百日草(ひゃくにちそう)の花言葉:『絆』
裸の状態から着替えて、家を出たのは八時ちょうど。
ボクが借りているマンションは転校してきた学校からは少し遠い。徒歩で三十分。自転車で十分といったところ。学校近くには都合のよさそうな物件が見つからなかったので、結果的に通学に少し時間のかかるところとなってしまった。
九月八日の月曜日。On September 8th, Monday.
ボクは学校に向かう。
頼る物など何もなく、母親は行方知れず、父親は海外、大好きな友達は彼氏に夢中、他にあるのはただ薄っぺらい関係性の他人ばかり。
そのくせ、敵ばかりは多く、ボクの味方をしてくれる人間などいない。
孤独。
性格が最悪だから、そうなって当然だけど。
望んで演じた悪役に、望んで得られた孤独な現状。
人を扇動するのも、人を誘惑するのも、人を陥れるのも、得意なボクだけれど、人に好かれることだけは不得意としている。
それも当たり前か。
ボクはこんな最低な自分を、最低であるしかない自分を軽蔑している。自分自身が自分を肯定できないのに、他人が自分を肯定してくれるはずがないのだ。
自分を悪役だと思うことはできても、自分を正義の味方だと思うことはできない。
それがボクの人間性。
今日学校に行けば、九々葉藍と顔を合わせる。相田涼と顔を合わせる。
それが億劫に思えて仕方がない。
藍には拒絶され、あの男には泣き顔を見られた。
悪役だというのならば、情けないこんな悪役もよくいたものだ。
だからそう、情けないなら情けないなりに虚勢も張ろう。
声高に吠えて、派手に散ろう。
もうボクの生きる意味なんて、本当にない。
人生、何が楽しくて生きているのだかわからない。
人生、何を目的として生きているのかわからない。
生きてて何が楽しいの?生きてて何がうれしいの?生きてて何が面白いの?
馬鹿みたいに笑う学生たちを見て、馬鹿みたいに喚き散らす若者を見て、ボクが思うのはそんな感想。
齢十五にして達観した面持ち、ではないか、ただの擦れたガキだ。
「……はあ」
校門に着く。
大した特異性のない普通の高等学校の校舎だ。
偏差値が高いわけでもない。部活動に優れた成績を残しているわけでもない。
どこにでもあるありふれたごく普通の高等学校。
どこにでもいるごく普通の高校生などいないけれど、どこにでもいないごく普通の高校生ならいる。
下駄箱で靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。
「おはよう。百日さん」
振り返ると、どこかこちらを慈しむような微笑みが浮かんでいて、ボクは心底イラっとした。
どうしてこいつはこんな顔で笑っていられるのだろう。
ボクの見立てで言うならば、この女にあの男とよろしくやれる可能性など一パーセントもないだろうに。
なのに、自分の得たいと思ったものさえ得られないことがわかっているだろうに、どうしてこの女はこんな風に笑えるのか。
どうしてそんな風にまるで、ボクのことを慮っているかのような微笑みを浮かべられるのか。
栗原るりというその女は、ボクのもっとも嫌悪する部類の人間だ。
物腰やわらかく、人に優しく、自分を省みない。
優しさだけで構成されたような温和なその笑みが気に食わない。
見下してんじゃねえよ。ボクはお前に見下されるような醜い人間じゃあない――なんて、言えたらどんなにいいだろうね。
「おはよう。栗原さん」
「うん。おはよ。百日さん」
自分の下駄箱から内履きを取り出し、かかんで靴を履き替える彼女がもう一度挨拶を返す。
ボクはそれを後ろ目に、昇降口を後にしようとした。
「……わたし、振られたよ」
端的に後方から投げかけられた言葉の意味が一瞬理解できず、足を止める。
振り返ると、それでも微笑みを崩さない栗原るりの姿がそこにある。
「……百日さん言ったよね?あの朝、相田君を本当に自分の物にしたいのなら、藍ちゃんと相田君を引き剥がす自分の手伝いをしなさい、って。わたし、あのときはあなたの提案を断ったけど、正直、そうしていたら、こんな風につらい気持ちを抱えなくて済んだのかな、なんて思ってる」
語る言葉は後悔に満ち溢れていてもいいはずのものなのに、彼女の姿にはいっそ清々しさしか感じず、だから、ボクは余計に苛立った。
「今からでも遅くないかもよ?二人の仲を引き裂けば、君が割り込む可能性も……」
「ないよ、そんなの」
「……」
「百日さんが相田君のことをどう思っているのかよく知らないけど、彼はそんな不誠実な人間じゃないと思うよ」
誇らしげに語る栗原るりに、ボクは嘲笑を隠せない。
「あははっ。面白いことを言うよね。あの男のどこにそんな評価をする余地があるっていうんだよ。君は知らないかもしれないから教えておくけど、三日前の金曜日に、あの男はボクを無理やり押し倒して犯そうとしたよ?そんな男の何をそんなに信じられるって言うのさ。しかも、そのすぐ後に彼は君を振ったわけだろう?一貫性の欠片もない。擁護する意味なんて――」
「……あなたが相田君のことをどうしても悪く言おうとするのは自分に似ているから?」
「……っ!?」
揺らぎのない瞳が見返してきて、少したじろぐ。
……図星を突かれたからではない、と強く主張しておきたい。
続くボクの笑い声はどこか空々しいものになっていただろう。
「あははっ。たしかにね。彼とボクは似ているかも。普通の人とは価値観が逆転していて、途方もなく狂ってしまっているところとか」
ごまかしに自虐を混ぜてしまうのは心に余裕がないときだ。
そう自己分析するとともに、どうせ、この女はそんな風に痛々しい物言いをするボクを憐れむのだろうな、と予想する。
「あなたも相田君もわたしと何も違わないよ。どうしてそんな風に自分だけは違うって、思い込もうとするの?」
「……は?」
だから、返ってきた言葉に込められた感情に、ボクは上手く言葉を返せない。
だって、それは憐憫じゃ決してなくて、ボクの知らない、もっと温度を持った何かだったから。
「わたしも相田君も藍ちゃんもあなたも同じ一緒の高校生でしょう? 何も違ってなんていないと思うけれど」
「……ちょっと待ってよ。君、何か勘違いしてない? ボクは……」
「百日ダリアさん。海外から転入してきたわたしと同じ高校一年生で、金髪と蒼い瞳がきれいなかわいい女の子、でしょう?」
「……はあ?」
なんだその言い様は。
まるでそれじゃあ、ボクが普通の高校生みたいじゃないか。
「だから、あなた、普通の高校生でしょう?」
「普通の高校生に金髪ハーフなんて……」
「外見の話じゃなくて……中身の話。大好きな友達を取られそうになって、ヤキモチを焼いているちょっと嫉妬深い女の子。それがあなたでしょう。十分、普通だよ」
「……」
何を言っているのだろう。この女は。
気でも違ったのか。
何がどうまかり間違ったら、凌辱などと平気で口にし、友達の彼氏を寝取ろうとする普通の女子高生がいるというのだろう。
「わたしはあなたが普通の女の子だと思うよ。あなた自身がどう思っているのかはともかくとして。だから、わたしはあなたを狂っているだなんて思いません」
「いい加減にしろよ。同情でそんなこと言ってるのなら、それこそ……」
「あなたはかわいそうなんかじゃないよ? むしろ今現在失恋して失意のただなかにいるわたしの方がかわいそう。何なら、慰めてくれてもいいんだよ?」
「何を言って……」
本当にこの女は何を言っているのだろう。
本当に何言って……。
「突然いろいろ語り出しちゃってごめんね。わたし、あなたともっと話をしてみたくって……」
「ボク……と?」
「うん。百日さんと」
「……どうして、ボク?」
「わたしね、あなたと友達になりたいな、って思ったの。百日ダリアさん」
「……っ」
温かい眼差しを向けられて頬が紅潮する。
胸が居心地悪くざわついたのがわかった。
「……も、もういくっ」
慌てて下駄箱を閉じて、足早にボクはその場を後にした。
逃げるようにしなければならない自分が嫌だった。
でも、それ以上にあの場にもっと長くいたら自分が自分でなくなりそうな予感がした。
なんだよ、くそっ。
なんだっていうんだよ。
ボクの心を勝手にかき乱しやがって……。
だから、あの女は大っ嫌いなんだ。
教室の中に入ると、仲睦まじげな男女二人の姿が真っ先に目に入ってきた。
数日前転入してきた当日、都合のいいと思っていた座席の配置が今はどこまでも憎らしい。
ボクは意図して、相田涼と九々葉藍の間を割って通り、自分の座席に荷物を下ろした。
「おはよう。百日」
「おはよう。ももちゃん」
そんなボクの所作にこだわるでもなく、やけに明るい挨拶がボクに投げかけられる。
「……何でそんな態度なわけ?」
「何が?」
不機嫌さを表すのではなく、純粋に質問の意図を尋ねている。そんな声音で相田涼が訊き返した。
「……ボクは三日前、君たちにとてもひどいことをしたと思ったんだけど、それはボクの勘違いだったの?」
「それはたしかだな。許せないとは思ったし、お前のことはあまり好きにもなれない。けど、最終的には僕と藍は仲直りできたからな。今の自分に不都合がないのに、お前を恨むのも変な話じゃないか」
「それは正論でしょう?実際にはボクに対する隠しきれない敵意があっていいはずだと……」
「百日」
「……何?」
「お前、やっと僕と普通に話してくれるようになったんだな」
「……っ!」
言われて気づく。
いつものようなふざけた言動。煽るような言動。
その一切を覗かせず、ただ純粋に思ったことを口に出してしまっていたことに……。
「……何?不満なの?」
軽口の一つも叩けず、そんな風に唇を尖らせることしかできない自分が憎らしい。
「別に。むしろそっちの方が好感持てるさ。あんな狂人のふりはやめとけよ。正直、少し前まではお前が完全に頭のネジの飛んだいかれた奴だと思っていたよ」
「その評価は正しいと思うんだけど」
「それは――」
「それは違うよ。ももちゃん」
割り込まれた声に意識を持っていかれる。
九々葉藍の無垢な瞳がボクを見ていた。
「ももちゃんはかわいい女の子だよ。ちょっと嫉妬深くてちょっと意地っ張りなだけの普通の女の子」
「そ、そんなこと……」
似たようなことを数分前に言われたのを思い出し、ボクの心中は複雑を極めた。大嫌いな栗原るりと大好きな九々葉藍、その二人に同じことを言われると、反応に窮する。
そんなボクをやたらとにやにやした顔で相田涼が見つめているのに気づいて、たまらずきつい目つきを向けた。
「何、その顔」
「いいや、別に」
「……何か思ってることがあるなら言いなさいよ」
「いや、言わない方がいいんじゃないか?」
「言えってば」
「いやいやぁ」
「言ってよ」
「……そうやって照れてるとこ見ると、お前もかわいいところがあるんだな、と」
「――っ!」
――。
――――。
――――――。
あああああああああああ!
死にたい!
死にたいいいいいい!
こいつに!
よりによって、この男に・・・。
かわいいとか言われたああああああああああああああ!
「強がるのはもうやめろよ。お前が実はけっこう乙女だっていうのは、僕の中じゃあ、決定事項なんだぜ?」
「な、なななにを勝手なことを決定してくれちゃってるんだよっぅ! ボクはそんなんじゃない! もっとこう、どろどろとした昼ドラ的な……」
「海外にいた割に日本文化詳しいよな、お前。……でも、じゃあ、金曜日に僕に押し倒されて震えてたのはどこのどいつだ?」
「……う」
「……後で思い出したんだけどな。僕に肩を掴まれて、押し倒されて、お前はたしかに震えてたんだよ。本当は怖かったんだろ? 男に襲われて。だから、まだ何も決定的なことをする前のタイミングで、藍があそこに現れるようにした。怖かったからだろ? そういうの、したくなかったんだろう?」
「……ぅう」
「割と普通にいるだろ? やってることの内実はともかくとして、そういうのに平気なふりするビッチ的な……」
「や、やめろ! ボクをそんなどこにでもいそうな低俗な連中と一緒にするなぁ! ボクはそんなんじゃない。ボクはそんなんじゃ……」
「いい加減そのかわいい本性を大っぴらに出せよ、ももちゃん」
「お前がももちゃんとか言うなああああ!」
息も荒げに叫んでしまい、クラスの他の人間の視線が一心にボクを貫いたのを感じた。
ハッとして周りを見渡すと、彼らが目を丸くしてボクを見ているのがわかる。
クールに取り繕ってきた体裁が何もかも吹っ飛んでしまった気がした。
「……まあまあ、涼もそれくらいにしてあげて。ももちゃん、傷つきやすいんだから」
「藍ちゃんまでボクのことそんな風に言わないで!」
「あ、やっとそう呼んでくれたね?」
「……何が?」
「藍ちゃん、って」
「……あ」
あああああああ!
そんなかわいい呼び方するの抵抗あったのに、ああああああ!
澄ました顔で、九々葉藍とか呼ぶのかっこよかったのに、ああああああ!
「昔はももちゃん、藍ちゃんって呼び合ってたのに、ももちゃんってば、わたしのことを変な呼び方するんだもん」
「……そ、それはその」
「九々葉藍なんて、固い呼び方やめて? 昔通りでいいから、藍ちゃんって呼んで?」
「……ぐぅ」
「だってよ、ももちゃん」
「相田は黙ってろよっっ!!」
「おお、ついに僕も名字で呼ばれるときが来たか」
「……ぁう」
なんなんだろう、これ。
どうしてこんなことになったのだろう。
ボクの人生はもっと悲哀と敵意に満ちていて、もっと悲劇的だったはずなのに。
どうしてこんなことになっているのだろう。
どうしてこんなちょっと面白い感じに仕上がっているのだろう。
これじゃあ、まるでただの高校生の日常じゃないか。
「この方がずっと楽しいと思わない?」
第四の声に、相田も藍ちゃんもそろって顔を向ける。そこにはさっきまで昇降口で話していた栗原るりがいた。
「……るりちゃん、おはよう」
「……おはよう。藍ちゃん。今日もかわいいね」
「あ、ありがとう」
「栗原、元気か?」
「相田君もおはよう。君に振られたばかりだから、わたしは全然元気じゃありませんー」
「十分、元気みたいだな。それはよかった」
「……いじわるな相田君は藍ちゃんに振られちゃえ」
三者の間に交わされる言葉は気の置けないもので、その間に挟まれるボク自身の疎外感が浮き彫りになった気がした。
「うらやましいか?」
首をこちらに回した相田がボクに問うてくる。
「誰が」
「お前だってその気になれば、この輪の中に入れるはずだと思うけど」
「…………」
「それは迷いからくる沈黙か?」
「呆れからだよ」
揃いも揃って、栗原以外はボクにそれなりにひどい目に遭わされたはずなのに、どうしてこいつらはこうも毒気の抜かれるやり取りを交わしてくるのか。理解に苦しむ。
憎み、憎まれ、けなし、けなされ、傷つき、傷つけられ。
それが人間関係の本質じゃないのかよ。
「……わかんないよ。もう、わかんない」
柄にもなく、話の流れに流され、自分を構成する基盤が揺らいだ気がした。
こいつらが言うように、ボクがそんなありふれた人間であるとは思えない。
特異で、奇特で、どうしようもなく悪ぶっている。
そんなボクは人生における普通の楽しみに恵まれるような人間じゃない。
けれど、まるで当たり前のように、まるでボクが本当に普通の女の子であるかのように接せられると、困惑する。
ボクを不気味がる視線には慣れている。
ボクに欲情する視線なら慣れている。
ボクを憐れむ視線なら慣れている。
でも、ボクを慈しむ視線には全く以って慣れていない。
どうして。どうして。どうして。
疑問ばかりが積み重なり、不安ばかりが渦巻いていく。
揺らがないはずの悪役の覚悟は、吹けば飛ぶような張りぼてだったらしい。
予鈴の鐘が鳴り、同級生たちが三々五々席に着いていく。
ボクも相田たちに目を向けるのは一旦はやめ、すぐそばの自分の椅子に腰かけた。
ふと視線を感じて目線をやる。
慈悲よりもよっぽど慣れ親しんだ憎悪の視線がボクを見ていて、けれど、今のボクはそれに安堵するでもなくただ不快に感じた。
日比原努がボクを見ていた。
かわいいとか言われ慣れてて強がってるけど、いざまともに女の子扱いされるとコロッといっちゃう人。




