となっていた。
「……」
「……」
「……」
「……」
重い沈黙が場を取り巻く。
昼休みの喧騒は学校全体を支配しているのに、教室の中にはひそひそと少しの雑音が満ちているのに、なのに、そこには重たい沈黙が存在していた。
沈黙が場を席巻し、五人のうち誰も言葉を発さない。
ボクはボク自身がそんな情けのない声を出したことをひどく悔いていた。
だから、その沈黙に一番に耐えられなくなったのはボクだった。
「あ……」
席を立ったボクを、藍ちゃんがすがるように見上げてくる。
ボクはそれに心を痛め、けれど、そのまま足早に教室を後にした。
誰も追ってこようとはしなかった。
その当然の事実に心のどこかで安堵し、けれど、心の反対側で追ってきてほしいと思っている自分が心底嫌だった。
「くそっ!! なんなんだよ! 意味わかんねえ!」
斎藤努が口汚く悪態をつく声が背に聞こえた。
ボクは歯茎が軋むほど強烈に歯を食いしばった。
頬の内側をどこか噛んだのか、口の中に血の味が広がった。
お前は一生、意味なんてわかんないままでいろよ。
でないと、ボクはお前を本気で殺すぞ。
「……ああ、もう」
どうして……。
どうして、このぐらいのことで、泣かないといけないのだろう。
どうして……。
「……やだ」
廊下を逃げるように人気のない方に走りながら、つぶやく。
「……いやだよ」
どうして、ボクはこんなんなんだよ……っ。
「……いやだいやだいやだ」
走りながらつぶやいて、派手に転んで膝の下を擦りむいた。
「……痛い」
血が少し出て、じくじくと傷が痛みを発した。
けれど、そんな小さな体の痛みより、心はずっとずっと強い痛みを発していた。
……ボクの本心がなんであるのか、なんて、ボクにだってわからないさ。
自分が何であんなことをしたのか。
自分が何でこんなことをしているのか。
自分が何でそんなことをしようとしているのか。
そのすべてを明確に把握している人間なんているの?
自分を明確に定めている人間なんているの?
自分の気持ちを正確にコントロールしている人間なんているの?
誰かを好きになりたいからという理由だけで、本当に誰かを好きになれる人間なんているの?
嫌いになりたいのに、好きでいてしまう理由を説明できる人間なんているの?
ねえ。ねえ。ねえ。ねえ。ねえ。ねえ。
笑われるかな。
罵られるかな。
蔑まれるかな。
ボクが本当は――だったと知ったら、――は何を思うのだろう。
百日ダリア視点、終了。
軽く煮詰まってるので、ちょっとペース落ちます。




