本音と建前
生徒相談室に入ると、例のごとく一木先生が僕らを迎えてくれた。
「今日はお二人ですか。ちょうどおいしいコーヒーが入ったところだったんですよ」
そう言う彼に案内され、窓際のソファに九々葉さんと向かい合って腰を下ろす。
「あの、頻繁におじゃましてしまって、すみません」
「いえいえ。好きなだけ来てくれていいんですよ。この学校の生徒さんたちは皆優秀なのか。あまりこの部屋に来る方も少ないものでして。私としても、君たちのような生徒が来てくれるのは嬉しいんですよ」
恐縮したように口にする九々葉さんに、一木先生が笑って答えた。
「では、ごゆっくり」
二人分のコーヒーを入れ、先生が自分のデスクの方に戻っていく。
「よく来るの? ここ」
「うん。ちょっと思うところがあって……。入学してから大体ずっと」
「へえ」
ちょっと思うところというのが何なのか、少しだけ気になったが、あまり詮索するべきでもないと思い、相槌を打つだけに留めておいた。
「改めて少し訊いてみたいことがあったんだけどさ」
「何?」
この部屋のように落ち着いて二人で話をする機会を得たことで、僕は彼女に訊きたいと思っていた質問をすることにした。
「どうして、九々葉さんは入学してからずっと、誰とも話そうとしなかったの? それなのに、どうして僕とは話してくれるようになったの?」
そう。それはずっと気になっていたこと。
僕は何も特別なことを彼女にしたわけではない。親切心のある人間ならやって当然の当たり前の行いをしただけなのだ。
あの行為に、彼女の頑なさを解きほぐすだけの意味があったとも思えない。
「……」
思案するようにまぶたを閉じて、それから彼女はコーヒーを一口、飲んだ。
「相田君に、嘘がないと思ったから」
「……嘘?」
「うん。本心からわたしと友達になりたいって思ってくれてるんだな、ってわかったから」
「それが理由なの?」
「そうだよ」
あっけらかんとして、彼女は言った。
僕はそれに首を傾げるしかない。
「じゃあ、今まで誰とも話さなかったのは?」
「……それは」
その質問に答えようとして、けれど、彼女が言い淀む。
「言いたくないのなら、言わなくてもいいよ。友達にはなってくれたのかもしれないけど、全部の事情を知りたいだなんて、僕は言えないから」
その言葉に、彼女が僕の目を見た。
やはり、その黒瞳は印象的だと思う。
透き通っているが、芯があり、色があり、何よりとてもきれいだと思う。
「……自分でもよくわかっていないんだけど」
と前置きし、彼女は言った。
「怖かったのかな、って」
「怖い? 何が?」
「人と関わるのが」
「……」
つまり、対人恐怖症、ということだろうか。彼女の言っているのは。
「でも、だとしたら、僕のことは怖いとは思わなかったわけ? いきなり友達になってくれなんて言ってきてさ」
「……あなたは怖くはない、と思う」
「どうして?」
「本音でしか話していないみたい、だから」
「……」
本音でしか話していない、ね。
そんなことが少し話をしただけでわかるというのも、彼女はどこか普通と異なっていると思う。
「逆に言えば、建前で話をしている人間は、九々葉さんにとっては怖いっていうこと?」
「……そうなの、かも。本当のところは何を考えているか、まるでわからないから」
「……なるほどね」
疑問はまだたくさんあったが。
少しだけ彼女の気持ちがわかった。
本音と建前。
それがあるのが人間としての当たり前。でなければ、社会生活など送れはしない。
けれど、同時にそれがあるのが気持ち悪いと思う。
その感覚は僕にも理解できる。
すべてを本音で構成する必要性はないにしても。
もう少し真実を用いることはできないものだろうか。
「でも、じゃあ、例えば、僕が建前を一度でも口にしたとしたら、君は僕と絶交する?」
「え……」
僕がそう言うと、さすがの九々葉さんもちょっと言葉を失くした。
コーヒーカップを口につけたまま、目を丸くして固まってしまっている。
それから、ゆっくりとカップをソーサーに戻した彼女は、咳き込んだ。
「けほっ……けほっ」
「ああ、ごめん。変なこと言っちゃったよね」
「……う、ううん。大丈夫。でも、それは……ないと思う」
「ないっていうのは、僕と絶交したりはしないっていうこと?」
「そ、そう」
「なんで? 建前が嫌いなら、友達でも建前を使ったら嫌いになるものじゃない?」
「いや、それはおかしいよ」
彼女は苦笑して手を振る。
「友達だったら、建前なんてあっても、別に……」
「その違いはどこにあるわけ?」
「え?」
「友達だったら、建前は許せる。けど、そうじゃない人間は許せない。その違いはどこにあるの? もし許せなかった人間だとしても、何かのきっかけでその人と友達になれたりしたら、今度は許せるようになるわけ?」
「……」
彼女は目をぱちくりとして僕の言葉に耳を傾けていた。
やがて、ぼそりと言う。
「相田君、すごいね」
「……そう?」
「わたし、そんなこと考えたこともなかった。何が許せて、何が許せないかのそんな基準なんて、考えたことも……」
「ふぅん」
つまり、明確な理由、基準があってそうしているわけではなく、何となくそんな風に振舞っている、ということだろうか。
では、何が彼女をそうさせたのだろう。
僕はそう尋ねようかと思った。
けれど、一人で思案するように顎を立てた彼女を見て、考えを変えた。
友達になって初日から突っ込んだ話をしすぎだ。
こんなんだから、僕はクラスで浮いた立場なのだ。
もう少し、相手の気持ちを気遣った言動を心がけるべきだろう。
それから、黙って考えに耽る彼女に、僕も取り繕うように話を投げかけることもなく、ただ黙って、コーヒーカップを傾けた。




